⬜︎203⬜︎

 失踪したハムスターはついに見つからぬまま、この日を迎えてしまった。元々必要最低限しか持ち込んでいなかった荷物の運び出しは瞬く間に終わり、迎えの車が来れば、御園たちはこの部屋を発つことになる。

 悠一は名残惜しそうに、壁に空いた穴の中を覗き込んでいる。四角い床と四方を囲う壁。それ以外の物が何もなくなった部屋の中にハムスターが隠れられる場所があるとすれば、あの穴の中だけだ。

 杏子色の美しい毛並み。オスのキンクマハムスター。彼に『一子』と名付けたのは、二年前、当時小学一年生だった悠一だ。


「うわあ、小さいねえ。可愛いねえ」

 真新しいケージの中を、悠一は夢中になって覗き込んでいる。「早く滑車で遊んでくれないかな」「おやつあげてもいい?」などと頻りに言い、大はしゃぎの様子だ。

「こら、悠一。慣れるまではあんまり構っちゃ駄目って言ったでしょ。ハムスターちゃんが怖がっちゃうからね」祐子が悠一を抱き上げ、ケージから引き離す。

 ケージの中にいるのは、生後三ヶ月の、まだ小さなキンクマハムスターだ。悠一がクラスメイトから譲り受けた、彼にとって初めてのペットだった。

「悠一。こっちに来て、一緒にその子の名前を考えよう」

 御園が誘うと、悠一は顔を輝かせてこちらへ駆け寄り、名前の候補が書かれた手帳を覗き込んだ途端に、まるでスイッチを切ったように顔の輝きを消した。

「お父さん、酷いよこれ。なんなの、『ハム助』って」

「良いじゃないか。ハムスターだから『ハム助』。分かりやすくてさ」

「良くないよ。全然良くない。お父さんだって、人間だからって『ヒト助』なんて名前付けられたら嫌でしょ」

「それは」言えてる。だろうか。

「この、『金太郎』っていうのは? キンクマハムスターだからってこと?」

「そう。『金太郎』からは『熊』も連想できるし、キンクマハムスターにぴったり」とそこまで言って、悠一の顔に軽蔑の色が浮かんでいるのに気付き、御園は自信をなくす。「だと思ったんだけど」

「あのねお父さん。お父さんだって、モンゴロイドだからって『モン太郎』なんて名付けられたら嫌でしょ? ちゃんと真面目に考えなよ」

「それは」言えてる。かもしれない。

「ねえお父さん。ハムスターはぼくのペットなんだから、ぼくが名前決めていいでしょ?」

「いいじゃない」と祐子が賛同する。「どんな名前にするか、もう考えてるの?」

「うーん。まだ決めてないんだけど、この子はオスだから、『一』の字は入れたいな。御園家の男はみんな名前に『一』が入ってるんでしょ?」

「『一』を入れるなら、ご先祖様と被らないように気をつけないとね。次男も三男もみんな『一』が付くから、結構大変だぞ」御園も悠一の名前を付ける時には苦労したものだと懐かしく思う。

「それから、このハムスター、毛の色がすごく綺麗だから、それも名前に入れたいな。何色って言うのかな。金とも少し違うし、オレンジでもないし」

「キンクマちゃんの色は、アプリコット色って表現されることが多いね」

「アプリコットって? 『アプイチ』、じゃ変だもんなあ」

「日本語で言うとアンズ」

 こう書くのよ、と祐子はペンを取り、丸みのある整った字で『杏子』と書いて見せた。

「アンズのことかあ。でも、『アンイチ』じゃちょっと言いにくいよね」

「そうねえ。あ、アンズの『アン』は『キョウ』とも読むね」

「ちょっと待って。『キョウイチ』じゃ僕と同じになっちゃうから、できればやめてほしいな」

「あら、うっかりしてた。ハムちゃんと同じ名前じゃ、ちょっと格好つかないか」

「そうだ!」悠一が大きな声を上げた。「アンズの『アン』じゃなくて、『』の方を取ったらどうかな」

「なるほどね。『ズイチ』、『コイチ』」少し聞き慣れない響きだが、『コイチ』は悪くないかもしれない。

「逆だよお父さん。『イチコ』だ」

 悠一は御園の手帳に、『一子』とページ一杯の大きな字で書いた。

「『一子』? それはちょっと、オスに付けるには可愛らし過ぎる気がするけど」

「お父さん、そういうの古いよ。可愛い名前のオスがいたっていいじゃん。だってこの子、こんなに可愛いんだし」

「そりゃあ可愛いけどさ。でも、最後に『子』が付くのは女の子の名前だよ」

「お父さんの考えは古い。本当に古いよ。あのね、小野妹子だって男の人なんだから」

 モンゴロイドだの小野妹子だの、よく知っているものだと感心する。

「でもその人、お父さんよりずっと昔の人なんだけど」

「お父さんは飛鳥時代より古いんだよ」


 そうして御園は言いくるめられ、彼の名前は『一子』に決まった。

 既に二歳を過ぎていた一子とは、いずれにしても、そう遠くないうちに別れを迎えていただろう。あんなに可愛がっていた一子の死を目の当たりにせずに済んだのは、悠一にとって幸いだったのかもしれないなどと思うのは、身勝手な思考だろうか。

 もぞもぞと動き回る、小さくて温かい命の感触は、今も手のひらに残っている。

 僕たちはこのさくら荘で、大切な友人を失った。

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