第31話 ワクチンと手袋(最終話)
予約は取っていたのだが、二時間前には、医院へ来てしまっていた。
いつもそうだ。昔から人を待たせるのが大嫌いで、早く早くと行動するくせがついてしまって、しまいには、予約時刻より早く来るのも当たり前になってしまっている。それにしても二時間は……いや、いまはそんな話ではない。
きょうは二月で寒いし、この時間にはまだ、医院が閉まっていることも知っている。入り口の傍にベンチがあるのは、前回のワクチン接種で知っていたので、そこで待つつもりで、読みかけの本を一冊持っていた。
……だが、この日はいつもとは違っていた。先客がいたのだ。
背がわりと高い、やや、やせ気味の女性だ。年齢は二十代後半といったところだろう。栗色の髪を、肩甲骨のあたりまで伸ばし、ちょっと幼い顔立ちだが、目が強い。ワンピースに青いダウンジャケットを着ている……と、スペックで物を言っているのでは、だめだなあ。ひとことで言うと、『ふんわりしない人』、とでも言うべきか。
『ふんわりしない』と言うと、言われた女性も不本意かもしれないが、どこか、かわいらしい外見としっかりした内面が、神秘的なふんいきを作り出しているようだ。
ベンチの端に腰かけて、彼女も文庫本ぐらいの大きさの本を読んでいた。デパートの包装紙らしい紙でカバーをかけていて、書名が分からなかったが、ときどき、くすくす、と笑っている。『ユーモア小説』とでもいうところだろうか。
まだシャッターの開いていない医院の入口に、整理券を入れたスタンドが建っていたので、整理券を取った。『2』とだけ書いてあった。
他に誰もいないベンチは、ただの細長い椅子ではなく、いくつかの小さな椅子が横一列に並び、つないである形のものだった。近づいてみると、彼女は目を上げて、こちらを見てはっきりとした声で言った。
「おはようございます」
「……ああ、おはようございます。ワクチンですか」
「はい。第六波の」
「僕もそうなんです。どうしても、早く来てしまって」
「私もです。早く終わりにしたかったので」
「何か、時間を気にするご用ですか」
「お仕事があるんです」
「失礼ですが、何をやっていらっしゃるんですか」
「喫茶店です。芦ヶ窪商店街はご存じですか」
「あることは知っています。もう、十年ぐらい行ったことはないけど」
「私、そこにある喫茶店の店主なんです」
彼女は小さなバッグから、名詞らしいものを出して、こちらへ渡してよこした。
音楽喫茶 僕の森 新水涼音
あと住所と電話場号が書いてある。記憶を探ってみたが、そんな店があることは思い出せなかった。
黙って、ひとつ離れた席に座った。
自分も文庫本を読み始めると、涼音が話しかけてきた。
「小説ですか」
「グレッグ・イーガンのSFです」
「難しいのでしょうね」
「SFの中でも、難しいかも知れません」
言ってから後悔した。自分は、難しい小説を読みこなすような人間だ、とマウントを取りにかかっているとは思われないだろうか。
「SFは、食わず嫌いなんです」
どう反応したらいいか分からない答だった。
「そちらは?」
「大森荘蔵さんの本です。小説ではありません」
「何かの、専門書ですか」
「哲学です」
「……哲学?」
くすくす笑いながら読むようなものだっけ? 哲学って。
「あの、すいません。ひとつ、うかがいたいんですが」
「何でしょう」
「哲学というのは、そんなに面白いものなんですか。読んだことがないので、分からないんです」
「そうですね……」
涼音は額を押さえて、
「全然、分かりません」
思わず脱力した。
「でも……」
涼音は抵抗した。
「百回ぐらい読んでいたら、いつか分かるかも知れないじゃありませんか」
「まあ、そうですね」
「全然分からない本を読んでいると、私の頭が、いまよりよくなるかも知れないし」
「あの……いまは、何回目なんですか」
「五回目です」
何と言うか、独特の考えを持っている人のようだ。
「私から訊いてもいいですか」
涼音が、こちらの顔をのぞき込むような顔で言った。
「ええ、どうぞ」
「SFって、面白いんですか」
「うーん」
できれば避けたい質問だなあ。
SFがつまらないとは思わない。それどころか、小説の中で一番面白いのがSFだと思っている。
