孤軍戊辰戦争

そうざ

Lone Force of The Boshin War

              壱


 徳川の治世二百六十余年を通じ、江戸町奉行所は数度の移転を重ねたが、幕末に至り、北町奉行所は呉服橋ごふくばし門内に、南町奉行所は数寄屋橋すきやばし門内に落ち着いた。

 時に慶応四年五月二十二日(1868年7月11日)、両奉行所内はあたかも年末の煤払いの如くであった。年番方与力の下、同心から中間、小者に至るまで二百人強がたすき掛けに尻端折しりはしょりで忙しなく動き回っている。

 全てはつつがなく翌日を迎える為である。


              ◇

 

「八つ時(午後3時)になる。切りの良いところで一服するが良い」

 年番方与力が声を掛けて回る。

 ここ北町奉行所の敷地面積は、坪数に於いて南町のそれに幾らか下回る。とは言え、櫓付きの長屋門を備え、二千五百坪(約8千平方メートル)を超える堂々たる役所である。

 同心詰所の面々が三々五々で湯飲み茶碗を手にする。

「日暮れまでに終わるかのぉ」

「隅から隅まで塵一つ残さずとのお達しだからなぁ」

「帳面や調度品の整理整頓もあるし」

「……馬鹿々々しい!」

 そう言い捨て、黒ずんだ雑巾を勢い良く桶に投げ付けたのは、若い同心であった。

「また始まった」

「繰り言が来るぞ」

「もう相手にするな」

 同輩達は一様に失笑を押し留め、知らぬ顔の半兵衛を決め込む。

「そもそも上様がいけないっ、尻尾を巻いて逃げ帰るなど――」

 ――ぴしゃっ!――

 紙の束を文机に叩き付ける音が響いた。

 皆の目が部屋の片隅に集まる。そこには、黙々と帳面の整理を続ける、これもまた同じく若い同心の姿があった。

世迷言よまいごとは聞き飽いた」

 切れ長の目を持つ色白の容貌は、小面こおもてを連想させる。一見優男やさおとこであるが、その声音こわねには射るような鋭さがあった。


              ◇


 およそ半年前の慶応四年一月三日(1868年1月27日)、鳥羽伏見の戦いが勃発した。一年近くに亘る戊辰戦争の火蓋が切って落とされたのである。

 前年(慶応三年)、江戸幕府第十五代にして最後の将軍、慶喜はその大政を朝廷に奉還していた。しかしながら、倒幕軍は決してそのほこを収めようとはしなかった。

 鳥羽伏見の戦いが連敗を喫した事で、慶喜は大坂から江戸へと撤退、その後は一貫して朝廷への恭順の意を貫いた。この振る舞いが幕臣達を大いに動揺させた事は想像に余りあるが、時勢の追い風が確実に倒幕勢の背を押し続けている事も世人の知るところとなった。

