◇
父から報せを聞いた悠一は、いても立ってもいられずに家を飛び出した。新しくなった我が家とは、小学校を挟んで反対側。歩くと少し遠いが、自転車を飛ばせば十五分くらいで着くところに、さくら荘はある。
ない。
本当に、さくら荘がなくなっている。父の話の通りだ。汗でぐっしょり濡れた額を、拳で拭った。
風が吹けば飛んでしまいそうな木造の建物は姿を消し、ひび割れて隙間から草が芽吹いたアスファルトは剥がされ、更地になった土地からは、仄かに土が薫っている。
取り壊してしまうのなら、壁の中に逃げ込んでしまった一子を探すことだってできたのではないかと頭を過ったが、いや、とすぐに振り払う。
あの時点で一子は既に、ハムスターとしては高齢だった。野生の、それも真冬の環境は、生まれた時から温かい人の手の中で育ってきた一子には厳しかっただろう。きっと、そう長くは生きられなかったはずだ。
せめて一子の亡骸だけでも、誰かが見つけてくれてはいないだろうか。
いや、とそれも振り払う。アパートの解体には、普通大きな重機が使われる。悠一の手のひらに収まるくらいに小さな一子の存在になんて、誰も気付けたはずがない。
せめて、と悠一は思う。
せめて、運良く、傷ひとつ付かず。何かの拍子に、あの土の中に埋めてもらえているといいなと。そんなことを願うくらいしか、悠一にはできなかった。
「おや。あんた、御園さんとこの子じゃないかい?」
振り返るとそこには、さくら荘の大家、佐倉が立っていた。悠一は彼女と何度かすれ違ったことがあるだけだが、母とは頻繁に恐ろしく長い立ち話をしていたので、よく覚えている。
「大家さん、こんにちは」正直なところ、彼女と話をするのは少し億劫だったが、やはり気にはなるので訊ねてみる。「アパート、どうして取り壊しちゃったんですか?」
すると案の定と言うべきか、佐倉が「それがさあ、聞いとくれよ」と声のトーンを上げたので、ああ、これは長引くぞ、と悠一は腹を括った。
「あんたたちが退去した後、修繕ついでに今井さんの部屋にも点検入れたんだよ。今井さんって分かるかい? あんたの部屋の隣、二〇五の今井さん。ほら、美人の親子のさ」
ああ、今井さん。と思い出す。登校時刻が近いのか、制服を着た中学生らしき女の子とは、玄関を出た時に何度か鉢合わせたことがあった。綺麗なお姉さんだな、と思っていた。
「なーんか杉田の野郎が『今井さんが何か隠してる』なんて、わけ分かんないことを必死に言っててさ。あんまりうるさいから、まあ形だけでも調べたことにしとこうかと思ってね」ああ、杉田ってのは、一〇五の、うるさいじじいだよ。と補足が入る。「で、部屋に入ってみたらどうだい。今井さん、本当にとんでもないものを隠してたんだよ。まあ、杉田の言ってたようなもんではなかったけどね、あたしにとっちゃこっちの方が大問題だ。壁に大穴が空いてたんだよ」
悠一は『杉田の言ってたようなもの』の方が気になったが、そんな質問を挟む隙もない。
「そしたら今井さん、『外出から帰ったらいつの間にか空いていた。空き巣か何かの仕業なんじゃないか』なんて言っちまってさ。まったく、そんなわけないのにね。うちみたいな貧乏人だらけのアパートに、空き巣が寄りつくはずもあるまいし。仮に空き巣が入ったとして、壁に穴を空ける意味だって分からない」
そういえば。と、ある日のことが頭を過った。御園邸の竣工式が終わってさくら荘に帰ると、空き巣に入られたかもしれない、と言って両親が慌て始めたのだ。玄関の鍵が掛かっておらず、物の配置が記憶と違ったことからそう思ったらしい。
しかし、そもそもさくら荘には貴重な物は置いておらず、唯一価値があると言える現金の入った鞄はその日、父が持ち歩いていた上に、他になくなった物も思い当たらなかったため、結局は気のせいだろうということに落ち着いた。
だが悠一は、部屋の壁にあちこち小さな穴や傷が増えていることに気付いていた。きっと空き巣なんかではなく、一子が帰ってきて部屋を荒らしたのだと期待に胸を弾ませたが、その後も一子の影を見ることはなかった。
ならばあれは、一体誰の仕業だったのだろう。
