第六箱 刺繍箱

 店の扉を開けて中を覗けば、カウンターに置かれた箱を店長が点検しているところだった。


「なんですか、それ」

「こばとちゃん、挨拶」

「どうもです」

「どうも。……そろそろ扉にドアベルとかつけた方がいいかな」

「名案ですね。で、なんですか、それ」


 こばとは店長の横に並び、箱を観察する。温かみのある色合いの木箱の上部はゆるいアーチを描き、木製の把手がついている。側面には花を模した可愛らしい彫刻と、いくつかの引き出しがあった。


「開けていいよ」


 店長は安心しきっていた。こばとが開けたがるのを見越して、中身の点検を済ませておいたのだ。この箱は開けても妙なものが出てきたり、逆に中に吸い込まれたりはしない。中に入っているのは至って普通のものばかりであることを、ざっと確認していた。


「やった」


 こばとは嬉々として箱を開ける。まずは箱のてっぺんの、両開きの蓋から。中にはカラフルな円筒型の糸巻き、丸い頭をもつまち針が何本も刺さる針山、色も形もさまざまの宝石のようなボタンたち。


「……裁縫箱ですか?」

「そうみたい。中身と箱をばらばらにして処分するのが偲びないってね、まるごと引き取ったんだ」


 続けて引き出しにも手をかける。一つ目の引き出しには裁ち鋏と糸切り鋏、二つ目の引き出しには巻尺や定規、その他こまごましたもの。そして一番下の大きな引き出しの中には。


「布だ。何枚もあります」

「端切れじゃないかな。種類も色もごちゃ混ぜにしてあるね」


 こばとは端切れの束を持ち上げた。折り曲げなくとも引き出しにおさまるほどの大きさの色とりどりの布の中に、一枚、四角く畳まれた布があった。白い地に黒い縫い目が縦横無尽に這っている。その布を取り上げて広げる。……広げても広げても終わらない。片手に載る程度だった布はこばとの両腕を広げたくらいの大きさにまで広がり、その端はカウンターの縁から垂れ下がってしまった。


「……おかしくない? こんなに大きい布が、あんなに小さく畳めるはずはないでしょ」

「不思議ですね」


 不思議なのは大きさだけではない。布の全面に、黒く不揃いな布が縫いつけられていた。裏から見えたのはこの縫い目だったようだ。黒い布はシフォンのようなシアーな生地でできているようだが、何枚も何枚も執拗に重ねられているせいで、下地の色は見えない。


「なんでこんな風に縫いつけているんですかね?」

「さあ……」


 答えながら店長は嫌な予感で箱頭をいっぱいにしていた。裁縫箱の中を点検したとはいえ、端切れを一枚一枚確認したわけではない。寸法を無視して大きく広がる布、ただそれだけと言われればそのとおりであるが。そろそろこばとを止めて布と箱を取り上げるべきか、もう少し様子を見てもよいか……? 悩む店長の心中などつゆ知らず、こばとは黒い布を指先で撫でた。


 瞬間。視界がぐるりとひっくり返り、薄暗い店内がどこかへ消え去った。




 立ちくらみにも似た目眩と内臓が浮き上がるような嫌な感覚に思わず目を瞑る。次に目を開けたとき、周囲は夕日さす公園へと変わっていた。そこにはこばとが独りきり、箱頭の店長はどこにもいない。遊具や木が黒々とした影を長く引いている。


