アイシーユー
トイボックス
コインランドリーから
1
休みの日だというのに朝から雨が降っていて薄暗かった。窓を閉めていても雨音が流れ込んでくる部屋で、布団に入ったままスマートフォンの画面をぼんやりと眺める。よく考えれば大した内容ではないSNSや動画サイトを見ているうちに空腹に気が付き、画面の隅に表示された時計を見た。11時だった。もう午前が終わろうとしている。
溜息を吐きながら重い腰を上げ、冷蔵庫を開けた。大した物は入っていなかった。冷凍パスタを温めて腹を満たした。
機械的にフォークを口に運びながら、なんとなく窓の外を見た。空が青いということを忘れそうなほど、厚い雨雲に覆われて真っ白な空だ。雨粒が建物にぶつかる音が規則的に響く。
そもそも出かける用事など無いが、雨だとコンビニにすら行く気が無くなる。夜になれば止むという天気予報を信じ、それまで家の中に籠っていることにした。
18時を過ぎて、ようやく雨は上がった。溜まった洗濯物を適当な袋に詰める。今週は雨ばかりだった。こういう時はコインランドリーに頼るしかない。
アパートのドアを開けると外はいつの間にか夜の中にあって、少し驚いた。一日家の中で過ごしていると時間の感覚が無くなる。今日自分が何をしていたのか考えてみたが、よく思い出せなかった。記憶に残らないほど何事も無く、ただただ時間を消費してしまったのかとがっかりした。
濡れたコンクリートの地面に街灯や信号や車のライトが反射して光る。雨は止んだばかりらしく、時々額に冷たい水が降ってくるが、傘は必要なくなった。毎日通うにはやや遠い道のりを散歩がてらのんびり歩いた。
同じ洗濯機が並ぶ狭い空間。コインランドリーというものはいつ来てもあまり人が居ない。無人の店の中で洗濯機の稼働音だけが聞こえた。
回転する他人の洗濯物が誰かの生活の気配を感じさせる。不思議なような、親近感のようなものを覚える。コインランドリーに来るといつもそう思う。大学卒業後一人暮らしを始めてから、天候に左右されず、乾燥機も使うことができるコインランドリーを次第によく利用するようになった。
家から持ってきた服やタオルを洗濯して、乾燥機に入れ、待っている間にコンビニに行った。
適当に雑誌を立ち読みして、飲み物と明日の朝食を買って戻ってくると、店の中には人が居た。女性が一人、椅子に座って文庫本を読みながら、洗濯が終わるのを待っていた。
僕の存在に気付いた彼女が視線を上げた。目が合う。
昼間は何とも思わないが、夜になるとコインランドリーの蛍光灯は少し明るすぎる。青白い光で夜の中に浮かび上がった空間に、二人の人間が吸い寄せられ、出会う。蛾みたいに。
彼女は戸惑ったように僕に会釈をした。
その仕草を見て、ようやく自分が彼女を見つめ続けていることに気が付いた。
「あっ、すみません。なんかじっと見ちゃって。いや、何も無いんですけど…あ、洗濯待ちですか?」
「…まあ」
「僕も洗濯してて。取りに来たんですけど…まだ回ってますね、はは」
僕の視線を追って、彼女も乾燥機を見た。コンビニに行く前と変わらず回り続けている乾燥機には、残り時間10分と表示されている。
「…そうですか」
彼女がふっと鼻から息を漏らして表情を緩めた。僕も同じように笑った。慌てるあまりに変なことを言っていることは自覚していたから、彼女が笑ってくれて安心した。
彼女と少し間を空けて、僕も椅子に座った。
「…今日はずっと雨でしたね」
気を遣っているのか、無理やり話題を探し出すように彼女が言った。てっきり会話は終わったものと思っていたから、彼女の方から会話を続けようとしてくれたことに驚いた。
「え?あっ、そうですね」
「洗濯できなくて、困っちゃいました」
「ですよね。僕も、今週雨ばっかで、洗濯物溜まっちゃって」
彼女は相槌代わりにふふっと笑って、持っている傘の先にできた小さな水溜まりを見た。
僕は肩のあたりで切り揃えられた彼女の髪を見ていた。少し茶色がかった髪が揺れて、俯いた彼女の耳や頬を隠した。
一目惚れというやつだった。