 慶応四年四月十一日(1868年5月3日)、慶喜は水戸での謹慎処分と決まり、身を寄せていた上野寛永寺大慈院を去った。同日、江戸城の無血開城が完了した。


              ◇


 今、二人の若者が同心詰所の空気を張り付めさせている。

 すなわち、高積改たかづみあらため同心、逢朽おおぐち勇吾ゆうご、そして例繰方れいくりがた同心、亥奈いな提之進ていのしんである。

 同齢の二人は、元服前に見習いとして出仕、職務は違えど江戸の安寧に尽力して来た朋輩であり、幼馴染みでもあった。

 そんな二人の仲に決定的な亀裂が入ったのは、江戸城が倒幕軍の手に落ちた頃であった。片や徹底抗戦の一存を秘める勇吾、片や飽くまでも慶喜の決断をたっとぶ提之進である。

 勇吾はたちまち顔面を血気に染め、外方そっぽを向いたまま言い放つ。

「日がな一日、紙面の紙魚しみを潰して過ごす男が何を言う」

 提之進は小面の表情を変えずに応戦する。

「四の五の言わず、上野にでも参じたらどうだ」

「あんなものは張子の虎だっ」

 勇吾の言うあんなもの・・・・・とは、慶喜が上野寛永寺に蟄居せざるを得なかった時世に不満を抱き、江戸の治安維持を名目に結成した武装組織、彰義隊の事である。

 勇吾が抗弁を続ける。

あれ・・には直参以外にも博徒、侠客の類が含まれているのを知らんのか?」

「顔触れはどうあれ、官軍にくしは同じだろう?」

「所詮、時局にかこつけた愚連の類だ。それが証拠に、連中は吉原なかで持て囃されて有頂天だ。間夫に持つなら彰義隊だとさ」

「だったら、お前はどうするつもりだ」

 問われた勇吾は、直ぐに言葉を継ごうとしない。何の妙案も持ち合わせていないようであり、同輩達の目を警戒しているようでもあった。

「……俺は俺なりにやる。まぁ、見ていろ」

 この宣言が合図であるかのように、同心達は持ち場へ散って行った。

 皆が危惧した通り、清掃作業は夜を徹する事となった。



              弐


 名目上、今や江戸は将軍のお膝元ではなかい。この劇的な価値観の転倒は、大政奉還の前後に起きた数々の変事にて暗示の如く予感されていた。

 少しばかり時間を遡行すると――慶応三年の夏から翌年の春に掛け、各地で珍超常現象が起きた。虚空から無数の神札ふだが舞い降りたのである。三河国みかわのくに渥美郡あつみぐん牟呂村むろむらから始まったとされるこの『御札振り』は、吉兆と解釈され、民衆は思い思いの仮装でええじゃないか・・・・・・・と連呼しながら往来を練り歩いた。

 他方で、江戸近郊に於いて百姓一揆や打ち壊しが翌年に掛けて次々に発生した。公儀に依る締め付けが利かなくなり、その威光が絶対不変でない事も白昼のもとに晒される結果を生んだ。

 絶え間なく不穏に彩られた世相に《もと》、幕臣の多くもその体たらく振りを露呈する事になった。我が身大事で遁走する者、さっさと両刀を捨てる者も散見した。

 しかるに、一大勢力となった彰義隊は、上野寛永寺にその拠点を移すと同寺の住持じゅうじ輪王寺宮りんのうじのみやようし、抵抗の意思を示し続けていた。一触即発が避けられないとすれば、いよいよ江戸も戦禍に見舞われる事は必定である。

 既に江戸の治安は悪化の一途を辿っていた。江戸城では火事が続き、討幕軍に依る付け火ではとの噂が立った。市中では辻斬りや強盗が横行し、中には勤王に用立てる御用金との名目で堂々と金品を巻き上げる徒輩も居た。

 そんな最中に起きた江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件は、倒幕軍に武力行使の名分を与える事になる。鳥羽伏見の戦いを嚆矢こうしとする戊辰戦争が始まるのは、この僅か数日後の事である。


              ◇


 不忍池の畔を歩きながら、勇吾は上野の山を見上げた。

 東叡山寛永寺。東叡山とは東の比叡山を意味する。不忍池にしても近江の琵琶湖に見立て、竹生島ちくぶじまを模した中島に弁財天を祀っている。平時であれば、参拝人が名物の蓮飯はすめしに舌鼓を打ち、島をぐるりと囲んだ出合茶屋で道ならぬ男女が睦言に興じる行楽の地である。

 しかし、今は不穏な空気が立ち込めている。

「お許し下さいましっ」

「許すも許さんもないっ」

 そんなやり取りが道端から起きた。みすぼらしい女が地べたに尻を突き、それを二本差しの一団が囲んでいる。

「何事ですかっ」

 勇吾が集まり始めた野次馬を割って入る。

「あぁ、旦那ぁ」

 透かさず袖へと縋り付いて来た女は、勇吾の見知りであった。

 高積改は市中の荷駄を見て廻り、安全を確認する役儀である。故に、その道すがら自然と顔馴染みが出来る。

 女はナヲと言い、十九文見世じゅうくもんみせ生業なりわいとしていた。路端で種々の雑貨を一九もん均一で売る商売である。

「どうしたと言うんだっ?」

「それがどうしたもこうしたも――」

 そう言い掛けたナヲを、高下駄が一蹴した。転げた躰が商売道具を並べた戸板を真っ二つに割る。

 勇吾は慌ててナヲに寄り添い、一団を睨み付けた。

「無体が過ぎますぞっ」

 一団は全く動じぬどころか、佩刀の鯉口辺りに手を掛けている。

 浅黄色の羽織に白い義経袴、朱鞘の刀を差し、髪を講武所風に結う者も居た。昨今この出で立ちを見て彰義隊と判らぬ者は居ない。

「このあまが我等の老婆心を無碍むげにしたからだ」

 張り上げた声に酔いが混じっている。くるわからの帰路かも知れない。

「老婆心とは?」

 勇吾の問い掛けに、一団が語気を荒げて畳み掛ける。

「何れ江戸は火の海になるっ。その前にさっさとけろと忠告したっ」

「道端の物売りなんぞ戦の邪魔にしかならんとなっ」

「田舎侍の魔手からこの町をまもれるのは我等だけだっ」

 薄ら笑いが酒の臭いを振り撒いて行く。

 多勢に無勢の酔人となれば、理屈で抗するは悪手である。勇吾は敢えて口角を緩めた。

「この者には私からよく言い含めておきますので、後はお任せ下さい」

 ところが、勇吾の恭しい様子に一団の傍若は却って助長された。

「貴様、町方であろう」

 町方同心である事は、黄八丈に黒い巻き羽織、そして『八丁堀風』なる独自の髪型を見れば直ぐに判る。一般的な武士が大銀杏おおいちょうであるのに対し、髷の短い小銀杏こいちょうに結い、月代さかやきは広く、たぼには膨らみを持たせる、武士と町人との中間とも言える見栄えである。

