恋人
1
彼女が水槽の前に座って、青いベタを眺めている。僕は白いソファに凭れてその背中を眺めながら、出会ったばかりの彼女との日々を思い出していた。朝食を終えた後の空白の時間だった。
彼女と恋人同士になって1年が経った。
ベタが水槽の中で方向転換をして、大きな鰭が優雅に揺れている。初めて彼女の家を訪れた時、僕が水槽に目を遣ると何故か「餌あげてもいいよ」と言ってくれた。直後に「さっき食べたばっかりだけど」と付け加えたから僕は断った。
「付き合う前にさ」
背を向けたまま、不意に彼女が口を開いた。
「本貸したの覚えてる?コインランドリーで。あれ、映画化するんだよね」
「そうなんだ。いつ?」
「2月だったかなぁ」
「そっか。観に行こうか」
公開日を調べようとスマートフォンに手を伸ばした時、彼女が何かを思い出すように笑った。
「あの時、浩一君、よく本読むみたいなこと言ってたよね。本当は全然読まないくせに」
僕の脳裏にコインランドリーで棒立ちする自分の姿が浮かんだ。彼女が僕のことを浩一君、と呼ぶようになったのはいつだっただろう。よく覚えていない。僕の方は変わらず水野さんと呼んでいた。彼女は水野さん、という感じがする。
「共通の話題が欲しくて」
「共通の話題にならないじゃん」
「話すきっかけになれば何でもよかったっていうか」
「気付いてたよ、あんまり本読まない人なんだなって」
「えー…意味ない嘘…」
彼女は楽しそうに笑って、それからまた水槽に目を向けた。
「初めてのデートで映画観たのも、楽しかったね」
呟くように言う。愛おしい何かを掬い出すような口振りに、僕はこっそり嬉しくなった。
「映画観て、イタリアン食べて、イルミネーション見に行って、今日告白するぞ!って感じだった」
あはは、と彼女が笑う。実際その通りだったから反論も出来ず、僕は苦笑した。電飾の小さな灯りで、夜の中に街路樹の輪郭が浮かび上がっているのを思い出す。僕はその日、どのタイミングで想いを伝えようかとそのことばかり考えていた。
「でも嬉しかったよ」
彼女が振り向いた。優しい微笑みに柔らかな陽の光が当たり、栗色の髪が透き通るように輝いた。たった今、1年前の自分の余裕の無さを恥じていたことも忘れ、僕は穏やかに微笑み返した。
部屋の中を改めて見回す。白い壁紙に合わせ、白系統の色でまとめられた家具。ダイニングテーブルはフローリングの色に合わせた木製の天板。どれもシンプルながらお洒落なデザインだ。家の中はいつも片付いている。僕が来るからと片付けてくれているところもあるかもしれないが、彼女の場合は日常的に整頓されているような気がする。
部屋の隅にあるコンセントに、僕のスマートフォンの充電器が刺さっていた。それを見て、なんだか少し嬉しいような不思議な気持ちになる。彼女の日常の中に僕が居座ることを、彼女が受け入れてくれているように思えた。
「今日、16時に出るんだっけ」
照れ隠しのようにそう言って彼女が立ち上がり、僕は午後の予定を思い出した。友人と飲む約束をしていたのだ。
「あぁ、うん」
「もう11時半だね。出掛けるまで、うちでのんびりしていってよ」
「うん、ありがとう」
「あ」
「何?」
「お昼、ハンバーガーにしようか。ポテトとコーラも付けて、テイクアウトしよう!コンビニでデザートも買っちゃおうか。私この間出たプリンがいいなー。ね、パーティーしよ」
彼女は顔を輝かせ、いそいそと出掛ける支度を始めた。それがあまりに楽しそうで、僕はなんだか笑ってしまった。
住宅街の道路で、小学生がサッカーボールを蹴る鈍い音が響く。冬の太陽は随分と小さく見え、空気そのものが冷え切っていた。
僕達は寒い寒いと早足で昼食を調達し、ローテーブルの上に買ってきたものを全部並べて食べながら、海外のSF映画を1本観た。
*
駅のコンコースに出ると、予想以上に多くの人が行き交っていた。さすがは年末の土曜日だ。無事に仕事を納めた人々が、買い物や帰省やあるいは旅行に出掛けているのだろう。
背の高い銅像の周囲に、川の淀みのように人が集まっていた。嶋田はその中に立っていて、こちらに気が付くと片手を上げて合図した。