可愛いより綺麗と言う方が似合う人だった。話し方にも笑い方にも落ち着いた雰囲気があって、彼女が着ているTシャツの灰がかった水色も、彼女のそんな性格の表れのように思えた。対照的に僕の挙動の不審さが目立った。不自然にキョロキョロと辺りを見回したり、首の後ろに手を遣ったりしながら、途切れかけた会話をなんとか続けようと、僕は彼女の手元にある文庫本に目を落とした。
「読書、好きなんですか」
「あぁ…そうですね、好きです」
好きですか?と彼女は逆に僕に訊き、僕は「まぁその、時々読みますね」と読書はほとんどしないけれどそう答えた。
「オススメとかあったら、教えてください」
「オススメかぁ…」
少しでも長く話したくて適当に付け加えた言葉を、彼女は真面目に受け取って思案した。斜め上を見上げる瞳に蛍光灯の光が当たり、薄茶色に透き通った。
「こういう時、何か持ってたら良かったですね。布教用」しばらく考えた後、彼女は冗談めかして笑った。
「じゃあ…今度、貸してください。オススメの本」
勢いでそんな台詞が口を衝いて出た。言っている途中で自信が無くなって、声が尻すぼみになる。
彼女は驚いた様子で僕の顔を見つめたまま黙っていた。
「あ、えっと…ここ、よく来るんです。今日みたいな雨の日とか。だからもし大変じゃなければここでまた…」何かの言い訳をするように早口で捲し立てる。
「…ずっと待ってるんですか?私が来るのを」
「え?はい…!い、いや、出来ればいつ来るか教えてもらえたら嬉しいですけど…」
しどろもどろな僕を見て、彼女は噴き出すように笑った。
「来週、雨が降ったらまた来るかもしれません」
彼女の瞳に吸い込まれながら、頭がゆっくりと彼女の言葉を噛み砕いた。
来週、彼女がまたここに来る。
揶揄われたのかと、探るように僕は「はい…」と呟いた。けれど喜びは隠しきれず、頬に笑みが零れてしまう。そんな僕を見て、彼女は微笑んだ。
ピー、と電子音が鳴り、二人して視線を向ける。いつの間にか乾燥機が停止していた。
「あ……終わりました」
「そうですね」
「じゃあ…」
「はい」
店を出る時、振り返って彼女に会釈した。同時に彼女も少し頭を下げた。10分前に店の入口で目が合った時と同じような、なんでもない優しい他人の表情だった。僕だけが何かを意識しているようで恥ずかしくなった。
店を出て数歩歩いたところで窓ガラスに自分の姿が映っているのが見えて、足を止めた。無地のTシャツにジャージ、足元はサンダル。手にはコンビニの白いレジ袋。もう少しまともな格好をして来れば良かったと、顔を歪めた。
それから、週間天気予報を見るために僕は気象情報を気にするようになった。朝のニュース番組、通勤電車の車内案内ディスプレイ、とにかく天気の情報が目に入る度に土曜日を探した。ずっと曇りマークだったが、週の後半に降水確率が上がった。
土曜日が雨にならないかと期待していた。小学生の頃、台風が接近するとどうにか休校になってくれと祈りながら気象情報を見ていたのを思い出した。
正直に言えば、1週間もあれば記憶は朧げに溶けていき、彼女に出会った時の高揚した気持ちも忘れていった。自分が本当に彼女に会いたいと思っているのかもよく分からなかった。けれど細部を失った後に、あの夜の期待感だけが残り続けていた。
土曜日の朝、カーテンを開けると空は一面雲に覆われていて、ぼんやりと白く発光していた。所々に千切れたような形の灰色の雲が浮いている。
寝癖を直し、ベージュの襟付きシャツを着た。付けっ放しにしていたテレビで天気予報が流れた。曇りマークの右隣に雨のマークが追加されていた。
小雨が降り始めたのは17時過ぎだった。窓ガラスに細い線状の雨滴がいくつか付いたところで、僕はそのことに気が付いた。
―来週、雨が降ったらまた来るかもしれません。
雨だ。彼女の言葉を思い返した。
もっと嬉しいかと思ったが、いざ本当に雨が降ると、僕は急に冷静になった。