「風雲急を告げる今般に、貴様は暢気に散策かぁ!」

「弛んどるっ、弛み切っておるっ!」

「この不浄役人がっ!」

 高下駄が勇吾の肩を小突く。忽ち何本もの足がそれに組みする。勇吾が体勢を整えようとするや、ただちに次の高下駄がそれを阻止する。野次馬が増えれば増える程、一団は高揚して行く。

 嵐が過ぎ行くのを待ちながら、勇吾は思った。直参もここまで落ちたか、それとも破落戸ごろつきが二本差しを気取っているに過ぎぬのか――。

 この頃、養子縁組という建て前で公然と『御家人株』が売り買いされていた。極論すれば、水呑み百姓であろうが持参金さえ用意出来ればその日から士分なのである。

「直ぐに江戸を出ますからっ、どうかおめ下さいっ、お許し下さいっ!」

 地べたに額突ぬかづくナヲの泣き顔が、繰り言のように叫び続けた。


              ◇


「私の祖父じい様のそのまた祖父様は、家康ごんげん様の頃に江戸にやって参りました。江戸の町には愛着がございます」

「うちもそうだ。先祖代々、上水の産湯を使って同心を務めて来た家柄でな」

 高下駄の悪戯あくぎを受けた二人の姿は、蕎麦屋の座敷にあった。両人共、被った埃を落とし切れず、尾羽おはうち枯らすが如くである。

「世の中はどうなっちまうんでしょうかねぇ……」

 先程のような連中に江戸が護れるのか、引いては町奉行所はどうなっているのか――言外で詰問されている気がしてならず、勇吾は掛け蕎麦から箸を戻し、静かに問い返した。

「もし……万が一江戸が戦になったら、お前はどうする?」

「勿論、戦いますっ」

「おいおい、穏やかじゃねぇな」

 勇吾は思わず苦笑した。

「頼れる人も居りませんし、自分の身は自分で守らなきゃ」

「身内は?」

「天涯孤独でございます」

「本当に俺達は似た者同士だなぁ」

御新造ごしんぞ様は?」

「独り身の、一人っひとつぶだねだ。両親は何年も前に相次いで逝っちまったし、親戚付き合いってのも苦手でな」

「でも、お役所にはご同輩がいらっしゃるでしょう?」

「奉行所は腰抜けの巣窟さ。そもそも上様が――」

 勇吾は言い掛けて止めた。相手は唯の町人、それも女に時勢を説いても仕方がないと言葉を飲み込んだ。そして、誤魔化すように話題を変えた。

「もしもん時は、八丁堀の組屋敷まで逃げて来ると良い」

「え?」

「広くはねぇがな、雨風くれぇはしのげるぜ」

 勇吾が表通りに視線を移す。

 格子窓の外では、黒装束の男達、即ち倒幕軍の兵士が悠々と闊歩している。

 この年の正月にはまだ例年と変わらぬ日常風景があった。餅搗きに羽根突き、凧揚げに独楽回し、獅子舞い、鳥追い、三河万歳――それが三が日を過ぎた途端、きな臭い風説が東海道を伝い始めた。

 やがて、千人近い幕軍の敗残兵が江戸に流入するに至り、戦が現実のものであると誰の目にも明らかになった。それから数ヶ月、江戸を引き払う者は後を絶たない。

 敗残兵の中には、彰義隊に合流する者も居たであろうが、その軍資金と称して商家を襲う不逞者もあった。全てが混沌の坩堝るつぼで秩序を失っていた。

「旦那……」

 ナヲが心なしか声を潜める。

「連中が二の腕に付けてるのは?」

錦切きんぎれって奴だ。あんな物、単なる目印さ……」

 二人は、行き過ぎる兵士が見えなくなるまで身動ぎもしなかった。



              参



 慶応四年五月十五日(1986年7月4日)、危惧して通りの事態が起きた。

 彰義隊を中核とした旧幕臣と倒幕軍とが衝突した上野戦争である。一連の戊辰戦争に於いて唯一、江戸を舞台とした戦禍であった。

 それは明け六つ半(午前7時頃)、雨中に始まった。近隣に轟く砲声に、江戸庶民はいよいよ怖気を振るった。前日に倒幕軍から宣戦の布告が出されていた為、先んじて避難を始める者も居たが、多くは半信半疑のままであった。

