筋書き
1
4つのグラスが重なり、軽い音を立てる。
「今週も、お疲れさまでしたー」
「いやぁ、やっと週末。長かったー」同期の武井が噛み締めるように言った。
金曜日の夜、会社の同期4人でのささやかな飲み会の席だった。度々僕を遊びに誘ってくれる武井と、女性社員の紺野さん、橋本さん、そして僕。新人研修の時に便宜的に分けられた班で意気投合し、未だに時々集まるいつものメンバーだった。月末を迎え溜まった不満やらストレスやらを発散しようと、退勤後の足で居酒屋に入った。
「休み嬉しいね。金曜日退勤した後って一番解放感ある」
「分かる。日曜になるともう既に憂鬱で、休みって感じ無いもんね。週末は金・土が最高よ」
紺野さんと橋本さんがグラスに口を付けながら言った。
「武井君、今週はどっか行くの?」
「今週は千葉!朝市でメシ食ってくるわ」
アウトドア好きの武井は週末も大抵忙しく何処かへ出掛けている。
「えー海鮮?いいなぁ、いつも色んな所行ってて」
「美鈴は出掛けないの?」橋本さんが訊いた。美鈴とは紺野さんのことだ。
「うーん今週は特に…映画行こうって言ってたんだけど、なんか忙しそうでさ」
「あー!あの外資系の?ハイスぺ彼氏?」
武井が何か思い出したように人差し指を立てた。ハイスぺかなぁ、と照れくさそうに紺野さんが苦笑する。いつだったか、4人で飲んでいる時に紺野さんから恋人の話を聞いたことがあった。武井もその時のことを思い出したのだろう。
「…連絡も私からするまで来ないし。連絡しても、忙しい、忙しいってさ」
紺野さんは不満げに唇を尖らせた。
「最近、なんか、浮気されてんのかなーって」
「浮気?マジ?」武井が顔を歪めた。「でも、本当に仕事が忙しいのかもしれないしなぁ」
「それはそうなのかもしれないけどさー…でも、私のこと、もうそんなに考えてないんだろうなーって。気持ちが離れてる、っていうかさ」
「んー、分かる。浮気してるんじゃないかって不安になる気持ち!確証があるわけじゃなくてもね」
橋本さんがレモンサワーのグラスを両手で握りながら、繰り返し頷いた。
「浮気かどうかは分かんないけど、美鈴が気になるんなら、もうちょい様子見だね」
「うん。武井君も、あちこちフラフラ行ってると愛想尽かされちゃうかもよー」
「えぇ?俺?いや今週は違うけど、彼女と一緒に出掛けることもあるし…俺の趣味のことは分かってくれてるよ」
「言えないだけかもしれないよ…?本当はもっと一緒にいたいけど、重いって思われたくない、みたいな」
突然飛び火した武井は、えー、と眉間に皺を寄せて笑った。
「でも言ってくれなきゃ分かんないよ。勝手に遠慮されて、それで怒られるのなんかなー」
「意外と隠してることってあるよ」
橋本さんの言葉に、僕は少し動揺して視線を向けた。意外と隠してることってあるよ。
ここしばらく考えている水野さんのことが、どうしても頭を過る。
水野さんに対して浮気を疑ったことは一度も無かった。もし彼女の隠し事が浮気だったら、まだ良かった、のだろうか。比べるものでもないのかもしれないが、犯罪の、しかも殺人の疑いよりは良いように思える。
「橋本さんの隠してることって何?」ひっそりと視線を下げた僕には気付かず、武井は訊いた。
「私はー…彼氏にたまに貸してるTシャツ、元彼が置いてったやつ」
「うわー地味に嫌」
「結構嫌じゃない?」
「まー物に罪は無い」
「中川は?」武井に名前を呼ばれ、僕は慌てて顔を上げた。
「何すんの?なんかずっと黙ってるけど…平気?」
武井は微笑みながらも、気遣うような視線を僕に向けていた。話を振られて初めて自分が何も発言していないことに気付いた。
「え、隠し事…?」
「隠し事あるんなら言ってもいいけどさ!そうじゃなくて、週末。予定あんの?」
