騙されるほうが悪いって、あなたが言ったのよ?
香山なつみ
騙されるほうが悪いって、あなたが言ったのよ?
『ベルンハイム侯爵家の姉は可憐な妹を虐げる悪女だ』
誰がそんなことを言い出したのかは定かではないが、渦中の人であるイリス・ベルンハイムにはそう言われるだけの心当たりがあった。
「エルザ、あなたはもう少しわきまえないといけないわ」
「ひどいお姉様、わたしはただ、親切にしてくださった方とお話をしていただけなのに……」
エルザは可憐な表情を悲しみで曇らせ、大粒の涙を流す。
イリスからすれば、婚約者のいる殿方と親しく交流しようとしている妹を注意しただけ。だが傍目から見れば、その様はあたかも健気な妹を虐げる意地の悪い姉そのものだ。
悪女だという噂と合わせて、『ベルンハイム侯爵家の姉は王子の婚約者にふさわしくない』という悪評が広まるのも無理はない話だった。
帰路につく馬車の中で、イリスは口が酸っぱくなるほどにした注意を繰り返す。
「あのねエルザ、婚約者のいる殿方を気軽にお茶に誘ったり、まして夜会で二人きりになろうとするのはやめなさい。いらぬ誤解を生んでしまうわ」
「お姉様、小言はやめて。そりゃお姉様にはフェリクス殿下っていう極上の婚約者がいるけど、わたしは自分で見つけないといけないんだから」
ベルンハイム侯爵家にはイリスとエルザの姉妹のみで、子息はいない。
イリスが王家に嫁ぐのであれば、エルザが婿を取るというのが当然の流れだった。
「婿候補ならお父様が見繕ってくれるのではないの?」
「そんな、年が離れていたり格下だったりでいい男ゼロよ? それなら学園内で将来有望そうな殿方を落としたいってもんでしょ」
「だからといって、近付く口実にわたしがあなたをいじめているだなんて嘘をつくのはどうかと思うわ」
人を騙すような真似をしてはいけない。
至極真っ当なことを言ったつもりだったが、エルザからは思いもよらない言葉が返ってきた。
「いやだお姉様、騙されるほうが悪いのよ? それにお姉様のおかげで優しくしてくださる殿方が増えたの。ほんと『悪女』様様ね」
天使のようなあどけない顔で、エルザは微笑む。
開いた口が塞がらないとはまさにことのことだったが、すでに学園内での評判は覆しようがないところまできてしまっていた。
そして今日もまた、婚約者がエルザと親しげに話しているからどうにかしてほしいという令嬢がイリスの元へ訪れる。
そうなればイリスは対処せざるを得ないのだ。
まがりなりにも侯爵令嬢というエルザを諌めることができる令嬢は稀で、姉のイリスに頼みたくなる気持ちは分からないでもない。
頭を痛めつつ、イリスはエルザがいるという学園の中庭へ向かった。
*
*
*
時は流れて――
カトレイア王国国立学園の卒業式の日。
粛々と執り行われる式典の後、華々しく開かれる懇親会の場を卒業生の誰もが楽しみ、新たな門出を祝うはずだった。
過去形なのは、その場をぶち壊した者たちがいたためだ。
「イリス・ベルンハイム! 今この時をもってお前との婚約を破棄する!」
そう高らかに宣言したのはイリスの婚約者であるカトレイア王国第二王子、フェリクス・カトライアだ。
輝く金髪に王家特有の紫水晶の瞳。誰もが目を引く端正な容姿をしながら、口元を歪ませ婚約者のイリスを睨んでいる。
(……せっかくの男前が台無しね)
内心ため息をついたものの、表情にはおくびにも出さずにイリスはにこりと微笑んだ。
「殿下。理由をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか」
「はっ、それくらいも分からないのか?」
曰く、イリスの容姿も、性根も、普段の行いもすべて王子たる自身にふさわしくないのだという。
母譲りのブルネットの髪にヘーゼルの瞳というイリスはフェリクスに比べたら華やかさに欠けるのは事実だ。
百歩譲ってそれはいいとして、性根や普段の行いに関しては勤勉であることを誇りに思うくらいには真っ当に生きてきた自信はある。学業と並行して后教育にも励んでいるのは周知のはずなので言いがかりにも程があるだろう。
