雪月迦

貴様二太郎

雪月迦(せつげつか)

 ――疫病神


 それが今の私の名前。

 おばあちゃんが死んで、もう私を――月乃つきの――と呼んでくれる人はいなくなってしまったから。



 ※ ※ ※ ※



 なんか、夢の中にいるみたい。

 目の前をたくさんの大人たちが行ったり来たり。でも、誰も私を見ない。話しかけない。今の私はまるで透明人間。あの人たちには私なんて、いないものらしい。


 誰にも声をかけられないのをいいことに、私は葬儀の準備でざわつく家を抜け出した。どうせ私なんて、いてもいなくても誰も気に留めない。むしろ、いなくなった方が喜ばれる。


 ――蛇に祟られた月出ひたちの一族――


 私は、その最後の一人。

 遠からず、私も死ぬんだろうな。事故か病気か……みんな、家族親戚全員がそうだったように。

 そんな呪われた一族の発端は、昔、まだ私が物心つく前。ある日、お母さんが一匹の蛇を殺したことから始まったらしい。


 赤ちゃんだった私が昼寝してた部屋に、一匹の大きな蛇が迷い込んできた。その蛇はベビーベッドに絡みついてピクリとも動かず、ただじっと、眠る私を見てたそうだ。

 それを部屋に入ってきたお母さんが見つけて、私が蛇に襲われてるって思っちゃって。びっくりしたお母さんは蛇をベッドから引き剥がすと、滅多打ちにして庭に捨てたんだって。


 ここから。ここから、月出家の不幸が始まる。


 お母さんが殺した蛇は、大きな白蛇だった。

 それを見たおじいちゃんとおばあちゃんはびっくりして、大慌てで蛇の墓を作るとお母さんを叱った。白蛇は神の使い、それを殺してしまうなんてって。でも、お母さんはそんな二人の言うことに耳を貸さなかった。都会からこの村へと嫁いできたお母さんには、二人の言葉はただの迷信にしか思えなかったから。


 だけど、異変はすぐにやって来た。


 白蛇を殺してから三日後、お母さんは高熱で倒れた。

 お医者さんに見せても首をひねるばかりで、まったくの原因不明。

 「殺した蛇の祟りだ」とおじいちゃんとおばあちゃんは怖がって、やっぱり蛇をきちんとまつろうと、埋めた場所を掘り返しに行った。でも、掘っても掘っても、埋めたはずの蛇の死体は出てこなかった。誰かに掘り返された形跡も、動物に持ち去られた形跡もまったくなかったのに。ただ、蛇の死体だけが消えてた。


 「祟られる」と訴えたおじいちゃんとおばあちゃんだったけど、やっぱりお父さんにも聞いてもらえなかったんだって言ってた。そしてお父さんは、その日のうちにお母さんを都会の大きな病院に転院させようとしてたんだけど……

 結局、お母さんはあっという間に死んじゃって。しかもその病院からの帰り、今度はお父さんも交通事故に巻き込まれちゃって。そのまま、二人とも帰ってこなかった。


 一歳になる前に両親がいなくなった私には、お父さんとお母さんっていうのがどういうものなのかよくわからなかった。

 蛇から私を助けようとしてくれたんだって聞いてるから、お母さんは私のことを大切に思っててくれたんだと思う。お父さんも私が生まれたとき泣いて喜んでたっておばあちゃんが言ってたし、やっぱり愛してくれてたんだと思う。

 だけど私には二人との思い出はおろか、顔さえ記憶にないから。だから、私にとって両親っていうのはどこか遠い存在で。


 それでもやっぱり、周りを見てると羨ましくなるときもある。もちろん、おじいちゃんとおばあちゃんがいなくなってしまった両親の分まで愛情を注いでくれてたことはわかってた。でも、それでもどうしようもなく、私はときどき強い疎外感を感じてしまっていた。

 そんなとき私は、私だけの秘密の場所に行く。そしてそこで、思う存分泣いた。

 そこは小さな神社で、家以外に居場所がない私の絶好の避難場所。神社は人気ひとけがないわりにいつもきれいに整えられてて、いったい誰が管理してるんだろうって不思議に思ってたけど。


