わだつみは花
具屋
第1話 出逢う
俺は楽しそうな物が嫌いな卑屈者だ。クラスの文化祭に体育祭。クラブや気持ちイイ薬、スキーにスノボ。マリンスポーツなんてもっての外。そんなことをしている奴も好きじゃない。だって分かり合える気がしないのだ。日本のじっとりとした文学世界で1人でニヤニヤ笑って気持ち悪がられていたらそれでいい。
丸窓から見る椛、小雨の中の紫陽花や闇の中で蝋燭の光を映す漆器なんかを愛でていたい。しかしそうはいかなかった。人生とはかくなるものや?花に嵐の喩えもあるぞ、だ。俺はそのすべてを捨てて、今、海の上にいた。
ボロボロの渡し船。エンジンはぼぼぼと音を響かせ、屋根の空いた穴からは光がぽつぽつと甲板に落ち、塗装は禿げて所々赤く錆びた肌を覗かせている。欠けた部分で体を傷つけるのが怖く、上手く船体に掴めなかった俺はひどく船酔いしていた。誰だって破傷風は怖い。
アジアのリゾートとして人気になりだした島、と言ってもまだまだ未開発な場所へと向かう船だった。どうしてか俺はそれに乗っている。海は美しいエメラルドグリーンなんて聞かされていたが、これは一体なんだ。
やけにくすんだ太陽の光、馬鹿になったような褪せた色の海。からりとした空気は快適ではあったけれど、高温多湿の国の生まれの俺を妙に気持ち悪くさせた。船頭がこの国の言葉で俺になにか話しかけてくるが、英語でもなければわかるはずもない。口を噤む俺を、ひどく日焼けをしたその男はわからんのかとでも言いたげに歯を見せて笑った。
代わり映えもない景色をそのまま数分見続ければ水平線の向こうに船着場が見えた。あの男はもうすぐ着くぞと伝えたかったのか?伝わらないのではなんの意味もないのだが。島の船着場、と言っても簡易な桟橋だ。ゆっくりと船頭は縄を持って桟橋に舟を近付けてゆく。確か迎えが来ているはずだ。俺はズキズキと痛む頭を持ち上げて、桟橋を見上げると、人影が俺の顔に落ちる。諦めを匂わせる太陽を背に、その男は立っていた。
「Hey! Chan,He is my brother?」
低く朗々とした声だ。極めて色素の薄い髪は空に透けて光っている。健康的な色の肌、子供のような華奢な手足。船頭の投げたロープを掴んで、慣れた手つきで木製のビットに括りつける。
「you have never seen him? Linzhy.」
「Yes! We are amusing,……お前がリュー?」
あの船頭、英語話せたのか。それもそうか、観光客相手の仕事だもんな、じゃあなんで俺には国の言葉で話したんだ。そういった事を考えていると、不意に声をかけられた。声の主は腰に手を当てて、不遜な笑顔で子供のような顔を歪ませている。
「…そうだけど。」
「初めましてだな、兄弟!無事に着いて良かったよ。チャンの運転は荒いから、海に落ちちまってんじゃねぇかって心配した。…ほら、上がってこい坊っちゃん」
細い腕をこちらに伸ばした彼と、正面から目が合う。ヘイゼルナッツのような薄い色の虹彩だ。不意に目を奪われた瞬間、彼が言う。
「アジア人にしては変わった色の目だな、リュー。お前の親父の色か?」
「…そうだよ。少し青がかってるんだ、おおよそ日本人らしくはないけど。東北の方にたまに生まれるんだ…」
よっ、と見た目に反した強い力で桟橋に引き上げられる。俺が乗ると木製の桟橋はギシギシと音を立てて軋んだ。
「そうか、良い色だな。大事にするといい、青は海の色だ、広い心の持ち主ってな。……そうだ。この度はご愁傷さま、だったか?日本語を使うのは久々だ、言い方を間違えてしまったらすまん。」
「いや、あってるよ、大丈夫……秀一。」
「その名前で呼ばれるのは久しぶりだ。この島の奴らにはリンジー、なんて呼ばれてっから」
「リンジー?」
「ライチ、という意味だ。オレが初めてこの島に来た時、ライチが大量に入った袋を船の中でぶちまけちまった。おまけにすっ転んで…まあそれが大ウケでよ、それ以来ライチ、リンジーって呼ばれてる。…まあ、なんて呼んでくれてもいいぜ」
初対面の男…いや、初対面の異父兄弟に会ってする話がライチの話。もっと聞くことや言うことがあるはずだろ、いつものペースはいとも簡単に乱されていく。
「Linzhy,I gatta go.」
俺たちの会話を眺めていた船頭…チャンという男が言った。分かった、またな、と秀一が手を振ると、彼はロープを外した揺れる船に飛び乗る。手早くエンジンが掛けられると、船は桟橋から遠ざかっていった。船は水平線の向こうに薄ら見える本土の方へと戻るのだろう。黒い煙を吐くそれを二人で見送ると、秀一はさてと、と俺の方を見て言った。