――が、すべてをイリスは飲み込むことにした。
「そうでございますか。時に殿下。わたしと殿下の婚約は王家からの打診だったと思うのですが、
「構わぬ」
尊大な態度で頷くフェリクス。
その傍らには何故かこれ以上ないほどに着飾った姿の見知った女性が控えており、勝ち誇った眼差しでイリスを見つめていた。
気づかない振りをして、イリスは淑女の礼をとる。
「かしこまりました。こたびの婚約破棄、謹んでお受けいたします」
ざわ、とひときわ大きなどよめきが場内に広がっていく。
フェリクスは片手を上げることでその場をおさめ、自身に注目を向けさせた。
「王子ともあろう私が婚約者不在では皆を不安にさせてしまうだろうが、なに、案ずることはない。私には彼女――エルザ・ベルンハイムがいる」
「ごきげんよう、皆様」
華やかなドレスをまとい、淑女の礼をとったのはイリスの妹――正しくは異母妹であるエルザだ。
フェリクスの瞳の色と同じ、紫水晶の髪飾りが亜麻色の髪によく映えている。薄紫のドレスを身に纏い、愛くるしい微笑みを周囲に振りまくエルザは当然のようにフェリクスへしなだれかかった。
「何を隠そう、エルザは姉のイリスから日々冷たくあしらわれているのだ。暴言はもとより、時には……」
「フェリクス様、お願いです。お姉様を悪く言わないでください。わたしが至らないばかりに……」
「エルザ……」
エルザが瞳を潤ませ上目遣いでフェリクスを見つめれば、しばし二人の間の時間が止まった。
(なんてくだらない茶番)
表面上は笑顔を崩さず、再び心の中で大きなため息をつくイリス。
冷たくあしらわれていると言うが、イリスとしては度々マナー違反をするエルザを注意していたに過ぎない。
暴言なんて吐いたことはないし、まして手を出したこともないが、二人の様子を見る限りあることないこと話を盛っているようだ。
「……恐れながら、殿下。エルザの言うことに関してですが、わたしには身に覚えがありません」
「なにを言うか。学園内でエルザを叱責するお前の姿を見たという証言はいくつもあがっている」
「叱責、ですか。貴族らしからぬ振る舞いをしているところを注意したことはございますが……」
イリスはちらりと周囲の人だかりへ視線を移す。
エルザに誘惑されていた婚約者を持つ令嬢たちは目線が泳いでおり、けしてイリスの方を見てはくれなかった。
(……なるほど)
自身が悪者になりたくないばかりにイリスにすべての責任を押し付ける、というわけだ。
そして傍らに寄り添う当の婚約者の殿方たちからは非難めいた眼差しが向けられている。彼らからすれば可憐なエルザを泣かせていたというのはまぎれもない事実であって、イリスは悪女でしかない。
この状況でイリスの肩を持つ者はいないだろう。
フェリクスは周囲の反応をうかがい、異論がないことを確認してイリスへ冷ややかな視線を向けた。
「そうでもないようだが? やはりお前は私の婚約者にはふさわしくない。にも関わらずエルザはお前のことを庇うばかりで、なんと健気なのだろうな。私の伴侶には心根の優しい彼女――エルザこそがふさわしい」
よく通る声でフェリクスが高らかに宣言する。
それは事実上の婚約表明だった。
「エルザを虐げるような悪女は国外追放でもいいところだが、エルザがそれはあまりにもかわいそうだと心を痛めている。エルザに許しを乞うのであれば、ベルンハイムの爵位共々悪いようにはしないが、どうだ?」
「国外追放で結構です」
「そうかそうか、では今ここで謝罪を――……えっ?」
場内の時が止まった。
一同の視線を一身に浴びながら、イリスはにこりとフェリクスに微笑みかける。
「国外追放で結構です、と申し上げました。殿下、並びに皆様方。それでは失礼いたします」
淑女の礼をとり、イリスはくるりと踵を返した。
誰もが呆然と立ちすくむ中、たった一人、イリスの行く手を阻むように前へ出た者がいる。
「ならばその御身、貰い受けても構わないでしょうか?」
「……デュラン様……」
艷やかな黒髪に、深緑の瞳。
