彼女の赤い頬
1
目が覚めると、浩一君がいなかった。
布団にぽっかり空いた空間を、私は重たい瞼の間から眺めた。その光景だけで、彼が先に起きたのではなく家から出て行ったのだとすぐに分かった。覚悟も予想もしていたからか、悲しいとかショックだとか、そういった思いも湧かず、ただじっと布団を眺めていた。
コインランドリーで24歳の中川君に会った日から、分かっていたことだった。
18歳の時、人を殺した。
高校の同級生だった石清水雪乃。石清水雪乃の家から歩いて数分の場所に林があることを知り、殺害場所はそこに決めた。一応木製ベンチなども置かれ、公園的な役割を持った場所らしいが、放課後の小学生か早朝に犬の散歩をする人くらいしか居ない。夕飯時を過ぎれば林周辺の道路を通る人すら僅かだった。そのことも事前に調べていた。
決行日をハロウィンの夜にしたのは、血が目立たない黒い服で全身を包んでいてもハロウィンの仮装を装えば不審に思われにくいと考えたからだった。フリルの付いた黒いワンピースに黒いタイツを履き、黒い靴を履いた。黒猫だとか魔女だとか、何でもいいがそういうものに見えれば良い。
21時前頃だったか、石清水雪乃を林へ呼び出し、この日のために買ったナイフで彼女を刺した。
殺害後は濡らしたタオルで自分の手や足元を拭った。付着しているかもしれない彼女の返り血を拭き取るためだ。タオルもそのためだけに新しい物を用意し、後日、殺害時に使った手袋等と一緒に燃やして捨てた。
予め計画し、当日も落ち着いていた。林を出てからも私は堂々と歩いた。殺害場所から早く立ち去るために変に走ったりしては、通りすがりの誰かが私を見た時に印象に残ってしまうかもしれない。何も後ろめたいことは無い、ハロウィンの仮装を楽しんだ帰り道ですという顔をして歩いた。
完璧にやり遂げたと思っていた。しかし、私も人間だったのだ。
少し歩いたところで、中学生くらいの男の子が前方から歩いてくるのが見えた。塾帰りなのか制服姿だった。やや緊張したが、平静を装って私は歩き続けた。少年と私の距離が徐々に縮まる。そして、すれ違う瞬間。車が1台近づき、ヘッドライトが眩しく光った。
少年は目を見開き、驚愕の表情で私をじっと見た。すれ違う私を遠慮もせず目で追いかけた。
冷や汗が噴き出た。少年が遠く離れると、私はすぐに、鞄に入れていたコンパクトミラーと携帯のライト機能で彼が見たものを確かめた。私の頬と手首に赤い血が付いていた。返り血は濡れタオルで拭ったはずだったが、やはり焦っていたことと、手や足ばかりに気を取られ顔にまで意識が向かなかったこと、街灯が少なく暗かったことで、血が付いていることに気付かなかったのだ。私は、まだ鞄に入っていた濡れタオルですぐに血を拭き取った。
石清水雪乃は翌朝発見された。最期に会ったのが私だと知られたら、「確かに会う予定だったし林へ行って彼女を待っていたが来なかった」とか言うつもりだったが、石清水雪乃は「ちょっとそこまで」程度のことしか告げずに家を出てきたらしい。私は疑われず、犯人は見つからないまま、事件はうやむやに埋もれていった。大丈夫。大丈夫。このままなら。
しかし、人を殺した事実は、想像していた以上に精神を蝕む重い枷となった。あの夜すれ違った少年のことを思い出しては、不安で不安でたまらなくなった。あの驚愕の表情。きっと私の姿は強烈に印象に残ったに違いない。もし彼が殺人事件と私を結び付けたら…私を疑い、誰かにそのことを話してしまったら…
不安に駆られ、潰れそうになる度、私は少年に会いに行った。
最初は事件の2日後くらいだった。
事件の日、少年とすれ違った時は21時を過ぎていた。その時間帯を考えるとおそらく帰宅途中だったのだろう。平日で、彼は制服姿だった。このことから、イレギュラーなお出かけではなく習慣的な外出だった可能性が高い。であれば、同じ時間帯に同じ場所を通るかもしれない。そう考えた私は再び林の周辺まで行き、少年が通りかかるのを待った。犯人は現場に戻る、と何かの刑事ドラマで聞いたことがある。自分も同じことをしてしまうのは不服だったが、目論見通りあの少年を見つけることができた。人の顔を覚えるのは得意な方だ。