来ます、ではなく来るかもしれませんと、彼女は表現した。それは遠回しに僕の申し出を断りたかったのではないか、とそう思えてきたのだ。真に受けてコインランドリーに行って、彼女が現れなかったら。浮かれた自分が恥ずかしくて惨めで、救いようがない。どんどん増えていく窓ガラスの雨滴を眺めながら、僕は迷っていた。そういえば、彼女が何時にコインランドリーに来るつもりなのか聞かなかった。来週と言われてちょうど1週間後だと思い込んでいたが、そもそも土曜日に来るのかどうかも定かでなかった。彼女は何も指定しなかったのだ。その時点で、本気で待ち合わせるつもりが無いのは明白だった。
雨はいつの間にか本降りになり、くぐもった雨音が部屋に響いていた。窓の外はすっかり夜の色を帯びている。時計を見ると、18時も半分過ぎようというところだった。
ようやく僕は外に出た。もしも彼女が来ていたら後悔するから、店に行って彼女が来ていないことを確かめて、安心しようと思ったのだ。
店の前に着いたのは19時を2分過ぎた頃だった。相変わらず明るすぎる蛍光灯が店の前のアスファルトまで照らしていた。
窓ガラスに目を遣ると、椅子に座る人影が見えた。
彼女だ。
驚きで心臓が跳ね上がり、僕は入口で立ち尽くした。彼女は両耳にイヤホンを挿していて直ぐには僕に気付かなかったようだが、少し間を置いてから、こちらを見上げた。
「本当に来るなんて」
彼女は面白いものでも見つけたように笑った。再び僕の前に現れた彼女は、やっぱり綺麗だった。薄れていた記憶の中の彼女も美しく彩られていった。
「…それは僕の台詞ですよ」僕は間抜けに立ち尽くしたまま、口だけを動かして言う。
文庫本を閉じた彼女が微笑んでイヤホンを外し、立ち上がった。
「これ、私の好きな本です」
差し出された物に視線を落とすと、紙製のカバーが掛けられた本だった。一瞬何だろうと思ったが、少し考えて、自分が本を貸してくれと言い出したことを思い出した。当然、本気で本が読みたかったわけではなく、もうそんなことを言ったのも忘れていた。逆によく思い出せた。
「あ…あぁ、ありがとうございます」
「ミステリーですけど。苦手でなければ」
「苦手じゃないです。大丈夫です。読み終わったら返します」
「いいですよ、もう読み終わった本ですし。差し上げます」
「いえ…!」僕は慌てて彼女の目を見た。
「返します。返しに来るので…」
彼女の瞳が動いて僕の顔を見上げる。丁寧な化粧が施された瞼に蛍光灯の光が反射し、星のように細かく瞬いた。
「またここに、取りに来てください」
僕の言葉を最後に、店に沈黙が下りた。
洗濯機や乾燥機の稼働音もしない。彼女は何かを考えるように視線を外していた。断ろうとする仕草に見えた。数秒前に言ったことを僕は既に後悔している。僕は彼女との接点を失いたくなくて、必死だったのだ。だが彼女にしてみれば僕の態度はあまりにも唐突で、強引ですらあった。
もう冗談にしてしまおうと口を開きかけた時、彼女の声が、声になる前の僕の声を遮った。
「分かりました」
「え…?」
すっかり断られるつもりでいた僕は、何か気の利いた台詞を続けるでもなく、魚のように情けなく唇を動かすことしかできなかった。
彼女は悪戯っぽい笑みを僕に向けた。僕が本当に言いたかったことを察して、その上での返答なのだと表情で伝えているように見えた。少なくとも迷惑には思っていないようだ。僕は舞い上がって、妙なテンションになっていた。それを隠すため、照れ笑いのような苦笑いのような微妙な表情を作った。
「そういえば、結構お待たせしちゃいましたか?きちんと約束したわけじゃなかったですし…」
冷静さを取り戻そうなどと格好つけていると、続いて僕はこの場所に来るまでの自分の行動を思い出した。傷つくのが嫌で、色々と理由を挙げてはうじうじと迷っていたのだ。そんなことをしている間に彼女を雨の中で待たせてしまったかもしれない。
彼女は首を振った。
「いえ、それほど。先週と同じくらいの時間かと思って…というか、本当にいらっしゃるとは思ってませんでしたし」
「なのに来てくださったんですね」
「なんか、面白かったので」
彼女は微笑んだ。三日月形に細めた目元が優しくて、可愛らしくて、僕もつられて微笑んでいた。
