第三箱 秘密箱

「こばと、あんたなんで家にいるの? 今日バイトって言ってなかった?」


 ある夕方。帰宅した姉の第一声である。


「もう来なくていいって言われた」

「……当ててあげようか? また開けちゃいけない箱開けたんでしょ」

「すごい。なんでわかったの?」

「いつもいつもそうだからよ!」


 そう言って姉のひばりは大袈裟な仕草で頭を抱える。対してこばとは相変わらずの無表情である。注意や警告などどこ吹く風といったこの顔で、赤い押しボタンのついた消火栓ボックスもクラスメイト全員のお道具箱も当然のように開けてきた。


「その箱、壊してない? 『弁償しろ』とか『出るとこ出るぞ』とか言われなかった?」

「そういうことは何も。更衣室のロッカーを端から順に開けていって、どうしても開かなかったところの鍵穴にマイナスドライバー刺してたら『頼むからそこだけはやめてくれ、不問にするから二度とうちに近寄らないでくれ』って言われただけ」

「あんたねえ……」


 ひばりは小言を言いかけてやめた。言っても無駄なことはもう十分身に沁みて知っている。


「しばらく家で大人しくしてなさいよ。必要ならお姉ちゃんが内職バイト一緒に探してあげるから」

「そうしようかな」


 帰り道に買ってきた食料を仕舞う姉を手伝うこばとは、荷物の中に見慣れないものを発見した。色合いの違う木材を組み合わせて幾何学模様を描いた、寄木細工の箱である。


「なに、これ」

「あー、これね。帰省から戻ってきた先輩がくれたのよ」

「お土産ってこと?」

「そんな感じ。実家の蔵から発掘したんだって」

「それ、本当に貰っていいやつなの?」

「持ち主がくれたんだから、いいでしょ」


 こばとは手の中で箱を回してみる。七号のホールケーキがそっくり入りそうなくらいの大きさだ。中でコトコトと何かが動く音がするが、寄木細工に惑わされどこが蓋なのかさえ分からない。


「たぶんあれじゃない? からくり箱ってやつ。パズルみたいに動かさないと開かないの。こばと、あんた箱開けるの好きなんだから開けてよ」

「わかった」


 そう言ってマイナスドライバーを持ち出すと、物凄い形相の姉に腕を掴まれた。


「馬鹿! なんですぐに壊そうとするの!」

「こうした方が早いじゃん」

「早さより丁寧さを重視してよ!」


 そう叱られて渋々と箱の面を触ってみる。一見すると分からないが、箱の側面は細い板が組み合わさってできていて、これを順番に動かせば箱が開きそうである。最大の問題は、特にパズルが得意ではないこばとにとってこの『からくり』は荷が重すぎるということだ。


「難しいよ。やっぱりこじ開けた方が」

「駄目よ! せっかく先輩から貰ったんだから」


 ひばりはしばらく目を閉じ、顎に手を当てて考える。


「東の三丁目の二番地あたりに、鍵屋さんがあったじゃない? そこならうまいこと開けてくれないかしら」

「あったっけ。鍵屋ってこんな箱も開けてくれるの?」

「これも鍵といえば鍵だし、もしかしたら。あんた、今から持って行ってみてよ。たぶんまだ開いてるはず」

「わかった」



 こばとは箱を持って家を出た。沈みかけた太陽が街灯の影を伸ばしている。


「鍵屋、どこにあるって言ってたっけ。東の二丁目三番地だっけ? いや西だったかも」


 箱に気を取られているときのこばとが、細かい番地をはっきり聞き取れるはずもない。こうして彼女は鍵屋のある方とは真逆の、街の西に向かって歩き始めた。



 西の二丁目は静まり返った住宅街である。三番地の一角に店舗らしき様子の地味な建物が埋もれているのを見つけた。レトロな佇まいの扉の上に、店の名前が書いてある。


「『coffret.』。コフレ?」


 鍵屋らしくない名前だと思いながら、ドアノブに手を伸ばす。ガラス窓に『バイト募集中』の張り紙が貼ってあった。こばとは『バイト』の文字から目を逸らして、ノブを引いた。

 こじんまりとした店の中には隅から隅まで箱が並んでいた。大きさも形もまちまちのやや使い古された様子の箱が、薄暗い照明の下で所狭しと身を寄せあっている。こばとは手近なものから順に蓋を開けていきたい衝動に駆られたが、まずはおつかいを済ませてしまわないと、と理性でぐっと堪えた。


「あ、いらっしゃいませ」


 カウンター奥の暖簾をくぐって現れたのは、とても背の高い影。白いシャツの上から、『coffret.』と書かれたオリーヴ色のエプロンを着けている。しかしその人物を特徴付けているのは、身長でも服装でもない。

