⬜︎205⬜︎

 あまりの事態に理解が追いつかず、二〇五号室にいる人間は全員、凍りついていた。それは当然、死体も含めてだ。

 部屋の中で唯一動いているのは、キーキー鳴きながらちょこまかと床を駆け回る埃まみれの物体で、よく見ればその毛皮は、オレンジ色ともベージュ色とも淡い金色ともつかない美しい色をしていて、害獣として忌み嫌われる鼠とは全く別の、愛らしい動物だと気付く。

「あ、ハムスター」

 自分の喉が振動した感覚はなかったが、耳から入ったその声は、確かに姫子自身のものだった。

 真っ白だった頭に、少しずつ色が戻ってくる。頬は濡れ、しっかりと意識しなければ、正しいリズムで呼吸ができない。心臓はドクドクと脈打ち、冷え切った指先に血流を送っている。首元に向けられた震える刃先と、耳にかかる生温かい吐息、最後に一瞬見た母の恐ろしい形相が、脳裏に浮かぶのを掻き消しては、また浮かぶ。

 最初に硬直が解けたのは、兄貴が姫子を殺そうとするのを窓辺から眺めていた、和也だった。

「うわ、何これ。お金? なんでこんなところから。ていうか何? なんで穴空いたの?」和也はどこから驚くべきか分からない様子だ。

 兄貴は先に姫子から殺すことを決め、サバイバルナイフを取り出した。姫子の頭を掴み、唾を飲み込み、頸動脈にナイフを近づけ、また離し、息を吐いて、ナイフを握り直す。そんなことをもう何度も繰り返した時だ。

 バキバキ! という激しい音が、部屋に響いた。死体以外、全員が一斉に音の方を振り返ると、今までただの平坦な面だったはずの壁に亀裂が走り、膝下ほどの高さから、メリメリと板が倒れていくところだった。

 壁に突然巨大な穴が空いたことにも驚いたが、何より皆を呆然とさせたのは、破れた板を押し倒したのが、大量の札束の洪水だったことだ。

「え、これ、すごいよ。いくらあるの? 君たちのお金?」和也が札束の山の前で屈み、姫子たちに問い掛けた。

 床を駆け回っていたハムスターは、もしかすると姫子の幻覚だったのだろうか、既に姿は見えなくなっていた。腹に大穴を空けた壁は、ミシミシと身体を震わせているようだった。

「さあ、分かりません」

 美雪は驚きながらも、落ち着きのある声で答える。姫子を殺そうとした兄貴に向けていた形相は面影もない。

「随分たくさんありますね。数えるの、手伝いましょうか?」

 美雪の何気ない申し出につられたのか、和也は「ああ、うん。お願い」と言いながら、姫子たちをぐるぐる巻きにしていたガムテープを剥がしてしまった。

 なんと奇妙な光景なのか。人を殺そうとしていた男と、殺されそうになっていた女が、一緒になって床に散らばった札の枚数を数えている。

 姫子は、死を免れた安堵からか、突然壁から金が飛び出した驚きからか、腰を抜かしてしまい、逃げることも助けを呼ぶことも思いつけずに、ただ母の背中を眺めていた。兄貴は未だにぽかんと口を開けたまま突っ立っている。

 見えている限り、全ての紙幣に同じ肖像画が描かれている。最も価値が高いことを示す偉人の顔だ。紙幣の山の中に細長い紙製のテープもちらほら紛れ込んでいるところを見ると、元々は数万円ずつ束になっていたのだろうが、そのほとんどが切れるか剥がれるかしていて、一から数え直しだった。

 美雪は手際が良く、和也が十枚数えるうちに、百万円の束を完成させていた。

 束が十八個できたところで、美雪は手を止めた。床に散らばっていた紙幣は、全て綺麗に束の中に収まった。遅れて和也が二つ目の束を完成させる。

「二千万円だ」

 和也がぼそっと言い、もう一度、一、二、三、四、五、六、七、と、札束の数を数え直した。

「二千万円だ」

 和也はそう言うと、顔を輝かせ、跳ねるように立ち上がった。兄貴に駆け寄り、見て見て! と戯れつくように言う。

「すごいよ兄貴! ぴったり二千万円だ! こんなミラクルある? これで丸山企画にお金払えるじゃん!」

「おう、おう」兄貴の顔に、ようやく生気が戻る。「おう! 本当だ! すげえ! なんかもう、わけ分かんねえけど、これで死なずに済む!」

 やったやったと喜び合う男たちの後方で、ガサガサッと音を立て、美雪が動いた。

 せっかく整えた紙幣の束が崩れ、落ち葉焚きのような山積みになっている。

 美雪の手のひらの中で、カチッという音が鳴った。その瞳に映り込むのは、ライターの炎だ。

「二千万円はあなたたちに差し上げます」美雪は、有無を言わさぬ淡々とした声で言った。「その代わり、この死体を処分してください。引き受けていただけなければ、お金を燃やします」

 兄貴と和也は、そして姫子も、美雪の行動に、呆気に取られていた。

「さあ、早くしてください。二千万円、必要なんでしょう?」

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