濡れた道路を走る車の音が聞こえ、ヘッドライトで店の外が一瞬明るくなった。
「じゃあ…えっと」
僕は会話を終える合図として彼女から視線を外した。
「本返す時連絡します。あ、連絡先…」
そこまで言って、初めから連絡先を聞き出すことが目的だったと思われるのではないかと心配になった。僕としては彼女と仲良くなりたかっただけで、連絡先を聞き出そうと企んでいたわけではなかった。どちらにせよ結果的に僕から声をかけて、連絡先を聞いたのだから変わらないのだが、この時はそんな体裁を気にしていた。
幸い、彼女はそこまで気にしなかったようで、すんなりとポケットからスマートフォンを取り出した。
差し出されたQRコードを読み込むと、僕のスマートフォンの画面に彼女のものらしきアカウントが表示された。
「mizuno…」僕はプロフィール画像の下に書かれたアカウント名を読み上げた。
「私の名前です」
「ミズノさん…そういえば名前聞いてなかったですね。中川です」
「中川さん。登録できました」
「僕も登録しました。また連絡します。本、ありがとうございました」
「いいえ」
これが僕と彼女との出会いだった。
2
借りた本を読み終え、彼女に再び会ったのは二週間後だった。
彼女が貸してくれたのはミステリー小説だった。映画化した作品がいくつもあるような、普段本を読まない僕でも知っている有名な作家の作品だった。小説を読むのは中学生以来だったが、純粋に面白くて、たまには読書も悪くない、なんて思った。
『お借りした本、読みました!面白かったです!』
読み終えてすぐに彼女にメッセージを送った。その日の夜に返信が来た。
『本当ですか。気に入っていただけて良かったです。』
初めて届いた彼女からのメッセージに心が浮き立った。絵文字もスタンプもなく、文字だけが並んでいた。その一歩引いたような距離感が、コインランドリーで見た彼女の落ち着いた雰囲気に合っているような気がした。
『ミステリーがお好きなんですか?』
『ミステリーも好きですね。色々なジャンルを読みますけど』
『そうなんですか。貸してくださってありがとうございました。来週あたりお返しできればと思いますが、どうですか?』
『日曜日はいかがでしょう?夜用事があるので、昼だと嬉しいです。』
『分かりました!場所はまたコインランドリーで、13時でどうでしょうか』
『大丈夫です。了解しました。』
一通りのやりとりが終わり、スマートフォンをスリープ状態にすると、暗くなった画面に自分の顔が映った。嬉しそうに口角が上がっていることに気付いて、慌てて目を逸らした。
日曜日、僕は約束の10分前にコインランドリーに行った。まだ彼女の姿は無かったので、椅子に腰掛け、適当にSNSを見て時間を潰した。
5分ほど経ち、店の入口に人の気配がして顔を上げると、視線の先に居たのは期待通り水野さんだった。夜の暗闇と人工の灯りの下でしか見たことがなかった彼女が陽光を背に立っているのはなんだか新鮮だった。
「こんにちは。お久しぶりです」
「お久しぶりです…!今日はすみません、ありがとうございます」
「いえ。私の本を返しに来てくださったんですから」
「良かったらどうぞ、座ってください…」
彼女は僕の隣にちらりと目を遣った。彼女が視線を向けたのは僕が勧めた椅子ではなく、座面にコーヒーチェーンのプラスチックカップが置かれた椅子だった。僕がここへ来る途中でアイスコーヒーを2つ買って来たのだ。彼女はアイスコーヒーを見た後、ほんの一瞬だけ座ることを躊躇った。
しまった、と思った。本を返すだけならわざわざ座る必要も無いのに、さらに飲み物まで用意している。「ここで少し話しましょう」と言っているようなものだ。そして無自覚にも自分がそのつもりであったことに、僕は今さら気が付いたのだった。
僕はおずおずと柔らかいプラスチックカップを持ち上げ、彼女に差し出した。カップの外側に付いた水滴が掌を伝い、僕のジーンズに染みを作った。
「お礼…になるか微妙ですけど、良かったらどうぞ。砂糖とミルクもあります」言い訳するようにそう言った。