「あぁ…まぁ。自然公園に。行こうかなって」
「へぇー!デート?」紺野さんが期待の込もった眼差しで僕を見た。
「うん、そう」
「中川君は彼女さんと仲良さそう」
「うんうん、年上彼女な」
紺野さんが穏やかに目を細め、武井が枝豆をつまみつつ補足した。
「中川君はさ、不満なこととか、心配なこととか無いの?彼女に」
橋本さんが僕に訊いた。
無いわけがない。それどころか、あまりにもタイムリーな問題だった。しかし、簡単に他人に打ち明けられるような話でもない。確証も無い。
だから、何と言おうか少し迷って、「無い…かな?」とだけ言った。
橋本さんと紺野さんは、いいねぇーずっと仲良くいられる秘訣教えて欲しいー、と口々に言って唐揚げをつついた。僕はそれを曖昧に笑って誤魔化した。
2
「スワンボートってさ、ベタだけどいいよね」
「…え?」
水野さんの声に気付き慌てて隣を見ると、彼女は正面を向いたまま何かを眺めていた。視線を追うと、そこに広がっていたのは大きな池だった。
深い青色の水面に陽の光が反射して、白波のように輝く。池には白鳥形の足漕ぎボートが何艘も浮かび、思い思いの方向へゆったりと進んでいた。
東京都が管理するこの自然公園は、ボート場やテニスコート等もあり、かなり広い。子ども連れからカップル、高齢者まで幅広い年代の人々に人気がある定番スポットだ。
「ボート。さっき乗ったやつ、楽しかったねって」水野さんは言い直した。
「あぁ…そうだね」
彼女が今話し始めたのか、それともずっと続いていた会話の途中なのか、よく分からなかった。気付けば頭が勝手に考え事を始め、周囲の景色をぼやけさせる。10時に待ち合わせをしてから僕はずっとぼんやりしていただろう。
彼女に疑いを抱いてしまってから、数週間が経ち、カレンダーは2月になった。
未解決であることもあって例の女子高生殺害事件は何度か新聞やニュース番組で取り上げられていたようで、僕はインターネットで見つけた記事を幾つか読んだ。
彼女への疑いを、荒唐無稽な妄想だと一蹴することが出来なかったのは、きっと怖かったからだ。殺人という行為があまりにも恐ろしく、その疑いに根拠無しに目をつぶることができなかった。
一方で彼女に直接確かめることも出来ずにいた。だが、僕は決心して、今日ここへ来たのだ。僕が気になっていること、不安、疑いを正直に彼女にぶつけよう、と。空転する思考もその緊張感のためだった。
そんな胸中を知る由もない彼女は、じっと池を見つめたまま会話を続ける。
「冬の公園って木も芝生もみんな枯れてるけど、好きなんだ。長閑でさ」
視界の大部分を占める空さえも水で薄めたような青色で、どこを見ても彩度の低い冬の景色。僕は辺りを見回した。生命力溢れる夏の色とは違うが、確かに長閑という言葉がよく似合う。僕は同意した。
弱い風が通り過ぎ、僕と彼女の前髪を控えめに揺らす。
「今日、写真撮った?」
彼女がふいに池から視線を外し、僕の顔を覗き込んだ。
「え?あぁ…撮ったよ。何枚か」
「へーどんな写真?見たい」
「いいよ」
僕はポケットからスマートフォンを取り出し、公園で撮った写真を画面に表示させた。彼女の方へ端末を少し傾ける。だだっ広い芝生の広場、整然と並んだ冬枯れの木々、池に浮かぶ色褪せたスワンボートの群れ。僕は次々と写真を流していった。
「あ、私の写真」
彼女の横顔を写した写真が表示された時、彼女が呟いて僕の顔を見た。
面白がるような彼女の表情になんだか照れ臭くなって、僕は「上手く撮れてるでしょ?」とだけ返した。あくまで被写体として彼女を写したのだ、という不要な反抗心が、却って彼女を愛おしく思う自分の気持ちを自覚させた。複雑な気分になる。彼女の横顔にレンズを向けた時、僕は綺麗だと、愛おしいと思ったに違いないのだ。
