こばことこばと

守宮 靄

第一箱 オルゴール

 店の扉を開けて中を覗けば、カウンターに座った店長が長い指で小箱を弄んでいた。


「なんですか、それ」

「ああ、こばとちゃん。来たときはひとこと挨拶しようね、びっくりするから」


 店長が白手袋を嵌めた手から小箱を取り落としそうになって言う。とても驚いているようには見えない顔だが、びっくりしたのは確からしい。


「どうもです。で、なんですか、それ」

「骨董品収集家のおじいさんが亡くなったから、僕がコレクションを引き取りに行ったって話、したっけ?」

「この間、店を閉めてたときのことですか?」

「そうそう。そのとき買い取った箱の中に混じってたんだよね。これがどうしても開かなくて」

「店長にも開けられない箱があるんですか? 私が前に持ってきた秘密箱はあっさり開けてたじゃないですか」

「あれは単にからくり仕掛けの鍵がかかってただけだからね。今回のこれは封がされているんだ、強い接着剤か何かでね。鍵が閉められているのと封じられているのは全然違うんだよ」

「その箱、どうするんです?」

「どうしようかな……。開かない箱は売らない主義だし」

「もう箱じゃないから?」

「もう箱として使えないから」


 店長は小箱をカウンターに置いた。箱の蓋には何重にも重なった同心円が描いてある。その円周上のきまぐれな位置にぽつぽつと小さな円が描かれ、その円もまた何本かの線が重なっていて……。じっと見ていると目が回りそうだった。


「無理に開けることもできなくはないけど、壊しちゃうのもなんだし。それにわざわざ封がしてあるってことは、開けない方がいいと思われてたわけで……」

「これ、私が買い取ってもいいですか?」

「え?」


 店長が顔を上げ、こばとの顔を見る。……きっと見た。の正面が、こばとの方を向いたのだから。


「これ、開かないんだよ? 今のところ少し重い木の塊でしかない」

「分かってます」

「まさか、こじ開けるつもり? さっきも言ったけど、封がされてるのには大概理由があるんだよ。無理に開けるなんてことは……」

「大丈夫です、開けません。ほら、蓋の模様が綺麗だから、いいなと思っただけで」

「綺麗かなあ、これ。確かに精密な彫刻ではあるけれど」


 箱頭の店長は小部屋の中で反響しているような、ややくぐもった声でぶつぶつ言っていたが、やがて諦めたようなため息をひとつついた。息を吐くための口もないのにどこからこの音は出ているのだろう。店長のため息を聞くたびにこばとはそう考えるが、疑問を本人にぶつける気はない。


「……わかった。この箱はこばとちゃんに譲るよ」

「ただでいいんですか?」

「いいよ。元々売り物にする気はなかったし」

「やった!」

 しばらくの間、小箱を抱き上げて小躍りするこばとの方に箱の正面を向けていた店長だったが、ふたたびため息をついて立ち上がった。

「じゃあ、僕はバックヤードで作業してるから。店番、よろしくね」

「はーい」

 


 元気よく返事をしたこばとは小箱を鞄の中に仕舞い、カウンターの裏に回る。レジ横にかけてあるオリーヴ色のエプロンを引っ張り出し、服の上から身に着ける。エプロンの胸には飾り気のないゴシック体の『coffretコフレ.』のプリント。これがこの店の名前であった。


 カウンターの椅子に座れば、店内が一望できる。こばとはこの眺めが好きだ。客として店内をうろつくときに見える景色とは少し違うから。薄暗い橙色の照明の下に並ぶのは、大小さまざまな箱、箱、箱……。ここは箱頭の店長が営む、箱型の品だけを扱う雑貨屋だ。


 ぼんやりと店内を見回し、四角い影の輪郭をなぞっていたこばとだったが、狭い店内を時計回りに三周も眺めればいい加減に飽きるというものだ。だいたい、この店に来る客は二日に一人いるかいないか。こばとの『店番』にどれほどの意味があるのかもわからない。「バイト中は暇だろうから、本でもなんでも読んでていいよ」と店長は言っていたし、普段は小説などを持ってきてせっせと読み進めているのだが、今日は読みかけの文庫本を家に忘れてきてしまった。本当に暇である。二つ結いの自分の髪を指に絡めていじるくらいしかやることがない。


 そこでこばとは、家に帰ってからやろうと思っていた『仕事』をこの場で済ませてしまうことにした。

 さきほど鞄に仕舞った小箱を取り出し、再びカウンターに置く。いつか要るかもしれないけれど少なくとも今は要らないものがぎっしり詰まった鞄を引っかき回し、次に引っ張り出したのは家庭用のドライバーセット。先端部分を差し替えることでさまざまな場面に対応できる優れものだ。こばとはいつもこれを持ち歩いている。一番太いマイナスドライバーの先端とグリップを組み合わせ、グリップの方を強く握る。小箱を立て、蓋と側面の僅かな隙間に狙いを定め——一息にドライバーを突き立てた。


 バキッ、と鳴ってはならない音が鳴り、細かく砕けた木片が飛んだ。封じられていた蓋は呆気なく剥がれ、いまや小さな蝶番でなんとか繋ぎとめられているだけだ。

 こばとは箱を正位置に戻し、中を見る。最初に目に入ったのは、表面に細かな凹凸のある金属の円盤だ。箱の主役はこの薄い円盤らしく、あとは円盤を押さえる形の金具と、箱の隅のほうに双葉のような形のぜんまい一つがあるだけだ。これは。