 やがて、倒幕軍の意図的な放火も含め、上野界隈に火の手が拡がった。雨天ではあったが、谷中、湯島から広小路、そして度重なる砲撃を受けた寛永寺はその僧伽藍摩そうぎゃらんまの大半が焼失した。

「急げ急げっ、風上へ逃げろっ」

 声を張り上げるのは、中間や小物を伴い、押っ取り刀で参じた与力や同心である。この時ばかりは月番も非番もなく、南北両奉行所の面々が上野に馳せ参じた。

 同心達は甲手こて、脛当て、帷子かたびら、鉢巻に至るまで鎖を仕込み、刃引きした大刀と一尺八寸の十手を装備している。雨除けの蓑を着けている事以外は、捕り物の装束そのものである。

「黒門の方で激戦が続いてるらしいぞっ!」

「もう死屍累々だそうだっ!」

「そちらに出張るかっ⁉」

「いかんっ、戦いに巻き込まれてはならんっ!」

 火事羽織に野袴に身を包んだ与力が、陣笠の下の顔を歪めながら一喝する。

「しかしっ」

「ならぬものはならぬっ!」

 彼等の役儀は飽くまでも避難民の誘導や火事場泥棒等の取り締まりであり、くれぐれも彰義隊の援護や倒幕軍の打擲ちょうちゃくに手を染めてはならぬと厳命されての出役であった。

 炎に照らされた皮膚が引き攣る中、一同は改めて町奉行所の立場を思い知らされた。


              ◇


 同じ頃、勇吾の姿は火の粉のちらつく池之端仲町にあった。火焔に巻かれ、熱波に追われた者の中には、池に飛び込む者もあった。

「こちとら、安政の大地震でも虎狼痢ころりでも生き延びたお命よぉ、こんな事くれぇでくたばって堪るかいっ」

「その意気だっ」

 行き交う者を一頻り勇気付けると、勇吾は雨と煙とで霞む上野の山を眺めながら嘆息を吐いた。

 つい先日までの明媚が今、一転している。松林の向こう、崩れ落ちる屋根瓦や炎に爆ぜる松林の音に銃声や砲声が断続的に入り混じる。刻々と死人の山が築かれているに違いない。

 不意に提之進の顔が浮かんだ。

 今頃、人の出払った奉行所の一角で文机に張り付いている事だろう。それが例繰方の役儀である。

 しかるに、それが気に食わない。 

 時代が動こうとしている。否、正に今、厳然と怒涛の如く動いている。瓦解し掛けた世の基盤を護ろうと、倒幕の暴挙に一矢報いようと、身を投げ打つ者達が居る。たとえそれが破落戸の寄せ集めであろうとも、立ち昇る赤炎と黒煙とが必死の抗戦を物語っている。

「黒門口はむごい事になってるらしいっ」

 そんな声が背後を通り過ぎて行った。

 勇吾は己の掌をまじまじと見た。熱気の所為か、汗が乾こうとしている。

 まだ間に合う――勇吾は駆け出した。


              ◇


 刻限は七つ時(午後四時)に近付こうとしていた。先程までの轟音や奇声は止んでいたが、雨脚は相変わらずであった。

 三橋みはしの周辺に野次馬がざわめいている。三橋とは、不忍池から広小路を横切って流れる忍川に架けられた三つの橋の総称である。中央の橋は将軍が寛永寺参詣の際に用いる専用の為、庶民の通行は決して許されぬ。なれど、今はその橋ですら土足で踏み荒らされ、鮮血に染まっている。

「本郷台地の方から弾が飛んで来たってよ」

「ひえぇ、三百間は離れてるぞ」

「加州様(加賀藩)のお屋敷に飛んでもねぇ大砲があるんだとか」

「飛んでもねぇのに飛んで来たとは、如何いかに」

 野次馬の軽口を聞き流しながら、勇吾はようやく黒門口に至った。

 が、そこで足が止まってしまった。

 泥田の如き地べたの其処彼処そこかしこに、名もなき遺骸が転がっている。不揃いの装束は旧幕府軍、黒装束は倒幕軍と知れた。所々に落ちている長毛は、赭熊しゃぐま白熊はぐま黒熊ほぐまと呼ばれる倒幕軍の被り物、その残滓である。