学園内で黒薔薇の君だと称される、隣国ローゼの辺境伯令息であるデュランがイリスに手を差し伸べていた。
「デュラン・キール!? 貴様、隣国の人間がどんな権限があって我が国の国民を……!」
「たった今、国外追放を告げておられたとこの耳で聞きましたが?」
フェリクスがデュランに喧嘩腰なのは今に始まったことではなく、学園に通う者ならば誰もが知っていることだ。
理由は至って単純で、留学生かつ中途編入のデュランの方がフェリクスよりも成績が優秀だったため。
そしてそんな相手が婚約者のイリスと時折親しく話しているというのも癪に障るらしく、目の敵となっていた。
「ここにいる全員が証人です。イリス嬢は殿下の婚約者ではなくなった。国外追放となるのなら、ベルンハイム侯爵とも縁が切れるということ……行くあてのない
「
「おや殿下。ご存じないと?」
「デュラン様。わたしが殿下の婚約者だったのは、先代キール伯の娘である母がベルンハイムへ嫁いできたためです。殿下も当然ご承知のはずです」
「…………も、もちろん知っている!」
この反応は知らなかったと見た。
が、ここで突っ込むのは野暮でしかないため深追いはしない。
(
例え好いてない相手だろうと、自分のものである
くだらない独占欲だと切って捨てて、イリスは差し伸べられたデュランの手を取った。
「デュラン様。悪女と呼ばれる厄介者ですが、よろしくお願いいたします」
「そんな汚名、すぐに返上してみせよう」
「――っ」
ふいに手の甲に口づけが落とされる。
顔を上げたデュランがイリスへ微笑みかければ、周囲から黄色い悲鳴が上がった。
きらびやかなフェリクスが太陽なら、デュランは月。どことなく憂いを帯びた様が麗しいと学園内の女生徒の目の保養となっていたデュランの笑顔は希少価値がある。
「少しやりすぎでは?」
「そうかい?」
耳先を赤く染めながらイリスが小声で訴えれば、デュランはどうということはないと目元を細めた。
これはからかわれているに違いない。
動揺するだけ無駄だとイリスは咳払いをして心を落ち着かせた。
「イリス嬢の了承も得られたのでこの場に用はない。では殿下、ご機嫌麗しゅうお過ごしくださいませ」
「待て! 話はまだ終わって――」
「御用がおありでしたら、我がシュバルツ領までお越しください。逃げも隠れもいたしませんので」
こうしてデュランに背中を押される形で、イリスは会場を後にした。
*
*
*
カトレイア王国は三方を山に囲まれ、唯一開かれた一方が大国ローゼに接している小国だ。
主な資源はその山から産出される鉱石及び宝石で、利益が高いものが多い反面、食糧事情は芳しくない。
主にローゼ帝国からの輸出入に頼っており、その際に必ず通るのがシュバルツ領だった。
辺境とは名ばかりでシュバルツ領は広く、豊かな穀倉地帯でカトレイア王国もその恩恵に預かっている。
特に二十年前に起こったカトレイア王国での王位継承にまつわる揉め事の時から、結びつきは強くなったといえるだろう。
現カトレイア国王が当時実の兄と王位継承権を争って勝てた要因は、シュバルツ領を治めるキール辺境伯の娘と弟派だったベルンハイム侯爵との婚姻成立によるものが大きい。
長年の懸念事項であった食糧事情への大きな一手として国内の貴族はこぞって弟派へと支持を鞍替えしたのだ。
もちろん、ローゼ帝国が手を貸したのには理由がある。
「『ベルンハイムの娘をカトレイア王家に嫁がせること』っていう盟約を結んだわけだけど……あの様子だと殿下はご存知ないのかもしれませんね」
十年ぶりに訪れたキール辺境伯の屋敷で、イリスは窓の外に溢れる新緑を眺めていた。
あの頃――母が存命であった頃と変わらない景色に頬が緩む。
産後に体調を崩しがちになっていた母を労るため、冬から春にかけて過ごすことが多かったキール辺境伯邸。キール辺境伯夫妻、そして同い年の従兄のデュランとその弟と過ごした時間はイリスにとってかけがえのないものだった。
「知る機会はいくらでもあった。そうしなかったのは己の怠慢だろう」
ばっさりと切って捨てたデュランはおもむろにイリスの横へ立つ。
