(9)――「はは、なんだ、寂しがり屋さんめ。もう来たのか」

 旅を始めてから、どれだけの年月を消費したか。

 青年はひたすらに北を目指し、ときに人々から聞き込みをし、ようやく魔女の図書館に辿り着いたのだった。

 山奥の、そのまた奥。秘境も秘境といった、そんな場所に、おおよそ人間の手で作られたとは思えない荘厳な建物は、確かに存在していた。

 青年は、恐る恐る建物に足を踏み入れる。

 正面から入ったが、人気ひとけは全くない。自分の足音だけが反響する。

 何者かに見られているような気配は感じるが、攻撃してくることはなかった。人間であることを理由に追い出されることも覚悟していたが、魔女がここを訪れることを勧めていたことを考えるに、来る者拒まずといった姿勢なのだろう。

 長い廊下を歩いた先に、大仰な扉があり。

 それを押して中に入ると、そこは広大な閲覧室になっていた。

 書架は全て天井に届くほど高く、本に四方八方を囲まれているような気分になる。

 これまでの人生で見たことのなかった光景に圧倒されながら、青年がさらに歩を勧めていくと、調査相談窓口に行き着いた。

「ようこそいらっしゃいました。此方は魔女の図書館です」

 書棚を背に椅子に座っている司書は、無表情のまま青年を出迎えてくれた。

「ネリネ・サザーランドの書記は、ありますか?」

 青年は、意を決して司書に尋ねた。

「お調べいたしますので、少々お待ちください」

 そう言って、司書は背後にあった書棚から一冊の目録を取り出すと、文字をなぞるように調べ始める。

 そして、青年が想定していた時間よりも早く、

「ネリネ・サザーランド。所蔵がございます」

と、返答してきた。

「ご存知かもしれませんが、魔女の書記は、記憶に取り込まれてしまう危険性がございます。それでも、書記の閲覧を希望されますか?」

「はい」

 迷いは、旅の途中で捨ててきた。

 今の青年にとっては、魔女と再会することが全てで、その後どうなろうと知ったことではなかった。

「承知いたしました。なお、閲覧後の貴方様の状態について、当館では責任を負いませんので、あらかじめご承知おきください」

 青年がそれに頷いたのを見て、司書は足元に置いていたらしいランタンに灯りを灯すと、ゆっくりと立ち上がる。

「それではご案内いたします。こちらへどうぞ」

 迷路のような閲覧室を、司書は迷いなく歩いていく。司書の歩調は、決して早くない。むしろ、遅いくらいだ。その歩みの遅さは、まるで『引き返すなら今のうちですよ』とでも言いたげで、青年の肩には自然と力が入った。

「こちらです。お帰りの際は、近くにあるベルを鳴らしていただければ、職員がお迎えにあがります。それでは、失礼いたします」

 目的の書棚に到着すると、司書はそれだけ説明し、あっという間に姿を消した。

 青年は、ゆっくりと書棚を見上げる。

 そこには、一面魔女の書記が並べられていた。

 よく書き物をしている人だとは思っていたが、これほどとは思わなかった。一部、煤けているものもあるが、これは暗闇の森に居た頃の書記だろう。所有権を放棄したら転送されるという条件であれば、あの日、魔女は森を離れるときに所有権を放棄することで、この記憶たちを守ったということだ。

 青年は、見覚えのある本を一冊手に取った。

 それは在りし日、ひまわり畑に誘ってくれたものだった。旅の道中、それと思しき場所を通ったが、焼け野原になってしまっていたことを思い出しながら、ページを捲る。

 しかし、記憶の中には入れてくれない。

 見慣れた魔女の筆跡が並ぶだけだ。

 あの頃は、青年の意思など関係なく迎え入れてくれたというのに。一度見たものには、二度と入れないのだろうか。

 青年は、手当たり次第に本を開いたが、結果は変わらず。

「寂しくなったら会いにおいでって言ったのは、あんただろ……」

 青年は零れそうになる涙を必死に堪えて、本を手に取っては開いていく。

 まさか、会いにおいでというのは、こうして文字列で思い出に浸れということだったのだろうか。

「……会いたい。会いたいよ、ネリネ……」

 その声は、泣き出しそうな子ども同然の弱々しいものだった。

 それでも、魔女の書記は青年を迎え入れてくれない。

 結局、一冊も反応がないまま、とうとう、最後の一冊になってしまった。

 それは、魔女が亡くなる直前まで書き記していた装丁の本だった。他の本と比べると、異常に分厚い。

 青年は、震える手で、それを手に取る。

 そして本を開いた、次の瞬間。

 青年は、ひまわり畑の真ん中に立っていた。

 慌てて、青年は周囲を見回す。

 ひまわり畑の中央はぽっかりと空間ができていて、気持ちの良い草原が広がっている。近くには、こじんまりとした家が立っていて。玄関先には、色とりどりの花が植えられた花壇がある。

 そして。

 その花壇に水をやる人影が、在った。

 魔女だ。

 もう何年も寝たきりの姿しか見ていなかったから、上機嫌で花壇に水をやっている姿を見ただけで、青年の涙腺は決壊してしまう。

 青年は無我夢中で走り出し、勢いそのまま、魔女に抱き着いた。

「はは、なんだ、寂しがり屋さんめ。もう来たのか」

 魔女も青年を抱き返し、乱暴に青年の頭を撫でる。

「会いたかった……会いたかったよ、ネリネ……」

「すっかり正直者になったなあ、ライ。良い子だ」

 髪、瞳、声、抱き締めてくれる力の強さ。

 そのどれもが懐かしい。

 ずっとずっと、こうしていたかった。

「良いよ。お前が望むのなら、ずっとここに居ても良いんだ」

「本当に?」

「もちろんさ。私は嘘を吐いたことがないだろう?」

「……そうだな」

 魔女は、ゆっくり青年の頭を撫で続ける。

 青年はうっとりと、その優しさに浸かりながら、考える。

 きっとここは、魔女が作り上げた空想の世界だ。魔女の持ち得る全ての記憶を集結させ、彼女が美しいと思う、最高傑作の終の住処。そこに青年を迎え入れてくれたことが、心の底から喜ばしい。

「満足するまで、ここに居れば良い。ここなら、誰もお前を非難したりしない」

 魔女の言葉に、青年はこくこくと頷き、それから、魔女を抱き締める力を緩めて、彼女の顔を見た。

「ただいま」

 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでも青年は、満面の笑顔を浮かべて、そう言った。

「おかえり」

 青年の涙をそっと拭いながら、魔女も笑顔で答えた。



 それ以降、外の現実世界で青年の姿を見た者は居ない。




 end

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