 上野戦争に於いて、最も壮絶な攻防が繰り広げられた場所こそが、この黒門口であった。

 右手に見える山王社は銃撃の痕が目立ったが、隣の清水観音堂は無事に見えた。何れも春には桜色に染まる遊興の地であるが、等しく陰鬱に沈んでいる。

貴様わいは何者じゃ」

 立ちすくむ勇吾の背後から不躾な声が上がった。

 黒装束の群は、歩哨ほしょうの薩摩兵であった。血と汗と泥とで顔まで一様に黒い。

「……町方です」

 初めて目の当たりにする実際の敵・・・・に、勇吾は怖ず怖ずと答えた。

 歩哨は幾らか眉間を弛めた。差し迫った敵ではないと察した様子である。

「遺体でも片付けになおしけ来たんか?」

 言葉使いの違和に戸惑いつつも、勇吾は適当に頷いた。

貴様わいん仲間は綺麗なもんじゃ」

 泥にまみれた遺体の何処が綺麗なのか。反目しそうになった勇吾に、歩哨がその理由を継いだ。

「多くは鉄砲で撃たれちょっでな、ほとんど血が出ちょらん」

 勇吾が思わず遺体を見比べる。

「そいに比べて、おい達ん仲間は刀でずたずたにされちょい」

 言われてみれば、黒装束の遺体は泥水と血糊とが入り混じった中で事切れているようだった。

「おい、お前わい等っ、見ちょらんで手を貸せっ!」

 歩哨の一人が野次馬に向かって声を上げた。遺体の回収を手伝わせる腹積もりのようだった。それ切り一団は勇吾に興味を失い、周辺に散って行った。


              ◇


 寛永寺の山門である文殊樓もんじゅろうは、すっかり焼け焦げ、静かに燻っていた。砲弾が直撃したようだった。

 中堂の前に出ると、僅かな遺骸の他は人影が絶えていた。物が焼けた臭いが雨にも負けず鼻を擽り続ける。

 俺は何処いづこへ向かおうとしているのか――疲労を溜めた勇吾の足は、既に目的を失っていた。

 心の過半では、間に合わなかったと感じている。然るに、その片隅では、遅かろうと早かろうと己に何が出来ただろうか、とも感じている。


 槍を杖に幽鬼の如く彷徨う血塗ちまみれの影があった。その風体なりから旧幕側である事は間違いないが、浅黄色の羽織も白い義経袴も無惨に別の色に染まっている。

「肩を貸しますっ」

「……済まん」

 敗者は濡れ雑巾の如く勇吾に身を委ねた。これは俺が負うべき重みだ――勇吾は自らに言い聞かせた。

「根岸の方は……敵さんが手薄らしいな」

 訊かれても勇吾には答えようがない。

「……皆、そっちへ逃げたろうなぁ」

 安堵にも諦観にも似た声音と共に、敗者はその場に崩れ落ちた。

「しっかりっ」

「もう戦えん……不具ふぐになった」 

 右腕は辛うじてぶら下っていた。手荒に扱えば直ぐ様に千切れ落ちると思われた。よくよく見れば、側頭部に深い裂傷があり、そこから流れ出しているのは血だけではないようだった。