「それにベルンハイム侯爵もいただけない。娘に言い聞かせることすらしていなかったのだからな」
「お父様はエルザに甘いから。……お母様が亡くなって、やっと愛する人とその娘を侯爵家に迎え入れることができたのだから、情の厚い人ではあるんです」
「情が厚い人間は、実の娘をぞんざいに扱ったりはしない。まして、配偶者がいながら陰で子を作ったりはしないよ」
エルザはベルンハイム侯爵が昔からの恋人との間に作った子だ。
イリスの母没後、一年も経たないうちに祖父も亡くなり、父がベルンハイムの爵位を継ぐ。喪が明けて早々、侯爵家に迎え入れたい人たちがいるとやってきたのがエルザとその母だった。
この時イリスは九歳になったばかりだ。
急に現れたひとつ年下の義妹にイリスは動揺を隠せず、ぎこちなく接することになったが、エルザは違った。
物怖じせずに侯爵を父と呼び、侯爵も慣れ親しんだ様子でエルザに話しかける。
義母を交えて三人で笑い合う様はまるでそちらが昔からの家族であったような、そんな雰囲気で。
(お父様には、本当の家族がいたのね……)
政略結婚だったイリスの母と不仲だということは幼いながらに感じていた。
侯爵のイリスへの態度も義務的で、あくまで『王子の婚約者である侯爵令嬢』という対面を保つために最低限のことをしていたに過ぎないのだと今なら分かる。
「イリスをないがしろにして、あの娘ばかり可愛がっていたのは皆も知るところだろう? おまけに変な噂まで流して……学園で聞いた時は耳を疑ったよ」
「あら。わたしは学園にデュラン様が編入されてきたことの方がよっぽど驚きましたが?」
「隣国を知ることは後学のためになる。それに、イリスからの連絡が途絶えたことは両親も心配していたからね」
「その節はご心配をおかけしました。……あの頃は、すべてが嫌になっていたものですから」
不名誉な噂を流され、心をすり減らしていた日々は思い返したくもない。
けれどデュランとの再会によって、イリスは一筋の光を得たのだ。
――王子の婚約者という望まぬ立場を捨て、名ばかりの侯爵家から抜け出すためなら、悪女にだってなる。
そう覚悟を決めて以来、逆境すらも利用する形でデュランと共に策を講じてきた。
「デュラン様、イリス様。フェリクス殿下並びにベルンハイム侯爵、及び侯爵令嬢がいらっしゃいました」
数度のノックの後、扉の向こうの使用人から声がかかる。
デュランを見上げれば、端正な顔立ちからは似つかわしくない笑みを浮かべていた。
「さあ、君につらい思いをさせた者たちへ、意趣返しといこうか」
「はい」
差し伸べられた手を取り、イリスもまたほの暗い笑みを浮かべる。
役者は揃った。
あとは、考えたシナリオ通りに事を進めるだけだ。
*
フェリクスが直々に携えてきたカトレイア国王からの書簡には、イリスをカトレイア王国へ引き渡すよう要請する旨が記されていた。
「おかしな話ですね。イリスを国外追放しておきながら戻ってこいなどと……あれほどの証人がいて、今更なかったことにはなりませんよ」
書簡に一通り目を通したデュランは鼻で笑った。
対するフェリクスは普段の尊大な態度は鳴りを潜め、どこか浮かない顔だ。
「……悪い話ではない。イリスが戻ってきた暁には、兄上との婚約をと陛下は仰っていた」
「
「フェリクス様、それはどういうことですか? お姉様がアルベルト様と婚約だなんて……!」
片眉を上げたデュランの言葉尻に被さるように、エルザがフェリクスへ食ってかかる。
「どうもこうもない。『ベルンハイムの娘』が王家には必要なのだ」
「わたしだってベルンハイムの娘です。わたしではお役に立てませんか?」
「エルザ……いや、エルザこそと私も思っていたのだ。だが……エルザはオリビア・キールの子ではないのだろう?」
「――っ、あの泥棒猫が母親だなんて、あるわけないじゃないっ!」
エルザは顔を真っ赤に染め、勢いよく立ち上がった。
いきなりの変貌ぶりに慌てふためいたのはベルンハイム侯爵だ。
「え、エルザ。落ち着きなさい、な?」
「だってお父様!」
