ニワトリと世界の終わり

まもるンち

ニワトリと世界の終わり

 ニワトリの鳴く声が聞こえた。

 プールに下半身まで浸かっている夢を見て、目が覚めると窓が開きっぱなしで冷たい風が吹き込んでいた。

 おれは素っ裸で、シーツは上半身にしかかかっていなかった。それであんな怪態けったいな夢を見たんだな。

 部屋は薄暗い。ミホはまだ横で眠っていた。

 ミホも素っ裸だった。ミホの長い髪と枕元にはおれの体液の残滓が飛び散っていて、否応なく昨夜のやけっぱちなセックスが思い出された。

 枕元からマルボロを引き寄せた。一本咥える。ジッポで火を点けると、微かな灯りで枕に半分顔を埋めているミホの目が開いていることに気付いた。

「優しくないね」

「え」

「最近」

「誰が?」

「別に」

 おれは煙を大きく吸い込み、吐くどさくさに紛れてため息をついた。

 いや。わざとため息をついた方がよかったかな、この場合。おれはマルボロを咥えたままシャツとジーンズを身に着けた。

「起きるの」

「ん」

「食事は」

「わかんねえ。コウジとジュンイチに聞いてみる」

 おれはミホに一瞥も与えず、部屋を出た。

 一階には誰もいなかった。

 いつも通り、おれはリノリウムの床に散乱したキーホルダーやら携帯ストラップやらといったスーベニアの類を踏みつけながら外へ出た。

 家のすぐ前を通る国道を横断し、おれは海岸へ向かった。案の定、コウジとルリカがげらげら笑いながらハイテンションで吸引していた。月は出ていなかったが、星の光で異様なほど浜は明るかった。

 コウジとルリカの影は、星からの光だけでくっきりとコンクリートの堤防に浮き出ていた。

 ニワトリの鳴く声が聞こえた。

「コウジ」

「おっ。起きたかマサル」

「ああ。ジュンイチはどこ」

「ジュンイチなら――」コウジは焦点の定まらない目で、おれ達の住む海の家から五十メートルほど離れたもう一軒の海の家の方を見た。「青い家だよ」

「なんで青い家に」

「ジュンイチはぁ、ニワトリを捕まえに行きましたぁ!」

 呂律の回らない口でルリカが言った。

「え。なんで」

「さっきなんかキレてたぞ、ジュンイチ。わあわあわあああっって。叫んでた」

「だからなんで」

「缶詰とかポテチとかぁ、もう嫌なんだってぇ。新鮮なお肉が食べたいんだってぇ」

 おれは二人を無視して歩き出した。

「どこ行くんだ、マサル」

「決まってんだろ。ジュンイチを止める」

「無理だってもうジュンイチは。ああなっちゃ」

「何が無理だよ。死んじまうだろ」

「おれらだってもう限界じゃん。おれはもう限界よ。遅かれ早かれだろ。明日明後日には、おれもニワトリ殺して喰うよ」

「あたしもぉ。無理ぃ」

「おれは親子丼喰う。これは可能だろ」

「あたしはチキン南蛮食べるぅ」

「おいおいタルタルソースとか難易度高けぇぞ」

 二人は火が点いたようにげらげら笑いだした。他に音は聞こえなかった。

 おれは青い家の前に突っ立った。久しぶりに見るそいつはおれ達の住む家よりはだいぶ傷んでいた。

「ジュンイチ」

 呼んでみた。返事はない。

「マサルだ。入るぞ」

 腐食の進んだドアを開け、おれは一歩家に踏み込んだ。

 一羽のニワトリが、胴を引き裂かれて死んでいた。

 腿が二本ともなかった。そいつは多分、もうジュンイチの胃の中でどろどろに溶けている。おれはジュンイチを探すのを諦めて外へ出た。

 ニワトリの鳴く声が聞こえた。

 青い家を出て砂浜を少し歩き、乾いた砂の上に腰を降ろした。

 マルボロに火を点け、吸う。根本の辺りまで灰になった頃、ミホが来た。

 ミホは黒く長いワンピースを着ていて、上に紫色のパーカーを着ていた。ミホは無言でおれに缶ビールを差し出した。

 おれ達は並んで砂浜に腰を降ろし、遠くの水平線を見た。

「さっきコウジがね――」ミホはビールを一口飲んでのどを湿らせた。「明日は親子丼食べるって言ってたよ。ニワトリと卵だけは豊富だから、これはもう親子丼しかないでしょ、とか言ってた」