「介錯を……頼む」

 そう言いながら、敗者はまだ融通の利く左手で脇差を抜き、単衣をはだけた。

「早まらんで下さい」

「町方の、貴様なら……首を打つなど朝飯前、だろう……」

 そこで勇吾は気付いた。

 池之端仲町の道端で散々足蹴にされた光景が蘇る。敗者はあの一団の頭目であった。

「首切り役は代々山田浅右衛門殿が……」

「ぐだぐだ言うなっ、少しは役に立てっ」

「私が引き受けましょう」

 振り向いた先に、じゃ傘が咲いていた。黒羽織に黄八丈を尻端折しりばしょりにしただけの姿に危急の感はない。傘の内から小面が覗く。

「貴殿の、姓名は……?」

「亥奈提之進、町奉行所配下です」

「拙者は、托間たくま周藏しゅうぞう……お頼み申す」

 瀕死の敗者は、腹に脇差を宛がったまま相好を崩してみせた。

「お前、どうしてここにっ?」

「帳面の整理が終わったのでな、遅ればせながら」

 提之進は傘を放ると大刀を抜いた。介錯の経験など持たぬ事は、勇吾も知っている。

「おいっ、安請け合いをするなっ」

 それでも提之進は小面の面差しで敗者を見下ろし、ゆっくりと大上段に構えた。

「おいっ!」

「ならばお前がやるか?」

「無駄死にさせる事はない」

「無駄?」

 提之進に初めて表情が現れた。が、小面が般若へと変わり掛けたところで、それを抑え付けた。

「医者へ連れて行くっ」

 勇吾が托間を庇うように身を呈する。

「もう再起は叶わん躰だぞ」

「それでも生きられるっ」

 雨音が二人の沈黙を包む。

 その傍らで、か細い息吹が静かに尾を引いた。托間は横倒しになり、脇差しは腹に突き立つ事もなく泥溜まりへと落ちた。

「……負け犬のまま逝かせるのも不憫だ。介錯つかまつったていにしよう」

 さらりと言い退けた提之進は、遺骸の首に抜き身を押し当てると、その手にぐいぐいと力を込めた。忽ち広がって行く血の海に、勇吾は思わず目を背けた。

 天を仰ぐ。雨粒が両の眼に降り注ぐ。勇吾は瞼を閉じようとせず、流れるものを流れるがままに任せた。

「江戸にも気骨のある直参が居たんだな……」

 そう言いながら、提之進は切り離した首の汚れを羽織の袂で拭いた。


 うして、短い戦闘は降り止まぬ雨と共に幕を閉じた。散った命は三百名ともそれ以上とも言われる。

 戦渦の魔手は、更なる犠牲を求めて北進する。東北諸藩へ、海を越えて函館へ、旧態に固執する者、変革を信ずる者、そして、大局に右顧左眄うこさぺんする者達を巻き込み、吞み込んで行くのである。


              肆


 慶応四年五月二十三日(1868年7月12日)の夜が明けた。この日は朝方から晴れ渡っていた。

 百五十名の同心が北町奉行所の玄関前に下座し、三十名の与力が玄関の上に列座している。

 皆、夏の陽射しに些か瞼が重い。総出で夜を徹し、隅から隅まで清掃が行われた。帳面や調度品の整理整頓、障子や襖の張り替え、畳替えまで行う徹底振りは、立つ鳥跡を濁さずの心構えであり、愛着のある奉行所への最後の奉公でもあった。

 この四日前、討幕軍の最高指揮官である東征大総督府から南北町奉行宛てに通達があった。

「奉行所の引き渡しが決まった」

 年番方与力が神妙な面持ちで告げると、広間の面々が静かな嘆息を吐いた。世の情勢を鑑みれば、この処遇は想定の内にあった。

 れど、そこで働く者達の心中は矢張り穏やかではない。江戸開府以来、町奉行所付きの与力や同心は事実上の世襲で代々江戸の市政に尽力して来た家系である。それが終わりの時を迎えるとなれば、町制の末端に位置する岡っ引きや番太郎に至るまでその波紋は広がって当然であった。

 しかし、いざ当日を迎えたどの顔にも安寧の色が差している。

 町奉行職は廃止、南北町奉行所は市政裁判所へと転換となったが、与力や同心は同所での雇用継続が決まったからである。

 新時代の統治を速やか且つ滑らかに実現させるには、江戸の町を知り尽くしている与力、同心の職能を活かさぬ手はない。それは、旧幕臣や市井の民に燻る倒幕軍への反感を取り除く意味でも誠に合理的な判断と言えた。

「これからは洋装でお勤めかのう?」

「十手は用済みかのう?」

「裁判所となると、捕り物や鎮火の役儀はなくなって仕事が楽になるかのう?」

 つい先頃まで、今後の身の振り方に不安を隠せなかった面々が、今はもう清々しい顔をしている。

 勇吾はそれが面白くない。苛立ちを覚えずに居られない。


 やがて、八文字に開けられた大門の向こうに、供廻りを連れた三人の判事が騎馬で現れた。立て襟の筒袖と段袋だんぶくろ、そして二の腕の錦切れが陽光に輝いている。

 東北では、同月に成立した奥羽越列藩同盟の名のもと、諸藩の抵抗が続いてはいるが、眼前にやって来た彼等の呼称は最早、倒幕軍にあらず、名実共に新政府軍であった。

したぁ~にぃ~っ」

 突然、高らかな声がし、判事一行ははっとした。

 新しい町奉行が出仕する際は、門前の腰掛こしかけ(公事人控え所)に居る町人達を平伏させる為に声を掛けるのが慣例となっている。即ち、新政府軍の判事を町奉行と変わらぬ待遇で迎えたのである。

 片隅につくばった勇吾は、羽織の袂で掌を拭いながら不図ふと、遠い日の光景に思いを馳せた。見習い同心として出仕した日の事だ。上役に挨拶を述べる最中さなかにも掌は大量の汗に濡れ、黄八丈の膝に手形が付いてしまった。

 つい先般、提之進と共に三ノ輪圓通寺えんつうじまで赴いた折りもそうだ。同寺の住職は、倒幕軍が見せしめに放置した隊士の遺骸を荼毘に付そうと尽力していると聞き、寛永寺で看取った托間周藏の首を運んだ。その道すがらも汗が止まらなくなった。首を抱えて先を行く提之進に気付かれまいと、何度も拭拭った。