もしも彼女に僕の知らない恐ろしい一面があったら…そんなものはあってほしくない。
僕を揶揄ったように見えた彼女は、意外にも本当に嬉しそうに再び写真に目を落とした。じっと見つめてから、「この写真、ちょうだい」と言った。
「これ?いいけど」
「へへ」
頼まれるまま、僕は彼女のスマートフォンに写真を送信した。彼女は送られてきたデータを満足そうに確認すると、僕の方にスマートフォンのカメラレンズを向けた。
驚く間もなく、電子的なシャッター音が鳴った。
「ちょっと…何?」
困惑気味に笑いながら、体を仰け反らせてレンズから逃げる。彼女はそれを追って2回、3回とまたシャッターを切った。何枚か撮ると、満足したのかスマートフォンを下ろして撮影データを確認し、ふんふん、と頷いた。
「これあげるね」
「いや要らないよ」
「よく撮れてるよ?」
「自分の写真なんて要らないでしょ」
「えー、私が撮ったやつだよ?」
「うーん…?要らない」
彼女があはは、と笑った。僕も少し笑った。緊張の糸が緩んだような気がする。笑い声の余韻が消えると、彼女は話すのをやめた。微笑みを浮かべたままではあるが、彼女の纏う雰囲気がどこか真面目なものに変わっていくのが分かった。何処かの木の上で鳥が鳴いているのが聞こえた。
「最近、忙しいの?」
「え?」
「なんか考え事してるみたいだったから」
自分の足元を見たまま何気なく訊くのは、僕が話しやすいようにという配慮であり、同時に誤魔化しやすくもあるようにだろう。打ち明けるきっかけは作るけれど、話したくないなら無理には聞き出さない。彼女がそういう気遣いをする人だということを、僕は思い出した。急に僕の写真を撮ろうとしたのも、彼女なりのおふざけで場を明るくしようとしたのだろうか。
「あぁ…うん、ちょっとね」
「仕事のこと?」
「…そんな感じ」
「そっか」
予想通り彼女はそれ以上訊こうとしなかった。けれど、タイミングは今しかない。
僕は鼻からゆっくりと息を吸う。
「今日さ、家でちょっと話せないかな」
「今日?いいよ」
通りすがりの誰かに聞かれたくはない話だし、昼間の公園の、この長閑な景色の中で話すのはなんとなく躊躇われて、僕はそう言った。
いよいよだ。緊張感が高まり、大して溜まっていない唾を飲み込んだ。
僕の言葉の続きを黙って待ちながら、彼女は何事か考えているようだった。僕がなかなか話し出さないのを見て、口を開く。
「うちに来てもいいよ。この間、スープカレー貰ったんだ。冷凍パウチの、お取り寄せみたいないいやつ。あとあれもあるよ、海老のお煎餅。ちょっと高級なやつでさ、すっごく美味しいの。一緒に食べようよ」
そう饒舌に付け加えた部分は、思い悩む僕を励まそうとしているようだった。
また弱い風が吹き抜け、彼女の前髪が揺れる。その髪と一緒に僕の心もぐらりと揺れた。
彼女は今日、元気がない僕に気付きながら、デートを盛り上げようとしてくれたのだろうか。心配しつつも無理に触れようとはせず、それでもさり気なく元気づけようとしてくれたのだろうか。ぼんやりしていて断片的でしかない記憶の中から、彼女の表情を思い出そうとしてみる。実際に見たものかどうかよく分からない彼女の健気な姿が浮かび、そんな彼女を疑っていることが申し訳なくなってくる。
そうだ。僕は彼女を信じたい。
信じたいから、推測や想像ではない、真実を知ろうとしている。
「ありがとう。じゃあ、お邪魔するね」
僕の返事に、彼女は優しく微笑んだ。それを見ながら、僕は揺らぎかけた決意を取り戻すようにこっそり表情を引き締めた。
*
