第二箱 弁当箱

「あの、ここって『コフレ』ですよね?」


 閉店間際、遠慮がちに扉を開けたのは仕事帰りらしい女性だった。


「そうですよ」

「ああ、よかった」


 女性はほっとため息をつき、恐る恐るといった様子で足を踏み入れる。そして箱だらけの店内をきょろきょろ見回しながら、こばとの座るカウンターまでまっすぐ歩いてきた。適当な箱を買いにふらりと立ち寄った、というわけではないようだ。こばとはバックヤードに向かって声を上げた。


「店長、お客さんです」

「はいはい」


 暖簾をくぐって現れた背の高い人物、彼の頭の代わりについている四角い箱を見て客人は少なからずぎょっとしたようで、強ばった顔でその箱頭とこばとの顔を見比べていた。しかしこばとが平然としているのを見て、何も聞くまいと誓ったらしい。平気な表情を繕って、話を切り出した。


「この店、箱についての相談や調査もやってくれるって聞いたんですが。箱が絡むなら、なんでも」

「そうなんですか? 店長」

「そうですよ。……こばとちゃん、まさか知らずにバイトやってたの?」

「はい」

「……あの、いいですか、話しても」

「ああ、すみません。いま椅子を出すのでそちらに……」


 珍しく気を利かせたこばとが持ってきた椅子に腰掛け、女性は語り始める。自分について話すことに慣れていないのか、突っかかり引っかかり、行きつ戻りつしながら。



 私、毎朝お弁当を作っていたんです。お昼もそこそこしっかり食べたいと思うと、作ったほうが安いし、早起きも料理も苦じゃなかったから。

 その日も早起きして料理を作っていました。いえ、十五分くらい寝坊したかもしれません。少し慌てていたような気がします。米とおかずの大半は入れ終わって、最後に卵焼きを焼いているときでした。学生のころの友人から電話がかかってきたんです。この友人は……なんというか、変な時間に平気で電話をかけてくる子で。でも無視もできないから、火を止めて電話に出ました。そのまま話しこんでしまって、気がついたら家を出る時間になっていたんです。謝り倒してなんとか電話を切って、大急ぎでお弁当に蓋をして出勤しました。


 職場でお弁当を開けたとき、あれっ、と思いました。入れた覚えのない卵焼きが入っていたんです。でも絶対に入れなかったかと言われると自信がなくて。入っているからには入れたんだろう、慌ててたからそのことを忘れているだけなんだって言い聞かせて、口に入れたんです。普段私が作る卵焼きと少し味が違ったけれど、食べられないわけではなかったし、なんならおいしいくらいでした。だから家に帰って、冷めきった卵焼きがフライパンに残されているのを見たときには、驚きよりも先に「やっぱり」という思いが湧き上がりました。


 そこで、今思うとずいぶん思い切ったことをしたなと呆れてしまうんですが、空のままの弁当箱を職場に持っていったんです。勘は当たりました。お昼に蓋を開けてみたら、私がいつも作っているようなお弁当がそっくりそのまま入っていたんです。もちろん食べました。食感や味が少し不思議なものでしたが、不思議と舌に合いまして。それ以降は毎日、空の弁当箱を持って出勤しています。お弁当の味は少しずつ変わっているような気がしますが、お腹を壊したこともありません。


 でも、最近になって不思議に思い始めたんですよね。弁当箱の中身が勝手に湧いて出るなんて、やっぱりおかしいじゃないですか。『お弁当』はどうして、どこから湧いているのでしょう? これまで実害はありませんでしたけど、一度疑問に思うとずっと気になっちゃって。そんなときにこの店の話を聞いたんです。まさに渡りに船だと思いました。



「これが件の弁当箱です」


 軽い音を立てて机に置かれたのは楕円型の弁当箱。栗色に染められ木目が描かれているが、実際のところは樹脂かなにかでできているようだ。ロックがないため、蓋はシンプルな紺色のゴムベルトで留められていた。


「……えっと、そのお弁当、食べてたんですか? 中身の由来が分からないまま?」


 店長が訝しむような声でそう尋ねると、女性は恥ずかしそうに顔を赤らめた。


「いえ、食い意地が異様に張ってるとかそういうことじゃないんです! 食費を浮かせるために自炊してると言ったって、毎日作ると手間も暇もお金も馬鹿にならないんですよ? それがただで、しかも自動で湧いてくるんですから、頼りたくなるじゃないですか。それに」


 おいしかったですし、という言葉は消え入りそうに小さくなっていた。仮にも口に入れるものだぞ、普通はもう少し慎重になるんじゃないのか? ……店長はそう考えたが、それは食事を必要としない自分のもつ偏見かもしれないと思い直し、黙ったままでいることにした。