「万事、整ってございます」

 代表の与力が、大門を入った騎馬をうやうやしく迎える。

「お頼み申しますっ!」

 門前の方から甲高い声がした。野良着に頬被りの人物が身を屈めながら小走りにやって来る。それは一見、百姓の直訴であった。

「控えろっ!」

 与力の一喝が轟く。しかし、百姓に畏れ入るつもりがない事は、緩まないその歩調や、懐から何かを取り出そうとする仕草から明らかであった。

「ならんっ、ならんぞっ!」

 重ねての一喝に周囲が腰を浮かしたその瞬間、一陣の風を伴った人影が百姓に組み付いていた。

 勇吾であった。

 二人は地べたを一間ばかり転がり、土煙を巻き上げた。その騒ぎに、使者を乗せた馬が動揺を見せる。

「御用だっ!」

「御用だっ!」

「御用だっ!」

 次々に与力、同心が駆け寄り、百姓を取り囲んだ。百姓は既に勇吾の手で自由を奪われていた。

「お手数をお掛け申した」

 馬を宥め終えた使者の一人が、勇吾の許に歩み寄る。

「役儀を全うしたまでです」

「拙者は鎮台府判事の土方ひじかたち申します。貴殿んご姓名は?」

「逢朽勇吾です……あのっ」

「ん?」

「実はこの者、有名なうつけでございます。手前の姿を見掛けて、無邪気に駆け寄ったに違いありませんっ」

「ほう」

「知恵が足りませぬ故、何卒なにとぞお慈悲を賜りたくっ――」

 そう言いながら、勇吾は百姓の頭をぐいと地べたへ押し付け、自らも深く頭を垂れた。

おい達にも油断がありした……そいにしてん、貴殿の素早さには感服致し申した。流石、江戸んないいもあずかっちょらるお役人じゃ」

「畏れ入ります」

 与力、同心の面々は身動みじろぎもせずこのやり取りを見守っている。

「江藤どん、北嶋どん、どげんかな?」

 問い掛けられた二人の判事は、土方どんが良かとならば、と承服した。

「さぁ、引き渡しを始めもんそ」

 与力に声を掛けた土方は、そそくさと玄関へと向かった。平伏する勇吾達を振り返ろうともしなかった。

 皆の意識が引き渡しへと移る中、勇吾が百姓の懐から取り上げた凶器えものたもたへ隠した事に気付く者は居なかった。


              伍 


 八丁堀界隈は平素と変わらぬ夜を迎えていた。

 百姓の身柄を託された勇吾は、町場へと連れ戻し、そのまま放免にした、かに見えたが、日が暮れた後に組屋敷へ顔を出すよう、固く言い含めていた。

「こんな物騒な物を何処で手に入れたんだ? まさか十九文見世で扱う玩具じゃあるめぇ?」

 行燈の側で、着た切り雀のナヲが俯いている。その面貌は憔悴し、白昼に要人の暗殺を企てた百姓と同一人物とは思えなかった。

「……情夫いろの形見です」

 情夫という言葉に、勇吾が息を呑む。行燈の灯りが揺らめいたように感じた。

情夫あのひとは尊王攘夷論にかぶれておりました」


 話は五年程前に遡る。

 ナヲの情夫は一介の浪人であったが、清河八郎発案に依る浪士組に参加。第十四代将軍、家茂の警護を担うべく同組隊士として上洛した。

 しかし、京に到着するや、清河が突如として宣言する。浪士組は将軍ではなく朝廷の先兵として攘夷を遂行する――同組は分裂した。飽くまでも将軍家への忠誠を誓う者達、近藤勇や芹沢鴨は袂を分かち、新撰組を結成する事になる。

情夫あのひとは清川様に付いて江戸に戻る事になりましたが、その清川様が暗殺されてしまい、彰義隊に合流しました」

 勇吾の脳裏に、上野で目の当たりにした惨状が蘇る。

 そうとは知らず、ナヲは勇吾が手にしている短銃を見詰める。

「それは、あの人が京に滞在した折りに、偶然手に入れたと申しておりました。それを上野の戦いへ参じる時、私に託したのでございます」

「戦いで役立つだろうに、何故だ?」

「俺には刀がある、これはお前がいざという時に使えと」

 江戸八百八町の治安を守る町奉行所が引き渡される瞬間、それがこの女の考えるいざ・・という時か――勇吾は、己にとやかく言う資格はないと項垂うなだれた。

「……それで、男の消息は?」

「上野界隈を捜し回りましたが……生きているとも、死んだとも」

 言葉は涙の中に沈んでしまった。

 日々の暮らしに追われる町女まちめとその情夫とがどんな絆で結ぼれていたのか。世事に浮かれた男と、それにあおられただけの女、と見るは易い。が、やつれた佇まいに滲む泰然とした心根は、勇吾に取り成す言葉を探りあぐねさせた。