嶋田とは中学・高校と同じ学校に通っていた。大学進学を境に疎遠にはなったが、今でもこうして時々連絡を取っている。
「どうよ最近」
駅から少し歩いて入った居酒屋で、おしぼりを広げながら嶋田が聞いた。
「うーん、変わらず。ぼちぼちやってるよ」
「仕事は?忙しいの?」
「まぁね」
嶋田は笑って、俺も似たようなもんかな、と言った。嶋田は四年制の私立大学を出た後、保険会社に就職した。互いに仕事の愚痴を吐き出し、ビールが進む。学生時代の友人に会うと、時間が一気に巻き戻ったような感覚になる。
19時近くなると、店内は混雑し始めた。店内が賑やかになるにつれ僕と嶋田の間の空気も緩み、学生時代の休み時間のようになっていった。
「そういえば、彼女とかは?」
話がひと段落し、嶋田が急にそんな風に話題を変えた。
「え?まぁ…いるよ」
「おー、どんな人?」
「綺麗な人だよ。年上で…一目惚れしてさ」僕は水野さんの顔を思い浮かべながら答える。
「へぇーお前らしいな」
「そうかな」
何故か微笑ましそうに、にやにやと嶋田は笑った。
「高校ん時さ、文化祭来た女の人に一目惚れしたことあったよな、お前」
脳裏に青白い学生服が蘇った。ダンボールのカラフルな看板やテントが並ぶ校内、非日常感に浮ついた雰囲気。
いつだったか、クラスで模擬店を出した。確かたこ焼きだった。僕が売り場に立っている時に、綺麗な女性がたこ焼きを買いに来た。多分、大学生くらいだと思う。
そんなことがあったことも、今の今まで忘れていた。特別惚れっぽいわけではないと思うが、高校時代と変わらない自分がなんだか笑える。
「あー…よく覚えてるな」
「文化祭回りながら、学校中探したよな、その人」
「そうだったっけ」
「そうだよ。田村たちが悪ノリしてさ、探そうぜってなって」
久しぶりに聞いた名前の響きに、記憶の奥底に眠っていた友人達の顔が浮かぶ。記憶の中の彼らは今も10代のままだ。
「田村か…懐かしいな。連絡とってる?」
「いやー全然。卒業以来会ってないな」
嶋田はやや遠くを見ながら、グラスの残りを飲み干した。高校を卒業してから7年近くの年月が経過していることを頭の中で計算し、驚いた。当時は20代など遠い未来に思えたものだが、あれから少しも変わらないまま、20代も折り返しを迎えてしまった。
「そういえばさ」
互いにそんな感傷に浸った後、嶋田が思い出したように口を開いた。
「今こっちに帰省してるんだけど、中学ぐらいの頃、近所で事件あったの覚えてる?女子高生が刺されたやつ」
意外な方向に転換された話題に戸惑いつつ、少し前に思い出したことがある記憶だと分かった。少し前と言ってもここ数か月の話ではないが、確か去年、ハロウィンをきっかけに思い出したのだ。ハロウィンの夜、近所の林の中で刺されて亡くなった女子高生。
「あぁ、あったな」
「その事件の遺族の人達がさ、この間駅前でなんか活動してて。情報提供を求めて…みたいな。あれ、犯人捕まってなかったんだな」
「え、そうだったんだ」
「そうらしい。で、その刺された人って、北高の3年生だったんだって」
「北高?へぇ、知らなかった」
当時、近隣でも様々な憶測が飛び交ったが、確かなことは何も分からないままで、犯人のことも被害者のこともよく知らなかった。北高というのは、県内で有名な進学校だった。
「俺も初めて知ったよ。そんで駅前もさぁ、随分変わったよな。しばらく帰省してなかったからびっくりしたわ。なんか綺麗になっててさ。小洒落た店とかいっぱいあるし」
そして話は駅前の再開発にスライドしていった。
「あそこの小っさい弁当屋、無くなったよな」
「あ…無くなってたわ!まー、爺ちゃん婆ちゃんだったしな。店畳んだのかなぁ」
追加注文した焼き鳥を一口食べ、嶋田が僕の顔に視線を向ける。
「お前は年末帰省すんの?」
「うーん…今年は年明けかな。年末はこっちで」
「フーン、彼女と?」
「まぁまぁ…」
なはは、と僕の反応に満足した様子で嶋田は笑った。明らかに面白がっている嶋田に、「んだよ」と笑いながら返す。
何も無ければ帰省するつもりだったが、水野さんは一緒に過ごしたいと思っているようだった。お蕎麦一緒に食べようね、1日は初詣行きたい、と楽しそうに言っていた。特に断る理由も無いのでそうすることにしたのだ。