誘い文句の通り、彼女は夕食にスープカレーを温めてくれた。冷凍パウチのカレーなのに、大きな具材がごろごろ入っていた。美味しかった。
食後にコーヒーを飲み、風呂に入り、風呂上がりになんとなく点けたテレビでホッキョクグマの親子の1年を記録したドキュメンタリーを観た。彼女は真剣にホッキョクグマ親子を見守り、「獲物、見つかるかな。生き物なんかいないように見えるけど」とか「もう独り立ちなんて…これから1人で生きていけるのかな」とか呟きながら海老煎餅を齧っていた。
海老煎餅は確かに安物とは違う香ばしい海老の味がして、贈答用らしい大きな箱に一つひとつ個包装して並べられていた。彼女があれこれ出してくれるのを、僕は素直に受け取った。
結局最後までドキュメンタリーを観てしまって、番組が終わる頃には23時を過ぎていた。
テレビを消すと、途端に静寂が部屋中を包んだ。あまりに静かで、ザラザラした空気の流れまで聞こえる気がした。
密かに、タイミングを計り始める。
「そろそろ寝よっか」と彼女が立ち上がり、僕もソファから腰を上げた。そこで僕は動きを止め、ドアの方へ歩いていく彼女の背中を見つめた。
立ったままの僕を、彼女が振り返って不思議そうに見た。
「どうかした?」
「あのさ、」
僕は口を開いた。
「水野さんが通ってた高校って、北高?」
突然何の話かと彼女は困惑の表情を浮かべながら、少し笑った。
「え?違うよ。何、急に」
「…北高じゃないの?」
「違うよ?嘘つく意味ある?」
「前、水野さんの部屋で北高の卒業アルバム見つけたから」
彼女の口元から笑みが消えた。
「アルバム持ってるってことは、北高を卒業したんじゃないの?実家離れて一人暮らししてる家で、他人の卒業アルバムを持ってる理由も僕には思いつかなかった。でも北高の話には他人事だし、今も、通ってないって言ったよね。それがずっと不思議で。何か、隠してる?」
彼女は答えなかった。けれど、視線を逸らそうともしない。驚いているのでも動揺しているのでもない静かな表情で、どんな意味があるのか分からなかった。否定しようと思えばいくらでも理屈を付けて説明できるだろうに、それもしないのが妙だった。
仕方なく僕は続けた。
「なんで隠してるのかなって色々考えた。北高は評判の悪い学校じゃないし、出身校だって知られて恥ずかしいわけでもない、よね。もし僕が北高に通ってたなら、なんとなく同じ学校だって知られたくないっていうのはあるかもしれないけど。高校生の時と今とでキャラが違ったりさ、昔の自分を知られたくない気持ちは僕にもあるよ。でも僕は北高出身じゃないし、北高のことは全然知らない。
北高に関係あることで僕が知ってるのは、昔ハロウィンの夜に女子高生が刺された事件のことくらい…近所だったし、覚えてる。水野さんにも話したよね。亡くなった女の子、多分水野さんと同じ学年だと思う。
前に話した近所の事件の被害者が北高生だった、って水野さんに言った時、水野さんは他人事みたいにしてた。いつ起きた事件なのかとかも聞こうとしなくて。北高の卒業生だったなら、なんかちょっと不自然じゃない?知り合いだったらって、少しも思わなかったの?北高そのものにすら、自分は関係ないみたいにしてたよね。変だなって思った。
ねぇ、水野さんが隠したいのは何?北高に通ってたこと?…それとも殺人事件?」
息が詰まりそうな静けさに、僕は一度言葉を止めて息継ぎした。相変わらず彼女は静観の構えを崩さない。肯定も否定もしないが、彼女が瞬きをする度、瞳の色が暗く沈んでいくような気がして、その理由が分からなくて、僕は初めて彼女のことを怖いと思った。
「もし、事件のことが辛くて、忘れようとしてるんなら、ごめん…本当に無神経で…殴っていいよ。でも、事件のことを隠そうとするのは別の理由なんじゃないかって、そういうふうにも考え始めちゃって、不安になって…どうしても、直接確かめたかった」