ただ、どこが面白いのか、と訊かれると、困ってしまうのだ。古いことばでは『センス・オブ・ワンダー』とか『SFマインド』とか言うのだけれど、読まない人に説明できないし、自分でもよく分からないのだから。だが、この涼音になら、こう応えれば、分かるかも知れない。
「えー……どこが面白いのか分からないから、面白いんです……という答で、いかがでしょうか」
すると、涼音は手を打って喜んだ。
「いいですね! 面白さを探すんですね」
「え、ええ」
「私、そういうの、好きなんです。ええと、書名が……」
涼音が、ポーチの中から大急ぎでメモ帳を取り出したので、書名が見えるように、本を閉じて自分の手の上に載せた。
そのメモ帳が面白かった。新聞のチラシや、郵便受けに投げ込んであるやはりチラシの類いを、小さく切って、右の端を金属のリングでまとめてあるのだ。ボールペンには、軸の所に店の名前か何かを書いてあったが、ポーチの中ではがれてしまったのだろう、分かるのはそれが販促用のものだ、ということだけだった。
『ひとりっ子』と書名を書いて、涼音はこくん、と頭を下げた。
「ありがとうございます。読みたい本が一冊、増えました」
「いえいえ、涼音さんに面白ければいいんですが」
そのうち、ふたりだけだったベンチも、その周りも、ワクチンを受ける人で埋まってきた。
ドアのシャッターを開けた職員の男性が、大声で呼んだ。
「整理券、一番から十二番の方、お入り下さい。あとの方は、もうしばらくお待ち下さい。よろしくお願いします」
涼音が立ち上がった。
「お先に失礼します」
立ち上がった涼音は、ふんいきからは分からない、きびきびした足取りで、医院へ入っていった。
後を追おうとして、忘れ物に気づいた。
蛍光オレンジの、軍手の片方だった。取り上げて見ると、右手のようだったが、かなり小さかった。こんな色の軍手を、どんな人が使うのだろう。
しかも、どうしてこんな所に、片方だけ……。
事情はすぐに分かった。涼音は、本のページをめくるため、片方の手袋を外していたのだろう。それに気がつかずに、置いていってしまったというわけだ。
「……どうかな」
手袋を持って医院へ入り、涼音を探して手袋を渡すか、このままにしておけば、自分で気がついて取りに来るだろうから、よけいなお世話になってしまうか、などと色々に考えたのだが……。
結局、持って入ることにした。自分の目に入らない所に、『預かり物』を置いていくのが、どうにもがまんできないのだ。
医院の待合室には、誰もいなかった。涼音が一番、自分は二番だから、いまごろ奥の処置室か何かで、涼音はワクチンの接種を受けているのだろう。
そこへ、三番から十二番の人が、静かに入ってきて、思い思いに座った。
看護師が、バインダーに綴じられた問診票を配った。
いろいろな症状に、×を付けて言った。中には、『妊娠していますか』のような、少々的外れな質問もあるが、それだけのために用紙をふたつ作るのは手間だから、しかたがないだろう。
「番号札、二番の方」
女性の看護師に呼ばれて、立ち上がった。細い廊下を通って、『処置室』という部屋に入る。涼音らしい人影はなく、やや広い部屋に、円椅子と、接種の道具らしい注射器や何かが置かれていた。
「椅子に座って下さい」
ここから先のことは、日本中のほぼ誰でもが経験しただろう。円椅子に腰かけ、Tシャツをめくり上げた。
「ちくっ、としますからね」
看護師の声に、思わず緊張して、針が刺されるのを待っていると、
「はい。いいですよ」
何も感じないうちに、注射は終わってしまっていた。
体質なのだろうか、いままでワクチンを打たれても、せいぜい、打たれたかどうか忘れてしまう程度だ。
それでも看護師は、
「念のために、十五分ぐらい、待合室で様子を見ていて下さい。何か不調などあったら、呼んで下さい」
言ったときには、次の人を座らせて、接種の準備をしていた。それはいいが……。
待合室には、当然、一番の涼音もいると思ったのだが、どうしたわけか、姿が見えなかった。これでは手袋が渡せないじゃないか。
その間に十五分が過ぎて、
「もう大丈夫ですよ。もし熱が出たりしたら、市販の解熱剤でもいいですから」
看護師さんに声をかけられて、半ば追い出されるように、医院を出た。