少年は私の顔を見ても特に興味を示さなかった。もしかしたら認識すらしていないかもしれない数多の通行人の一人という反応だった。
彼が私の顔を覚えていないと分かると安心できた。けれど、しばらく時間が経つとまた不安に襲われる。運も味方して彼の名前が判明していたことは、大いに役立った。
事件から2、3年が経った時、私はまた彼に会いに行った。
インターネットで彼の名前を検索すると、SNSアカウントの情報が幾つか出てきた。同姓同名の人間などこの世に沢山居るのだから期待していなかったが、あるアカウントで投稿された写真の中に彼らしき人を見つけた。成長して多少顔つきは変わっていたが、少年の面影は残っていた。
しばらく投稿を見ていると、ある日、通っている高校の文化祭を宣伝するものが投稿された。学校名はその投稿にも書かれていたが、ご丁寧にもアカウントのプロフィール欄に記載されていたので既に知っていた。中学生の時のように学校周辺で待ち伏せするのも良いが、あの時はラッキーで彼を見つけられたのだ。それをまた期待するよりも文化祭期間中に堂々と校内に入り、彼が所属する団体の出し物を見に行った方が彼に会える可能性が高い。この機会を利用しない手は無かった。
期待した通り、クラスで企画したらしいたこ焼きの屋台で、中川浩一君を見つけた。
店番をしていた彼にたこ焼き1パックを注文し、彼から商品を受け取った。コンビニやスーパーでは意識して店員さんと目を合わせようとはしないが、この時は積極的に彼の目を見て反応を窺った。
中川君は私と目が合うなり、ぴたりと動きを止めた。
え……?
じっと私の顔を見つめてくる彼の表情を観察しながら、内心動揺し、ひどく焦った。まさか、私の顔に見覚えがあると思っているのだろうか。何か違和感のようなものを感じているのだろうか。
時間にして1秒にも満たない僅かな間だったのかもしれない。恐ろしい見つめ合いの末、彼は、照れたようにはにかんで「ありがとうございました」と呟いた。
屋台を離れて行く私の姿を、中川君は遠くから目で追っていた。ちらちらと遠慮がちに視線を投げては、慌てて目を伏せた。
目が合った瞬間の彼の表情の変化。子犬のような瞳に瞬く光を思い出す。あぁ、そうか、もしかして彼は。
見惚れてたのか、私に。肩から力が抜け、どっと疲労感が押し寄せた。
2
大学時代から一人暮らしを始めていたが、就職を機に都内へ引っ越したことで物理的にも精神的にも私は事件から離れることができた。慣れない社会人生活に追われ、毎日仕事の悩みで頭がいっぱいだったこともあり、事件を思い出すことが無かった。
しかし、不安の波は完全に消えたわけではなかったらしい。入社から数年経ち仕事や社会人生活への余裕が出てきた頃、私はまた事件のことを考えるようになった。
中川君のSNSアカウントを探すと、高校生の時と同じものが残っていた。いつの間にか彼も大人になり、プロフィール欄には何も書かれていなかった。投稿頻度は少なくなったが今でもアカウントは利用しているようで、撮影した風景写真と日記のような短い文章が時々投稿されていた。そんな少ない情報では、彼が今どこで何をしているのかを知るのは難しかった。私はあまり期待せず、それでも時々彼の投稿を見た。
ある時、キャンプ場らしき場所の写真が投稿された。
『職場の同期に誘われてキャンプ。電車乗り間違えて遅刻した。』
写真と共に載せられた文章は相変わらずシンプルだったが、その投稿には他の人からのコメントが付いていた。一般人の投稿にコメントが付くことはあまり無いため自然と目が吸い寄せられた。
『乗り換え下手すぎる笑 次は××まで迎えに行くわ』
おそらく一緒にキャンプに行った知人からのものだろう。そこまで迎えに行く、と駅名が指定されていた。彼の最寄り駅だろうか。僅かではあるが手がかりが出現し、私は驚きと興奮で何度もその駅名を目に焼き付けた。
それからふと思いついて、彼の過去の投稿を遡って見た。もしかしたら他にも居場所が分かる手がかりがあるかもしれない。