「改めて。初めまして、竜一。オレは守屋秀一、歳は26。お前の種違いの兄貴だ。親父さんのことはご愁傷さまだったな。大変だったろ、人生の夏休みだと思ってゆっくりしてってくれ。仲良くやろう」
そう言ってかれは、手を差し出す。薄い掌をながめ、二回目だとぼんやり思いながら、俺はその手を握り返し口を開いた。元から人付き合いは苦手で、自分のことを簡潔に紹介することにも慣れていない。縺れそうになる舌が情けなかった。
「…紀之上竜一。歳は22、今は無職。」
「知ってるよ、…仕事なんざ、焦らなくていいんだぜ。親が死んだってのに数日で働き出す日本人はクレイジーだ。さあ、こんな所で立ち話もなんだな!街中まで割と距離がある、お前バイクに乗ったことは?」
「ない…免許もない」
「温室育ちってやつか?まあ大丈夫だ、何にでも人は慣れる」
何にでも人は慣れる、と言った秀一の瞳は一瞬眩しそうにすがめられ、けれどすぐに元の表情に戻った。ついて来い、と手招きされるまま彼のあとを追う。桟橋の先の港には、閑散としてはいるが駐車場やチケット売り場があり、道の先にはコンビニも見える。観光地化しているだけあって、自分の思っていた以上のライフラインはあるようだ。ただ、不自然に歪むアスファルトの道や、店の前に飛んでいる羽虫、トラックの荷台に乗る島人を見るとやはりここは日本ではないのだ、と気が滅入った。
秀一は停まっていた一台の錆びかけたバイクに近づくと、ポケットから取り出した鍵を差し込む。エンジンをかけるとおおよそ手入れをしていないのか酷い音がした。
「うーむ、そろそろ修理にださねぇとならんかもしれんな。ま、爆発したりはしないから。乗れよリュー、うちまで直ぐだ」
秀一がバイクに跨って、後ろの空いたスペースを示して俺にいう。まさか爆発するとは俺も思っていないが、せめてヘルメットはないのだろうか。もし事故が起きて生身で叩きつけられたら一貫の終わりだ。それともこんな田舎では皆被らないのが普通なのだろうか。
俺がそわそわと躊躇っていると、秀一は少し首を傾げた。そして、ああ、と納得したように言うとにこりと笑ってこう告げたのだ。
「警戒しすぎだぞ、リュー。確かにオレはゲイだけど、いちいちタンデムするくらいのスキンシップで興奮なんかしねぇ。オレだって人を選ぶ。それ位は信用してくれ」
「……は?」
「なんだ?それを気にしたんじゃないのか」
唐突に飛び出した言葉に俺は呆気に取られた。秀一と言えば変わったことなど言っていないと言ったような顔をして俺を見ている。ゲイ、なんて、普通に生きてれば会うこともない人種だ。どう対応すればいいのかちっとも分からない。
「…いや、ヘルメット付けないのかと、」
「ああ、お前が欲しいなら買うか。今後もこいつにはお世話になるだろうからな」
「えっ、いや」
「……なんだ。母さんから聞いてなかったのか!」
俺の狼狽え様を不思議そうに見ていた彼が、ああ!と合点がいったように目を見開いた。
「…っあははは、可哀想に!そうそう、オレはゲイなんだ。でもま、お前を追っかけ回してたマスコミなんかよりはずっと良い子だぜ。…なあリューイチ、ここまで来ちまったんだ、腹くくってついてこいよ」
「いや、その別に、警戒はしてない…から」
嘘だ。ゲイという単語を聞いた瞬間、顔が強ばったのもばれてしまっているだろう。嫌悪感の前に、戸惑いが一瞬で表に出た。人には親切に、そんなありふれた倫理観で建前上そう言っただけにすぎない俺を見透かして彼は笑っている。今まで一度も見たことがないような、不思議な笑顔だ。彼の息が苦しくなるようなその笑顔は、俺の首をくっと締めた気がした。
「そうか?ならいい。そんなことより、そろそろうちのオーナーが戻ってくる時間だ。お前の歓迎会をしてくれるらしいから、今晩は飲むぞ。覚悟してろよ、この国のビールは安くてうまい」
「オーナーって、ショップの?」
「それ以外に誰がいる?まあ安心してくれ、日本人向けのダイビングショップなんだ、オーナーは日本人だし、スタッフも英語が話せる。お前が滞在する部屋もショップの敷地内だ。俺も同じ建物内で生活してる、不自由することは無いだろうよ」
彼の笑顔には引力がある、と身が切れるような切実さで感じた。未知へのものの恐れと、その引力が胸のうちで反発していて、その衝撃は胸にわだかまっていた、「日本から逃げた」という惨めな気持ちと、彼に会うのを恐れていた少し前の自分をかき消してしまったようだった。気分が晴れたとまでは言わないが、不自然なほど不安は消えている。彼が兄弟だからそう感じるのだろうか?分からないことだらけだ。俺は荷物を背負い直すと、今度こそ促されるまま壊れかけたバイクに跨った。
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