僕は彼女の目から視線を外し、足元に落とした。
「浩一君」
突然彼女が口を開き、その声が僕の心臓を刺すみたいに聞こえてきた。驚いて顔を上げると、さっきまでと変わらない表情の水野さんがまだ僕を見ていた。
「浩一君がその事件のことで覚えてるのは、どんなこと?」
質問が返ってくるとは思っていなくて、僕は一瞬固まった。
「…ハロウィンの日、近所の林みたいな所で、北高の3年生の女の子が刺されて、亡くなった…次の日の朝に、犬の散歩かなんかしてた人が見つけて通報した。犯人はまだ捕まってない」
「それだけ?」
「…うん」
「浩一君は何してた?その日」
「え?学校に行って、そのまま塾行って、帰りに林の前を通った。だから事件のこと知った時すごく怖かった。別に変わったことは無かったよ。…林の前で女の人とすれ違ったのは、事件があったから印象的だったけど」
僕がそう答えると、彼女はまた黙った。僕の目をじっと見つめ、そして、よく見ていなければ気付かないほど小さく鼻から息を吐いた。
「それ、やっぱり覚えてるんだね」
彼女が何を言いたいのか分からず、何と返せばいいのかも分からなかった。眉間に皺を寄せる。
「それも忘れてるんなら、適当に理由を付けようと思ったけど」
「何?何の話?」
「浩一君が林ですれ違った人の話だよ。血が付いてて、びっくりしたんでしょ?」
「…うん」
「私、浩一君のこと探したんだよ。何度も」
話の繋がりがよく分からない。眉間の皺がさらに深くなる。そんな僕を置いて、水野さんは続けた。
「私の顔、もし覚えてたら困るから」
「あの夜から2日くらい経って、また林の前まで行ったの。夜、同じくらいの時間に。そしたらあの日見た顔が歩いてきた。私、自然に見えるように反対側から歩いて、すれ違ってみたの。何の反応も無かった。一応、後を追って家まで行って、表札見て、苗字が分かった」
半開きの唇の間を、呼吸だけが通り過ぎていく。彼女は何の話をしているんだ?
「中学生くらいに見えたから、県内の中学校の制服を画像検索して、これかなって思う学校を見つけた。1回確かめたけど夜だったし、暗くて私の顔が見えなかっただけだといけないから、明るい時間に会ってみようと思って別の日にその学校の近くまで行ったの。正直、見つけられるって本気で思ってたわけじゃないけど、学校に向かう途中の信号で運良く反対側の道に立ってたんだ。またすれ違ってみて、その子も私の顔ちゃんと見たけど、やっぱり反応無し。その時は友達と一緒にいて、コウイチって呼ばれてるのが聞こえた。けど、私の顔覚えてないっていうのはもう分かったし、それ以上詮索するのはやめた」
ふと、彼女は自嘲気味に俯いた。
「でもね…何年か経つとすごく不安になるの。何かの拍子に浩一君が事件のこと思い出して、すれ違った人のこと思い出して、誰かに話しちゃうんじゃないかって。それが何かの手がかりになって警察が動いて、全部バレちゃうんじゃないかって。どうしても不安で不安で仕方なくなったら、浩一君のこと探して、私を覚えてないことを確かめに行った。全然、気付かなかったでしょ」
「水野さん…」
彼女の声は穏やかで、生徒に一から説明する教師のようにゆっくりとしたリズムだった。しかし、その話の内容が穏やかなものではないことを、嫌でも僕は理解し始めていた。
「水野さんが、殺したんじゃないよね…?」
彼女は眉を八の字に下げて微笑んだ。
「…どうやって会いに来たの?家まで来た…?」