そして見つけたのが、コインランドリーで撮ったものらしい写真だった。多少お洒落に撮られているが、大型洗濯機の丸い窓が複数並んでいるところを見るにコインランドリーだろう。投稿時期は梅雨時。
『雨ばっかで常連になってる。』
私はさっき知った駅名に「コインランドリー」のワードを加えてインターネット検索を試みた。駅周辺にあるコインランドリーの情報が画像付きで幾つか弾き出される。仮に彼の最寄り駅がコメントにある通りだったとして駅の近くのコインランドリーを利用しているとは限らない。駄目で元元の賭けだった。
店の画像情報をテンポ良く見ていく。違う。ここも違う。ここでもない――
そして、私は見つけた。見つけたのだ。私の方が驚いてしまったくらいだった。
数日雨が続いた週末は、そのコインランドリーを訪れるようになった。頻繁に通っていると言うほどでもないが、どこかのカフェで読書するのと同じようなものだと思って文庫本片手に何度か訪れた。本気で彼に会えると思っていたわけでも本気で探しているわけでもなかったし、1、2時間滞在して帰った。
だから本当に中川君が店にやって来たときは心底驚いた。ほぼ1週間雨ばかりが続いた週の土曜日だった。昼間、いつものように1、2時間滞在して店を出た後、私は駅ビルまで戻って昼食と買い物を済ませた。普段は駅へ戻るとそのまま電車に乗ってしまうのだが、なんとなく思いつきでそうしたのだ。日が暮れ、そろそろ帰ろうと改札を通る前、そういえばコインランドリーに行くのはいつも昼間でこの時間に行ったことは無かったな、と思った。帰る前にもう一度店に行ってみようという気になった。いつの間にか雨は止みかけていた。
静かに洗濯機が稼働する夜のコインランドリーで、椅子に腰掛け、音楽を聴きながら文庫本を読む。ふと、店の出入口から視線を感じた。
中川君が立っていた。高校生の頃よりずっと大人になった中川君が、私を見て固まっていた。その理由が、私の顔を覚えているからなのかと恐れるよりも彼が現れたこと自体の方が衝撃で、私もしばし固まっていた。
動揺しつつ会釈すると、彼は慌てて「あっ、すみません。なんかじっと見ちゃって。いや、何も無いんですけど…あ、洗濯待ちですか?僕も洗濯してて。取りに来たんですけど…まだ回ってますね、はは」と訊いてもいないことを説明し始めた。そしてこちらの様子を窺いながら、近くの椅子に腰掛けた。私はここでようやく彼に会おうとしていた本来の目的を思い出した。彼が入口でじっと私を見ていたのも近くに座ったのも、私に見覚えがあったからかもしれない。私を観察し、今目の前に居る人間が事件当夜にすれ違った不審人物に違いないと確信するためかもしれない。
「…今日はずっと雨でしたね」
探りを入れようと、私は恐る恐る、けれどなんでもないことであるような態度を装って、声をかけた。
「え?あっ、そうですね」中川君は驚いてこちらを見た。
「洗濯できなくて、困っちゃいました」
「ですよね。僕も、今週雨ばっかで、洗濯物溜まっちゃって」
彼はそう返した。
何か言う度に、照れたような困ったような顔で笑う。私が黙っていると、特に見るべきものも無い店内をくるくると見回して頭を掻く。高校生の時の中川君を思い出した。視線が合った彼の瞳に、蛍光灯の光が反射して湖面のように瞬いた。目が大きいからなのか、あるいは瞳を覆う水分量が多いとかそんな理由なのかよく分からないが、中川君の目はよく光を映した。
私は気付いた。彼はまた私に一目惚れしている。
どれだけ私の容姿が好みなんだ、と面白かった。それから、2度も恋をしてくれたことが、正直少し嬉しかった。
「来週、雨が降ったらまた来るかもしれません」
だからそう言ってしまったのだ。
だから何度も会うのはリスクがあると分かっていながら、本を貸すためにまたコインランドリーに行ってしまったのだ。連絡先を交換してしまったのだ。
「あの…水野さん。好きです。付き合ってください」
そんな台詞に頷いてしまったのだ。
*