こうしてきょうの用事は終わっ……てはいない。この手袋をどうしよう。
名刺を見ると、涼音のいる店は、ここから歩いて二十分ぐらいだ。
「行ってみるか……」
真冬の玉川上水沿いの遊歩道を、ぶらぶらと歩きだした。
……確かに二十分ほど歩くと、遊歩道と、私鉄の線路が交差していて、その交差点の辺りに、いかにも喫茶店らしい店構えの建物があり、小さな看板に『音楽喫茶 僕の森』と書いてあった。
店の前で、つい立ち止まって深呼吸をしたのは、ワクチンの副反応のせいでもなく、店が怪しげだったわけでもない。緊張しやすい体質なのだ。それなのに、初対面の涼音と会話できたのだから、信じてもらえないかもしれないが、ほんとうのことなのだから、しかたがない。
……誰かに押されたように、店の中へ踏み込んだ。
「らっしゃっせー」
元気のいい、女性の声がした。
間もなく、とても背の低い女性がカウンターから出てきた。髪を金髪に染め、唇は真っ赤だ。エプロンの下には、やはり真っ赤なチューブトップと、すり切れたデニムのショートパンツを穿いていた。冬だというのに……寒くないのだろうか。
不思議なのは、それがけばけばしいとは、ちっとも思わないことだ。それどころか、強い魅力を感じる。
女性はちょこちょこと歩いてきて、
「おひとり様ですか?」
「ええ。あの……」
「じゃ、カウンター席はいかがっすか。音楽の方も、ご希望だったらいいポシションで聴けますし」
「そう言えば、音楽喫茶だったな」
「はいー。日本の音楽を集めているんすよ」
「日本の。あまりよく知らないんですが、どういうのがあるんですか? AKB?」
「ああ……あの方向がお好きですか」
「いや、好きじゃないな。もっとエモいのがいい」
「むー……」
女性は考えていたが、
「じゃあ、宇多田ヒカルとかどうっすか。『Colors』とか、エモいと思うんすけど。あ、自分は、蓮です。ハスの花っす」
「僕はハシバです。宇多田ヒカルか……懐かしいな」
「ええつ」
蓮はほんとうにええ『つ』と言って、
「あの、失礼ですけど、ハシバさん、おいくつですか」
「二十七ですけど」
「じゃ、うちのオーナーと同い年っすね。自分は二十五です」
そこへ、カウンターの奥の、のれんを両手で挙げて、涼音が出て来た。すぐにこちらに気がついたようで、
「あっ」
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
涼音は言って、
「おいで下さったんですね」
無邪気に微笑んだ。
「ハシバです。これをお忘れかと思って」
カウンターの上に手袋を置くと、涼音の目が丸くなった。
「どこにあったんですか?」
「病院の外のベンチにです。本をめくるのに、邪魔だったんじゃないですか」
「そうなんです。わざわざ、ありがとうございます」
涼音はぺこり、と頭を下げた。
「これ、軍手ですか。オレンジの軍手は珍しいですね」
「ああ……オレンジ色の軍手は、選挙のときに、よく使うんです。みんなが街宣カーの上に立って手を振る、あれですね」
言われてみれば……。
「じゃあ、涼音さんは政治活動をなさっているんですか」
相手が政治家だったら、と思うと……自分とは、ちょっと生き方が違う。
「私ですか? 私は政治とは全然、無縁です。この軍手は、色が気に入ったので、買ったんです。国分寺の作業服専門店で、バラ売りしてくれました」
「僕があのとき声をかけなければ、忘れなかったかも知れませんね。改めて、どうもすみませんでした」
「いいえ。大森荘蔵さんの本が佳境に入った所だったので、手袋のことは全然頭になかったんです」
涼音は困ったような顔をして、
「せめてものお礼に、コーヒーを一杯、おごらせて下さい」
「おおげさですよ」
笑い飛ばした。
「どうせ散歩の途中ですから」
「散歩……この近くにお住まいですか」
「鷲尾の駅から五分ほどです」
「じゃあ……二十分ぐらいでしょうか」
「ええ。大した距離じゃありませんよ」
けれど涼音はがんこだった。
「でも、このままでは、私も気が収まりません。それに──ちょっと失礼します」
言うと、涼音はくるりと振り向き、何かを取り出して、見つめているようだった。……あれは、鏡?