 そして今日も、居場所のない私は一人で神社に来た。

 拝殿前の階段に座って、冷えてしまった指先に息を吹きかける。静かな境内には相変わらず誰もいない。抱えた膝にあごを乗せて、小さくため息をついた。


「大丈夫ですか?」


 急に後ろから声がしたからびっくりして振り向いたら、なんか白い人がいた。

 真っ白な髪に真っ赤な目。しかもテレビでもそうそう見たことないような、すごくきれいな男の人。その人が、心配そうに私を見下ろしてた。


「……大丈夫です」


 知らない人に私の警戒心はマックス。

 だから、かわいげなんて欠片もない不愛想で嫌な感じの返事になっちゃった。けど、しょうがないよね。だってそもそも私、普段人と話さないし。ぼっちってやつだし。……おばあちゃん以外、私とまともにしゃべってくれる人なんてこの村にはいなかったから。だから、いきなり知らない人となんてハードルが高過ぎる。

 けど、目の前の白い男の人はそんな私の態度に気を悪くした様子もなく、ただ思わず見惚れちゃいそうになるような、それはそれは見事な微笑みを浮かべていて。

 すごいなぁ。たぶんだけど心配して声をかけてくれたんだろうから、それでさっきの対応されたら、私だったら絶対ちょっとムカついてる。


 それにしてもここ、人いたんだ。小さなときからよくここには来てたけど、今日初めて人に会った。……多分。…………あれ、本当に初めて? なんだろう、何か引っかかるような気がする。


「どうかなさいましたか?」


 一人ぐるぐると考え込んでたら、思ったよりも近いところから声が降ってきた。思わず反射的に顔を上げたら――目と鼻の先――超超至近距離に、あのやたらときれいなご尊顔があって。


「ちょっ――⁉」


 驚いて思わず反射的に後ろに飛び退いちゃったんだけど……ここ、私が腰かけてたのって拝殿前の階段だったんだよね。というわけで……

 私の足は虚しく空を蹴り、見事バランスを崩したおかげでぐらりと視界が回って――


 ――落ちる!


 そう、思ったのに。

 なんでか、一向に痛さがやって来ない。それどころか、なんかいい匂いのするものに包まれているんだけど。考えられるとしたら、おそらく……とりあえず覚悟を決めてそうっと目を開けてみたら。