「家には行ってないよ。1回行っただけじゃ、道覚えられないし。でも名前を検索したらSNSのアカウントが出てきて。名前、やっぱり分かってて良かったよね。もちろん同姓同名のアカウントなんていっぱいあるけど、友達が誕生日祝ってくれたーみたいな写真あげてたことあったでしょ?そこに浩一君も写ってたから、分かった」
彼女の言う写真がどんなものか、もう覚えていない。そんな投稿をしたことも忘れている。だが、学生の頃は友人と一緒に写った写真を載せることも確かにあった。
現在もたまに撮った写真を投稿するのに使っているSNS。アカウント名は「Koichi Nakagawa」。本名で登録している。
「高校の文化祭の時、宣伝の投稿があって。チャンスだと思って会いに行ったよ。文化祭は一般客でも入れるでしょ?」
SNS上では同じ学校の友人達とも繋がっていた。文化祭の宣伝は彼らに向けたものだった。自分がどの団体に属し、どんな出し物を行うか、伝えた。
「たこ焼き、結構美味しかった」
水野さんが冗談っぽく笑った。
血の気が引いた。高校生の時の文化祭の話をそこまで細かく彼女に話した覚えは無い。それなのに彼女は、僕のクラスがたこ焼き屋をやったことを知っている。本当に僕のことを知っていて、あの場に居たのだ。
――高校の時さ、文化祭来た女の人に一目惚れしたことあったよな、お前。
ふと、高校時代の友人の嶋田の言葉が蘇る。それが彼女でないことを本気で祈った。
もし僕がハロウィンの夜にすれ違った人のことを疑っていたら、彼女の顔を覚えていたら、どうなっていたのだろう。もし僕が何かに気付いたと分かったら、彼女は何をするつもりだったのだろう。考えたくもない。浮かんできた想像を必死に振り払った。
そこで僕は、彼女と初めて出会った――と僕が思っていた、その時のことを思い出した。
彼女が執拗に僕を追い続けていたことを僕は全く知らなかった。けれど、これまでの彼女の行動のその先に、あの日があるのならば。
彼女が現れたことは、偶然ではないはずだった。
「コインランドリーにも、会いに来たの?」
僕の声は少し震えていた。悲しみからか恐怖からか、自分でも分からない。
「そうだよ」
少しも勿体振らずに彼女は頷いた。
大切な思い出だったはずのものが崩れていく。腹の底が冷たい。僕は何も言えなくなった。彼女が飼っているベタの水槽のポンプの音だけが、不穏に響いた。
失望したとか冷めたとか、そういう話ではなかった。足先から頭まで恐怖が僕を支配していた。実家を離れ、自分の姿が写った写真も迂闊に投稿しなくなった今の僕の居場所を彼女がどうやって突き止めたのか分からなかったが、怖くて聞かなかった。
「…僕を殺す?」
やっと聞けたのはそれだけだった。
「殺さないよ」
そう答えた彼女に、迷う様子は無かった。
「浩一君は大切な存在になった。好きだよ。騙してたわけじゃない」
さっきまでの淡々とした口調とは違い、何かを弁明するような早口だった。
「私の人生は、浩一君が居て、それで完璧なんだよ」
そう言いながら、彼女の瞳にはどこか諦めたような切なさが浮かんでいるように見えた。
彼女は、僕と離れたくないと思っているのだろうか。寂しいと、惜しいと本当に思っているだろうか。それとも演技だろうか。僕にはもう、彼女の心が見えない。そもそも初めから見えていなかったのだ。
「私のこと、捕まえる?」
彼女が問う。困ったように微笑む瞳が潤んでいた。
僕は彼女の顔を見たまま、小さく首を振った。そう答えるしかなかった。もし違う答えを出せば僕は、
殺されるのだろうか。
彼女は目を見開いて少し驚いたような表情になった。それから、嬉しそうに目を細めた。いつも通りの彼女の表情がやっと戻ったような気がした。
「ありがとう、浩一君。今まで通り、一緒に居てね」
「…分かった」
「ずっと大好きだよ」
「うん」
3