やがて涼音は向き直った。
「あと五分ほどで、雪が降り始めます。一時間ほどで収まるのですが、その間、雪やどりをしませんか」
「雪やどり? 聴いたことないことばだけど」
「伊奈かっぺいという、青森でさまざまな芸術活動をしていらっしゃる方が、九十八年に出したアルバムの中に、そういうタイトルの曲があります。国語辞典には載っていないので、ご自分で作られたことばでしょう」
悪びれもせず、涼音は応えた。
「それは分かりましたが、五分で雪が降るというのは……どうして、そんなことが分かるんですか」
「すぐに分かります。……ほら、五分経ちました」
思わず窓の外を見る。ぽかん、とした。
「嘘だろう……」
暗い空から、ぼたぼたと、雪が降ってきた。
「これは、積もりますね」
涼音がつぶやいた。
「分かった。僕の負けです。ホットコーヒーを下さい」
「かしこまりました」
涼音は頭を下げて、隣を見た。
「蓮ちゃん、ブレンドひとつ、お願いね」
「かしこまりー」
背の低い、蓮と呼ばれた女性は、カウンターの奥の長いのれんを入って行った。
「おふたりで、経営ですか」
訊いてみると、ためらったような顔つきになった。
「お客様」
「ハシバです」
「では、ハシバ様。あなたを信じて言うのですが、従業員は、四人です」
「別に何も、『あなたを信じて』って言うほどのことじゃ……ああ、そうか。防犯上の問題ですね」
もし、女性が四人で経営しているのだとすると、このご時世だ。物騒かも知れない。
「申しわけありません。この辺りには、交番もないものですから」
「あなたが気にすることじゃありません。それより、さっきのことですが……」
「どれでしょう」
涼音は首をかしげた。
「なぜ、五分で雪が降るって分かったんです?」
「それは……カンです」
この答は、妙に歯切れが悪かった。
「喫茶店を長くやっていると、天気に敏感になるんです。けさから、雪が降るだろう、と思っていました」
涼音がそう言ったとき、カウンターの奥でちーん、と音が鳴った。蓮がのれんをくぐり、マグカップの載ったトレイを持って来た。
「ませましたー(おまたせしました)」
声と共にカップを置く。
「それでは遠慮なく」
そうは言ったが、慎重にコーヒーをすすった。これは……」
「苦いですね」
「皆さん、そうおっしゃいます」
涼音は微笑んだ。
「これが、うちの味なんです。ですから、無理を推してお勧めするわけにはいかないんです。お客様のご不満の中で一番多いのは、酸味が物足りない、という方です」
「それでも涼音さんは、味を変える気がないんでしょう」
「はい。私は四代目の経営者です。四代かかって試行錯誤しながら、作り上げてきた店のあり方には、まだ改良の余地があります。……ビデオモニタを置くかどうか、そんな、ひとから見たらどうでもよさそうなことや、細かいメニューの値段の見直しのようなことまで、みんなで話し合って、決めていかないといけないんです」
「ちょっと待って下さい。ビデオモニタが、どうして必要なんですか」
「最近は、音楽のDVDやBlu─rayのソフトが多く出ています。中には、CDで出たときよりも『いい』、テイクのものもあります。ユーチューブでも……そうですね。中島美嘉の『僕が死のうと思ったのは』は、CDで出ているものよりも、ユーチューブのTHE FIRST TAKEのヴァージョンが一番だと思うのですが、……著作権料の問題で、いまはいろいろ難しいんです」
ああ、それは俺も聴いている、と思ったが、黙っていた。
「それを証明するには、ビデオモニタを据え付けなければいけません。けれど、そうすると、奥のCDを引き出すのは困難です」