「やっぱり!」


 さらりとした薄墨色の着物、さらさらした白い髪、真っ赤な目……そしてどこか懐かしい、白檀びゃくだんの香り。

 ほら、やっぱり抱きとめられてた! だと思った!! でも助けてもらった手前、さすがに今度はぞんざいには扱えない。


「やっぱり? ……もしかして、思い出したのですか!?」

「思い出したって、何を? あの、助けてくれたのはありがとうございました。でも、そろそろ離してほしいんですけど」

「そう、ですか」


 なんか悲しそうな顔をしたあと、白い人はあっさりと解放してくれた。

 でも、なん……だろう? なんか、わからない気持ちがこみ上げてくる。


 ――離さないで


 知らない。知らない、知らない、知らない! 今日初めて会った人に、なんでそんなこと思うの? わかんない。

 ただ、なんか良くない予感がする。このままじゃ、私が私じゃなくなっちゃう気がする。わからないけど、何かに塗りつぶされていくみたいな……


「でも、よかったです。あなたに傷がつかなくて。それにしても、突然後ろ向きで飛び降りるなんて……一体どうしたというのですか?」


 微笑む白い人に、すごく怖くなった。

 逃げたい、捕まえていて、忘れて、忘れないで――相反する気持ちが私の中でぐるぐる回る。

 怖い。逃げたい。でも、逃げられない。私は、逃げられない。出会ってしまったから。理由はわからないけど、確信だけがあった。


「ふふ、月乃は相変わらずですね」


 楽しそうに笑う白い人。その言葉に私は身を固くする。


「なんで、私の名前……」


 だって私、この人にまだ名乗ってない。

 わかんない気持ちにぐらぐらする頭で、私は一歩退いた。


「怖がらないで、月乃」


 白い人は微笑みながら、逃げようとした私を捕まえた。優しく、残酷に。


「離、して。やめて、怖い。あなたは、怖い」


 逃げようと腕を突っ張ってもがくけど、私の力じゃびくともしない。そんなに力を込めてるようには見えないのに、全然動かない。


「やだ! 離して、離してよ‼」

「月乃、お願いです。落ち着いてください」


 柔らかな声とは反対に、その腕の檻は堅牢で。

 怖くて悲しくて愛しくて、もうわけがわからなくて。私はめちゃくちゃに腕を振り回して、彼から逃れようとした。けど、振り回していた私の両腕はあっけなく捕らわれてしまった。


「無理! やめて! 知らない、私は知らない‼ だから私の名前、呼ばないで」

「月乃」

「だから――」


 抗議の言葉は、いとも簡単に飲み込まれた。

 無理やり、それも物理的に!

 今、私の口は塞がれている――白い人の口で! 両腕も口も動かせない私は、まるで蛇に飲み込まれる小動物みたい。


 時間にしたら、ほんの数秒。けど、私にとっては長かった数秒。解放され文句を言おうと口を開いた瞬間、彼のひんやりとした唇が「申し訳ありません」という言葉を紡ぎ出した。


「謝って済むんなら警察なんていらない‼ 離せ痴漢、変態!」

「痴漢? 変態? 私が、ですか?」


 怒り狂う私を見て、心底不思議そうな顔を返してきた変態。

 ただただ戸惑いの色を浮かべるその顔に、じゃあ今の謝罪は何に対してだったのかと、再び怒りがこみあげてきた。


「じゃあ、今のは何への申し訳ないなの⁉ だいたい初対面でいきなりキスするなんて非常識すぎる!! 私……初めてだったのに」

「今の謝罪は、これから起こることについてへの謝罪です。それと、初めてなんかじゃないですよ」


 変態はよくわからないことをほざいたうえ、さらに聞き捨てならないことも言った。


「初めてじゃない……って、何が?」


 この場合、さっきからの話の流れで大方の予想はつく。

 つく、けど! それでも、万が一の可能性に賭けて聞いてみた。


「私と月乃が接吻することです。何度も何度も、それこそ数えきれないほどしたじゃないですか。昼と夜となく肌を重ねたことも――」

「ストップ! ストップストップ、ストーーーップ!!」


 さらりと、さも当たり前のような顔で変態はとんでもない妄想を語りだした。

 そんな彼の言動で頭に血が上ったのか、目の前がくらりと揺れる。


「嘘つかないで! そもそも私、あなたとなんて会ったこともな……い…………」


 あれ? やっぱりクラクラする。

 今のめまい、一瞬だったからてっきり怒りのせいかと思ってたのに。


「会っていますよ。思い出してください、月乃。ずっと昔から、何度も、何度も……」


 何言ってんの、この変態。わけわかんない。

 わかんない、さっきから私がわかんない。もうやだ、気持ち悪い。頭も地面もぐるぐるする。だめ、もう立ってらんない……


「おやすみなさい、月乃。次に目覚めたときは…………」


 嬉しそうで悲しそうなその声を最後に、私の記憶は途切れた。



 ※ ※ ※ ※


 

 遠くから聞こえてくるのは、家路を急ぐカラスの声。胸をしめつけるその声は、私を緩やかに現実へと引き上げる。

 重い瞼をなんとかこじ開け、私はゆっくりと顔を横に向けた。見えるのは畳、雪見障子、そしてそれら全てを染め上げた夕陽の茜色。ううん、もしかしたら朝陽? 方角がわからないから正確にはわからないけど、でも多分、何となく夕陽な気がする。


 ふっと目の前に影が落ちたので顔を上げると、夕陽を背にした誰かが障子を開けて部屋に入ってくるところだった。


「月乃、気分はどうですか? どこか痛いところなどありませんか?」


 その声を聞いた瞬間、心臓のあたり、胸の真ん中がぎゅうっと締め付けられたような感じがした。そのなんとも言えない感覚に私が戸惑っていると、声の主は私の寝ていた布団のすぐそばまできて膝をついた。