「知ってる。明日、マジで食べる気なら止める」

「止めても無駄じゃないの」

「おまえもあいつらみたいなこと言うのな」

「だってそうじゃん」

 ミホはおれのマルボロを指さして一本ちょうだい、と言った。おれはマルボロを咥え、ジッポで火を点けてから、ミホに咥えさせた。

「あれれ。優しいじゃん」

「ごめん」

「何が」

「さっき。ベッドで」

「いいよ、もう」

 ミホは左腕の袖をひじの上までまくった。

 ぽつぽつと、オリオン座のベルトのように三つ並んで、特徴的な発疹が出ていた。

「……なんで、おまえにまで」

「知らない」

「免疫あったって言ったろ」

「だから知らないって」

「おまえ、確かにガキの時に注射したって――」

「知らないっつってんじゃんっ」ミホは吐き捨てるように言った。「あたしは被害者なんだよ。確かに子どもの頃に予防接種はしてるよ。あんたたちとおんなじやつをね。そのはずだったから……大丈夫だと思ってたけど」

 ミホは小刻みに煙を吸い、小刻みに吐き出した。煙は強い風にぶつかり、あっという間に消えた。

「いつから出てきたんだ、それ」

「んーと……二日くらい前じゃない。覚えてないけど」

 いつの間にかジュンイチが砂浜にいた。おれとミホから二十メートルくらい離れたところに。長い木の棒を使って、砂浜に巨大な絵を描いているようだ。

「だからか」

「何が?」

「昨夜のセックス」

「……感染させるため、ってことを言ってるのかな」

「違う」

「顔射のこと?」

「そう」

「……さあ。どうだろ。そんなこと聞かないでよね、女のコに」

 おれは立ち上がってジュンイチを見た。

 ジュンイチはげらげら笑っていた。コウジとルリカもジュンイチのそばで、同じように笑っていた。ジュンイチは、直径十メートルくらいのばかでかい女陰の絵を砂浜に描いていた。

「何描いてんだよ、あいつ」

 ミホも立ち上がった。

「あはは。ジュンイチっぽい」

「どうせなら救助信号でも書けっつーの。SOSとか」

「そんなもん書いて、一体誰が見て、誰が助けに来てくれるよ?」

「……宇宙人」

「え」

「何でもねえ」

 どうせなら宇宙人への救難信号を書けばいい。あんな下品な絵を描くくらいなら。

 いや、救難信号じゃなく。

 ダイイングメッセージか。

 それとも遺書か。

 この星の人間を含めるあらゆる生物は、一羽のニワトリから発生したインフルエンザでほぼ絶滅状態です。たった一羽の、ほんのちっぽけなニワトリに、この星のすべての生物は滅ぼされようとしています。

 知り得る限り現在、この極東の島国に住む私達五人だけがこの星の生存者です。

 私達五人は、縁もゆかりもありません。ガキの頃にバカな医者のマヌケな医療ミスで打たれた妙な注射のせいで、どうやら生き延びているようです。

 しかしその注射でも、わずかに寿命が延びただけだったようです。今日、私達のうち一人の腕に発疹が出ました。じきに私達も死ぬでしょう。

 この後しばらくはこの星の覇権を握るのはニワトリです。ニワトリとは、白い体に赤いトサカを持つ鳥のことです。こいつらだけはそこらじゅうにいます。何万羽も。我がもの顔で。

 ですがそれも時間の問題でしょう。近い将来、ここは死の星になります。そうなったらこの星の資源はご自由にお使い下さい。

 私達は絶滅します。ただの流感で。

 202X年5月15日、地球人代表オウミジュンイチ。そう書けばいい。そう書けばいいだけだ。

 すすり泣く声が聞こえた。

 ミホだった。何か言っているようだったが、語尾が風で掻き消えて判別できなかった。

 笑い声が聞こえた。

 ジュンイチとコウジとルリカだ。

 ニワトリの鳴く声が聞こえた。

 ニワトリの鳴く声だけが。


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