第2話 目が覚める朝

結局翌日、俺は昼過ぎに目を覚ました。空気を循環させている、天井につけられた大きな羽根が真っ先に目に入る。どう見たって俺の部屋ではない。昨晩の残った酒でぼんやりとする頭をまわして、ここはどこだっけと考える。そうだ、そういえば俺は。


「目が覚めたか?おはよう、リュー」


その声にはっと体を起こすと、キッチンカウンターの向こうに秀一が立っていた。シャワーを浴びたのか、濡れた髪がぺたりと額に張り付いている。タオルを首にかけて、手には何かの瓶を持っていた。昨日見たから覚えている、多分ビールの瓶。言われていたように、この国のビールはとても美味しかった。喉越しもよく爽やかで、後味に苦味が残らない。ごくごく飲めてしまう。そして何より安かったのだけれど、それで泥酔していてはなんとも言えない。


「おはよう………朝からビール?」

キッチンの窓から漏れる日差しで、秀一の髪がきらきら光っていた。朝の光の中で、南の国のビールを細い喉を鳴らしてあおる。どう考えても不健康なその画が、彼にはよく似合っていた。


「休みだからいいんだ。こんな島には検問もないしな。お前も飲むか?ああ、その前にシャワーでも浴びるか?」

「ビールはいい、まだちょっと頭痛いし、水が欲しいかな…。シャワーは借りたい、いい?」

「いいに決まってる!着替えたらすぐ出かけるぞ。びっくりするほど美味い飯屋に行って、その後いいところに行くから、心の準備をしておけ。」


そう言われてシャワーを浴びて着替えた俺は、昨日のボロバイクに乗せられた。玄関から一歩踏み出すのが怖くないと感じる自分に驚く。日本にいる時はあんなに怖くて、カーテンを開けることも出来なくなっていたのに。秀一と一緒だからか、それともこの島の空気が疲れた人間を優しく包んでいるから?おんぼろのバイクは風を切って進んでいく。凸凹の激しい道で振り落とされないよう、車体を足でぎゅうと挟み、秀一の服を握り締めた。服が伸びるだろー!と秀一が笑う。この変な一体感は何なのだろう。この島の空気に混じる諦めを噛み締めるような2人だった。ずっと前から知っていた気もするし、今だからこそ分かりあえたのかもしれない気もした。


「リュー、着いたぞ!」


バイクがキュキュ、とおおよそ安全ではない音を立てて停まる。やっぱりヘルメットが欲しい、少なくとも俺の恐怖心は慰められるだろう。そんな風に考えながら、ふう、と一息ついて辺りを見渡す。街のはずれで、もう目の前は熱帯の植物が茂っている。少し高台にあるのか、ミニチュアのおもちゃのような平屋が続く町並みが遠くの方まで見渡せた。水平線が、空と海が交じる境界線が、はっきりとそこにある。


「いい景色だろ?なかなか。ここには観光客なんか中々来ないし、地元のやつがこの飯屋に食べに来るくらいで、割と静かなんだ、いつも。」

「秀一はいつも来るんだ?」

「この島に来た時から通ってるよ。」


しっかりした煉瓦造りの小さな家の横に、広い掘立て小屋のようなものが建ててあった。大きなテーブルが四つ並べられていて、端の方に調味料の瓶が立っている。どうやらここがその飯屋のようで、奥の方からは日本にはない香辛料の、でも食欲を刺激するいい香りがしていた。右端のテーブルでは、鶏ガラみたいなおじいちゃんが肉の塊が乗ったご飯をかきこんでいる。


「お前は座っててくれ、どこでもいい。ちょっと待ってろ…Matia!」


俺を先に座らせて、奥の方へ秀一が声をかける。すると一通りがちゃがちゃとした音が聞こえて、ひとりの女性がにこにことして出てきた。艶やかな黒い髪に、大きな体。ピンクのTシャツはぱつぱつにはちきれて、紺色のエプロンは酷く汚れている。ふくふくとした頬は赤く、生きている!という感じがした。南国の女性、そのままのイメージ。黒い瞳は大きく生気に満ちて、その中に俺と秀一を映した。


「good morning,Linzhy.Today you are late…Wow!Good to meet you……日本語がいい?」

「そうしてくれると嬉しい。リュー、彼女はマチア。マチアの父親は日本人なんだ、だから少し日本語が話せるが…最近は忘れかけてる。英語の方が得意なんだ、若い時は本土で外国人相手の仕事をしてたから」

「リンジー、おおきなお世話。……ね、はじめまして、リュー。わたしマチア。」


彼女…マチアはそう言って俺に手を差し出す。大きく柔らかそうな手の、その手のひらは固くなっていて、きっと重い鍋を持つせいだなと気がついた。俺は彼女の手を握り返す。温かくて力強い。


「あなたとてもかっこいいわ、リュー。リンジーは可愛いだけ。ねぇリュー、ここでは、ゆっくり過ごしてね。この子も寂しくなくていい。」


マチアは俺の目をしっかり見据えて、にっこりと笑った。濃い色をした南の花をついうっとりみてしまうのと同じように、陽の中でとろけてみえる彼女の笑顔を俺はぼうっとみてしまう。


