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 キーキーと一子が騒ぐ声が聞こえる。「すげえ、なんだこれ! なんでこんな所に金が入ってんだ!」と言っているようだ。

 よかった、思った通りだった。前の住人のお婆さんが隠したお金が、まだ僕の中に残っていたのだ。一子に穴を空けてもらった所が痛くてあまり頭が回らないが、どうやらあのお金のおかげで、今井親子は助かったらしい。僕はほっと胸を撫で下ろした。

 と言っても、『撫で下ろす』というのは比喩表現で、僕には胸を撫でるための手はないし、そもそも胸がどこかも定かじゃない。でも、腕の生えた人間だって、本当に胸を撫でているわけではないんじゃないかと、僕は想像している。

 安心したせいか、どうでもいいことが、ふと気になった。

「ねえ。そういえばさっき、誰かが『ハムスター』って言わなかった? 部屋にハムスターがいるの?」

「いるも何も、おれがハムスターだっつの」

「は?」

 あまりに突飛な話に、一子の言うことがすぐには理解できない。

「何言ってるんだ。そんなはずないよ。だって一子、普通に人間の言葉を喋ってるじゃないか」

「いやあ、おれは普通にハムスター語で喋ってんだけどなあ」

「嘘だよ。僕、ハムスター語なんて分からないもの」

「そらああれだよ。なんかこういうこと言うの照れ臭えけどよ、言葉じゃなくて、心が通じ合ってんじゃねえか? おめえの言葉だってギシギシとしか聞こえねえのに、なんでか言ってること分かるしよ」

「えっ! そうだったの?」驚きのあまり、身体にピシピシと亀裂が入る。

 そう言われてみれば僕も、一子の声は『キーキー』としか聞こえていない気がする。どうして今まで気付かなかったのだろう。あまりにも普通に会話ができるから、気にしたことなんてなかった。

「でも、どうして二〇四号室にハムスターが? 一子、一人暮らしだって言ってたよね? ハムスターって賃貸契約できるの?」

 すると一子は、キーキーと声を立てて笑った。「おめえ、ハムスターが契約なんてできるわけねえだろうが。おれはあれだ。おめえの部屋の隣の、悠一んとこから逃げ出したんだ」

「悠一って」聞いたことがある名前だと記憶を探ってみると、すぐに思い出すことができた。「御園さんのお子さんの、悠一君?」

「ああ、そうだな。そんな名前だったかもしれねえ。そうだ、御園悠一だ」

「一子、御園家のペットだったの?」

「まあそうなるな。ペットっつうよりかは悠一の弟分みてえなもんだけどな」

「じゃあ、金熊ってなんなの? 君は初めて会った時、『金熊一子』って名乗った。ペットって飼い主と同じ名字を名乗るものじゃないの?」

「そんな決まりは知らねえけどよ、おれはキンクマハムスターの一子だ」

「キンクマって、ハムスターの種類の名前だったのか」

 ゴールデンハムスターやジャンガリアンハムスターなら僕も聞いたことがあったが、キンクマハムスターという種類は初耳だ。今まで二〇五号室にはハムスターに詳しい人が住んだことはなかったのだろう。

「でも一子、それは名字じゃないよ」

「そうなのか? 悪い悪い。名字ってなんのことかよく分かってなかったんだ。とにかくおれは、隣の悠一の家から逃げ出した、ペットのハムスターだ」

「でも、それっておかしいよ」僕は混乱する頭を必死に回転させる。「二〇五号室の隣は二〇四号室で、御園さんはたしか、二〇三号室の住人のはずだ」

「いやあ、番号はおれも分かんねえけどよ。隣が悠一ん家なのは間違いねえぜ?」

「それってつまり、隣は二〇三ってこと?」

「さあなあ。そうなんじゃねえの?」

「どうして二〇五の隣が二〇四じゃないの?」

「人間の考えることは知らねえよ」一子はキーキーとおかしそうに言う。「おれはハムスターだからな」

 僕はまだ、一子の話が信じられない。「でも僕、御園さんの声なんて、聞いたことないよ。お隣なら声が聞こえるはずだ。一子の声だって聞こえてるんだから」

「そらあ多分、壁のせいだな」

「僕のせい?」

「ああ、そうじゃなくてよ。壁ってのはよ、おれも入ってみて初めて知ったんだけどな、一枚の板じゃねえんだな。なんつうか、隣同士の部屋の壁と壁の間に、隙間が空いてんだ。おれは悠一の部屋の壁に空いた穴からその隙間に入ったみてえだな。んで、おめえは多分、そっちの部屋の壁の、板かなんかなんだろうな。その証拠に、悠一の部屋側の壁を齧ってもおめえは痛がらねえし、多分そうだ。この壁、表の板以外にも、なんかクッションみてえなのとか色々詰まってて、隙間にいても部屋ん中の音はよく聞こえねえんだよ。だから多分、おめえん所から悠一の部屋の音は聞こえねえんじゃねえかな」

「え、ということはもしかして、今までもずっと、隣の部屋にも人は住んでたってこと?」

 一子が来るまで背中側から物音を聞いたことがなかったのは、空室だからではなかったのか。

「知らねえけど、そうなんじゃねえか」

「そんな」

 自分が信じて疑わなかったものが、あれよあれよという間に次々に覆って、僕は何ひとつ理解できなかった。

 それは例えるなら、地球はピンク色だったとか、海水は甘いとか、ペンギンが空を飛ぶとか、大袈裟に思われるかもしれないが、当たり前過ぎて疑う余地のない常識がある日突然書き変わってしまったような衝撃で、自分の存在さえも煙のように消えてしまいそうな、そんな頼りない気持ちになるのだった。

「一子は」

 僕はキシキシと、喘ぐような掠れ声で言った。どうかそれだけは、消えてほしくない。

「一子は、どうするの? 御園さんの家に、帰っちゃうの?」

「いやあ、おれはもう帰らねえって決めた」

 一子はキーキーと可愛らしい声で笑う。

「おめえの最期まで側にいてやるよ」

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