「ラブラブでいいじゃーん?」
「うるせぇよ」
2
本棚の組み立てを手伝ってほしい、と彼女に頼まれたのは、世間ものろのろと正月気分から脱した頃だった。新年を迎えたからといって何かが変化するわけでもなく、平常な週末が訪れた。
彼女の家のチャイムを鳴らし、ドアを開けてもらうと、廊下に立て掛けられた大きな段ボール箱が視界に飛び込んできた。廊下の1/3ほどの幅を占めるそれが、件の本棚だろうと思われた。開封された様子は無く、おそらく宅配業者が置いてそのままになっているのだろう。
ドアを開けた彼女は「ごめんね狭くて」と言いながらさっさと廊下を戻り、リビングの方へ引っ込んでしまった。体を少し斜めにして段ボール箱を避け、後を追って僕もリビングに入ると、茹で上がったパスタと香ばしいニンニクの匂いがする。彼女が入っていったのは、リビングのさらに奥にある小さなキッチンだった。挨拶も雑談も無くさっさと玄関を離れたのは、キッチンで火を使っていたからのようだ。
「もうすぐ出来るからね」フライパンを振るう彼女が、少し大きめの声で言う。
「お昼作ってくれてたの?」
「うん。少しは手伝ってくれるお礼しないと」
へへ、と少し茶化して笑う姿が愛らしい。彼女が作ってくれたペペロンチーノはとても美味しかった。本人は謙遜するが、彼女の手料理はどれも美味しい。
昼食が済むとさっそく、本棚の組み立てに取り掛かった。玄関に置かれていた段ボール箱を2人で運び、カッターナイフで開ける。彼女の部屋によく合う、アイボリーの板が何枚も現れた。こういう自分で組み立てるタイプの家具を買うといつも思うが、説明書を読みながら作業しているはずなのに、用途不明の部品が現れたり裏表が逆になっていたりするのは何故なんだろうか。僕達は、少し組み立ててはやり直し、また少し組み立ててはやり直して、なんとか棚を組み上げていった。
やっと完成した頃には15時を過ぎていた。
彼女は少し離れた位置から満足げに完成品を眺めると、新しい棚に入れる本を持ってくると言って廊下へ消えた。そして20冊近くあるのではないかと思うほどの本を抱えて戻ってくると、それを置いて再び部屋を出て行った。棚に入れる本はまだあるらしい。
座って待っているのも何だし手伝おうと、彼女を追って寝室に入った。寝室の床には、やはり本が平積みされていた。彼女がまた十数冊持ち上げても、まだ残っている。
「手伝うよ。これも運べばいい?」
「あぁ、ありがとう。うん、あとそれで、全部」彼女が視線で残りを示す。
僕は残りの本を全て抱えて立ち上がった。ふと、近くに置かれていた段ボール箱に目が留まる。段ボールの角が凹んでいたりガムテープの端が剥がれて丸まったりしていて、使い古された感じだ。これも運ぶ物だろうか、と中を覗くと、どうやらアルバムの類らしかった。厚い背表紙に学校名が箔押しされた物もいくつかある。
サイズを考えると、新しい棚に仕舞う物ではないだろうとすぐに分かった。しかし僕は、彼女の学生時代がどんなものだったのか、急に興味が湧いた。
幼い日の彼女を想像しながら、アルバムの背表紙を順に見ていく。小学校、中学校…
そして、僕の目は1つの学校名に吸い寄せられた。
北高と呼ばれるその高校は、僕と彼女が育った県では有名な進学校だった。
僕が気になったのは、それが名の知れた学校だったからではなかった。最近になって僕の記憶に呼び戻された名前だからだった。
――で、その刺された人って、北高の3年生だったんだって。
薄暗い寝室の中、先月会った嶋田の声が、僕の脳内に蘇った。
*
僕が本を抱えて彼女のもとへ戻ると、彼女は新しい棚に本を並べ始めていた。僕は彼女の傍に座り、それを手伝った。彼女は鼻歌混じりに、これは面白かった、これは伏線が凄い、これは感動した、などと楽しそうに本を紹介してくれたが僕はあまり聞いていなかった。これから言おうとしていることについて、頭の中で言葉を組み立て、シミュレーションを繰り返していた。
タイミングを計り、ようやく切り出す。
「そういえばさ」
「ん?」