 茜色に染められた白い髪は、まるで燃えているよう。そして私を見つめる二つの赤い瞳は、死者を導く鬼灯ほおずきみたい。

 私をこんな状況に追い込んだ変態相手に、不覚にもきれいだ、なんて思ってしまった。


「月乃」


 まただ。この人に名前を呼ばれるたび、嬉しいような、苦しいような……よくわからない感覚がわき上がる。


「最悪。うかつにも変態の前で倒れた挙句、拉致されたせいで」


 それらを振り払うように、私はわざと悪態をついた。なのに、その嫌味たっぷりの返しに変態はとても嬉しそうな笑みを浮かべていて。

 もしかしてこの人、罵られるのが好きな人? そっち系の変態?

 そんな私の思考を読んだのか、はたまた私が思い切り顔に出していたのか。変態は「違いますよ」とおかしそうに笑った。


「月乃はやっぱり月乃なんだなぁと思ったら、なんだか無性に嬉しくなってしまって」


 さすが変態、意味が分からない。

 でもその慈しむような懐かしむような笑顔が面白くなくて、私は彼から顔を背けた。するとタイミングの悪いことになぜか今、空気を読まない私のお腹が盛大に空腹を主張し始めた。


「そろそろお腹空いた頃かなって思ってたんです。はい、月乃の好きな栗蒸し羊羹」


 満面の笑みで冷たいお茶と私の好物を差し出す変態。

 その姿はまるで、飼い主に褒めてほしいと尻尾をふる子犬のよう。少し、ほんの少しだけかわいいな、なんて思ってしまった。

 ……って、ありえない! 本当、変態相手にありえない。いくら顔がよくてもこいつは変態。許可なく乙女の唇を奪うような、極悪非道な変態だ。

 ぶんぶんと頭を振って、一瞬よぎってしまった愚考を吹き飛ばすと私は変態を睨みつけた。


「いらない。帰る」


 言い捨てて立ち上がった――

 つもりだった。


 なのに今、私が背中に感じているのは柔らかな布団の感触。そして上から降り注ぐのは、ゆらゆらと燃え盛る、すがるような視線。


 なんで? なんでこんな状況になってるの?

 私、なんで変態に押し倒されてるの⁉


 突然のことで頭が真っ白になってろくな抵抗もできず、私はただぽかんと、バカみたいに変態の顔を眺めていた。

 変態のくせに無駄にきれいな顔だな、とか。押し倒してる方が泣きそうな顔するな、とか……


「いかないで……また私を置いて、一人でいかないで」


 ぽたり、ぽたり――頬に落ちてくるのは、温かな雨。

 なんで女の子押し倒した男の方が泣いているのか。そしてそんな情けない大人の男の姿に、なんで私はこんなにも胸が締め付けられているのか……


「泣かないで、玉屑ぎょくせつ


 ごく自然に、まるで当たり前のように。それは私の口からすべり出てきた。


 玉屑


 雪の異称の一つ。

 特に、降る雪をさすその言葉は、目の前で泣く白い男によく馴染んでいた。


「名前……思い出して、くれた?」


 白い男――玉屑――は感極まったのか、いよいよ本格的に泣き始めてしまった。

 私の方といえば、なぜ突然そんな言葉が出てきたのかとか、ぼろぼろと涙を流す男に押し倒されたうえ抱きしめられて苦しくて鬱陶しいとか、今この胸を占める痛くてむず痒い感情は何かとか、とにかく頭の中が混乱を極めていた。


「苦しい! 泣くな、離せ、鬱陶しい」

「ああ、やっぱり月乃だ! この取り付く島もない感じ、懐かしいです」


 私が何か言うたび、この玉屑という男はいちいち感激し、そして泣く。

 それを鬱陶しいと思いながらも、心の底から嫌だとは思えなかった。むしろその姿が愛おしく、もっと泣かせたくなる。

 さっきから私は変だ。自分で自分の感情がコントロールできない。なぜ、知らないはずの男の名前を知っていたのか。なぜ、会ったこともない男に親しみを覚えるのか。

 目覚めてからの私は完全におかしい。頭の隅のどこか、心の奥、そんなところがざわざわしている。


「ちょっと、いつまでくっついてるつもり? いい加減離れて」

「はい!」


 こんな小娘に命令されて、嬉々としてそれに応える大人の男ってどうなの?