確かに、それは分かる。
「普通のカフェでは、天井高くにモニタを置いて、広い角度から見えるようにしてある店もありますが、この店構えでは、どちらにしても、CDをどけなければ、モニタは見えないのです」
涼音は小さくため息をついた。
「カウンターにこだわる必要は、ないんじゃないですか」
アドバイスのつもりで、言ってみた。
「店の真ん中に、天井から吊るしておけばいい」
「そういう店もいくつか、見ました」
涼音はすまなそうな顔をした。
「ほとんどの場合、それはたとえばアーティストのライヴとか、そう……スポーツバーにも行ってみたんですよ。どちらも、騒ぎながら映像を楽しむ店です。私たちの店には合いません。常連さんも、映像は好まないようですし」
言われて、店内を見回した。
何か専門誌を見ながらタブレットのキーボードを叩いている中年男性は、後で聴いたのだが、司法試験の勉強をしているのだそうだ。いまからで間に合うのだろうか。
女子高校生もいた……あれが高校生だとするならば、だが。何しろ、ごく幼い顔立ちをしていて、きゃしゃなイメージだが、髪が真っ青なのだ。どうやら教科書らしい薄い本を何冊か積み上げて、ときどき単語帳を見て、書きつける。いまでも単語帳なんてあるんだなあ……。
他には、スポーツバッグを携えた五十代ぐらいの女性ふたり。誰も、注文以外には声もかけてこない。けれど、店のふんいきに溶け込んで、まるで百年前からそこにいたように座っている。涼音たちも、あえて話しかけないようすだ。
「僕ばかりが、ひとりで声を上げていて、いいものでしょうか」
つい、訊いてみた。
「ほえ?」
蓮が変な声を上げた。
「いま、僕以外にいらっしゃるのは、常連の人たちなんでしょう」
「はい。ほとんどは」
「何だか、落ちついたふんいき、いいですね。僕も、ここの常連になりたいな」
「それでしたら……」
涼音が微笑んだ。
「気の向かれたときに、気の向かれるように、おいで下さい。……当店には、ふたつルールがあります」
「なんでしょう」
「ひとつは、自動車でおいでにならないこと」
「ああ……庭をふさぐと困るんですね」
「追い追いお話ししますけれど、あそこは庭ではありません。ご神体を祀った祠【ほこら】への参道です。たとえ、何かせっぱつまった用事があっても、参道をふさいで停車すると、気が乱れ、ご神体が暴れ出します。ここのご神体は、荒れ狂う龍神様で、気まぐれです。どんな目に遭うか、考えただけでも怖いのです」
「……それ、ちゃんとした証拠があるんですか」
「神様は、人間ごときに試されることを、ことのほか、嫌われます。あなたが試してご覧になるのはけっこうですが、命に関わるご神罰に見舞われても、私は責任を取りませんし、あなたの魂はどこへも行けず、冥府魔道を永遠にさまようことになるでしょう。……いいですね? 忠告はしました。私には、これ以上のことはできません」
「分かりました。気をつけます」
思わず、嘘をついた。
心の中では、興味津々だった。神罰? そんなものがほんとうにあるとしたら、世の中に、もっと広まっているはずだ。そんな子どもだましを広めて、涼音はいったい、何がしたいのだろう。
「もうひとつは」
涼音はこちらの内心にも気を遣わず、続けた。
「曲に合わせて歌わないことです」
「歌わない……」
「たとえば、八十年代にブレイクした米米CLUBというバンドがありました。……ご存じですね」
「ええ。僕もライヴへ行ったものです。確かに踊っていたり、歌っていたりしましたね。でも、それも含めて、米米CLUBなんじゃないですか」