「これだから女は!ちょっと顔がよければ直ぐ優しくなる…いつもはもっと意地悪なんだぜ、マチアは。」


呆れたように秀一が言った。けれど親愛の情が言葉の端々に滲んでいて、俺は優しい気持ちになる。秀一を知りたいよと、そう言った俺に応えて、ここに連れてきてくれたに違いなかった。活き活きとした顔の彼を見て、やっぱり昨日、言うべき事をちゃんと言えて良かった、と思う。


「わたしいつも優しいわ。リンジーにだけ、優しくない。リンジー、今日仕事する?」

「いや、しない。こいつを海に連れてくことだけが、今日の俺のミッション。」

「それなら、早く行きたいでしょ。話、今してる時ちがうよ。今度ゆっくりしよう。ご飯何食べる?食べていくよね。」

「ああうん、どうせ明日もまた来るし…。リューお前、食べられないものは?」

「特にはない、かな。」


どかっと俺の前に腰を下ろした秀一に問われ、そう答えると、マチアが「それはいいことね。」と笑った。


マチアが出してくれたのは、白いご飯の上に何かのソースと香辛料で炒めた肉と葉野菜をのせたもので、それを俺と秀一はばくばく食べた。口に入れた瞬間、甘辛い肉汁がじわっと体に染み込むようなそれを、噛み締めて味わった。そういえばまともに食事の味が分かるのは久しぶりで、腹の奥も目の奥もじわじわ熱くなっていく。おいしい、と口にした瞬間、不意に、追い詰められる日々は終わったんだ、と強く思った。ご飯を美味しく食べてもいいんだ。多分緊張から解放されたのだと思う。南の島の空気も朝の湿り気も、何もかもとそのご飯は合っていて、本当に気候に合ったご飯を食べるとこんなにも体に染み込んで、人がみんな柔らかに笑う場所で食べると、こんなにも美味しいんだ、と思うともう駄目で、俺は馬鹿みたいに口にご飯を運びながらぼろぼろ泣いてしまった。おいしい、と惚けたようにそれだけを繰り返して大粒の涙を零す俺に、秀一とマチアはちり紙を差し出して、そんなに泣くなよとげらげら笑った。ここでは何もかも健全だった。


また来るのよ、とマチアに手を振られて俺達が店を出る頃には、日差しの下に置きっぱなしだったバイクが熱を持っていた。あち、あち、といいながら二人でそれに乗って走り出すと、島の空気がびゅんびゅんと熱い頬をなでて過ぎ去っていく。慰められているのと似ているけれど、もっと粗雑で不変的ななにかだった。目の前の、秀一の汗ばんだ小さな背中だけを頼りに、生と死のあわいにある原始的な力を、俺はじっと感じている。どこにでもそれはあるけれど見つけにくくて、けれどこの島ではそれをどこでだって見つけられた。死んだものではなく、生きているものを慰めてそして見守るまなざしがこの場所にあるような気がした。


「お前、泣き虫だなあ!まだ泣いてるのか」

「もう泣いてない!」


ハンドルを握る秀一が振り返らず俺に言った。からかう様な声に、大きな声で否定すると、げらげら笑う秀一の肩が揺れる。そうこうしているうちに、再び俺たちは街の中まで戻っていた。


「おし、このまま今日はショップに行って潜るからな。楽しみにしとけよ。」

「ちょっと待って秀一、俺ライセンス何も持ってないよ、」

「I know、大丈夫だ、なにもいきなり海の底に行けってんじゃない。ここの海はビギナーでも充分楽しめる。まあ滞在の間にライセンスを取るのも一つの手だけどな、かなりおすすめだ。もしそうするなら、俺が教えてやるよ。」

「…今日潜って決めるよ、」

「それがいい!楽しみだなぁ…。なあリュー。何かをなくしたら、代わりの何かで埋めないと駄目なんだ、多分。空っぽのままで、人は生きていけないからな。新しいことをやるといい、なんでも。」


その言葉は何度も繰り返されて、擦り切れたような雰囲気を持って響いた。秀一、それはちょっと違うんじゃないか、俺はそう言いたかった。新しいことをやることは賛成だけれど、代わりの何かなんてないよ、と俺は思う。それはあんまりさみしいし、なによりそんな無理はきっと後でどこかに歪を生むだろう、そう思わずにいられなかった。でも何も言えなかった。言うべきではないと思った、どうしてか。



「リューは魚好きか?何が見たい?」


押し黙った俺に、何を思ったか秀一はそっと声をかけた。父のことを思い出させてしまったかな、と心配しているのだろう。急な話の転換にちょっと苦笑する。魚。さかな。好きな魚。ぼんやりと頭の中で魚を思い描いて、俺は口を開く。


「…マグロかな。美味しいし。」


秀一はその答えに、バイクが横転するんじゃないかと思うほど大笑いした。


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わだつみは花 具屋 @pantsumusya

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