 どうかしてる。この玉屑という変態、本当にどうかしてる。そもそも、なんで私なんかの言動にここまで一喜一憂するの? 本当に意味が分からない。


「あの……私の顔に何か、ついているのでしょうか? そんなにじっと見つめられると、その……ちょっと恥ずかしいです」

「見つめてたんじゃなくて睨みつけてたの! もう、本当になんなの」

「なんなの、と言われましても。言うなれば、恋の奴隷? というやつでしょうか」


 そのアホすぎる返しに私は思わず頭を抱えた。しかも桜色に染まった頬を両手で押さえるという、なんともムカつく仕草つき。普通だったら気持ち悪いんだけど……この無駄に顔が整っている男がやると、腹立つことにかわいく見えてしまう。これが世間でいう、「イケメンに限る」ってやつか。


「ばっかじゃないの。もう、さっきから本当になんなの! わけのわかんないことばかり言って。家に帰してよ! 私はあんたなんか知らない!!」


 そうは言ったものの、本当は知っているような気がしてた。

 知らないはずなのに。今日、初めて会った人なのに。なのに、私はこの人のことを知っている。理性は知らないって言っているのに、感情が知ってるって叫んでる。

 それに、私はこの人の名前を当ててしまった。ううん、知ってたんだ。だってあの瞬間、私の心は張り裂けそうなほど懐かしくて、でも悲しくて、そして愛おしいって気持ちでいっぱいになっていたから。


「泣かないで、月乃」


 ふわりと、頬にひんやりとした指が触れた。


「泣いてない!」

「意地っ張り。本当に月乃は……もう」


 玉屑は困ったように笑うと、そっと、今度は壊れものでも扱うかのように本当にそっと、私をその胸に閉じ込めた。


「月乃。泣くのは悪いことではないんですよ。涙は心のおりも一緒に洗い流します。見るな、というのなら決して見ません。だから、もう一人で泣かないでください」

「うるさい。泣いてないって言ってるでしょ。これは違うの、目にゴミが入ったの」


 ああ、前にもこんなことがあったなぁ……なんて、知らない思い出が頭をよぎる。

 知らない、私はこの人を知らない。でも知ってる。知らないけど、知ってる。

 わからない。わからない、わからない、わからない。

 この気持ちは何? これは本当に私の気持ち? それとも、私の中の別の誰かの気持ち?

 頭が痛い。心が痛い。痛い、痛い、痛い…………


 ――ねえ、あなたが愛しているのは、本当に私?


 声がする。

 痛い。


 ――あなたが見ているのは、誰?


 誰の声?

 痛い。


 ――私を見て。私は月乃。過去の私じゃなくて、現在いまの私を見て。


 これは、私の声?

 痛い。


 ――ねえ、玉屑。本当にあなたが愛しているのは、誰?


 ああ、これは…………

 この痛みは……

 前世の、月乃わたしの記憶。



 ※ ※ ※ ※


 

 暗い、真っ暗な闇の中。

 私は一人で歩いていた。


 暗くて自分の手も見えない中、それでも私は何かに急かされるように歩いた。わからないけど、とにかく進まなきゃいけないような気がしたから。

 しばらく歩いてたら、微かだけど風を感じた。歩調を早め、風に逆らうように進む。段々とはっきりとした空気の流れを感じるようになってきて、私はとうとう我慢できずに走りだした。


 すると、まるで映画の場面が切り替わるように闇が晴れ、唐突に目の前が開けた。

 目の前に広がっていたのは大きな池。にじむ視界の中、白い睡蓮がいくつも花を咲かせ、木漏れ日と共に静かな緑の水面みなもを彩っていた。それはとても幻想的で美しく、胸が締め付けられるような、懐かしくて悲しい風景だった。