付き合う前も付き合ってからも、彼はなんだかいつも一生懸命で、可愛らしかった。私の目を真っ直ぐに見て、よく笑い、時々照れる。口下手だけれど、一緒に居て楽しい、また会いたいという気持ちを表情で、仕草で、たくさん伝えてくれた。
「あの…運命の人って信じますか?」
いつだったか、浩一君がそんなことを言った。彼にとっては偶然の出会いだが、私にとっては違う。何年も前から彼のことを知っていて、居場所を探して会いに行ったのだから。だからその時は言葉を濁してしまったが。でも、思い返してみると彼を見つけることが出来たのは偶然に因るところも大きい。運命だったのかもしれないと、今は思う。
「ずっと大好きだよ」
あの時浩一君に伝えたことは嘘ではなかった。理想の人生を守るために、排除しなければならなかった浩一君が、いつの間にか必要な存在になっていた。浩一君が居ることで理想的な人生になった。決して騙していたわけではない。勿論、殺すつもりも無い。私はちゃんと浩一君のことが好きだった。
石清水雪乃が死んだ事件のことを彼が知っていると分かった時は怖かった。彼がこれ以上事件の詳細を知ろうとしないよう、事件とあの夜すれ違った女を結び付けることがないよう、事件と私を結び付けることがないよう、願った。どこから綻びが生じるか分からないから、自分の高校時代の話もなるべく避けてきた。
しかしどういう訳か、彼は事件に関心を持ってしまった。
「僕が中学生くらいの時、夜道を歩いてたら顔とか手に血が付いた女の人とすれ違って、すごいびっくりしたんですよ。何事かと思って」
「中学の時に、近所で女子高生が刺された事件があったって話、前にしたよね。ハロウィンの日に刺されたってやつ…覚えてる?その子さ、北高の子だったんだって。3年生の女の子だったって」
「ねぇ、水野さんが隠したいのは何?北高に通ってたこと?…それとも殺人事件?」
「水野さんが、殺したんじゃないよね…?」
彼と個人的な交流を持つようになった時点で、こうなることは決まっていたのかもしれない。予想できなかったことではない。だから仕方ない。
3
潰れた布団を眺めるのにも飽きて、ベランダへ出た。街の空気を丸ごと洗い直したような澄んだ冬の朝だった。
テーブルの上に書き置きがあった。浩一君からだった。今まで通り一緒に居て、という約束を守れなかったことへの謝罪と、自分が知り得た秘密は決して口外しないという誓いだった。もし誰かに話したり警察に告げたりしたら、その時は殺していいと書かれていた。
彼に罪を自白してしまったのだから、彼の今後の動きが気にならないはずはない。警察に知られ、捕まるかもしれない不安や恐怖はある。
けれど、書き置きの誓いは本当だろうと思えた。事件のことを口外しない、その代わりに、どうしても私から離れたい。それ程までに、二度と私と自分の人生が交差しないようにしたい。そんな決別の意思のように思えた。
後日分かったことではあるが、彼の連絡先へメッセージを送っても反応しなくなった。着信拒否に設定しているのか電話を掛けても出ない。彼の職場に電話してみても、そのような社員はいないと言われた。転職したのか転勤になったのか分からないが、いつの間に進めていたのだろう。あるいは会社側の配慮で、私に対しては「いない」と答えることになっているのかもしれない。この分だと引っ越しもしているかもしれない。SNSアカウントも消えた。
私は、とりあえず書き置きを信じて、彼を放っておくことにした。振られた恋人を追いかけるなんて、なんだか格好悪いし。そんな自分にはなりたくなかった。
冬のベランダはさすがに体が冷えて、部屋に戻った。リビングで水槽のベタが昨日と変わらない様子で泳いでいた。青い尾鰭をゆらめかせ、口をパクパク動かして時折こちらを見る。最後に浩一君の姿を見たのはこの子だろうに、暢気で頼りない。
水槽のモーターの低い音が響く部屋で、黙って水面に餌をまいた。
アイシーユー トイボックス @Toybox101
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます