雨と思い出

大将

雨と思い出

 六月のとある日、夏が近い気温のせいか生温い雨が街に降り注ぐ。今日に限って傘を持って来ていない。

 雨露をしのぐ為に周りを見るもコンビニは愚か店が見つからない。人肌で生暖かくなった水滴が背中へ垂れていくのを感じながら途方も無く足を進ませる。

 息も切れかけた頃にようやく見つけた人気のない店。でも錆掛けの看板を見て嫌気混じりのため息が漏れる。

 雨宿りの場所を探す為に辿り着いのは、君が行きつけにしていた店だった。

 他の場所を探そうとも考えたが、このままだと風邪を引いてしまう。雨で濡れたせいか、入りたくないのか、足取りはさっきよりも重たくなっていた。


「いらっしゃいませ」


 店の前で待つのも失礼だと思い中へ入る。木製の扉が開くと共に、店内に鳴り響くカウベルに反応して初老の男性がカウンターの奥から顔を出して来た。

 君と来た時と変わらず、髪の毛や紳士的な髭も白髪のままで金縁の丸い眼鏡の奥で優しい瞳が僕を見ている。


「すみません、突然雨が降ってきちゃって……雨宿りさせてもらっても良いですか?」

「ええ……構いませんよ。ではこちらの席にお掛けください」


 現代の装飾とはかけ離れた趣のある店内。格好よく言えばレトロ、悪く言えば古臭い物が置かれた喫茶店。マスターの年齢から考えても親より古い店かもしれない。

 だが不思議と心が安らぐ雰囲気が感じられる。

 皆天気予報を見ていたのか、店内に僕以外の客は居ない。なのに案内されたのはカウンターではなく、二人掛けの椅子が相向かいとなっているテーブル席だった。

 僕は無意識の内に右側の椅子へと腰掛ける。


「ご注文はお決まりですか?」


 マスターが黒革製の伝票を片手に席の前に立っていた。僕はメニューを見ることなく以前来た注文を口にする。


「すみません、ホットコーヒーをふた……一つでお願いします」

「かしこまりました。少々お待ちください」


 マスターは小さく頭を下げると再びカウンターの中へと戻っていく。

 無意識に「二つ」と言いかけた自分自身に嫌気がさして、小さく溜息を吐いた。君がいた頃は視線すら向けなかった窓から街を眺める。

 あの時と同じように雨が降る。離れ離れになってからの方が君の存在を強く思うとは考えてもいなかった。

 ここのカフェだってそうだ。

 数年前、出会って最初のデート。君が「行きつけのカフェがあるの!」と子供のように僕を連れ出し、店に着く前に大雨が降った。

 幸い僕が持ってきていた一本の傘で雨をしのぐ。

 僕は右肩が、君は鞄をかけた左肩がびしょ濡れになりながらここへ来た。マスターが心配して出してくれたタオルで濡れた頭を拭いた覚えがある。


「まったく……びしょ濡れだよ」

「えへへ、でも君と来たかったんだ!」


 まるで太陽のように無邪気に笑う君を見て、文句を言いそうだった僕も自然と口角が上がってしまった。

 そんな思い出が蘇ってくる。確かその日もこの席だったかな。

 でももうそんな日は二度と来ない。

 さよならが来たあの日。降りしきる雨の中、君は僕の傘から出て行った。

 服も鞄もびしょびしょに濡らしながら、泣いているのかも分からない背中をただ見つめる。


「……僕に何が出来たのかな」


 自問自答の答えは返ってこない。瞳は雨降る街を見ているだろうが、頭の中は君でいっぱいだ。


「お待たせしました。ホットコーヒーです。良ければこちらをお使い下さい」


 どれだけ時間が経っていたのだろう。豆を挽くのもドリップするのも全てマスターの手作業で作られるホットコーヒーと、四本のシュガースティックが目の前に置かれる。

 二つと言いかけたからか、シュガースティックの数にはすぐに気付いてしまった。


「あの、僕こんなに……」

「おや?お連れ様を待っていたのかと思いまして。今日はお一人ですかな?」


 マスターの言葉に僕はなんて言ったらいいか、上手い言葉が思い付かずありのままの事が口から出てしまった。


「彼女と……別れたんです」

「そうでしたか……知らなかったとはいえ、これは失礼致しました」


 逆に気を使わせてしまった。僕は会釈すると、テーブルに置かれたシュガースティックを二本受け取り残りをそのままにする。

 君と僕で二本ずつ。


「同じ物が飲みたい!」とただをこねた君の提案だった。

「他に御用があれば呼んでください」

「はい、ありがとうございます……」


 ブラックでも平気な僕と、カフェオレに砂糖を入れないと飲めなかった君。お互いがお互いに寄せた結果、ブラックコーヒーにシュガースティック二本で落ち着いた。

 それでもまだ飲みにくそうにしていたが、いつの間にか好みが変わったようで平然と飲んでいた。

 そんな事を思い出しながら口にしたコーヒーは、あの時とは違って苦味が強く押し寄せてくる。


「こんなに苦かったかな……」


 僕がカップのコーヒーを眺めていると、店内に再びカウベルの音が響いた。その瞬間、僕の意識とは関係なく視線が店の入り口へと向けられる。