「中学の時に、近所で女子高生が刺された事件があったって話、前にしたよね。ハロウィンの日に刺されたってやつ…覚えてる?」
「あー、聞いた気がする」
「その子さ、北高の子だったんだって。3年生の女の子だったって」
僕はちらりと彼女の表情を伺う。
卒業アルバムを持っているということは、彼女は北高の卒業生だったのだろうか。
彼女と交際を始める前、確か2人で居酒屋に行った時だったか、僕は事件のことを彼女に話したことがある。しかし彼女が北高の卒業生だったなら、まして被害者と一定の関係があったとしたら、軽率に事件の話をしたことで彼女を傷つけてしまったかもしれない。思い出したくない過去に触れてしまったかもしれない。僕はそう思った。被害者は当時高校3年生だった。中学3年生だった僕の、3学年上だったのだ。水野さんも僕と3学年離れている。つまり、水野さんは亡くなった少女と同じ学年。彼女が北高生だったなら、被害者は彼女の友人だったかもしれないのだ。
だからそれとなく探りを入れて、謝ろうと思った。「私も北高出身なんだ」と彼女が答えたら、「えっそうだったの?どうしよう、もし知り合いだったら…ごめん、全然知らないで…」とこんなふうに。
寝室でアルバムを見つけた、とは言わず回りくどい方法を選んだのは、背表紙だけとはいえ彼女の知らない所で勝手に過去を盗み見たような、後ろめたさがあったからだ。
とはいえ、僕は最近まで被害者が北高生であることを知らなかったし、居酒屋の帰りでも具体的な地名を挙げて話したわけではなかったはずだから、彼女には僕の話が北高生の件と繋がっていることは分からなかったはずだ。それなのに今わざわざ伝えることで、改めて彼女を傷つけるかもしれないことは分かっていた。つまりは、自分がモヤモヤとした気持ちから解放されるために、僕は彼女に謝ろうとしているのだ。それが分かっていて、けれど切り出してしまった。
ところが、彼女から返ってきたのは意外な反応だった。
「北高?すごい頭いいとこだよね?そうなんだ…」
「え…?」
思わず困惑が声となって漏れた。
彼女の反応は、明らかに自分の母校に対するものではなかった。僕と同じように、頭の良い学校として名前を知っている程度の人間の反応だった。
彼女は、北高の卒業生ではないのか?しかしそれならば何故、北高の卒業アルバムを持っているのだろう。縁もゆかりもない学校の卒業アルバムを持っているとは思えない。友人か家族の卒業アルバムを代わりに持っている…そんなことがあるだろうか?一人暮らしの家で。
彼女は僕の困惑には気付いていない様子で、「怖いね」と感想を述べた。
もし、彼女が本当は北高の卒業生であるとしたら、彼女はそれを隠していることになる。隠す理由は何だろうか。北高の評判やイメージが悪い、ということは無く、むしろ誇って良いと思う学校だ。
僕が北高の関係者だというわけでもない。僕が北高について知っていることと言えば、進学校であることと例の事件があったことくらいで、それは彼女も分かっているはずだ。どうして僕に隠そうとするのだろう。
僕が事件のことを知っているから、隠すのだろうか。
何故だかそう思い至ってしまうと、徐々に思考に暗雲が陰り始めた。
彼女が北高出身だと知ったら、僕の中で事件と彼女が結び付く。少し考えれば事件当時彼女が在学中であっただろうことは容易に想像できるのだから、尚更だ。それが嫌なのだろうか。触れられたくないから?思い出すと悲しいから?あるいは
彼女が事件に何か関わっているから?
転がり続ける思考を、そこで慌てて止める。まさか。どうしてそんな話になるんだ。考え過ぎて妄想やこじつけの域に来ている。
隣に座る彼女を見た。彼女は黙って本を並べ続けていた。穏やかで優しくて、仕事ができて綺麗好きで、真面目な彼女のイメージと殺人という恐ろしい行為は結び付かない。
しかし否定しようとすると、また最初の違和感がゆらゆらとたちのぼり、抱いてしまった疑念が再び現れる。
明確な理由をもって否定できない以上、それはどうしても消すことができなかった。
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