「オルゴール?」


 こばとがこれまでに触れたことのあるオルゴールは筒状のシリンダーを回転させて音楽を奏でるものだけだったが、シリンダーの代わりに円盤を使うオルゴールをどこかで見たことがある。それをいつ、どこで見たのかはもう忘れてしまったが、記憶の中のオルゴールは大人の背丈を超えるほどに大きかったような気がする。


「こんなに小さいのもあるんだ」


 呟いて、ぜんまいに指をかける。回すとキリキリと音が鳴った。指を離せば、一瞬の引っかかりのあと、円盤が回転し始めた。同時に円盤の下、箱の底から黒々とした煙のようなものが吹き出し、カウンターの上を滑るように広がった。縁から滝のように落ちた煙はこばとの足元まで広がる。

 円盤は回転し続ける。音は何も聞こえない。黒いもやは勢いを増し、舐めるように両脚を這い上がり、こばとの目と耳と暗闇で塞いだ。




 視界は漆黒ではない。輝く点が散在し、渦を描くように回っている。あちこちで光が生まれ、ひときわ強く輝いてから死んでいく。光の渦の中心の深い深い空洞に惹き付けられるように、こばと自身も無数の光とともに回り始める。回るうちに脚を、腕を、胴を捨て、尾を引いて走る光になる。耳を置き去りにしてしまうと、やっと歌が聞こえてきた。低く唸るような歌声。円盤に刻まれていたのはこの歌だと、こばとはもう知っている。ずっと昔に捨て去った喉の代わりに、身を削ってこばとも歌う。長く光芒を放ち、楕円を描きながら叫ぶように歌うそれは、ひとには聞こえぬ彗星の歌──。





 不意に喉がぎゅっと詰まり、頭が後ろへ強く引かれた。目の前の闇は消え、こばとは人間へと引き戻された。


「開けないって言ってたじゃん」


 小箱の蓋を白手袋を嵌めた手が押さえ、もう片方の手はきっとこばとの襟首にかけられている。布に覆われた指がうなじに触れていた。


「……すみません」

「頭が半分以上、箱に吸い込まれてたよ。間に合ってよかったよ、ほんとに」

「冗談でしょう? こんな小さな箱に頭が入るわけないじゃないですか」

「その冗談みたいな事態が起こってたからこんなに慌ててるんだよ」


 店長はその日のうちで一番深いため息をつき、箱頭を振った。


「……僕にも責任があるね。こんなに危ないものだと見抜いていたら、きみに渡したりしなかった。箱なら見境なく開けようとするきみには」

「あ、中身はオルゴールでした。ディスク式の」

「中身について重要なのはそこじゃないんだよな。……まあ、大事に至らなくてよかった。そう思えばここで開けてくれたのは良かったな。家で開けてたら流石に止められないよ」

「英断でしたね。私の」

「不用意に開けてくれなければもっと良かったんだけどね」

「あの、店長」

「なに?」

「襟」

「あ」


 こばとの斜め後ろで声にならない短い悲鳴が上がり、ばね仕掛けのように勢いよく指が襟から離れる気配がした。


「ご、ごめん」

「別に謝るほどでは」

「いや……。あ、とにかく、これは返してもらうね。嫌と言われても持ってくよ」


 店長は小箱の蓋を押さえたまま持ち上げた。


「どうぞ。もう開けたので」

「開けたらすぐに興味を無くすのは、それはそれで箱が可哀想だな……。まあゴネられるよりいいか。さ、もう時間だよ、今日のバイトはおしまい。お疲れさま」

「もうそんな時間ですか。お疲れさまです」



 こばとは荷物をまとめ、店を出た。外はすっかり暗くなり、古びた街灯がぽつぽつと並んで道を照らしている。疲れきった様子の勤め人らと塾帰りらしい学生が数人、俯いてとぼとぼと歩いている。こばとも彼らと同じ方向に歩き始めた。


 突然、街をまるごと揺るがすような轟音が鳴り響いた。道行く人はそれぞれに驚きの声を上げ、周囲を見回した。


 そして彼らは、夜空がぱっくりと横に割れるのを目にした。地面と水平に引かれた白い一本線が、じわじわと太くなっていく。白く切り取られたその部分だけが真昼のように明るかったから、彼らは宵闇に慣れた目を細めた。白い帯の中央に、墨汁を垂らしたような黒い点がぽつんと現れた。点は染み出すように大きくなっていき、どこか人間の上半身のようにも見える形をとった。巨大な黒い影が白い光を背負い、夜に溶けながら街に覆いかぶさる。それの正確な輪郭を見極めるよりも早く、影は光の帯の中に吸い込まれ、小さくなって消えてしまった。残された白い帯もまただんだんと細くなっていく。

 ぽかんと口を開けて空を見上げる人々を嘲笑うように帯はみるみるうちに痩せていく。そして水平な一本線に戻り、音もなく消えた。我に返った人々が騒ぎ出す前に、一閃、小さな光が空を撫でた。


「流れ星だ!」


 死んだ顔をしていた学生のひとりが脳天から出るような声を上げた。


「流れ星かあ、久しぶりに見たな」

「なんかいいことありそうな気がする」


 彼らは口々に独り言を言い、再び家路についた。どうやら流れ星以前の怪現象について、これ以上頭を悩ませる気はないらしい。

 こばともまた、数年ぶりに見る流星に少しばかり心が躍っていた。だから、光の帯から現れた黒い影が二つ結いをぶら下げているように見えたことについて、さして深く考えることもなかった。


 それでいいのだろう。実際、運良く大事には至らなかったのだから。

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