「いいから! ここがどこだか分かっているだろう?」
「……っ」
ベルンハイム侯爵になだめられ、エルザははたと我に返る。
イリスとデュランの冷ややかな視線、フェリクスのあっけにとられた様子を見て顔色が赤から青へと変わっていく。
「あ、わ、わたし……」
「伯母上が泥棒猫だなんて、心外ですね。ベルンハイム侯爵、どうやら閣下は何もご息女にお伝えになっていなかったようで」
「い、いや、その……」
目が泳いでいるベルンハイム侯爵に向けてデュランはこれ以上ないほどの笑顔を向けた。
「良い機会ですからはっきりさせようじゃないですか。伯母上と閣下との婚姻は国策によるもの。『ベルンハイムの娘をカトレイア王家に嫁がせること』という盟約を果たすためには、我がローゼ帝国のキール辺境伯令嬢との間に儲けた子が必要なんです」
デュランがかいつまんで話すにつれて、フェリクスとベルンハイム侯爵の顔色が悪くなっていく。
ただ一人、エルザだけは理解できないといった表情を浮かべていた。
「どうしてそんなことを?」
「端的に言えば食糧問題の解決のため、ですよ。カトレイア国内だけでは国民を食わせることができないのです。授業で習いませんでしたか?」
「……」
「伯母上の娘であるイリスを王家へ嫁がせる代わりに、ローゼはカトレイアへ恒久的な食糧支援を行う手筈だったのですが……反故にされたのであれば仕方ないですね」
「だから反故になどしないと言っているだろう」
「イリスをアルベルト殿下と婚約させて? ではフェリクス殿下、あなたはどうなるのです? 王家にベルンハイム侯爵の娘のみを受け入れるだなんて、他の貴族が黙っていないのでは?」
「それは……エルザには側妃となってもらって……」
「側妃ですって!?」
エルザの悲痛な叫びが室内に響き渡る。
「フェリクス様、そんな、どうして!?」
「仕方ないんだ、エルザ。君と結ばれるためにはこうするしか」
「嫌よそんなの。そんなの、お母様の二の舞じゃないの……!」
激しく頭を横に振るエルザは駄々をこねる子どものようだ。
「やっと邪魔なお姉様がいなくなったと思ったのに、どうして……ねぇお父様、なんとかならないの? わたしの幸せがお父様の幸せだって言っていたじゃない」
「エルザ……すまない、こればかりは……」
大粒の涙を流すエルザは可憐なうえに儚げですらある。
いつもエルザの願うままに動いてきたのであろうベルンハイム侯爵だが、今回ばかりは手出しはできないようだ。
これぞ美しき家族愛、というところだろうが、邪魔者扱いされたイリスにとっては胸をえぐられるような光景だった。
わずかに震える指先にデュランの大きな手が重なる。
隣を見れば、励ますような眼差しのデュランと視線も重なった。
(――そうよ、これくらいで凹んじゃいられない)
すうとひとつ深呼吸をして、イリスはフェリクスへ向き直る。
「僭越ながら、殿下。わたしはカトレイアへは戻りません」
「! なんだと?」
「国外追放を告げておいて何事もなかったかのような顔をして戻ってこいだなんて、厚顔無恥にも程があります。どう取り繕ったとしても貴族の反感を買うことになるでしょう。争いの火種となることは避けたいのです」
「しかしそれでは、カトレイアは……」
「贅沢をしなければ貿易で得た収入で必要量を賄えるはずです。約束を違えたとはいえ、人道に反するようなことはローゼも本意ではないと思います」
「そ、そうか……」
旗色が変わったことを感じとったのか、フェリクスの表情がわずかに和らいだ。
この問題をどう対処するか。結果如何で王家でのフェリクスの処遇が変わってくるだろうことは想像に難くない。
であれば、付け入る隙もできるというものだ。
「わたしとしても生まれ育った国が困窮する様は見たくありません。デュラン様にご相談すれば、キール辺境伯から皇帝陛下へ陳情するのもやぶさかではない、と」
「ほ、本当か!?」
「ただし、イリスの名誉を回復させることが条件です」
身を乗り出したフェリクスへ、デュランが鋭く口を挟む。
「殿下も耳にしたことがあるでしょう。イリスが悪女などという、根も葉もない噂を」