「あの、調べてもらえますか? この弁当箱について」

「わかりました。調べてみましょう。つきましては、弁当箱をお預かりしたいのですが……」

「あ、はい。大丈夫です。お昼に中身は食べて、会社で洗ってきたので」

「今日も食べたんですか……」


 一見ごく普通の、常にどこか不安そうな顔をしている女性だが、食事については肝が据わりすぎではないか。


「それでは今週の金曜日、またいらしてください。調査の結果をお伝えします。なお、なにぶん特殊なケースですので必ずしもよい結果をお聞かせできるとは言えないことをご了承ください」

「わかっています。金曜日なら今日くらいの時間になりますが、大丈夫ですか?」

「構いません。お待ちしております」

「よろしくお願いします」



 女性がぺこぺこと何度も頭を下げてから帰るのを見届けたこばとは、すぐに紺のゴムバンドに手をかけた。


「……何の断りもなく開けるじゃん」

「どうせ開けるんだから別にいいでしょう?」


 そう言いながら蓋を開ける。中には黒胡麻のかけられた白米、タコさんウインナー、焼き魚の切り身、ブロッコリー、ミニトマト、そして卵焼き。素朴だが充実した、紛うことなき『お弁当』が入っている。


「……お昼に食べて、洗ってきたって言ってませんでした?」

「僕もそう聞いたよ」

「これ、どうするんです?」

「どうもこうも……。僕は食事ができないしな」


 しばらく『お弁当』を眺めていた二人だが、不意にこばとが手を伸ばし、卵焼きを一切れ摘み上げた。そして店長が止める間もなく口に放り込む。


「何やってんの!?」

「はへはひゃははあはいへふよ」

「どうしてどこから湧いたかわからないものを平気で食べられるの? あと食べながら喋らない!」


 店長が食べられないから代わりに私が実食を引き受けたんですよ、と卵焼きを咀嚼しながら言い返そうとしていたこばとだったが、その口が止まる。


「大丈夫?」

「いえ……」


 なんとか卵焼きを飲み込んだこばとは首を傾げている。


「何か変なんですよ」

「……裏にトイレあるから、吐いてきたら?」

「いえ、そういうわけではなくて。不味いとか、傷んでるとかじゃないんです。むしろ味はいい方だと思います」

「じゃあ何が変なの」

「……茶碗蒸しを『プリンだよ』と偽って出されたら、その茶碗蒸しがどんなに絶品でも不味く感じる、みたいなことってよくあるじゃないですか。それです」

「僕は茶碗蒸しもプリンも食べたことないからよく分からないな。そもそも、それはよくある状況なわけ?」

「たとえですよ。見た目と味がちぐはぐだって言いたいんです」


 そう言いながらウインナーも素手で摘んで食べようとするこばとをなんとか静止した店長は、箸を持ってくる、と宣言しバックヤードに入り、すぐに申し訳なさそうな態度で戻ってきた。


「ごめん、お茶請け用のフォークしかなかった」

「フォークでも食べられますよ。ありがとうございます」


 小さなフォークを受け取ったこばとは、黙々と『お弁当』を食べ進める。ほんの一瞬咀嚼が止まったりたまに首を傾げたりすることはあれど、あくまで淡々と口に具を放り込んでいく彼女の様子を、半ば呆れ、半ば感心しながら箱頭が見つめている。そしてついに、米の最後の一粒まで、こばとは『お弁当』を平らげた。


「ごちそうさまでした」

「すごいね。お腹とか痛くない? 胸がムカムカしたりとかは?」

「そういうのはないです」


 そして数秒、考えこんでから言う。


「味は八十点、料理としては十二点です」

「極端だね。その心は?」

「さっきも言ったように、見た目と味が噛み合わないんですよ。卵焼きはほんのり肉の味が、魚はスパイシーな野菜の味が、米は今までに食べたことのない系統の甘い味がします。味そのものはおいしい部類に入るんですが、見た目に合っていないので違和感がとても強いです」

「うまく想像できないな。味がよければ別にいいんじゃないの?」

「何度も食べて慣れてしまえばそう思えるかもしれません。あるいは徐々に味が変わっていったとかなら。少なくとも私は、食べている間ずっと落ち着かない気分でしたね。食感も少しズレてましたし」


 顎に手を当てながらこばとは言葉を探す。食事というものをしたことがない箱頭に、自分の感覚を伝えるのは難しい。


「ああ、あれです。宇宙人が見た目だけそっくりに再現した料理を食べているような気分でした。別に宇宙人じゃなくて、地底人でも異世界人でもいいんですが」

「ますます分からないよ」

「残念です」


 そう呟いたこばとが本当に残念そうな、寂しそうにも見える表情を見せたので、店長は慌てた。無表情のまま平然と開けてはいけない箱を開け、得体の知れない料理を平気な顔で平らげる彼女が、こんなふうに表情を変えるとは思ってもいなかったのだ。しかしなんと言えばいいのか分からなかったため、話題を切り替えるしかなかった。


