第五箱 ??箱

 クラスメイト全員のお道具箱を開け、女子三人を泣かせてしまった一件以来、こばとに話しかける同級生は一人もいなくなってしまった。元から友だちらしい友だちがいたわけでもないのだが、家の方角が同じだからなんとなく一緒に下校するような相手さえいなくなってしまったので、たった独りで堤防沿いに歩いていた。姉のお下がりのランドセルを背負い、どこかで拾った木の棒で地面を叩きながら。


 何かが聞こえたような気がして川の方に目をやる。汚れた四角いものが水面に顔を出して流れていくのを見つけてしまったから、こばとは堤防の斜面を滑るようにして川原まで降りた。


「たすけて、たすけて」


 四角いものは水流に揉まれてくるくる回り、浮き沈みを繰り返しながら声を発していた。川岸に四つん這いになり腕をめいいっぱい伸ばすと、木の棒を使って四角いものを岸に寄せることができた。用済みの棒を捨て、四角いものを持ち上げる。


 それは箱だった。ランドセルの四分の一ほどの大きさで、あちこちが汚れて黒ずんでいる。汚れは外から付着したものだけでなく、内側から染み出してきたように見えるものもある。文字や記号の書かれた長方形の紙が何枚も何枚もべたべた貼られ、箱の表面をほとんど覆ってしまっていた。


「ああ、溺れてしまうところだったわ。やさしいかた、どうもありがとう」


 声は箱の内側から聞こえていた。黒板を引っ掻く音に似た、耳が痛くなるほど甲高いざらざらした声。


「ねえ、ここから出してくれない? おふだを剥がして、蓋を開けて」

「わかった」


 二つ返事で承知したこばとは長方形の紙を剥がそうとするが、どれほど縁を爪で引っ掻いても剥がれそうにない。ならば、とこばとは川原に座りこみ、石を拾い上げた。そして地面に置いた箱に向かって、手に握った石を振り下ろす。


「痛い! 乱暴しないで!」

「こうしないと開かないもん。紙を剥がすより壊した方が早いよ」


 しかし何度石で叩いても、箱はよほど頑丈なようで壊れる気配はない。石で殴りつけるより、箱を地面に叩きつけた方がいいかもしれない。腕の痛くなってきたこばとがそう思い始めたころ。


「なにしてんの!」


 上から大きな声が降ってきた。見上げると、斜面を滑り降りてくる姉のひばりがいた。ひばりは凄い剣幕で突進し、箱からこばとを引き剥がしたあと、川に向かって箱を蹴った。綺麗な放物線を描きながら宙で回転する箱は、ぼちゃん、と重い水音を立てて川に落ちた。しばらく水面に現れたり消えたりしながら流されていた箱は、やがて沈んだきり浮かんでこなくなった。


「何も蹴らなくてよかったのに」

「あんたね、どう見てもヤバいものとそうじゃないものの区別くらいつけられるようになりなさいよ。あれはヤバいやつだったわよ」

「あの箱、開けてくれって言ってたよ。中に誰かいたかもしれないのに」

「あんな小さな箱に誰が入れるって言うのよ!」


 姉に叱り飛ばされて初めて、そのとおりだと気がついた。じゃああの声は何者だったのだろうか。開けることができたら、わかったのだろうか?


「まったく、川原に降りるのも、危ないからだめだって言われてるでしょ。ほら、帰るよ」

「うん……」


 ふたりは堤防を登り、手を繋いで歩いた。こばとは途中で一度振り向いて川を見たが、あの箱は当然ながら見つからなかった。





「……それ以来、ドライバーセットを持ち歩くようにしているんです。いつどこでどんな箱に会っても、ある程度対応できるように」


 こばとはカステラを頬張りながら言う。元は店長が出張先の家で断りきれずに貰ったものだったが、処分するのはもったいないから家で食べてくれとバイト終わりのこばとに持たせたのだ。こばとがその場で箱を開け始めたので、閉店後のカウンターで少しだけ食べていく流れになってしまったが。


「その話から得られる教訓が『ドライバーを持っておこう』であることに驚きだよ。途中まで怪談聞かされてるのかと思ってた」


 店長はため息をつき、呆れたような声で言う。


「『いつからドライバーを持ち歩いているの?』って聞いてきたのは店長じゃないですか。そこから急に怪談を披露したりしませんよ」

「それはそうなんだけどね」


 店長は再びため息をつく。これが彼の癖であることをこばとはもう知っている。


「……聞く限り、だいぶ幼いときから箱を開けなきゃ気が済まない性格だったみたいだね。どうしてそんなに箱を開けたいの?」

「衝動ですよ。店長だって、秘密箱みたいなからくり仕掛けの箱を見たら我を忘れてかかりっきりになるじゃないですか。あれと同じですよ」

「違うよ! 僕は目についた箱を見境なく片っ端から開けていったりしない。それにからくり仕掛けの箱はね、挑戦状と同じなんだよ。開けられるようにしてあるし、開けてほしいとも思っているけど、簡単には開けられたくない。『キミにこれが解けるか?』って箱が語りかけてきてるわけ。そう言われて解かないでいる方が無粋ってものだろ?」

「ちょっとわかりませんね」

「……きみのは本当にただの衝動なわけ? 根っこに何か、きみを突き動かすだけの思いがあるわけじゃなく?」


 そう言われてこばとは考える。自分の衝動の根っこを掘り起こそうなんて今まで考えたことがなかった。この衝動のせいで何度となくトラブルが起きたのは事実だが、なんとかこの歳までやってこられたわけで、わざわざ掘り起こして分析する必要性を感じたこともないし、そもそもそんなことをしようなんて思いつきもしなかったのだ。