「あ、あぁ。しかしあれは……いや、皆が口を揃えて言うのだから噂などでは」
「その皆というのはどなたでしょうか。貴族の子息にばかり話を聞いたのではないですか?」
「それはそうだが」
「ではその子息の婚約者に話を聞いてみてください。『あなたの婚約者に、エルザ嬢が言い寄っていたのではないか』と」
「なっ……無礼だぞ、貴様!」
気色ばむフェリクスの怒声を、デュランは笑顔で受け流した。
「おや? 婚約者がいながらエルザ嬢に言い寄られ、恋仲となったあなたが言えた義理じゃありませんよね。エルザ嬢があなたに囁いたことを、他の者へは言っていないと?」
「当たり前だ! なぁ、エルザ」
「え、えぇ。もちろんですわ」
「おかしいですね。私も言い寄られたことがあるのですが、思い違いでしょうか。『お姉様は不出来なわたしを恥だと思って、日々つらく当たられていて……でもそんな時でもあなたのお顔を見るだけで、勇気がわいてくるのです』……でしたか?」
「……っ!」
エルザの顔色がみるみるうちに青ざめていく。
フェリクスはといえば驚きのあまりエルザを直視したまま固まってしまった。
「あ、フェリクス様、これは、その……」
しどろもどろにエルザが声をかけるが、フェリクスの耳には届かない。
言い訳すら思いつかなくなったのか、エルザのはちみつ色の瞳から再び大粒の涙があふれる。
泣き落としはエルザの特技で、イリスはこれまで随分と苦汁を飲まされてきたが、今回ばかりは泣いて許されるものではない。
肩を震わせるエルザをどこか冷めた目で見つめていたら、斜め前から低い声が飛んできた。
「――イリス。可愛い妹の心を傷つけておいて、よく平然としていられるものだな」
「……え」
およそ実の娘に向けるものではない眼光をしたベルンハイム侯爵がイリスへつばを飛ばす。
「そもそもお前が殿下の婚約者としてもっとしっかりしていればこんなことには……!」
「閣下、責める相手をお間違いでは? あなたこそエルザ嬢へ侯爵令嬢とはなんたるかを躾けなければならなかったはずだ」
イリスを庇うようにデュランが口を挟む。
「ずっと心を傷つけられていたのはイリスの方です。エルザ嬢の振る舞いによって名誉まで傷つけられて……閣下はご家庭内での姉妹の様子をよくご存知のはず。イリスは噂にあるようにエルザ嬢をいじめていましたか?」
「そ、それは……」
「ご返答次第ではこの話はなかったことに」
「それは困る! 侯爵よ、どうなんだ?」
いつの間にか復活していたフェリクスがベルンハイム侯爵へ詰め寄った。
エルザとよく似たはちみつ色の目が泳ぎ、額からは汗が流れ出る。ベルンハイム侯爵は肩を震わせながら、喉から絞り出すような声を上げた。
「…………かった」
「聞こえませんね」
「……イリスはエルザをいじめてなどいなかった!」
「――っ、お父様……っ!」
エルザの泣き声がひときわ大きくなった。
ベルンハイム侯爵はエルザへ手を伸ばすが、エルザはその手を振り払う。
フェリクスへすがることもできず、ひどい、どうして……と嗚咽を繰り返すエルザに手を差し伸べたのはイリスだった。
「泣かないで、エルザ。色々あったけれど、わたしはあなたに感謝もしているのよ」
「え……」
「わたしにはにこりともしないお父様が、あなた達の前では声を上げて笑っているの。お父様にちゃんと心を許せる家族がいるんだって知れたし……何の心残りもなく、ここから抜け出してやろうと思えたから」
「あなたなら、殿下を奪ってわたしを断罪するまでやってくれると思っていたの。見込んだ通り、懇親会というこれ以上ないくらいの証人がいる場でしてくれて……」
昔からイリスのものを欲しがってばかりいたエルザのことだから、きっとフェリクスのことも奪おうとする。
それにイリスは賭け、勝負に勝ったのだ。
「殿下、婚約破棄だけでなく国外追放までしてくださってありがとうざいます。おかげで晴れて自由の身となれました」
「……イリス、お前……」
「お姉様、わたしを騙していたっていうの!?」
「いやだエルザ、あなたがそれを言うの?」