「だれかきた!」


 どこかから無邪気な声が聞こえる。それを合図に、たくさんの小さな影がこばとの脚や腕にまとわりついた。影絵のような子どもたちが、こばとの周りを回っている。


「……ここはどこ?」

「こうえん!」


 影絵の一つが叫ぶように答え、他の影絵たちはけらけらと笑う。


「ねえ、おねえちゃん。かくれんぼしよう!」


 左手にぶら下がる影が言う。こばとの髪とお揃いの、二つ結いをゆらゆら揺らしながら。


「やろう、やろう!」

「……私、元いたところに帰りたいんだけど」

「かくれんぼ終わったら帰れるよ!」


 重なりあった小さな影たちの境目は曖昧だ。くっついたり離れたり、人の形をとったりとらなかったり。


「かくれんぼをやらないと、帰れないの?」

「そう!」

「かくれんぼが終わったら帰れる!」

「終わらないと帰れないよ」

「日が沈む前に、みんなを見つけないとだめ」

「……もし、見つけられなかったら?」


 こばとの問いを聞いて、影たちはひそひそ、くすくすと笑う。あまり好ましい笑いではない。


「そのときは、ずーっとここで遊ぶの!」


 腕に絡みついた二つ結いの子が楽しそうに笑って言った。


「じゃあ、おねえちゃんが鬼ね!」


 誰かがそう叫び、影たちはきゃあっと甲高い声で叫びながら蜘蛛の子を散らすように走り出した。取り残されたこばとは、茜に染まる空を見る。とろりと黄色い夕日の縁は山の稜線にくっつきそうだった。あまり時間はない。


 こばとは伸びる影を引きずって歩き出した。



 木立の影に溶けていた子をひとり見つけた。薄っぺらくなって滑り台の裏に張りついていた子も。細長くなって砂場の縁の影に紛れていた子を見つけたときは、自分でも驚いた。


 こばとはだんだんコツをつかんできた。見つけた子どもたちはこばとの周りにまとわりついてついてくる。


 網目状になってジャングルジムの影に混ざっていた子、ブランコの鎖に紛れていた子、鉄棒に巻きついていた子。東屋の屋根にひとり、ベンチの下にひとり。シーソーの裏側、トンネル型の遊具の中、一本だけ余計な雲梯の棒。

 こばとの周りの影は増え、小さな声で囁きあい、くすくす笑いながら追ってくる。


「……あと何人?」

「あとひとりー」

「おねえちゃん、見つけられるかな?」

「無理じゃない?」

「もうすぐ日が沈んじゃう!」


 影はまた笑う。こばとには最後の一人を見つけられないと高を括っているようだ。

 黒く沈む遠くの山々を見る。異様に大きな夕日はほとんど沈み、頭を少し覗かせるばかりになっていた。遊具の影はますます長く伸び、その端が地面にぼやけて溶けている。

 ふと、こばとは振り返った。二つ結いの自分の影と向かい合う。その長さに、遊具の影と比べてはっきりしすぎている輪郭に、違和感がある。


「……見つけた」


 ざわめく影の子たちがしんと静まった。耳に痛い沈黙のあと。


「見つかっちゃったあ」


 こばとの影から、二つ結いの小さな影が立ち上がった。


「見つかっちゃったあ!」


 影たちが残念そうに合唱する。こばとは振り向いて、夕日を見る。まだ沈んではいない。山の端に点のように残った光がある。


「日が沈む前に見つけたんだから、帰してくれるよね?」

「帰れるよ」

「残念」

「もうちょっと待てばね」

「もっとおねえちゃんと遊びたかったー」


 もうちょっと、とはどれくらいだろうか。本当に帰ることができるのだろうか。途方に暮れたこばとは天を仰いだ。濃紺と赤紫のグラデーションで彩られた薄明の空には、既に銀の星々が瞬いている。日が完全に沈み、稜線の縁をなぞる残光も消えたその瞬間。


 星が一斉に降り注いだ。いや、星ではない。それは無数の針だった。黒い糸の尾を引いて、まっすぐに公園へと落ちてくる。


 きゃあっ、と影の子たちが悲鳴をあげて公園を走り回る。こばとの傍に立っていた二つ結いの髪の子の頭に一本の針が刺さり、そのまま地面に縫いとめられた。他の影たちも次々地面に貼り付けられ、黒糸で縫いつけられていく。遊具の影も同じように、重ねられ延ばされ縫い合わせられた。何重にも重なって縫われていた半透明の黒布は、こうやって生まれたのだ。

 ぶすりと音をたて、こばとのブラウスの袖を銀の針が貫いた。風を切る音を聞き見上げれば、太い針が瞳めがけて落ちてくる──。





「こばとちゃん?」


 店長に肩を揺すられ、こばとははっと気づいた。夕暮れの公園も影の子どもたちも降り注ぐ銀の針もどこにもない。箱たちが身を寄せ合う、狭苦しく薄暗い店があるだけだ。


「急に固まっちゃうからびっくりしたよ。目も据わってたし」

「……私、どれくらいの時間、固まってました?」

「え? 五秒もなかったと思うけど」


 目の前に迫る針の先端が目に焼きついて離れない。それなのにあの公園で過ごした時間は、たった五秒の夢だったとでもいうのだろうか。腕に冷たいものが触れるのを感じて、袖をあらためる。