 そのひとは頭の代わりに、四角い木箱をつけていた。

 

「箱の買い取りですかね? それとも解錠?……お客さん、大丈夫ですか?」


 箱頭が気遣うような調子でこばとに声をかける。しかし木箱の表面が表情筋を持つはずもなく、その顔はのっぺりと四角いままであった。


「あ、いえ、大丈夫です」

「まあ、座ってください。いま椅子を出します」


 そう言って箱頭の人物が持ってきた折り畳み椅子に、こばとは大人しく腰掛けた。ここが鍵屋でないことにはもう気がついていたが、無数の箱、特に目の前の箱頭が彼女を捕らえて離さなかったのだ。


「……あの、この箱を開けてほしいんですが」

「見せてください」


 白い手袋を嵌めた手で寄木細工の箱を受け取った箱頭は、手の中でくるくると箱を回した。


「おお、秘密箱ですか。これはいい作りをしてますね。継ぎ目も模様も精密だ。こちらはどこで?」

「貰い物なのでわからないです」

「それは残念」


 長い指で箱の側面を触ると、細い板が横にずれる。カタカタと音を立てながら板をずらしては戻し、戻してはずらしを数十回繰り返すと、カチリと音をたてて蓋がスライドした。


「はい、開きまし……あれ?」


 箱の中には一回り小さい箱が入っていた。元の箱と全く同じ模様で、そっくりそのままミニチュアにしたような箱である。


「なるほど、面白い。こちらもすぐに……、いや、見た目は同じですが仕掛けは少し違いますね。なんとも凝った作りです!」


 箱頭は二つ目の箱の鍵も解き始めた。カタカタ、カチリ。すぐに小さな箱も口を開ける。


「また箱だ」

「……面白い!」


 箱頭は興奮した様子で三つ目の箱を持ち上げる。ないはずの目が爛々と輝くさまが見えるようだ、とこばとは思う。箱のからくりは三度みたび解かれ、蓋が開く。中にはさらに小さい箱がある。箱頭は目の前にこばとがいるのも忘れたように、夢中で次の箱の側面をカタカタと弄り始めた。


 こばとは箱頭の人物の首元を盗み見る。何の変哲もない普通の人間が、何らかの事情で箱を被っているだけかもしれないと思って。しかしシャツの襟と箱の間には不自然な隙間があり、カウンターの奥の壁がそのまま見えていた。箱と身体は繋がっていないらしい。


 白手袋を嵌めた長い指先が箱を撫でるように滑らかに動き、からくりはあっさり解かれていく。四つ目の箱の中には、やはりと言おうか、五つ目の箱が鎮座していた。箱頭は無言で次の箱に取り掛かる。興奮のあまり喋ることを忘れているようだ。夢中になると周りが見えなくなるところに、こばとは妙な親近感を感じた。それに加えて、大の大人である(ように見える)この箱人間が、おもちゃを与えられた無邪気な子どものように歓喜して箱を開けていくさまを見るのがどうにも楽しかったから、こばとは箱頭の手元と、ぴくりとも動かないのにどこか楽しげな表情を交互に眺めていた。



 ……それも八つ目の箱が飛び出すまでの話である。開けても開けてもそっくり同じ箱が飛び出すので、いい加減飽きてしまった。手のひらに乗るくらいの大きさになってしまった箱と背を丸めて闘う箱頭は放っておいて、こばとは店内の箱を片っ端から開けていくことにした。


 まず手に取ったのは洒落た佇まいの小箱である。蓋を開けると、高い音が流れ始めた。オルゴール付きの宝石箱らしい。蓋の内側は鏡張りであり、その前で孤独なバレリーナ人形が音楽に合わせてくるくると回っている。箱の下部にある引き出しを開けると、そこには脚や腕の折れたバレリーナが山ほど詰まっていた。


 二つ目に開けたのは大きな木箱である。側面が×印の板で補強されているこの箱を開けると、中には何冊かの本が入っていた。どれも酷く傷み、紙はごわごわに波打っている。一冊を取り上げて表紙をめくってみると。潮の苦いにおいが立ち上がった。書いてある文章を読もうとすると、文字はまるで水面に書かれたように波打って震え、ついには消えてしまった。


 地面に置いてある大きな箱のそばに屈んだ。縦長の六角形をしたその蓋の表面に、引っ掻いたように乱雑な十字が描いてある。重い蓋を持ちあげ、やっとの思いで覗いた箱の中には期待したようなもの、たとえば青ざめた吸血鬼などは入っておらず、朽ちた花びらのようなものが数枚残されているだけだった。