「ブラックで大丈夫です。ありがとうございます」
彼女がどう思っているのか表情からは窺えなかったが、今度は躊躇いなくカップを受け取って微笑んでくれた。僕は受け取ってもらえたことに少し安心して、短い咳払いで喉を整えてから彼女に話しかけた。
「この作家さん、初めて読んだんですけど面白いですね」
「面白いですよね。私も読んだのは2作くらいですけど」
彼女はコーヒーを一口飲みながら僕の話を聞き、答えた。
「休みの日も読書されるんですか?」
「そうですね…カフェに行って読んだり」
「へぇ、いいですね」
それきり、僕は口を閉じた。本について僕から出せる話題など何も無いのだ。本当は普段読書などしないのに、何故彼女に会う理由を本にしてしまったのか。無計画な数週間前の自分を呪った。
無言の時間が流れ、僕は気まずさを紛らすためにアイスコーヒーを何度も飲んだ。
「中川さんは」彼女が不意に僕の名前を呼んだ。
「休みの日は何をされてるんですか?」
目が合った彼女は、とても優しい表情をしていた。
「僕ですか?えっとそうですね…何でしょう、趣味とかあんまり無くて…ゲームとか…?」
思い出す振りをしながら何と答えるべきか考えてみたが、ゲーム以外に思い付くものが無く、既に読書の件で失敗しているから変に見栄を張るのはやめて正直に答えた。
「へぇ、どんなゲームを?」
「アクション系とかアドベンチャー系、ですかね…?」
僕は有名なタイトルを幾つか挙げた。その中の一つを、彼女が繰り返して呟く。
「私もやったことあります。子どもの頃ですけど」
「本当ですか」
「パズルみたいな謎解きが面白くて…色々シリーズありますよね。私がやってたのは何てタイトルだったかな…ちょっと忘れちゃいましたけど」
「僕も全作遊んだわけじゃないですが、最新作はやっぱりいいですよ」
「そうなんですか。普段ゲームやらないんですけど、子どもの頃好きだったし、気になってたんですよね、新作」
「グラフィックがすごく綺麗で。草原とか…街中も雰囲気があって、フィールドを歩いているだけでも楽しいんですよ。あと音楽も…」
僕ははっとして流れ出る言葉を止めた。彼女との会話が盛り上がった喜びと自分の好きなゲームの話で、熱が籠り始めた語り口に恥ずかしくなった。
「…めちゃくちゃ良いです」
「そうなんですかー」彼女は楽しそうに笑った。「ゲーム好きなんですね」
「まぁ…そうですね。はは…」
社会に出た大人の趣味がゲームというのは、一般的に誇って良いことなのかよく分からず、僕は曖昧に笑った。彼女は純粋に会話を楽しんでくれたようだったが、僕は別の話題を探すことにした。
「あとは…趣味というか、社会人になってから写真を撮るのが好きになって。たまにSNSにあげてみたり、とかですかね。強いて言うなら…」
「写真ですか、凄いですね!」
「いやそんなちゃんとしたやつじゃなくて、スマホで撮ったやつですよ」
「どんな写真ですか?風景とか?」
僕はスマートフォンで写真投稿がメインのSNSアプリを開き、上手く撮れていそうな写真を選んでタップした。今年の夏に行った、奥多摩の河原の写真にした。
「こんな感じのです」
「わー綺麗ですね!自然がいっぱいで…いいですねこういう所」
「同僚にアウトドア好きの奴がいて、そいつがよく遊びに誘ってくれるんです」
実は写真を撮ったり、それをSNSに投稿したりするようになったのも、その同僚・武井が僕の写真を少々大袈裟に褒めてくれたことがきっかけだった。同期入社の同い年で、入社当初から仲が良い。素より武井は他人とすぐに打ち解けてしまう明るさを持っているのだ。僕は心の中で武井に感謝した。写真の話をして、少しは格好良く見えただろうか。
僕は画面を眺め続ける彼女の横顔を盗み見た。
彼女が僕の話しやすい話題を探してくれて、そして僕の話を品定めするふうでもなく興味を持って聞いてくれたことを想った。上手く話せない僕を見かねてのことか普段からそういう人なのかは分からないが、彼女の優しい気遣いを感じた。素敵な人だと思った。
彼女が僕の視線に気が付き、僕は慌てて目を逸らした。