 長い刺繍針が袖を貫いていた。


 驚きのあまり咄嗟に動かした腕が裁縫箱に当たり、倒してしまった。ガシャン。色とりどりの糸巻きが、つやつやと輝くボタンたちが箱から飛び上がった。糸を伸ばして転がる糸巻き。小さな硬い音を立て、床で跳ねるボタン。


「あーあー。そそっかしいなあ」


 こばとの袖の針に気づいていないらしい店長が呑気な声で言い、ボタンを拾うために屈んだ。


「ほら、きみが落としたんだから手伝ってよ」


 店長の声はこばとの耳に届いていない。この瞬間、こばとは腕の針のことを忘れていた。足元に散らばる裁縫道具のことも。夕暮れの公園も影の子どもたちも降り注ぐ銀針も、刺繍箱のことも忘れていた。全ての音が消え、時間は止まっていた。


 こばとの目の前に、箱の蓋がある。いつもはるか上空にあって手を伸ばしても届かない、店長の頭が。


 こばとはほとんど無意識にその蓋に向かって手を伸ばす──。



「触るなっ!」


 これまで聞いたことがない、怒号と思えるほどの大きな声。手首を強く掴んだ大きな手。こばとは思わず身を竦めた。こちらを見上げた箱の正面が、こばとを睨んでいるように見えた。


「……まったく、油断も隙もない」


 店長は大きなため息をついて立ち上がり、拾い集めたボタンと糸巻きを刺繍箱に仕舞い、蓋を閉める。ついでに大きく広げられた布も元通りに畳んで引き出しに戻した。そしてこばとの表情を窺うように箱の正面を向け、どこか狼狽えたような声を出す。


「大きい声出してごめん。別にすごく怒ってるわけじゃないよ。……だから、そんな顔しないで」


 なんで僕が謝ってるんだ、と小さく呟いて頭を振る店長。自分がいったいどんな顔をしているのか、こばとにはわからない。


「……すみません」


 こばとは小さな声で言い、袖に刺さった針を抜いた。普段と明らかに様子の違う、どこか沈んだこばとのために店長はさらに言葉を継ごうとしたが、結局何も言えないまま箱頭を振ってため息をついた。


「じゃあ、店番よろしく」

「……はい」


 やり取りはそれだけ、店長はバックヤードに引っ込み、こばとはエプロンを取り出してカウンターに座った。




 その日も客らしい客は来なかった。バイトが終わる時間になって、やっと店長は顔を出した。


「時間だよ。今日もお疲れさま」


 意図して出された穏やかな声だった。箱を開けようとした手を止めたときの自分の態度のせいで、こばとが怯えてしまったのではないかと彼は思っていた。


「……お疲れさまでした」


 こばとはエプロンを脱ぎ、荷物を纏めた。そのまま店を出ていこうとしたとき。


「本当に、怒ってないから。開けてほしくなかっただけなんだよ」


 後ろから店長の声がかかった。どう返事すればいいかわからなかったから、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、はい、と言って扉を閉めた。



 頼りない街灯が点々と照らす暗い道を歩いて帰る。こばとは別に、店長を怖がっていたわけではない。さんざん開けてくれるなと言われていたのに蓋に手を伸ばした自分が悪いのはよくわかっていた。ただ、荒い声が、強い力のこめられた手が、睨んでいるように見えた箱の正面が──激しい拒絶の瞬間が、脳に浮かんで振り払えないだけだ。


 こばとは、これまで何度他人に拒絶されてきたのか覚えていない。友人はいないし、怒声で、罵声で、あるいは涙ながらの懇願でバイトを辞めさせられたことも一度ではない。しかしこれまでのどの拒絶も、今日ほどにはこばとを傷つけなかった。


 その理由に、こばとはまだ辿り着けない。

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