 箱に混じって、小型のブラウン管テレビも置かれていた。チャンネルを回せば、目に痛い砂嵐とノイズのあとに粗い映像が流れ始めた。空とも海ともつかない青い背景、白い帽子を被った誰かがこちらに向かって手を振っている。その誰かがぼやけて青色に溶け、宙には白い帽子だけが残された。そこで映像は終わった。テレビの裏側を見れば、黒い皮膜ごとぶっつりと断ち切られた電源コードが血管のような中身を無惨に晒していた。


 分厚い洋書のように見えたものもまた箱だった。表紙を開くと、中には豆本がぎっしり並べられている。表紙裏、あるいは蓋の内側には、分厚い本を開いている二つ結いの少女が描かれている。こばとは後頭部に手を伸ばし、二つ結いの自分の髪を確かめた。豆本のうちの一冊を抜き出して開くと、それもまた箱だった。中には指先で抓めないほどに小さな本が詰まっている。小さな表紙裏には、後頭部に手を触れ自分の髪を確かめる二つ結いの少女が描かれている。


 狭い店を左回りに回って、こばとは箱を開けていった。再びカウンターの前に来たときには、すべての箱を開け終えていた。……いや、すべてではない。開けていない箱がもうひとつ残っている。

 こばとはカウンターに向き直る。やや前傾する箱頭にその手を伸ばす──。


「この箱は駄目」


 白手袋の大きな手がこばこの手首を掴んだ。


「……駄目ですか」

「きみだって、頭蓋骨を勝手にパカッとやられたら嫌でしょ? 僕もそうだよ。だいたい、面白いものが入っているわけでもないし」


 箱頭は大きなため息をついた。口もないのに、息を吐く音だけがどこからか出る。この息や声はどこから出ているのか、こばとは気になって仕方がない。

 箱頭は咳払いをしてから、白い手のひらをこちらに見せた。


「僕にはこれが限界です。この中にも箱があるんでしょうけど、うちの貧弱な設備だとからくりを動かせませんね」


 手のひらには米粒ほどになった箱がある。よく見ると最初の箱と全く同じ幾何学模様が描かれていることがわかった。カウンターには解かれた箱の残骸、そしてピンセットや針のような工具が散らばっている。


「この箱、どこまで続いてるんですかね?」

「さあ? この大きさになる三つくらい前から既に人間業じゃありませんでしたし、このまま無限に続くと言われても驚きはしませんね」

「……どうもありがとうございます。ここまで開けてくださって」

「仕事ですから」

「あの、お代は」

「あー、いえ、今回は頂けませんね。最後まで開けられなかったので」


 珍しいものを見られて楽しかったですし、と小さく付け加えた箱頭は窓の方に箱の正面を向けた。


「すっかり暗くなってしまいましたね。お客さん、そろそろ店を閉めますので。どうぞ今後も『コフレ』をご贔屓に」


 退店を促されていることには気がついていたが、こばとはカウンターの前から動かない。


「お客さん、どうしました?」

「あの、まだアルバイト募集してますか?」

「え? ああ、貼り紙を見たんですね。まだ募集中ですよ」

「じゃあ応募します。ここで働かせてください」

「急ですねえ」


 箱頭の店主はこばとを眺める。秘密箱に付きっきりになっていたとはいえ、彼女が店の箱を片っ端から開けていたところを見ていなかったわけではない。もしかしたら僕と並ぶくらいの箱好きなのかもしれない、それならばこの店のアルバイトとして最適だろう、などと考える。


「じゃあ一応ですが面接をやるので、履歴書持ってもう一度来てくれますか? 明日とか」

「わかりました、明日来ます」

「それじゃ、名前だけ、今教えてください」

「こばとです」



 元に戻された箱を抱えて、こばとは帰宅した。


「おかえり。遅かったじゃん、心配したよ」

「ただいま」

「どう? 箱の件、引き受けてもらえた?」

「もう開けてもらえたし、あと次のバイト見つけた」

「あたし、バイト探してこいって言った覚えはないんだけど」


 ひばりの脳裏にこばとがこれまで起こしたトラブルの記憶と、少なくはない不安がよぎったが、こばとがいつになく嬉しそうだったのでそれ以上は何も言わなかった。表情に乏しいので無愛想にも見えるこばとだが、姉妹であればその感情は手に取るように分かるのだ。


 こばとは以前買った履歴書の残りを引っ張り出し、空欄を埋め始めていた。あの店で働くことができれば、箱頭を開けることができる機会が訪れるかもしれない。それがいつになるかわからないけれど。全く予想できないその中身を夢想することが、楽しくて仕方なかった。

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