「おっしゃりたいことは分かります」
涼音はうなずいて、
「けれど、店内でそれをやると、ただの騒音になってしまいます。米米ではなくても、BOOWYやバービーボーイズでも、同じ事です」
「うーん……それだとあまり、面白くない気がするなあ」
「そうですね。少なくとも米米CLUBは、私も何回か、ライヴへ行きましたが、CDは、はっきり言ってつまらないです」
涼音は、そこまで言っていいのか、というぐらいに語って、
「けれど、ここはライヴハウスでもスポーツバーでもありません。ただの、喫茶店です。言い方を変えると……」
しばらく話している間に、一時間ほどがあっという間に過ぎて、空が明るくなってきていた。
「涼音さんの予報が、当たりましたね」
言ってみると、涼音はほっとしたような顔をした。
「当たってよかったです。ただのカンなのに」
「あいにく、僕は神秘主義者じゃありません。気象予報士なんて、いくらでもいるじゃありませんか」
「別に、信じてもらえなくても、私はかまわないのですけれど……ちょっとだけ、お待ち下さい」
涼音は振り向いて、ハンドミラーをのぞいていた。
やがて、深い深いため息をついて、こちらを向いた。
「ハシバ様」
「どうかしましたか」
「いいえ、何でもありません。ただ、お逢いできて幸せでした」
「まるで、ほんとうに死ぬみたいだな」
笑って、立ち上がった。
「僕も幸せでしたよ。……では、また」
「……さようなら」
涼音は、いじめられっ子のような泣き笑いをした。
……どういうことだ?
店を出て、玉川上水の方へ行くと、確かに『僕の森』の庭には、頭をぶつけそうに低い鳥居と、白木の祠【ほこら】があった。
祠の前には、お賽銭【おさいせん】箱がある。それはつまり、少なくとも祠までは行ける、ということだ。
少し安心して鳥居をくぐったのだが、祠まではほんのちょっとの距離のはずなのに、なかなかたどり着かない。たぶん、何かの錯覚を利用して、奥行きがあるように見せているのだろう。
ようやく、お賽銭箱にたどり着いた。さっきまで雪が降っていたのに、切りつけるような寒さはなく、ほんのひんやりした程度の空気の中、真新しいお賽銭箱に、五百円玉を投げ込んで、手を叩いた。
祠には、鍵がかかっていなかった。無用心なのか、鍵がなくてもかまわないのか……かまわないと言うと、やはり何かの力があるのか……。
胸をどきどきさせながら、祠の扉を開けた。中には、紫のふくさ──四角くて紫の絹の布があって、何かを包んでいた。
手の上に載せてみる。思ったよりは軽かった。
なんとなく安心して、布を開くと、金色の、三角の『何か』があった。これが、ご神体というものなのだろう。
純金だろうか。何かで引っかいてみれば分かるはずだ。
自分のショルダーバッグから、シャープペンシルを取り出して、金色のご神体に先を当てた瞬間。
まったく突然に、辺りが真っ暗になった。
同時に足許の地面がなくなり、自分が落ちていくような気がした。ひんやりした空気がどんどん冷たくなって、井戸に落ちたみたいだ。
猛々しい男の声がした。家の外に雷が落ちたような、怖ろしい声だった。
──我が聖域を侵すのは誰か──
「いや、僕はただ……好奇心で……」
──好奇心で、神体を傷つけようとした、と言うのか──
「……許して下さい……」
どう考えても、相手は人間ではなかった。
『ここのご神体は、荒れ狂う龍神様で、……』
涼音の声が甦る。それでは、『人間風情』の自分は、死ぬのだろうか。ほんのちょっとした好奇心で……。
「お許し下さい!」
そのとき、涼音の声が、たぶん上の方からきこえた。