いつの間にか現れた客の一人が洗濯機から服を取り出し始めた。当然のことながらコインランドリーは店なので、疎らに客の出入りがあった。この場所は彼女を長く引き留める理由にはならない。
「あの…色々お話できて、楽しかったです」僕は言った。
「こちらこそ。コーヒーご馳走様です」
立ち上がり、別れの挨拶をする自然なタイミング。だが、何かが僕を引き止めた。
ここで彼女と別れ、その後はどうなるのだろう。僕はまた彼女に会う理由を見つけられるだろうか。思考する瞳が揺れる。彼女は何か言いたげな僕を待っていた。
「今度は、ご飯でもどうですか」
僕はずっと強引に彼女との接点をつくろうとしている。もっと格好良くスマートに誘えたら、と思うと情けない。けれど僕は一生懸命だったのだ。
「あの…ご迷惑でなかったら、なんですけど。大学時代によく行ってたスープカレーのお店があって。美味しいんですよ」
彼女は呆れているだろうか。
少し考える様子を見せた後、彼女は笑った。
「スープカレーいいですね。そんなに美味しいなら、食べてみたいです」
彼女の穏やかな話し方はまるで、幼い子どもに歩調を合わせて歩いているみたいだった。
3
長く続いた残暑も10月に入ると急に終わり、一気に秋めいた。街ゆく人々の服装もいつの間にか長袖に変わっていた。
僕と水野さんは下北沢駅から徒歩数分のスープカレー屋で、向かい合って座っていた。週末の昼時を迎えた店内は多くの客で賑わい、カップルらしき若い男女も数組居た。
グラスの氷水を一口飲んでから、彼女が口を開いた。
「カレー、どれも美味しそうですね。確か、大学時代によく来られてたお店なんですよね?」
「サークルの友達とこの辺でよく遊んでまして」
「何のサークルに入ってたんですか?」
「アカペラサークルです。コーラスとかパーカッションも楽器を使わず歌う…たまに特番でやってる、全国の大学生とか高校生とかが競う番組知りませんか?あんな感じです」
「あぁ!知ってます知ってます。凄いですね」
「あんなに上手くはなかったですけど…」
それでも、休日に集まって練習したり、定期的に学内外でパフォーマンスの機会を持ったりとそれなりに頑張っていたサークルだった。このスープカレー屋も、練習終わりによく訪れていた店だ。
「歌がお好きなんですか?」
「歌は好きですけど、だからって言うよりは、何か新しいことを始めたくて。高校までは運動部でしたから」
「いいですね、そういうの」
「水野さんは学生時代、何をされてたんですか?」
「大学時代は学祭の実行委員会に入っていたので、あんまりサークルって感じではなかったですかね。高校の時は演劇部でしたけど」
僕が演劇部ですか、と繰り返すと、彼女は曖昧に笑って「でも高校時代のことはあんまり覚えてなくて」と言った。あまり良い思い出が無いのかもしれない、と僕は思った。どんな人にも触れられたくない過去というのはあるものだ。僕はそれ以上何も言わなかった。
「そういえば、中川さんはお仕事は何されてるんですか?」
水の入ったグラスを触りながら、彼女は話題を変えた。
「あぁ、そういえば自己紹介らしいこともしてなかったですね。営業です。食品メーカーに勤めていて」
僕は鞄の中の名刺入れを探し、彼女に渡した。彼女は受け取った名刺を見ながら、そこに印刷されている社名を小さく読み上げた。比較的知名度の高い会社のため、彼女も知っていたのだろう。
「冷凍食品とかの…私も食べたことありますよ」
「ありがとうございます」
「今度食べたら、感想お伝えします。‟お客様の声”として」
冗談めかして笑いながら彼女は名刺を財布に挟み、代わりに自分の名刺を取り出した。
「名刺入れ、仕事用の鞄に入れたままで。財布に何枚か入れておいて正解でした」
水野真希、と彼女のフルネームが書かれた名刺には、大手化粧品メーカーの社名があった。大人っぽくて綺麗な彼女のイメージにぴったりだった。
「化粧品の…なんか、似合いますね」
「そうですか?」
「はい」
僕は彼女の名刺を丁寧に仕舞った。
「中川さんは、今の会社には新卒で?」
「はい。今2年目で…」