「まあ空いちまったもんはしょうがないからね。さすがに放っとくわけにも行かないし修理しようと思ったんだけど、業者に見てもらったら、壁の内側もボロボロになってて、大事な柱までやられちゃってるのが分かってさ。修理するには、アパート丸ごと建て直した方がましなくらいの費用がかかるって言うんだよ。あたしも結構悩んだんだけどね。壊れた柱を放ったらかそうもんなら、大きな地震でも起きたら大変なことになるし、かと言ってあんな古いアパートの修理に大金かけるのも馬鹿らしいし、結局、仕方なく取り壊すことにしたんだよ」
「それは、残念でしたね」悠一は、やっと相槌を打つことができた。長い潜水から帰還したペンギンの気分だ。
「まったく、いつから鼠が棲みついてたんだろうね。柱も壁も、奴らの仕業でほんとに酷い有様でさ。でも、昔からなんでか、二〇五号室だけ『家鳴りが酷い』って苦情がよく来てたから、もしかしたら随分前から傷んでたのかもしれないね。あんた、隣に住んでて何か気になる物音がしなかったかい」
ぎくりとしながら「さあ。分かりません」と答える。
柱を破壊したのが鼠の仕業と聞いて、悠一は内心どぎまぎしていた。傷んでいたのが悠一たちが住んでいた二〇三号室側の壁なら、まさに一子が逃げ込んだ壁だからだ。
いや、まさか。たしかに、多少一子が壁を齧った可能性はあるが、佐倉の言う通り以前から傷んでいたなら犯人は一子ではないし。いくらなんでも、あんなに小さな身体の一子がたった一匹で、アパートに致命傷を与えるほどに壁や柱を喰い壊すなんて、できるはずあるまい。
そうかい、と佐倉は言い、洪水のように止まる気配のない話を続ける。「アパートごと取り壊すことになっちまったから、穴の空いた壁の修繕費は請求しなかったけど、それでも今井さんには申し訳なかったよ。一番大変な時に追い出す形になっちまってさ」
大変って、何かあったんですか? と尋ねる前に答えが返ってくる。
「今井さんのところ、赤ちゃん生まれたんだよ。ちょうど、退去の期限だった頃が予定日でね。なんとか間に合って可愛い赤ん坊の顔は見せてくれたけど、出産だけでも大変な騒ぎだったのに、家のことでバタバタさせちまうなんて。まあ、当の本人たちは『花瓶が一億円で売れたから心配いらない』なんて冗談飛ばしてあっけらかんとしてたけど、気い遣わせちまったんだろうね。美雪さん、気の利く人だったから」
あの女の子に、弟か妹ができたわけだ。随分と歳の離れたきょうだいになるんだなあ。などと、悠一はぼんやり思った。
「この土地はどうするんですか?」
またアパートができるのだろうか。住んでいた時の印象よりは広く感じるが、建物がなくなってもまだ、狭い土地だ。
「さあねえ。まだ考え中だよ。さすがにあたしも今から新しくアパートを建てようって歳じゃないしねえ。畑でもやるか、売りに出しちまうか」
その時。不意に、粘つくような湿った熱風が、顔に吹きつけた。
ギシギシ、キーキー、という奇妙な音が聞こえた気がして顔を向けると、その先にあったものに、悠一の心臓は跳ねた。
貫禄のある褐色の幹に、青々と茂る葉。その隙間から覗く果実が、一子のお尻のように見えたのだ。
「あんな樹、ありましたっけ」
がらんとした土地の隅に生えた一本の樹を、悠一は指差した。
「ああ、あれはアンズの樹だよ。ずっと前からあったんだけど、気付かなかったかい?」
言われてみれば、駐車場の端にひっそりと、植木があったように思う。でも。
「ぼくが見たのとは、随分違う気がします」
すると佐倉が、あっはっはっ、と愉快そうに笑う。
「見違えただろう? いやね、これにはあたしもびっくりなんだよ。あの樹、あたしに引けを取らないくらいの年寄りでさ、もうここ何年も実をつけてなかったんだけど。今年になって急に花が咲いて、あんなに見事に実がなったんだ。不思議なもんだよねえ。今頃になって、まるで生まれ変わったみたいにさ」
強い風が吹いた。アンズの樹が枝葉を揺らす音が、ギシギシ、キーキーと聞こえる。
「大家さん。ぼく、アンズ園がいいと思います」
さくら荘の跡地、小さな敷地一杯に、一子と同じ色の木の実が踊る夏を、思い浮かべた。
アンズの樹は、可笑しそうに身体を揺すっている。ギシギシ、キーキーと、笑い合うように。
壁に耳あり、障子なし 七名菜々 @7n7btb
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