「この人間は、天界の作法を知りません。何もかもが未熟です。どうか、お慈悲をお願いいたします」
──甘いな、城隍神【じょうこうしん】──
声が、あざ笑ったようにきこえた。
涼音は応えた。
「私が甘いのは、存じております。けれどそれは、私が人間と天界のはざまに棲む者だからです。……この祠を傷つけ、ないがしろにする者たちは、いままでにもおりましたが、それらは罰するほどの罪を犯した者でした。けれどこの人間には、まったく邪気がございません。むしろ、龍神様を敬う心を持っております。その広いお心で、この人間をお助け下されば、龍神様の名は、いっそう上がることでしょう」
──ううむ──
龍神様は、考え込んでいるようだった。
やがて、また話し出したその声は、ほんの少し、和らいでいるようだった。
──城隍神よ。この龍神に楯突くとは、大したものだな。……確かに、こんな人間ひとり、生かしても殺してもどうということはない。そこの者、命拾いをしたの──
「あ、ありがとうございます!」
思わず声が震えた。
──礼なら、そこの城隍神に言うことだ。ただし、何の代償もなく、許すというわけにもいかん。おまえの、大事にしているものをひとつ、もらうことにしよう。……拾った命、二度と捨てるでないぞ。それでは──。
龍神様の気配が消えた。
同時に、急速に自分の体が上昇していくのが分かった。
「涼音さん?」
発した声は、闇に吸い込まれていき……。
気がつくと、僕は、屋外に立っていた。
近くの医院の、入り口のベンチ前だ。もう何回目か忘れるほどやってきた、コロナウィルスのワクチンを接種しに来たのだ。
予約は取ってあったが、人を待たせるのが大嫌いなので、二時間前にはここへ着いてしまっていた。
……いや、先約がいる。
寒そうに、ベンチの端に座っている、同い年ぐらいの女性だ。何か本を出して、読んでいた。ところどころ、くすくす笑っている。
初対面の人と話すと、どうしても緊張するので、黙ってドアの所にある整理券入れから、『2』の整理券を取り、ベンチの、反対側の端に座った。自分も本を一冊取り出して、読み始めた。グレッグ・イーガンのSFだった。
やがて、人がぽつぽつと現われ始め、予約した時間に、看護師さんが現われた。
「整理券1番から12番の方、お入り下さい」
女性が立ち上がった。
理由は分からないのだが、僕は彼女の座っていた辺りのベンチを眺めた。
……特に何もなかった。
いや、正体は分からないが、心の底に、何か大事なことを忘れたような、空白があった。
ふと、鼻の奥がつん、とした。
僕は、その空白が何なのか、たぶん一生知ることはないのだろうか……。
どうしてそんなことを考えたのか、首をかしげている間にも、冬の風は冷たく、僕は急いで、ひとりきりで医院へと入っていった。
(『涼音31話』 全話おわり)
【各話あとがき】はい、そういうわけで、あとがきもこれで終わります。
三十一の物語、読んでいただけましたでしょうか。ひとつでも、気に入ったお話はあったでしょうか。
私にとっては、勉強になることばかりでした。
……人生に暇があったら、また涼音たちの物語を書いてみたいのですけれど、こればっかり(寿命ですね)は、天と出版社の決めることですので……。
運が良ければ、またどこかでお逢いしましょう。
それでは、──。
あしたがきょうより、少しでもいい一日になりますように。
二千二十四年七月 早見慎司拝
【書籍化希望】涼音31話 早見慎司 @lao_suu
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