「2年目ですか、大変ですよね。…そしたら、私の方が3つか4つ年上かも」
「27ですか?」
「はっきり言わないでよ」
「すみません」
「仕事にはもう慣れました?」
「慣れて…どうですかね。全然仕事できないんで…向いてないんじゃないかって」
「そうなんですか?確かに営業って大変そう」
労働環境が過酷だとか社内の人間関係が悪いとか、そういうことではないが、仕事は憂鬱だった。僕はこれまでの失敗と不甲斐なさの数々をぼんやり思い出した。
「それに新人のうちは慣れないことも多いし、覚えることも多いし、毎日会社行ってるだけで偉いですよ。だから、仕事の楽しいところとか見つけるのは、これからなんじゃないですかね」
「そうですかね…」
「最初から何でも出来る人なんていませんから。私もまだまだですけど」
「水野さんは今のお仕事、好きですか?」
「好きですよ。大変なことの方が多いけど、振り返ってみるとやっぱり楽しんでるのかなって思います」
そう言って笑う彼女の耳元で揺れるピアスに、橙色の照明が反射して光った。僕はその輝きに見惚れた。
店員が2人分のカレーを運んで来て、スパイシーな香りが広がった。パプリカやら南瓜やら、色とりどりの野菜が皿から溢れんばかりに盛られている。わー、と彼女が小さく声をあげて嬉しそうにカレーを迎えた。
それから僕達はカレーを食べながら仕事の愚痴を言い合った。これまでよりずっと自然に笑い合っていた。僕は彼女に親しみを感じた。けれどその一方で、彼女は僕よりもずっと一人の大人として自立していて、余裕があって前向きで、どこかキラキラとしていた。彼女は憧れの人になった。
彼女の隣を並んで歩ける人間になれるよう、もう少しちゃんと頑張ってみようと思えた。
*
同月末の夜、金曜日の仕事終わりに彼女と待ち合わせをした。
スープカレーを食べに行った日以降、僕は時々彼女とメッセージのやり取りをしていた。僕は、前に彼女に借りた本と同じ作家の小説を1冊買って、感想を送った。彼女は僕が勤める会社の商品を食べて感想を送ってくれた。それから、面白い映画やゲーム、コンビニの美味しい新商品を見つけると教え合った。初めは僕ばかり話していたが、彼女からの連絡も増えていった。
チェーンの居酒屋には、来るべき休日に向け羽を伸ばす社会人達が集まっていた。平日の労働から解放され、店内は賑やかな笑い声に包まれている。
「んー…つくねは絶対食べたいし、お豆腐もいいなぁ…あ、餃子ある」
彼女はメニューを吟味しながら呟いた。少し暇ができるとメニューを開き、楽しそうに料理を選ぶ姿が可愛らしかった。
注文した卵焼きが、混んでいる割に早く運ばれて来た。僕はそれを見ながら何となく聞いた。
「卵焼き、甘いのとしょっぱいのどっちが好きですか?」
「私は甘いの派です。中川さんは?」
「僕も甘い方が好きです」
これはどっちかなー、と彼女が箸で1つ取り上げ、口に運んだ。「出汁巻きだ」と笑った。
「じゃあ、目玉焼きには何をかけますか?」
「派閥あるやつですね?僕は醤油です」
「おー、私も醤油です。友達はマヨネーズかけるって言ってて、ビックリしました」
「ソースとかケチャップとか、色々ありますよね」
「他にもないかなぁ、こういうの」
それから彼女は、朝食はパン派で、酢豚のパイナップルは少し苦手だと言った。僕も朝食にはパンを食べる。酢豚に関しては特にこだわりは無かった。彼女との共通点が見つかる度、それが特別なことであるように思えた。しばらく他の話題で盛り上がった後、同じ県の出身であることも分かった。
アリヤトザイマース、という溌溂とした店員の声を背に店を出た時、スマートフォンを見ると21時を過ぎたところだった。
暖房と店内の熱気とアルコールで上気した頬を風が冷ます。僕達は駅までゆっくり歩いた。
交差点の前の広場で、ゾンビや死神らしき格好をした人達が写真撮影をしていた。それを見て明日がハロウィンであることを思い出した。
「うわぁ、凄い。みんな仮装してますね。そういえば明日ハロウィンですもんね」
「本当だ。そうですね」