「……もう、忘れてしまえよ」

「はい?」

「尊王も攘夷も、倒幕も佐幕も……」

 情夫も、とは言えない勇吾であった。

「旦那は……」

 そう言い掛け、ナヲもそれ以上の言葉を継ぐ事はなかった。


 朝まだき、勇吾は密かな衣擦れを聞いたような気がした。

 夜が明けると、襖の向こうにナヲの姿はなかった。の寺田屋事件に於いて坂本龍馬が紛失した『スミス&ウェッソン2型アーミー』と同型の短銃も消えていた。

 ナヲの情夫は東北へと逃げ延びたのだろうか。少なくともナヲはそう信じ、後を追ったに違いない。

 勇吾は不図ふと、托間の事を思い出した。提之進と二人で弔ったあの男は何故、偶さか見掛けた筈の町女ナヲにあれ程しつこく江戸から去れとわめいていたのだろうか。あれは本当に酔狂だったのか、仲間の前で虚勢を張らざるを得なかったのか。

 もう情夫の名を知るすべはない勇吾であった。


              陸


 慶応四年七月十七日(1868年9月3日)、 江戸は東京と改称され、同年九月八日(10月23日)には一世一元いっせいいちげんみことのりが発せられた。

 翌明治二年(1869年)、榎本武揚等が率いる幕府軍が函館五稜廓にて敗し、戊辰戦争が集結。名実共に徳川の治世は終焉し、新政府の時代が到来した――かに見えた。

 

『上方のぜいろく共がやって来て 東京などと江戸をなしけり 上からは明治だなどというけれど 治明おさまるめいと下からは読む』(改元に際して読まれた落首)


 新たな時代は、藩閥政治の始まりと同義であった。依って世に不満の火種が燻り、殊に武士階級時代の権益を失った士族は、数々の内乱を起こす事になる。

 明治七年(1874年)に佐賀の乱、同九年に神風連じんぷうれんの乱、秋月の乱、萩の乱、そして同十年(1877年)には西南戦争、福岡の乱――。

 その一方で、市井の片隅にも憤懣は脈々と息衝いきづき、首都の新名称を気に食わぬ者達は、維新から二十年近くも『東亰とうけい』との呼称を用いていたという。


 そして、ここにも自らの態度をささやかな形態かたちで示す者があった――。


              ◇


「芋焼酎が飲もごたんなぁ」

「東京ん酒は薄うて不味かっ」

「こんたもう水じゃ、酔くれんぞ」

 粗野な三人組が場末の居酒屋を陣取り、大声で笑い合っていた。

 やがてちろり・・・の酒をすっかり空にすると、男達は田楽味噌を適当に食い散らかして席を立った。酔えない、と管を巻いていた割には、揃いも揃って足元が覚束ない。

 三人共、軍服に身を包んでいる。その言葉使いから、近頃、我が物顔で市中を闊歩する薩摩人である事は誰の目にも明らかで、地場の客は露骨に嫌悪の視線を向けていた。

 男達が縄暖簾を潜り出たその刹那せつなである。黒い塊が疾風の如く傍らを擦り抜けた。

「あぁあっ?」

 声を上げた時にはもう風は小路の先へと走り去り、足音と共に宵闇の中へと溶けていた。

「何じゃ!?」

「失敬な奴じゃ」

「……あぁっ!」

「どげんしたぁ?」

おいにしきが無かっ!」

 男の一人が肩口をさすりながら懸命に周囲を見渡す。同輩も釣られて探し回るが、失せ物はようとして知れなかった。


 錦切きんぎり――官軍兵士がその肩口に附した錦切れを奪取する行為、並びにその行為に手を染める者をこう呼んだ。

 新政府に反感を持つ者の仕業である事は、想像に難くない。仕損じたが為に、その場で斬り倒された者もあったと言う。

 しかし、この夜の曲者くせもの韋駄天いだてんの如くであった。それは、町奉行所が引き渡されたあの日、百姓に組み付いた若い同心の身のこなしを彷彿とさせた。

 当時、うした悪足掻わるあがきがどれだけの件数あり、いつの頃に廃れたのか、それをつまびらかに出来る正確な資料は遺されていない。

 はっきりしているのは、市政裁判所の出仕者名簿に逢朽勇吾の名が見受けられぬ事だけである。

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孤軍戊辰戦争 そうざ @so-za

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