翌朝目が覚めると、遮光カーテンは既に開けられていて、窓辺に下がった白いレース越しに午前の陽光が差していた。
そんな爽やかな光景とは裏腹に、徐々に覚醒していく頭が昨夜の出来事を思い出し、僕の心は薄暗くなる。
重い足取りで短い廊下を過ぎ、リビングに入ると、彼女はダイニングテーブルで朝食をとっていた。彼女の向かい側の席には、同じメニューの皿がラップを掛けられて置かれている。彼女が作ってくれた、僕の分の朝食だろう。
日常の中の些細な幸せとでも言うべきその光景を前に、この時の僕が考えていたのは、彼女が朝食の支度をしている間自分は暢気に寝ていて、彼女は不愉快だったのではないだろうか、ということだった。
「あ、おはよう」
彼女が僕の姿に気付き、明るい声音で言った。視線に少し身構える。
「…おはよう」
「目玉焼き、冷めちゃったかも」
彼女は僕の分の皿を見た。
「ごめん」
僕は慌てて謝った。目玉焼き、冷めちゃったかも。それが僕を非難する言葉に聞こえて、やはり彼女は怒っているのだと思ったのだ。目玉焼きが冷めたのは、僕が寝ていたから。
しかし、彼女はきょとんとした顔だった。
「何が?」
「いや、ずっと寝てたから…」
「浩一君いつもこのくらいまで寝てるじゃん」
彼女は不思議そうに僕を見上げて笑った。
「…うん」
「なに?どうしたの」
怒っているようではなくて少し安堵した。けれど、どことなくぎくしゃくした緊張感が残る。そう感じているのは僕だけだろうか。目の前の彼女は、昨夜の話などまるで無かったみたいに平常通りだった。
僕が椅子を引くと同時に、彼女は食パンの袋を取り上げた。
「トーストにする?」
「あ…うん。ごめん、ありがとう」
ごめん、と言った時、彼女は動きを止め、僕の方を見た。一瞬何かを考えるような仕草をする。
昨夜知ってしまった事実が僕にとっての彼女の全てを変えてしまった。何かを恐れるように委縮した僕の態度が、明らかにいつもと違うことに彼女も気が付いているだろう。
しかし彼女は何も言わず、表情を作り直してトースターへ向かった。
表面の乾いたハムエッグを箸で小さく切り、口に運ぶ。昨夜のことを話題にすべきか、僕は悩んだ。上目で彼女の表情を探ると、彼女は小さく鼻歌を歌っていた。僕がリビングに入った時には聞こえなかった、唐突で不似合いな鼻歌。
彼女があえて昨夜の事に触れないようにしているのだと僕は悟った。
「さっきテレビでね、話題のグルメ特集みたいなのやってたんだよ。野菜とかお肉とかがいっぱい入ってるサンドイッチとかー、あとね、すごく雰囲気がいいイタリアンのお店があってさ。そこのボロネーゼが美味しそうだった」
「…そうなんだ」
「今日、どっか食べに行こうか」
驚きか戸惑いか、とにかく僕はハッとして視線を上げた。彼女と目が合う。僕は何と答えるべきか考えていて、瞳がゆらゆらと揺れた。
本心では一刻も早く彼女から離れたかった。
「…ごめん、今日用事あって」
「そっか」
彼女は残念そうに呟き、それから、分かったよと言うように笑って見せた。
それからの約1ヶ月間、彼女と接する時に感じる言葉にし難い緊張感が薄れることはなかった。僕は彼女の表情をよく見るようになった。ほんの些細な視線の動きや口元のニュアンスから、彼女の負の感情を読み取ろうとした。どこかぎこちない笑い方しかできなくなった。そういう自分に気付いているから、余計に何かを取り繕うような態度になった。そのことも自覚していた。
僕は彼女から遠ざかるようになった。露骨過ぎない程度に、「ごめん、用事があって」と彼女からの誘いを断った。
彼女も僕の変化には気付いていた。理由が分かっているからか、それを指摘することもなく、見えない振りをしているようだった。
