小鳥

チョコレートストリート

愛鳥週間に寄せて

 6月15日が語呂合わせでオウムとインコの日だということも、コンパニオンバードという言葉も初めて知った。 


 私は小鳥が好きだ。中でもインコは以前一緒に暮らしていたこともあって、思い入れもひとしおだったりする。

 

 ふれあいメインの動物園に行くと必ずオウムやインコのいるエリアに入る。鳥舎周辺から漂う鳥の匂い、頭の上に小鳥が乗っかる感触、肩から襟元を覗き込んで服の端っこを嘴で引っ張るしぐさ、どれもこれも涙が出そうに懐かしい。

 少し大きめの種類のオウム達は嘴も鋭く噛む力も強い。一緒に入った娘の帽子に付いている飾りボタンや夫のスポーツブランドの上着のファスナーの引手がみるみる引き千切られたり嚙み砕かれたりして、二人は驚いて大慌てで鳥舎外に逃げ出した。私はそもそも汚れるつもりの着古した服ということもあるが、鳥達にひっぱったり突っついたりされるままになって、終了時間にしぶしぶ外に出ると、帽子の飾りは取れてパーカーは襟元がファスナーに沿ってところどころ穴が開いてしまっていた。それでも存分に鳥に構ってもらえて嬉しくてにまにましている私に、夫と娘は変なものを見るような目を向けた。


 私がまだ実家にいたころ、うちに黄色いセキセイインコがいた。ある日母が外出先で拾ってきた子で、私がピーと呼び続けたら返事をするようになったので、名前はピーになった。


 そのころ放鳥という言葉は知らなかったが、動物を飼うということにうまく説明できない罪悪感のようなものがあった私は、自分の部屋をピーに開放した。ご飯と水を入れた鳥かごの扉を開けっ放しにして、あまり構わずに好きにさせていたら、ピーの方から私に寄ってきて、気付くと小さな弟みたいに私の後をついてまわるようになった。

 

 そのうち両親もピーに家中を開放した。玄関とベランダに通じる部屋の扉だけしっかり閉めて、ピーがよく遊ぶ場所には止まり木を付けた。ピーは朝起きてから夜寝るまで好きなところで歌って遊び、家族はもちろん、うちに来たお客さんの肩の上にも当たり前みたいにとまった。


 父母はふだん家にいたからピーが家に一人きりになることはほとんどなかった。ごくたまに両親ともに買い物などで家を空けると帰ってきたときにはすねているらしく、「怒ってあっちを向いたっきりで、呼んでもピーとも言わないのよ」と母が苦笑いしていた。私が声をかけると一直線に飛んできて、今日の不遇を抗議するみたいに、耳元でずっとビチビチと文句を言い続けた。


 ピーはうちの末っ子として家族からたっぷり甘やかされわがままいっぱいに過ごし、10才の冬の真夜中に、ピーと一声鳴いてから虹の橋を渡っていった。私は既に家を出ていたから、歳をとって弱ったピーと過ごすことも最期に一目会うこともできなかった。それが心残りで私はピーとの別れから現実逃避してしまって、そのときしっかり悲しむことができなかった。


 あれからもう20年以上経った。今ならわかる。小鳥を家に迎え入れるということは子供を引き取るのと同じこと。小鳥を親や仲間や自然から引き離す罪悪感は、小鳥が最期に目を閉じるその瞬間まで責任を持って幸せにすることでほんの少し紛れるにすぎない。最後の最後まで「大丈夫だよ」と寄り添って見届けたその後に、自分の悲しみや寂しさに向き合って思う存分ワーワー泣いたらよかったのだ。


 小鳥の一生を幸せにできる自信とお別れを見届ける覚悟はまだ持てず、今うちに小鳥を迎えることは考えられない私だけれど、迷った小鳥が目の前でピーと鳴いたらきっと連れ帰らずにはいられない。もし連れて帰ると決めたなら、次こそは最期の瞬間まで絶対一緒にいようと思う。 

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小鳥 チョコレートストリート @chocolatestreet

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