「と、とにかくこの弁当箱についてはこっちで調べるよ。正直なところ、何かわかるとは思えないけど……。ずいぶん長く残業させちゃったね、ごめん」

「残業代出るなら大丈夫です」

「もちろん出すよ。あとお腹痛くなったり具合悪くなったりしたら連絡してね、休む分には構わないから」

「たぶん大丈夫だと思います。お疲れさまでした」

「お疲れさま」



 金曜日、再び店へやってきたあの女性に向かって、店長はその箱頭を丁重に下げていた。

「調査いたしましたが、箱の中身がどこからやってきているのかについては特定できませんでした。ご期待に添えず申し訳ありません。お代はいただきません、弁当箱の方もお返しいたします」

「あ、はい。こちらこそ変な依頼をして申し訳ありません。ありがとうございました」


 そう言った女性の顔に浮かんだのが落胆ではなく安堵の表情であったことを、こばとは見逃さなかった。女性は弁当箱を丁寧に布でくるんでから、何度も礼を言って去っていった。


「……こばとちゃん、どうしたの?」

「あのひと、少し嬉しそうじゃありませんでした? 結局なにもわからなかったのに」

「そう? 調査料金が浮いたからかな」

「ちょっと違う気がしますけど」




 女性──名を仮に×原A子とする──は、暗い道を歩いていた。胸にはあの弁当箱を大事そうに抱えている。

 『コフレ』に弁当箱を預けたその日の帰り道、彼女は強く後悔していた。慣れない一人暮らし、微妙にうまくいかない職場の人間関係、『友達』とは名ばかりで自分を利用し消耗させるだけのあの子。新しく越してきたこの街で、A子は孤独だった。自分のことは全部自分でやらなきゃ、そう気負いすぎて疲れてしまった彼女に唯一寄り添ってくれたのがこの弁当箱だった。少し妙な味と食感はしたけれど、毎日そばにいて、A子のためだけに『お弁当』を作ってくれていた。そうだと知っていたはずなのに、一時の好奇心に負け、弁当箱を他人の手に預けてしまった。弁当箱がない数日間のお昼、予備の弁当箱を買ったりコンビニ弁当で済ませてたりしようかとも考えたが、それは裏切りに当たるような気がして、結局は普段使いのタッパーにラップに包んだお握りふたつを入れて持っていった。


 自分でもおかしなものだと思う。こんな安物の弁当箱に、こんなに深い愛着を持つなんて。


 弁当箱がいない間、恐ろしい空想がいくつか頭を過っていった。たとえば。「この弁当箱は呪われているのでお祓いなりなんなりしてすぐ手放してください」と言われてしまうとか。もっと酷いことも考えてしまった。「危険なものだったので既にこちらで処分しました。」

 だから今日『コフレ』に向かう脚は震えていたし、箱頭の店長が弁当を返してくれたときには手まで震えていた。

「よかった……」

 本当に。戻ってきてくれて。


 安アパートに帰り着いたA子は、普段以上の疲れと、酷い空腹を感じていた。緊張していたせいだろうか。夕飯を作るのが億劫に思えたが、食べずに眠れる体質でもない。


「先にお弁当箱、洗っちゃおう……」


 また来週から使えるように。紺のベルトを外して、流し台で蓋を開けると。


「あれ?」


 中身が入っていた。普段の『お弁当』ではない。硬そうな黒褐色の外皮の内から覗く、大量の赤黒い実。その一粒ひとつぶが、まるで油膜でも張ったかのような虹色の光沢を放っている。

 それが弁当箱の内から出てきたものだと、A子は直感的に理解する。普段なら不気味に思ってもおかしくはない見た目のその果実だが、今の彼女はとても腹が減っていた、から。


「おいしそう……」


 外皮を両手で掴んで裂けば、柔らかい実がぽろぽろと弁当箱の中に零れ落ちた。


「いただきます」


 一粒、また一粒……。





 こばとがカウンターに座って本を読んでいると、店の片隅からざらざらと耳障りな音が流れ出した。これも箱の一種だしてと並べられていた小型のブラウン管テレビが砂嵐を映している。音を聞きつけ、何事かとバックヤードから飛び出してきた店長とこばとの目の前で、テレビは激しいノイズのかかった音と映像を垂れ流す。


『──×日、×原A子さんが行方不明になりました。ました。ました。ました。電話に──ないことを不審に思った友──探しています。探しています。探していますが、しかしもう──』


 そこでブツッと断ち切られるような音をたて、映像も音も停止した。


「あのテレビ、電源コードが切ってありましたよね。なんで普通のニュースが流れてるんですか?」

「本当にあれが普通のニュースに見えるの? このテレビ、たまに妙なものが映るんだよね」


 僕も見るのは久しぶりだなあ、と箱頭が呑気な声で言うものだから、こばとも「そんなものか」と納得してしまった。そしてふたりはすぐに元の場所へ戻っていく。バックヤードへ、あるいは小説の中へ。

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