「月乃」


 背に投げかけられたのは、愛しくてかわいそうで、残酷で愚かなあの人の声。


「泣かないで、月乃」


 急いで振り向こうとした私の意志とは裏腹に、体はもどかしいほどにゆっくりとしか動かない。


「……玉屑。どうしたの? あなたこそ、そんな泣きそうな顔をして」


 体が、口が、勝手に動く。というより、別の人の体に閉じ込められていて、私はその人の目から外を見ている。という感じがする。

 そしてようやく振り向いた先、目の前にはさっきの変態――玉屑がいた。


「意地っ張り。目が赤いです」

「あら、あなたとお揃いね」

「月乃!」


 私の軽口に、玉屑は怒ったような困ったような顔をしていた。けれどすぐに表情を曇らせると、もう一度、今度はすがるように「月乃」と私の名を呼んだ。


「泣くのは悪いことではないです。涙は心のおりも一緒に洗い流しますから。苦しいときや悲しいときは、思い切り泣いてください。ですが……見るな、というのなら決して見ません。だから、どうか一人では泣かないでください」

「玉屑……」


 睡蓮の池のほとり、固く、固く抱きしめられる。そして私は、ほんの少しだけ泣いた。


「月乃、体に障ります。そろそろ屋敷に戻りましょう」

「もう少しくらい大丈夫よ。それにこの風景もね、絶対に忘れないように、今のうちに焼き付けておきたいの。だって、来年もまた見られるとは限ら――」

「月乃! そんなこと、言わないでください。大丈夫ですよ。来年も、再来年も、その次も……きっと、また見られます。だから――」


 泣きそうな玉屑の白い頬に、しわくちゃの小さな手が添えられた。今にも泣きだしそうな顔で、玉屑は添えられた小さな手に自分の大きな手を重ねる。


「泣かないで、玉屑」


 ああ、この台詞だったんだ。

 今、やっとわかった。心が、納得した。

 これは、私。在りし日の、私と玉屑。遠い、遠い昔の私から連綿と受け継がれてきた、魂に刻みこまれた記憶。


「きっと、また逢えるわ。次の私も、また、あなたが見つけてくれるもの」

「逝かないで……また私を置いて、一人で逝かないで」


 置いていかないで、一人にしないで。そう、子供のように泣きながら年老いた私を抱きしめる玉屑。私はそんな我儘で困った、でも愛しくてしょうがない人を抱きしめ返す。


「約束よ。次も必ず、また私を見つけてね。もしかしたら、最初は取り付く島もないかもしれないけれど……でも、心配しないで。だって、次の私もきっと、すぐにあなたを好きになる」

「ええ、ええ。必ず見つけます。だけど、今はまだそんなこと……言わないで。だって、月乃はまだ、ここにいる。まだ、私の腕の中で……こんなにも、温かい」


 全部、思い出した。

 これは、二番目の月乃の記憶。蛇神の玉屑と恋に落ちて添い遂げた一番目の記憶をそのまま受け継いだ、二番目の私。

 何度も何度も、私は必ず月乃として生まれ、そして玉屑と添い遂げてきた。

 一番目は純粋に恋をした。二番目はその記憶を受け継ぎ、深く愛した。三番目も四番目も、玉屑と出会って記憶を取り戻すと、やはり彼と恋をして添い遂げた。


 そして五番目――彼女は、初めて疑問を抱いた。玉屑は本当に自分を愛してくれているのか、と。彼が愛しているのはあくまでも一番目の月乃で、記憶を完全に取り戻せなかった自分は本当に愛されているのだろうか……と。

 だから、逃げた。五番目の月乃は、玉屑から逃げ出した。愛しているからこそ、耐えられなかった。今生の自分を見てくれない玉屑が、悲しかった。だから、逃げた。自分を好いてくれていた、幼馴染の男の手を取って。

 でも、彼女は捕まってしまった。


 ――ねえ、あなたが愛しているのは、本当に私?

 ――あなたが見ているのは、誰?

