第四箱 文箱
店長が物音を聞きつけてバックヤードから飛び出してきたときには、既に遅かった。カウンターに置かれた箱の蓋を持ち上げたこばとが、事もなげに言う。
「どうもです、店長」
「どうもです、じゃないんだよ。入ったらまず挨拶してって言ってるじゃん。そしてその箱の蓋、ちゃんと見た?」
「見ましたよ。綺麗ですよね、蛹を描いているのは分かるんですが、この白いのは何を表しているんですかね」
こばとはしげしげと手に持った蓋を眺める。積み重ねた年月を醸してしっとりと黒光りする漆塗りの表面に、金色の蛹とそれを支える枝が描かれている。蛹の背や頭には真珠のような光沢をもつ白い破片が付着していた。蒔絵とか螺鈿とかいうものだろう、とこばとはあやふやな知識で考える。生憎、どちらも歴史の教科書でしか見たことがない。
「白いのはたぶん、雪じゃないかな。越冬して春を待つ蛹、みたいな。……いや、そうじゃなくて。わざとやってるでしょ」
「ああ、蓋に貼ってあった紙のことですか」
「そうだよ。読んだ?」
「『開けずに、燃やしてください』」
「読めてるじゃん」
「読めますよ。馬鹿にしないでください」
店長はこれ以上小言を言うことを諦めた。彼自身も中身が気になって仕方なかったのだ。開けてしまったものは仕方ない、最後にちゃんと燃やせば許されるだろうと自分に言い聞かせ、こばとと並んで箱の中を覗く。
「手紙ですよ、何通かあります」
「形状から推測していたけど、やはり文箱として使われていたみたいだね」
「消印も切手もないですね」
「郵便局を介さないで送られたのかな。郵便受けに直接入れるとか」
こばとは一番上の手紙を取り上げた。ずいぶんと古びた封筒の口は折り曲げられているだけで封はされていなかったので、当然のように中身を引っ張り出す。
「ちょっと、それは流石に不味いんじゃない? 他人の手紙を見るなんて」
「いいじゃないですか。封がされてないんだから開けても大丈夫なんですよ。店長も似たようなこと言ってたじゃないですか、あのディスクオルゴールのとき」
「あれは箱の話だったし、そんなに似てもいないよ」
「店長だって本当は見たいんでしょう? 私、分かりますよ」
店長は両手で箱頭を抱えた。相変わらずのっぺりとしているだけの無表情な箱の内で、今まさに彼の良心と好奇心が闘っている。
「私と一緒に読みましょうよ。罪も半分こすれば重くないですよ」
実在する悪魔の囁きを耳にして彼の良心は折れた。当の悪魔は素知らぬ顔で折り畳まれた便箋を開き、ふたりは頭を寄せあって便箋を覗きこんだ。
『最低なあなたへ
あなたが終わりのない旅に出てから何年が経ったでしょうか。先日、私の結婚が決まりました。祝言は明日です。あなたが来るはずもありませんけど。
あの日、あなたが連れ去ったのがあれじゃなくて私であったなら……。なんて、そんなこと考えるはずがないでしょう? もっとちゃんとあなたを閉じ込めておけばよかった、首に縄でも鎖でもつけて鉄格子の檻に入れて両手両足を縛って私の傍から離れないようにしておけばどれほどよかったか、とは何度も思いましたけれど。
しかしそれも今日でおしまい。私はあなたなど居なくても幸せに過ごせるのです。
さようなら。二度とあなたに手紙を書くことはないでしょう。』
「もう読みました?」
「読んだよ」
「一枚目にしていきなり文通が終わりましたね」
「そりゃ、届いた順に文箱に入れていけば一番上に来るのは一番最後の手紙だろうし」
『考えうる限りでもっとも酷い人へ
どうして私に相談もなく、旅になんか出たのですか。そもそも旅など必要ないでしょう? あなたの居るべき場所は私の傍でしょうに。
嫌な予感がして、下男に井戸を浚わせました。私が捨てたはずのあれは見つからなかったようです。どうやって拾ったんですか。いえ、手段はどうでもいいのです。なぜ拾って、そしてなぜ旅に連れていったのですか。私のことは置いていったくせに。
