まだ生きている

百月三矢

第1話

 毎月、楽しみに変えていたデスクトップ画像は、お気に入りの写真家が配布するカレンダーだった。一日になった瞬間の深夜零時ちょうどにダウンロードして、設定後に寝るのが習慣だったのに、気がつけば先月のカレンダーのまま既に今月を折り返していた。

 心を亡くす。

 それは優しい。少しだけ。

 忖度だらけのデスマーチは現実の地獄を忘れさせてくれる忙しさだから、応答できないまま溜まっていく留守電と迫る期日への恐怖心がわずかに減る。

 だけどそれをこの世から無くしてくれるわけではない。

 七週間前に着てからダイニングチェアの背もたれにかけっぱなしのスーツと、落ちていたワイシャツを着て、高揚を抑えきれないまま通った道を行く。鼓動の高鳴りも、焦燥感もない、空っぽな胸に嫌でも向き合わなければいけなかった。

「ひどい顔!」

 笑って出迎えた姉は美しい。

 祖母の法事の時にも着ていたものとは違うゆったりとしたワンピース姿で、色のない最低限の化粧をしている。

 ——なんでだよ。

 舌の先を噛み、言葉を堰き止める。

「運転してくれるの助かるわ」

「うん、俺が連れてくから貸して」

「ありがと。あの人のせいで私が転んで、また喪主やるなんて笑えないわよね〜」

 当事者だけが言えるつまらない冗談に口の端を上げて応える。

 ——俺には許されないのに、ずるい。

 口の中に鉄の味が広がる。

 腕に収まる奇妙な重さに、不幸の現実味が薄れていった。

「この分だと早く着き過ぎちゃうかもね」

 朝のピークタイムを過ぎたマンションの駐車場はがらんとしていて、幼稚園の送迎バスを待つ集団がいた。

 いつも後部座席が指定席だった車の運転席に乗り込み、エンジン始動ボタンを押すが動かない。念の為預かったキーを差し込んで回してみるが、望んだ結果にはならなかった。

「やだ。バッテリーあがっちゃった?」

「そうみたい。タクシーにしようか」

「うん、いま呼ぶわ」

 後部座席に座る姉の声がわずかにかすれた。

「ちょっと一服してくる」

 逃げるように車を降りると、植え込みに隠れて煙草に火をつける。たちのぼる煙を見て、線香よりも煙草を供えるべきではなかったか、とぼんやり思う。

 貴方が煙草を吸うことはなかったが、この香りを気に入っていた。俺が禁煙しようかなと言った時に、一緒に住んでるわけじゃないから、そこまでしなくてもと笑ったのを思い出す。姉の報告に自分と同じように浮かれていると思ったのだろうか。

 見送りを終え、次は洗濯だ、買い物だと賑やかな集団が前を通った。

 形ばかりの会釈をして視線をそらすのは、お互いにどこの誰だかぼんやりと知っているが、それ以上のつながりを持つ必要はないとわかっているから。

「新婚さんなのに、未亡人なんて可哀想ね」

 十分にひそめたはずのささやき声が風に乗って届いた。

 すぐに姉のことだと、嫌でもわかる。

 どうしたって俺は未亡人と呼ばれることはない。

 未だ亡くなっていないから、俺だって未亡人なのにね。

 まだ生きている。

 貴方のいない世界で意味もなく。

 未練がましく姉を通してつながろうとしている。

 もう、姉を姉としてみることはないだろう。

 貴方の未亡人、貴方の命を繋ぐ存在、俺のなりたかったもの。

 もう貴方はいないから、貴方の分身をこの手に抱く日を夢見て生きる。

 決して満たされることはないとわかっているが。

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まだ生きている 百月三矢 @momo2ki328

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