曖昧なリフレイン
「れん!」
——ふと、未來に名前を呼ばれたような気がしたのか、いつか呼ばれたことを思い出したのか。明瞭ではない声。頭の中には聞こえてくるのに、聞き取ろうと掴み取ろうとするとたちまちどんなものだったか分からなくなって、雲散霧消してしまう声。とにかく、それが聞こえた。
「……れ、ん、れんと。」
そう、未來はたしかに俺のことをこのトーンで呼んでいた。かつての君の口から出された愛おしいたったさん文字ぶんの旋律を大切になぞる。特別変わった音程でも響きでもないのに、まるで彼にそう呼んでもらうためだけに存在するかのような、ただ三つの音と文字の組み合わせ。君の声がもう聞こえなくなっても、せめて、君の声がたしかに綴っていたこれだけはまだ、消えてしまわないように。祈りの行為みたいに、ゆっくりと口に馴染ませた。
人は、人のことを声から忘れていくのだっただろうか? どこかで、そんなことを見かけたのを思い出す。成程。たしかにそれは間違っていないようだ。俺の頭の中を占めている君の存在の居場所は、たぶん六畳一間なんかじゃ足りないくらいでどれだけ時間が経ったって消えてくれないのに、君のことを記録したフィルムの部分は、存在の大きさとは反比例にどんどんと掠れていっているみたいだった。そして現に、もうフィルムから君の声はすっぽりと抜け落ちてしまっていた。思い出せる音は——いや、その言い方は正しくない。フィルムに再現できるような音は、どんなふうだったっていい、喧騒だったり設定されたパターンをただ繰り返すだけの機械の音、例えば、ほら、君を見送る時に流れていたあの日比谷線の出発を告げるメロディーだとか、太古から変わらないだろう木の葉同士の掠れ合う音だったり、その間を抜けていく風が耳元を掠めていく音だったりとか、もうそんなものしか残っていなかった。
それでも、肝心の声はわからないのに、君の喋り方はどうだったかなんていうのは忘れないから不思議なのだ。君の話すのが好きだったからだろうか。慎重に言葉を選んで、君の愛おしいところがたくさん詰まった君の脳みその部分からそれが口に到達するまでは、よくほんの時間を要していた。君の感性はいつだってやさしさの感度をなにかの間違いかのように高くチューニングされたようになっていて、だから言葉だって心地の良いやわらかさを孕んでいた。そんな言葉を待っている間は、いつも愛おしくて、受け取るための心をときめかせていたっけ。
君にまつわる散文詩 篠生五日 @shinousomeday
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