涙で顔がぐしゃぐしゃになったエルザへ、イリスはいつかの時に言われた台詞をお返しした。
「騙されるほうが悪いって、あなたが言ったのよ?」
*
*
*
その後――
フェリクス自らの手で貴族の子女達へ聴取が行われ、イリスの悪評は事実無根であると周知された。
ローゼ帝国からの食糧支援は変わらずそのまま――とはならないのが世の常だ。協議の末、カトレイア王国で産出される資源の価格を一定期間下げることが条件となったらしい。改定の際に期間が延長となるかどうかは今後のカトレイア王国の出方次第という、寛大なようで大国のしたたかさが見え隠れする結果となった。
そして盟約を反故にした責任を取る形でフェリクスは王位継承権を返上し、臣下に下る。
ベルンハイム侯爵は爵位を剥奪された後、後妻の実家である男爵家へ夫妻共々身を寄せることとなった。
空いたベルンハイムの爵位は誰も継ぐ者がいなかったために領地のほとんどを王家直轄へ鞍替えして男爵位へと降格の後、一代限りの爵位としてフェリクスが名乗ることとなる。ベルンハイムの名が残ったのは犯した罪を忘れないようにという見せしめの意味合いが含まれているのは容易に想像ができた。
エルザはといえば、成人するのを待ってフェリクスの妻となる予定だという。これは監視の意味合いが強く、目を離して何かあれば爵位共々一掃できるようにという狙いからだろう。
可憐で健気だというエルザの評判は地に落ちた。あの一件以降、すっかり塞ぎ込んでしまい、あれほど参加していた夜会どころか屋敷から出た姿を見た者はいないそうだ。
――という話が隣国にまで回ってくるのだから、噂というものは恐ろしい。
一躍時の人となってしまったイリスもまたおおっぴらに出歩くわけにはいかず、静養という体でキール辺境伯邸に世話になっている。
辺境伯夫妻は帝都に行ったまましばらく戻ってこられないといい、デュランの弟は元々帝都にある学校に通っているということで、屋敷にはイリスとデュランが残されていた。
世話になるだけは性に合わないので手伝いを申し出れば、押し問答の末にデュランでは手の回らない女主人の仕事、特に溜まり放題の手紙をなんとかしてもらえるとありがたいとお願いされた。
送り主の人となりや返したい内容を確認して、各方面に配慮した手紙を書く。これはイリスの得意分野だった。
デュランにあまりの手際の良さを不思議がられたので、ベルンハイム侯爵家でも任されていたことだと答えると複雑な顔をされてしまった。
その他、空いた時間でカトレイア王国で見たことがないローゼ帝国に関する書物を読んだり、古参の使用人たちと世間話に花を咲かせる中で『昔はデュラン坊ちゃまと仲良く手を繋いで、屋敷や周囲を探検されていましたね』というむず痒い思い出を呼び起こされることもあったりと、なんだかんだで日々は過ぎていく。
「とはいえ、いつまでもここにいるわけにはいかない、よね……」
晴れ渡る夏空の下、黄金色に染まる小麦畑は収穫の時期を迎えていた。
忙しなく働く領民をバルコニーからぼんやりと眺めながら、イリスははぁとため息をつく。
「イリス、お茶にしようか」
「デュラン様」
ふいに影がおりてきて振り向けば、デュランとその後ろに茶器一式を携えた使用人がいた。
広げられたパラソルの下でお茶会が始まる。
シュバルツ領で採れる様々な果物で作ったジャムが添えられたスコーンはイリスの好物で、亡き母が唯一作ることができたお菓子でもあった。
ベルンハイム侯爵邸では伏せってばかりだった母だが、キール辺境伯邸では調子の良い日もあって、そんな日は決まってスコーンを焼いてくれたものだ。
懐かしい味に舌鼓を打ち、グラスがすっかり汗をかいてしまった頃。
デュランが目配せをすれば使用人はそそくさとバルコニーから去っていった。
「それで、ため息の理由は教えてくれる気になった?」
「……いずれお話しなければと思っていたことです。その、遅くとも年内には家を出ようと……」
ぴくりとデュランの眉が上がり、笑顔にかげりができた。
「なんで? なにか気に食わないことでもあった?」