 ――私を見て。私は月乃。過去まえの私じゃなくて、現在いまの私を見て。

 ――ねえ、玉屑。本当にあなたが愛しているのは、誰?


 さっきの言葉、これは五番目の私が言った言葉だったんだ。

 そして今、私は理解した。私は六番目。一番目から五番目まで、その全ての記憶を受け継いだ月乃。

 思慕、切望、絶望――

 全部を持った、六番目の月乃。それが私。

 でも、私もきっと逃げられない。だって、もう捕まってしまったから。体も、心も。

 

 

 ※ ※ ※ ※



 目を開けた瞬間、現実ここでも玉屑はやっぱり泣きそうな顔をしてた。

 私は安心させるように微笑んで、彼の頬にそっと手を添える。


「泣かないで、玉屑」


 私の言葉に、玉屑が微笑む。嬉しそうに、そして悲しそうに。


「思い出したんですね、全部」

「うん、思い出したよ。一番目の私から……逃げ出してしまった五番目の私まで、全部」


 玉屑はやっぱり悲しそうに微笑み、「そうですか」と言うと静かに私に覆いかぶさった。


「私のこと、嫌いになってしまいましたか?」

「ずるいね、玉屑は。月乃わたしたちがあなたを嫌いになんてなるはずないのに」

「でも……五番目のあなたは、私から逃げました」

「うん。でもね、彼女もやっぱり、あなたを愛してたよ。愛してたからこそ、怖くなって逃げちゃったの」


 玉屑は何も言わず、ただぎゅっと私を抱きしめた。

 言葉にはしてないけど、それはまるで「捨てないで」とすがる子供のようで。だから今度は私が安心させるように、彼の背に腕を回すとぎゅっっと抱きしめた。


「泣かないで、玉屑。きっと、また逢える。私たち月乃は何度でもきっと、またあなたに恋をするから」


 塗りつぶされていく。私が、私に――――


「愛してる。これまでも、これからも」


 その言葉に、玉屑の腕の力が強まる。もはや苦しいくらいの抱擁。なのに私は、そんなものにまで喜びを感じてしまっていて。今感じてるこの気持ちは、本当に今の私六番目のもの? それとも、もう……

 何も言わないまま、ただただ強く抱きしめてくる玉屑に、私は口には出さずに問いかける。


 ――ねえ、囚われたのはあなたと私、本当はどちらなのかしらね?



 ※ ※ ※ ※



 まだ幼体だった頃、私は一人の人間の女に助けられた。それが、一番最初の月乃だった。

 私は彼女に恩を返そうと近づき、そして気が付いたときには恋に落ちていた。

 しかし、彼女は人間。神である私とは違い、あっという間に逝ってしまうひどく脆い生き物だった。

 だから私は、死にゆく彼女に呪いをかけた。

 何度でも延々に、それこそ永遠に私のもとへと戻ってくるように。そして、彼女は戻ってきた。私との記憶を持ったまま、同じ姿、同じ声、同じ名前で。


 そうやって四度、私は月乃と添い遂げた。

 けれど、五度目の月乃は少し違っていた。何かの手違いか、完全には記憶が戻らなかった。だからか彼女はいつも不安そうで、どんなに私が愛を囁いても、完全に信じてはくれなかった。

 そして、彼女は逃げた。よりにもよって、私とは別の男の手を取って。


 そんなこと、この私が見逃すはずなどないというのに。

 私は月乃を捕らえたあと、彼女には知られないように男を消した。そして、学んだ。


 次の月乃には、拠り所となるものを一切作らないようにしよう。


 そして作り上げた、六番目の月乃。

 寄る辺なく、未練を持たない、私だけの月乃。


 私はこの先ずっと、それこそ永遠に月乃を欲する。猿猴捉月えんこうそくげつと嗤われようと、捕らえて、囲んで、決して逃がさない。幾度でも、幾度でも。

 だって、私の心は月乃に囚われてしまったから。


 ――嗚呼、囚われたのはあなたと私、本当はどちらなのでしょうね?

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雪月迦 貴様二太郎 @2tarokisama

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