あなたが出ていった晩に夢をみました。あなたは芋虫になっていて、指でつつくと身を縮めて怯えるのが楽しくて。弱々しい脚で籠を登って必死に逃げようとするものだから、私、笑ったのです。どこにも行けるはずがないのに、結局転がり落ちて戻ってくるのに、と。
夢は夢でしかなくて、現実とは違いますのね。あなたはもう芋虫ではなくて羽のある蝶だったのでしょう。だから軽々と籠から飛び出し、塀も飛び越えてどこかへ行ってしまえたのでしょう。ここに残る私がどう思うかなんて、欠片も考えないで。
もちろん私はあなたの旅の安全を願っています。当然でしょう? どうかご無事で。そして、二度と戻ってこないでください。』
「二通目にして離別したよ」
「そりゃ逃げるでしょうよ、と思わなくもない書きっぷりですが、『あれ』って何でしょうね」
「さあ?」
『最愛のあなたへ
哀れで不憫なあなた。井戸から声が聞こえる、僕を呼んでいるだなんて強情に言い張るものだから、離れに閉じ込められてしまって。そうした方がよいと提案したのは私ですけれど。
酷いとは思わなかったのですか? 井戸からの聞こえぬ声は聞き取るくせに、私が呼んでも振り向いてもくれないなんて。そんなにあれが惜しかったの? ただの骨の残骸でしょうに。私よりあんな小さな骨の入った、安物の骨壺が可愛いとでも言うの? だとしてもどうして、今になって。私が井戸に骨壺を投げ込んでからもう何年経ったかもわからないのに。当てつけにしても遅すぎます。
ともあれ、あなたを閉じ込めることができたのは幸いでした。あなたがどこかへ行って、私のもとへ帰って来なくなってしまったらどうしようと毎晩思い悩む必要もなくなったわけですから。あなたがよぼよぼのお爺さんになって、私もしわくちゃのお婆さんになるまで、ずっと私の傍にいてくださいね。だってそれで十分でしょう?』
「骨壺でしたか」
「まあ、不味いだろうね。元がどんな生物であれ、大事なものだったろうし」
「開けるならともかく、井戸に捨てるのはちょっと」
「開けるのも場合によっては失礼だと思うよ」
『兄さまへ
すてきな文箱をおくってくれて、とてもうれしいです。でも、わたしはもう文箱をもっているの。兄さまがくれたものよりずっときれいな、花と鳥と風と月がかかれた、赤い文箱を。
でもわたしは兄さまのくれた文箱をもっとだいじにします。この黒い文箱には、兄さまからもらった手紙だけを入れたいのですが、兄さまはきっとわたしに手紙を書かないでしょう。井戸にあれをなげた日から、兄さまはわたしの目を決して見ないもの。ほんとうはわたしをゆるしていないこと、わたしは知っています。
だから代わりに、わたしが兄さまに書いた手紙だけを入れます。わたしもきっと、兄さまに手紙をわたせないから。どうせわたさないのだから、手紙の中だけでは兄さま、じゃなくて、あなた、と呼んでもいいでしょう? 兄さまと呼ぶのは嫌いではないけれど、それいじょう近づくことができなくてさびしいのです。わたしはもっとずっと近くにいたいのに。こんなにあいしているのに。
さいしょの手紙はこのくらいにしておきます。また明日、会いましょうね。目を合わせないままで。』
手紙はそれで最後であった。そして書いてあるとおり、一番最初の手紙でもあった。
「……送り主がそのまま文箱に仕舞っていたのなら、消印も切手もついていなくて当然ですね」
「そうだね」
「この箱の持ち主、どうなったんですかね。手紙の方はずいぶん前に書かれたようにも見えますが」
「さあね。箱の処分を依頼してきた人は、買った家を改修しようとしたら出てきたとしか言わなかったし。見つかったときには既に『燃やしてください』の紙が貼り付けてあったらしいよ」
「……このあと、どうするんですか」
「希望どおり、燃やすよ。勝手に中身を盗み見た罪もそれで精算できないかな」
店長は手紙を元通りに戻し、文箱の蓋を閉めた。
「裏庭で燃やすつもりだけど、一緒に見る?」
「ここって庭あるんですか。見ます」
「それじゃ、ついてきて」