 たっぷりとした沈黙を、箱頭の店長は静かに待っていてくれた。


「……わからないから、かもしれません」

「わからない?」

「毎回、こんなことを考えているわけではないんですが。たぶん、わからないんです。どうしてわざわざ箱に何かを仕舞うのか、どうして他人に開けられるのを嫌がるのか」

「……続けて」

「明らかに危ないから仕舞っておくとか、見られると支障があるから隠しておくとか、そういう理屈はわかるんです。でもそれは箱の外から見たらやっぱりわからなくて、開けて確かめるしかないわけで。そう思って開けようとしたら中身に関係なく嫌がられて、その理由もよくわからなくて」


 こばとが思い出すのは、泣かせてしまったクラスメイトのことである。『なんで勝手に開けるわけ?』そう言って彼女たちは泣いたのだ。隠すべきものは何も入っていなかったのに。


「二重の『わからない』があるんです。箱を開けていけば、どちらの『わからない』もいつかわかるようになるんじゃないかと思っている、かもしれません」

「なるほどね……」


 店長は長い指で箱の横あたりを掻いている。そこは人間の頭部でいうとどのあたりなのだろうか、とこばとは考えるが、そもそも人間頭と照らし合わせようとするのが間違いかもしれなかった。


「危ないとか支障があるとかじゃなくてさ、ただ単に自分の大事なものだから箱に仕舞っておこうって場合もよくあると思うんだけど、それはわかる?」

「言葉としてなら」

「感覚としては?」

「わからないです」

「そうか……」


 また、大きなため息。それがどういう意味合いで吐かれたのか、こばとには分からない。店長の頭が箱ではなくて人間だったら、表情があったら推測できただろうか。自信はあまりない。


「……店長の頭の箱はどうして開けちゃいけないんですか?」

「え?」

 虚をつかれたように店長の動きが止まる。


「ずっと気になってたんです。中には何が入っているんですか? 見られたら不味いものですか? 大事なものですか?」

「それは……」


 今度は店長が黙ってしまう番だった。こばとの沈黙と同じくらいの時間、白手袋を嵌めた片手で箱を押さえて考えこんで、言った。


「……理由は一つじゃないね。それに理由に限らず、この箱はきみのではなく僕の頭なわけで……。そう、そうだよ! 個人の領域の侵犯。他人がもつ箱を開けて嫌がられる理由は大きく括ると全部これだよ。中身がどういうものかに関係なくね」

「なるほど」


 こばとはある程度納得したが、それ以上に気になったのは言葉の後半、捲し立てるように喋っていたときの店長の態度であった。まるでこばとの最初の問いから逃げるような。


「いつか開けてみたいものです」

「今の話聞いてた?」


 本日最大のため息が吐き出され、こばとは三切れ目のカステラを食べ終えた。そろそろ家に帰らなければ、姉が心配するだろう。

「それじゃあ、お疲れさまでした」

「お疲れさま。気をつけて帰ってね」





 こばとがいなくなると、狭いはずの店内が急に広く、そして寒々しく見える。独り残された店長は誰にも聞こえぬ小さなため息をついた。

 『わからない』と何度も繰り返していた彼女。その話を聞いて感じたのは、きっとこばとは箱に仕舞っておきたいほど大事なものを持ったことがないのだろうということ。そして、隠し通さなければならないと思うものも。


「僕とは違って」


 店長は電灯を消し、暗くなった売り場を後にする。彼にはまだ、バックヤードの片付けという仕事が残っている。




 作業部屋の机の上には凄惨な光景が広がっている。ぬめりのある青黒い液体があちこちに飛び散り、消えない染みを作っている。そばには蓋の開いた箱。半ば剥がれた長方形の紙が、側面や蓋に数枚へばりついている。そして机の中央には錐の突き立てられた黒い塊。それは青黒い水溜まりの上でぴくりとも動かない。


 今日届いたのは川底で見つかったという箱だった。何かしらの紙が貼り付けられていた痕跡こそ無数にあったが、水に洗われ続けたためかあるいは経年劣化のためか、ほとんど剥がれ落ちてしまっていた。数枚の色褪せた紙が蓋と箱を繋ぎ止めるだけになっていたから、大して警戒もせずに蓋を開けたのだ。


 中から飛び出してきたのは、青黒い液体を撒き散らすぐにゃりとした何かだった。それは迷わず店長の頭にべたりと張りつき、蓋を開けて中に入ろうとした。なんとかそれを引き剥がし、咄嗟に掴んだ錐で机に突き刺した。机に縫いとめられたあともしばらく痙攣しながら液体を撒き散らし続けたそれだったが、いつしか動かなくなった。

 店長は床に落ちていた紙を拾い上げる。


『注意。

 この生物は耳や鼻から人間の頭蓋に侵入し、脳を食らってその人間に成り代わろうとする。危険。この箱開けるべからず。』


「……この紙を箱の外じゃなくて中に入れておくのは、嫌がらせとしか思えないんだよな」


 今日のこばとの話に出てきた『汚れた箱』は、おそらくこの箱のことだろう。店長は安堵のため息を吐きながら思う。幼いこばとがこの箱を開けることがなくてよかった。

 箱頭の蓋に触れながらさらに思う。ここに侵入されなくてよかった。もし箱の中に入られて、中に入っているものがこの無遠慮な青黒い液体塗れにされたり、食われてしまったりしていたら。

 そのときはもう、僕は僕でいられないかもしれない。

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