心が変わる時


 ルシルがその違和感に気付いたのは、出勤時のことだった。


(あれ……?)


 いつものように箒に乗って、空へと飛び出す。その過程で、箒の操作がうまく行かないことに気付いた。


「ルシル? どうしたの?」


 ココがぱたぱたと白い翼を羽ばたかせながら、先を飛んで行く。ココに先をこされているということが問題だった。箒のスピードを出すことができない。


「――タナト・フェロウ」


 ルシルはもう一度、呪文を唱える。

 しかし、箒のスピードは上がらない。




 ◇


 今朝のは、何だったのかしら……?

 ルシルは騎士団で仕事をしている間も、頭を悩ませていた。

 すると、昼休みの時間になって、


「ルシル。何か悩み事があるんだろう」


 レナードが確信を持った声で告げる。


 2人は昼食をとっている最中であった。最近は無人の会議室を借りて、昼食を共にするのが当たり前となっている。

 ルシルはレナードが差し入れてくれるお弁当に、毎日、舌鼓を打っていた。


 ちなみにこのお弁当、最近まではレナードがどこかで買って来ているものだと思っていた。彼の手作りと知った時は驚いたものだ。


 ――何でこの人、こんなに私好みの味を再現できるの?


 このお弁当の味を知ったら、もう市販品では満足できない。

 先日、レナードにそう伝えたら、「なら、俺と結婚するしかないな」と返されて、ルシルは沸騰寸前に赤面した。


 ――それはともかくして。


 いつもの昼食風景にて、レナードに悩みがあることを言い当てられてしまった。

 ルシルは目をぱちくりさせながら、レナードの方を見る。


「……あなたって、私が何も言わなくても、心を読んでくるわよね」

「ああ。いつも君を見ているからな」


 レナードは甘い眼差しと笑みをこちらへと向けてくる。

 その甘すぎる雰囲気に、


「ご……ごほ、ごほっ!」


 ルシルは危うく喉をつまらせるところだった。

 少し前のレナードとは別人のようだ。学生時代も優しい少年ではあったが、ここまで『好きオーラ』をぶつけてくることはなかった。

 しかし、今では誰が見ても。

 どんな鈍感者でも一発で察してしまうだろう。


 ――この男は、目の前にいる人が好きで好きで、仕方ないのだ、と。


(な、慣れない……! あんなに不愛想キングだったのに!!)