ナース服やメイド服、警察風の衣装はハロウィンと一体何の関係があるのだろう、と僕はぼんやり思ったが、誰もそんなことには疑問を持たず、ハイテンションでポーズを決めていた。ハロウィンの大騒ぎの場としてすっかり定着した渋谷駅周辺は、明日はものすごい混雑だろう。
「ハロウィンっていつからこんなに盛り上がるようになったんですかね。そういえば地元にも、仮装してる人達いましたよ。さすがに東京ほどじゃないし、大きなイベントも無いんですけど。高校生とか大学生とか、若い人が集まって」
「小さい頃はそんなに盛り上がる行事じゃなかったような気がしますけどね」
「そうだ、地元のハロウィンと言えば、僕が中学生くらいの時、夜道を歩いてたら顔とか手に血が付いた女の人とすれ違って、すごいびっくりしたんですよ。何事かと思って」
彼女が仮装集団から視線を外し、こちらを向いた。
僕は当時、学習塾に通っていて、家に帰る時間も遅かった。ある夜の帰宅中、塾と自宅のちょうど中間あたりで1人の女性とすれ違った。その辺りには住宅地の中にぽっかりと林のような敷地があって、背の高い木々が街灯を隠しており一段と暗かった。女性は真っ黒なワンピースを着て、黒いタイツに黒い靴を履いていたため、完全に闇の中に沈んでおり、通りがかった車のヘッドライトが彼女の正面を照らし出すまで僕は人が歩いていることにすら気付いていなかった。
だから目の前に突然人が現れたことにも驚いたが、それ以上に、女性の頬や手の甲に付着した血液のような赤い液体を見て、僕は息を呑んだ。思わず、女性が僕の横を通り過ぎて行くのを目で追った。
「でもその日ハロウィンだったんですよね。だから、駅前とか公園とかに集まって仮装してた人だったんだろうなって。でも怖くないですか?普通に歩いてたら」
「それは怖いですね」
「しかも次の日、すれ違った辺りで女子高生が刺されてるのが見つかったって話があって。すごい怖かったですよ。まぁなんか、ストーカー男に襲われたとか恋人に殺されたとか色々言われた挙句、よく分からないまま話題に上がらなくなったんですけどね」
遺体が見つかったのは、女性とすれ違った辺りの林の中だという。早朝、犬の散歩に訪れた人が発見し、その時にはもう亡くなっていたという話だ。
ふと隣の水野さんを見ると、無表情で僕の目を見つめていた。僕はハッとして謝る。
「すみません、こんな話…」
確実に楽しく食事をした後にする話ではなかった。怖がらせてしまっただろうか。微妙に温度の低くなった空気を取り繕おうと、慌てて話題を変える。
「…それにしても、明日は休みですね。何しようかな」
「ゲーム?」
揶揄うように言う彼女の表情が緩んだのを見て、少し安心した。
「そうですね、ゲームですかねー…あ、明日ハロウィンの対戦イベントがあるんでした」
「ふふ、頑張ってね」
「頑張ります」
前方に駅が見えてくる頃、話題が尽きた僕達は黙って歩いていたが、どこか心地の良い沈黙だった。規則的なリズムに乗って歩く彼女の髪を、向かい風が踊らせた。
信号を渡り、彼女と別れる時が近づいてくる。いいのか?このまま別れて。最後に何か言うべきことは。
僕は葱サラダの匂いが残る空気の塊を一つ吐き出した。
「あの…運命の人って信じますか?」
アルコールで弛んだ頭と、彼女と過ごす時間に浮かれた気分が、僕にそんなことを言わせた。
甘い卵焼きが好きなこと、目玉焼きに醤油をかけること、朝食にパンを食べること、同じ県で生まれ育ったこと、そして会う度に彼女に惹かれていくこと。
あの雨の日にコインランドリーで出会ったのはきっと、運命だったのではないか。僕はそんなことを考えていた。
東口に着き、駅構内のアナウンスや電子音、人々の喧騒に周囲は包まれる。
「んー…どうかな」彼女は微笑んだ。
「でも、運命でも、そうでなくても、人との出会いは大切にしなくちゃね」
「そうですね」僕は力強く頷いた。
彼女は軽く手を振って、東口の人の波に乗って去っていった。
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