 だが入って来たのは、電装の看板を持ったマスターだった。


「おや、驚かせてしまいましたか。すみません」

「いえ、大丈夫です……」


 驚いたんじゃない。本気で君が来たと思ったんだ。

 視線をゆっくりコーヒーに戻して、もう一口喉に通してみる。やはり苦味が増しているように感じた。


「やっぱりバレますかな?」


 僕が顔を上げると、カウンターでマグカップに口を付けているマスターがいた。ゆっくり味わった後、表情を曇らせながらテーブルに置く。


「実は今煎れたコーヒーは、機械なんですよね」

「そうだったんですか?何か苦味が強いなって思ってたんですが……」


 マスターは「そうでしょう?」と苦笑いを浮かべながらドリップマシンをカウンターに出してきた。喫茶店に合わせたのか木目調のシンプルなデザインをしている。


「業務用ってのが嫌いで、家庭用のを買ってみたんですが……いやはやこれはダメですね」


 小憎たらしそうにドリップマシンを軽くパンパンと叩いた後、マスターは手動のコーヒーミルを取り出して来た。


「やっぱり連れ添ったこっちには敵いませんね」


 僕は恋しそうにコーヒーミルを眺めるマスターに小さく笑みを浮かべる。


「まぁこいつはもう壊れておりまして。古い物だから換えの部品も無いので、近々お店を閉めようと思っています」

「え?」


 突然の言葉に微笑んでいた顔から血の気が引いていくのがわかった。それと同時に、忘れようとしていた君との思い出が溢れてくる。


「私は去年、妻に先立たれましてね。その時から息子から同居しないかと提案がありまして」

「そう、なんですか……」


 マスターの顔が見れず、半分程コーヒーが入ったカップを眺める。君との思い出が無くなるような、そんな気分になっていた。


「だから決めていたんです。今ある物が……妻私の為に買ってくれたコーヒーミルが思い出になったら閉めようと」


 僕はゆっくりとマスターの方へ視線を向ける。その表情は寂しさや悲しさ等微塵も無い、満ち足りた表情を浮かべていた。

 長年のお店を閉めるのに、何故そんなに顔が出来るのか。僕の口から思わず言葉が漏れてしまう。


「でも……お店閉めるんですよね?ここでずっとやってたみたいですし、寂しくないんですか?」


 僕の質問にマスターは数秒無言を貫くと、使い古したコーヒーミルに視線を落とした。


「約四十年以上、妻と共に経営してきたので寂しくないと言えば嘘になります。でも私には思い出がたくさんあるので、妻の手を繋げない代わりに、思い出と手を繋いで歩いて行こうと思ったんです」


 そう言ったマスターの笑顔はどこか恥ずかしそうにしながらも、とても穏やかな顔をしていた。

 お店や道具も含めて、心から奥さんの事を愛していた何よりの証だと思った。

 マスターの暖かい何かに僕も笑顔が溢れる。


「僕も、お互い仕事が忙しくてすれ違いが増えてしまって……結婚したかった人と別れてしまいました。行きつけのお店やお揃いで買った物も、雨の日のデートも……」


 僕は未だに降り続ける雨を見ながら言葉を紡ぐ。どんな顔をしているかわからないが、マスターは黙って聞いてくれているように感じた。


「あの子がいる日常が無くなって、全部失ったように思ってけど、マスターを見てたら違うのかもって」

「たしかにどんな別れでも寂しいものです。でも人はそれでも歩き続ける。雨の日も晴れの日も」


僕はゆっくりと頷くと、カップに入ったコーヒーを飲み干す。初めは苦いと感じていたのに砂糖が溜まっていたのか、それとも別の理由があるのか、スッキリした味わいに変わっていた。


「さぁすみませんがそろそろ店仕舞いでして、他の注文は大丈夫ですかな?」

「そうですね……ありがとうございました」


僕が伝票を見て財布を探していると、マスターがひょいと伝票を取り上げカウンターへと戻ってしまう。


「あの、お会計は……」

「我ながら美味しくない物をお出ししてしまったので大丈夫ですよ。その代わりこの店の事、私が話した事をどうか忘れずに人生を歩んで下さい」


マスターの優しい笑顔を見て僕はゆっくり頭を下げる。同時にこの店が無くなる事に、不安感のような寂しさが押し寄せてきた。


「それじゃあ、ありがとうございました」

「ええ、またどこかで。おや、ちょうど雨も止みましたね」


マスターと軽い挨拶を交わすと、カウベルの音を聞きながら店を出る。土砂降りになっていた雨雲は、所々から光が差し込む曇り空へと変わっていた。


「思い出と手を繋いで、か」


君もどこかで雨宿りしていたのだろうか。左肩を濡らしていないかな。寂しさに襲われそうになるけど、歩き出してみるよ。

僕は小さく微笑んだ後、賑やかな街の方へと歩き出す。君の思い出と共に。

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