 そのギャップにルシルは参っていた。

 こうして2人きりで過ごしていても、人目があるところでも、レナードは常時この状態なので、最近は騎士団の人たちにも生温かい目で見守られている。


 前世のルシルは、悪女スタイルを貫いていた。『色気を振りまく悪女』としても有名だった。

 しかし、その実態は――悲しいことに、恋愛経験ゼロであった。

 あの余裕めいた態度も、色気を振りまく服装も、すべて周りを欺くための擬態である。そのため、レナードにこうして甘い態度を向けられるたびに、戸惑っていた。


 ――このままでは心臓が持ちそうにないので、もう少し控えてほしい。


 ルシルは咳払いすると、色めいた空気を変えるべく、話題を魔法に戻す。


「実はね……」


 今朝、箒の操作が上手くいかなかったことを説明した。

 すると、レナードは頷いて、


「なるほど。それは、呪文が合っていないんじゃないか」

「ああ……やっぱり、そうなのかな?」


 ルシルの固有呪文は、『タナト・フェロウ苦しんで死ね』。その殺意は、ザカイアへと向けたものである。

 しかし、今となっては……。


「……もう存在しない男に、これ以上、殺意を向けることはできないものね」


 ルシルの言葉に、レナードは真面目な顔で頷いた。


「俺としても、今のルシルの呪文は不本意だ」

「まあ、物騒な言葉だしね」

「それもあるが……。君の心を占めていたのが、別の男であるという事実が許せない」

「なっ……!?」


 わなわなと震えながら、ルシルは顔を真っ赤にする。


「よりによって、ザカイアにまで嫉妬する……!?」

「君はわかっていないみたいだな」


 レナードはあくまで真摯な瞳でこちらを見つめている。机の上にあったルシルの手に、掌を重ねてきた。

 ぎゅっと握られて、ルシルの心臓も、きゅっ、と跳ねる。


「魔法学校時代……俺がどれほど、あの男を憎んで、殺してやりたかったことか……。俺は彼から君を何としてでもとり戻したかった」

「言っとくけど、ザカイアとも、他の闇纏いとも、そんな関係になったことはいっさいないわよ!?」

「ああ。君がザカイアの手下になりながら、決して彼に心を許していなかったという事実は理解している。それでも……許せないと思う」


 話題がザカイアのこととなると、レナードの瞳には影が落ちる。彼は切なそうな面持ちで俯いた。


「……俺は狭量だな。8年前から……いや、それよりずっと前から、俺の心はいつだって君のことで占められている」


 そんな顔をされると、ルシルの胸は痛む。


 自分が不在の8年間――レナードにはどんな思いをさせてしまっていたのか。もし自分がレナードと同じ立場だったらと想像してみる。考えただけで、胸がつぶれそうになった。


 だから、今はまだレナードの甘い態度には慣れないけれど。


 少しでも同じ気持ちを返せるようにと。

 ルシルは掌を返すと、彼の手をぎゅっと握り返した。



 ◇


 昼食を終えて、2人は執務室へと戻ってきた。

 お互いのデスクへと別れる前に、ルシルはレナードと向かい合っていた。


「今日のお弁当も美味しかったわ。ありがとう」

「リクエストがあればいつでも聞く。それじゃあ、ルシル……また後で」


 レナードは甘い笑みを零して、ルシルの横髪を指でそっとすいた。その表情も、声も、手付きも優しさにあふれていて、ルシルはこそばゆく思った。

 しかし、レナードの目を見返して、はにかんで頷く。


 ルシルは自分のデスクへと向かった。すると、通路で先輩のアルヴィンとすれちがう。彼はカップを手にした姿勢で、固まっている。

 ルシルのことを唖然とした様子で見つめていた。


「……まるで別人だな。まさかここまで変わるとは……」

「本当ですね……。あんなに不愛想キングだった男が……」


 ルシルが同意を示すと、アルヴィンは複雑そうに目を細めた。


「いや。レナードもそうだが。俺が言っているのは、あんたのことも含まれる」

「え……!?」


 ぎょっとして、ルシルは彼を見上げる。


「ど……どのへんが……?」

「自覚がないとは、質が悪いな。あんたがレナードを見つめる視線……それにあんなに嬉しそうに笑っているところも、俺は初めて見た」


 アルヴィンは呆れた顔で、コーヒーをずずっとすする。そして、自分のデスクへと向かった。

 ルシルは愕然として、立ち尽くす。


(わ……私……そんなにわかりやすい顔してたの……?)


 そこでルシルは気付いた。


 呪文の変化――それは魔導士の心の変化を現している。


 元の呪文で効果が発揮できないのは、この世にザカイアが存在しないせいだと思っていた。

 しかし、それならルシルが転生した時点で、ザカイアは不在だったわけで……。

 もっと前からこの状態になっていないとおかしいのだ。


 それなのに、ルシルの呪文が変わりかけているのは、ここ最近の出来事だ。

 ルシルの心を占めるものが変化したということになる。


(わ……私って……それほど、リオのことを……!?)


 遅れて自覚が巡って、ルシルは湯気が立ちそうなほどに顔を赤く染めた。




 ◇



「――アニス・ヴロウ」


 ルシルがそう唱えると、ほうきが応えた。

 安定した飛行で上昇していく。

 スピードも想定した通りに出ている。


 ルシルの箒が問題なく飛べるのを見て、隣にいたレナードが頷いた。


「呪文は、元のものに戻ったみたいだな」

「……そうね」


 新しい呪文をどうしようかと考えた時、ルシルの胸に浮かんだのはこの言葉だった。


アニス・ヴロウ春の雨


 ルシルがザカイアの配下になる前に使っていた呪文だ。その言葉を胸の内で唱えた時、すっと自然に馴染んだ。


(やっぱり……私には、この呪文の方が合ってるのね)


 ルシルはそう思いながら、箒を飛ばす。

『ランドゥ・シティ』の街並みは、夜でもきらびやかだ。それとは対照的に、空の上は静寂に満ちていた。

 漆黒の夜空を、ルシルはレナードと並んで飛んで行く。


「ルシル。君のその呪文には、どういう意味がある?」


 レナードに聞かれて、ルシルはそちらを向いた。


「……そのままの意味よ」

「君が好きな……春と、雨?」

「それと……あなた」


 それを口にすることは恥ずかしかったけれど、ルシルはレナードの目を見つめながら言った。


「放課後、いつも一緒に図書館で勉強していたわね。1年生の春……外は雨ばかりだった。図書館の窓から見えた光景を……私はよく思い出すの」

「ルシル……」


 レナードの瞳が揺れる。わずかに潤んで……嬉しそうに細められた。

 彼の箒がぐっと寄ってくる。真横を並走しながら、レナードは片腕を伸ばしてきた。


 腰が抱かれたと思った直後――更に顔が近付いて。


 ルシルは息を呑んだ。


 ――キスされている。


 少し胸が震えるような気持ち。それを抱きながら、ルシルはそっと目を閉じて、そのキスに応えた。


 唇が離れると、レナードは静かに告げる。


「……メリス・ティア君を、思い続ける


 遅れて、ルシルの頬が真っ赤に染まった。

 彼の呪文の意味は知っている。それを耳にする度に、ルシルの胸は幸福感で満ちる。


 レナードと目を合わせて、ルシルは照れ笑いを浮かべた。





「――アニス・ヴロウあなたと見た、春の雨を忘れない







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ここまで読んでいただき、ありがとうございました!



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前世で悪女をしていた者ですが、 村沢黒音 @kurone629

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