代わりに、僕を食事やデートに頻繁に誘うようになった。
「今日さ、やっぱり家で鍋しない?」
金曜日のある夜、駅で待ち合わせた彼女に小走りで近づくと、僕の顔を見るなり彼女はそう言った。つい先週、理由を捻り出して食事の誘いを断ったばかりだったため、さすがに連続で断ることは出来なくて会いに行った日だった。
「え…」
「前、出掛けた先で物産展やっててさ。鍋の素買ったんだけど、2~3人前で。浩一君と一緒に食べようと思ってたの。明日予定無いって言ってたから、ちょうど良いかなって…」
次の日に予定があるから、という理由で断ったことがあったから、その時の後ろめたさでなんとなく『明日も予定無いし大丈夫』と返信してしまったことを僕はこの時後悔した。
やられた。そんな風に思った。
「あぁ…うん、いいね、鍋」
「いい?ごめんね。せっかく駅まで来てもらったのに」
「ううん、全然」
夜の住宅街は静かで、彼女も無理に会話をしようとしない。革靴がコンクリートを削る音ばかり響いた。
黙って歩きながら僕は考えていた。何か用事があるのだろうか。それとも単純に、家で一緒にゆっくりしたかっただけだろうか。どちらにせよ、きっと直接家に誘っても僕が断ると思って、断れないような呼び方を彼女は考えたのだ。
玄関扉を開け、彼女が電灯のスイッチを押した。パッと橙色の光が室内を照らし出し、見慣れた短い廊下が見えた。リビングでは水槽のベタが変わらぬ様子で泳いでいた。
「ごめんね、あんまり片付いてないんだけど…すぐ作るから、その辺座って待ってて」
彼女は荷物を置くと、キッチンに立った。僕は言われるままダイニングテーブルで彼女を待った。
野菜を切る包丁の音が、規則的に響く。
彼女が包丁を持っているということが何故だか妙に意識されて、僕は落ち着かず彼女の様子に度々目を遣った。
「そういえば」
単調なリズムの中で浮き出た彼女の声に、僕は少し驚いた。
「来週、友達の結婚式があるんだ。行ってくるね」
「あぁ…そうなんだ」
「うん。式場、ホームページで見てみたらすごい綺麗な所だった。昔から仲良い子でさ。結婚かぁって、なんか私まで嬉しくなっちゃうよね」
「そっか。おめでたいね」
「うん」
野菜を切る音が突然止まった。
彼女はまな板を見つめたまま止まっていて、表情がよく見えなかった。
何故だか鼓動が激しくなった。身体が一瞬熱くなって、急速に冷えていった。
彼女は何を考えているのだろう。
「あ…」
「長葱買い忘れた」
彼女は1人で呟いた。
緊張が解け、鼻から大きく安堵の息が漏れる。なんだ…焦った。何かと思った…
僕は彼女から何と言われることを恐れていたのだろう。具体的な答えが出るわけではないが、そんなことを考えた。
結婚。
僕はこのまま彼女と結婚するのだろうか。鍋の準備を再開した彼女をぼんやり眺めた。
嫌だな、と思ってしまった。
水野さんと過ごす時間を、最大の幸せであるはずの選択を、自分がそんな風に思うなんてショックだった。だが、頭が複雑に考え始める前に湧き上がった感想はそれだった。
僕は、水野さんと一緒にいるのが嫌なんだ――無意識に自分で蓋をしていた気持ちに僕はこの時気付いた。
常に彼女の顔色を窺い、思考を読み取ろうとし、不快にさせないよう怒らせないよう細心の注意を払う。そんな関係は健全じゃない。そして、その緊張感の根底に“殺されるかもしれない恐怖”が在ることなど、恋人以前に普通の人間関係ではない。
その日の深夜、彼女がぐっすり眠っていることを確かめてから、僕は布団を抜け出した。
無音の街に、玄関扉が閉まる硬質な音がやけに響いた。
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