バックヤードに続く暖簾を店長に続いて潜りながら、こばとはこの空間に入るのが初めてであることに気がつく。カウンターのすぐ後ろにある通路だが、仕切るのが暖簾であることが幸いして、こばとの病的な衝動を惹き付けることはなかったようだ。これが箱の蓋だったらこうはいかない。
照明が消された短い通路の両脇に扉があった。こばとは半開きになっていた左側の扉の奥を覗く。大きなデスクの上に置かれたいくつかの工具を、卓上ランプの光が照らしていた。
「そっちは作業部屋。僕がバックヤードって呼んでるところだね。箱の修繕とか清掃とかはこの部屋でやってるよ」
そう説明しながら、少し前に部屋を片付けておいて良かったと店長は思う。箱がいくつも積み重なっていたりしたら部屋の用途を説明するだけでは済まなかっただろう。
こばとは通路を挟んで反対側の閉ざされた扉に向き直った。ドアノブを掴み引いてみるも、開かない。見上げれば、白手袋を嵌めた店長の手が扉の上部を押さえている。
「そこは僕の私室だからダメ」
「……何か見られたら不味いものでも?」
「そういうものはないけど。今の僕ときみは自分の部屋を見せるような間柄じゃないでしょ?」
「仲良くなればよいということですか?」
「……どうだろうね」
箱頭はほんの一瞬、答えに窮した様子で沈黙したが、適当にはぐらかした。黙ったまま通路をまっすぐ歩いて辿り着いた裏口を開けると、決して広いとは言えない庭が広がっていた。
「じゃあ、この新聞紙を丸めてくれる? そんなに固く丸めなくていいから」
「分かりました」
こばとが新聞紙を丸めている間に、店長はどこからか一斗缶や木材の切れ端を持ってきた。一斗缶の上蓋は切り取られ、底に近い場所には四角い穴が開けられている。
「準備がいいんですね」
「燃やして処分してくれって依頼はわりとあるからね」
庭の中央に一斗缶を置き、新聞紙と木材、そして文箱を入れる。店長がライターで火をつけると、すぐに赤い炎が燃え上がり、黒く光る文箱の表面を舐めた。そのまま順調に燃えると思われた矢先に。
「うわっ!」
店長が悲鳴を上げて飛び退る。こばとも驚いて半歩下がった。
一斗缶の縁から、どす黒い紐のようなものが滑り落ちていた。一本、さらにもう一本、そして溢れるように大量に。紐はのたうちながら庭を這い回る。撚り合わさって合体し、あるいは分裂しを繰り返しながら、一斗缶の炎から逃げるように放射状に広がっていく。紐から逃げるうちに、ふたりは裏口のそばまで追い詰められていた。紐はこばとの靴のすぐそばまでやってきて悶え苦しむように蠢いている。いや、ただの紐ではない。無数の細い脚を持った蟲のようであり、何度も重ね書きされた結果読み取ることもできなくなった文字列のようでもあった。
『首に縄でも鎖でもつけて鉄格子の檻に入れて両手両足を縛って私の傍から離れないようにしておけば』
『考えうる限りでもっとも酷い人』
『どこにも行けるはずがないのに、結局転がり落ちて戻ってくるのに』
『最低なあなた』
『哀れで可哀想なあなた』
『兄さま』
『兄さま』
『こんなにあいしているのに』
行き場のないまま閉じ込められた言葉が暴れている。燃やされたくない、消えたくないと逃げ惑っている。こばとはそう感じたが、彼らをどうしてやることもできなかった。
庭じゅうを蠢き、悶え、のたうち回った彼らの動きが徐々に鈍くなっていく。蟲とも文字ともつかない彼らは、動かなくなると同時に真っ白な灰になった。最後の一匹が物言わぬ粉になったとき、灰の敷き詰められた庭の中央の火もまた消えた。
缶に近づいたふたりは、こわごわと中身覗いてみる。艶やかな文箱も木片も燃え尽きて灰と炭になり、白黒のまだらになっていた。ふと、灰の一部が震え、中から炎の色をした蝶が這い出した。燃える翅をはためかせ、蝶は舞い上がる。驚くふたりの顔の前を通り過ぎ、街の家々の背丈も超えて、はるか高くまで。
「蛹、羽化したんですかね」
「そうかもね」
空の果てまで飛んだ炎の蝶は小さくなって、もう見えない。
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