「いえそんな、むしろ逆です。居心地がいいからこそ、いつまでもご迷惑をおかけしているわけには……」
幸いにもイリスは学園で優秀な成績を修めていた。
侯爵令嬢としてだけでなく、王子の婚約者として培ってきた礼儀作法も身についている。
キール辺境伯の縁者としてローゼ国内の貴族の子女の家庭教師をできれば食うに困らないのではと考えていた。
「家庭教師なら住み込みで働くこともできますし。少しずつにはなりますが、助けてもらったご恩は必ず返しますね」
「別に恩を売るためにイリスを助けたわけじゃないんだけど。というか、そんなことで悩んでいたのか……」
そんなこととはなんだ。
イリスにとって今後の身の振り方は由々しき問題で、軽んじられる理由はないはずだ。
むっとしたのが表情に出ていたのか、デュランは慌てたように頭を横に振った。
「違う違う、そうじゃなくて。イリス、君はもっと俺たちに頼っていいんだよ。父も母も、君のことを本当の娘のように思って心配している。迷惑だなんて思うわけがない」
「……ありがとうございます。でも、わたしがここにいてはデュラン様の縁談の邪魔になるでしょう?」
「え?」
「
「いや待ったイリス。ストップ。ちょっと黙って」
デュランは頭を抱えている。
男前は悩んでいる姿すら麗しいなと感心しつつ、イリスは言われた通り口をつぐむことにした。
それにしたって、デュランはこの上ない優良物件だと思う。
心身ともに鍛えられているし、少し話すだけで地頭の良さも分かるというもの。加えて辺境伯家の嫡男ともなれば引く手あまただろうに、女っ気がない点だけは謎だった。
(……もしかしなくてもわたしが面倒をかけたせい?)
そうだとしたら申し訳なさすぎる。
年内と言わず、すぐにでも出ていった方がいいのでは……と悩み始めたイリスに、どこか緊張した面持ちのデュランがおもむろに問いかけた。
「あー……その、イリスは結婚願望はないの?」
「あるかないかと問われたらありますが……もはやわたしにまともな縁談はこないかと。かといって恋愛結婚は難しいですし」
隣国出身な上にワケありのイリスを好いてくれる人となると難易度は跳ね上がるだろう。
結局のところ、家から抜け出したところでベルンハイムの名は一生ついてまわるのだ。
「それなら、俺と家族にならないか?」
「え……」
イリスは目をしばたき、デュランの言葉を頭の中で反芻する。
(家族……あ、叔父様叔母様の養女にしてくれるということ?)
キール辺境伯家の養子となり、キール姓を名乗れるのであればそれに越したことはない。
「叔父様叔母様がよければ喜んで。それじゃ、デュラン兄様とお呼びすればいい?」
「待て。なにか勘違いしている気がする。そうじゃなくて……いや、俺の言い方も悪かったな」
ごほんと咳払いして、デュランはおもむろにイリスの手を取る。
端正な顔立ちに似つかわしくない無骨な手は日々の鍛錬によるものだ。
学園内でもしばしば剣を振るっていたデュランをフェリクスは野蛮だと眉をひそめていたが、イリスは威を借りるばかりで自己研鑽を怠る者よりよほど好ましいと感じていた。
デュランのような人であれば、どんな苦難があれど共に支え合っていこうと思えるのに。
エルザの色仕掛けにも流されなかったデュランなら、きっと生涯を共にする相手に対して誠実であり続けるはず。
それはなんて幸せなことだろうとぼんやりしていたイリスがデュランの口から紡がれた言葉の意味を理解できたのは、しばし後のことだった。
「君は生まれながらにして婚約者がいたから願うことすら許されなかったけど、今なら言える。イリス。俺はずっと、君のことが――……」
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カトレイア王国もローゼ帝国も、いとこ同士の婚姻に制約はないです。
騙されるほうが悪いって、あなたが言ったのよ? 香山なつみ @kayama723
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