グラデーション

色街アゲハ

グラデーション

 夕暮れがやって来ようとしていた。二階の部屋で寝そべっていると、窓から見えるのは、赤と青の入り混じった雲の浮かんだ空ばかり。

 少しだけ身を起こしてみると、ベランダに据え置かれた鉢植えの細長い葉が見える。時折遠くから子供達の声が聞こえて来るばかりで、不思議な程静かで、風も無い様に思えたのだが、鉢植えの葉は、まるで夕暮れの中で何か秘密の告白でもする様に、コソコソと細かに震えている。


 私は立ち上がって階下へ降りて行った。縁側から庭を眺めていると、入り組んだ草木の間を何処から現れたのか、一羽のカラスアゲハが音も無く飛び廻っている。私は、その姿を目で追っていた。

 すると、それは石の上に止まり、風か、それとも自分で動かしているのか、薄い羽根を微かに震わせている。

 私は降りて行って、そのカラスアゲハを掴まえようとしたが、直ぐ思い直して止めてしまった。掴まえてピンに射しておくよりも、そのままに任せておく方がずっと気分に適っている様に思われたから。

 再び飛び上がった蝶の描く不規則な軌道は、辺りの空気を一変させ、只ならぬ雰囲気が感じられる様。

 言葉を変えると、夕暮れの空気の狭間にひっそりと隠れていた別の世界へと通じる入口が開け、見る者を知らぬ間にそこへと誘い込んでいる様な……。


 例えば……と、私は遠くに目を向ける。あの遥か遠くに霞んで見える地平線。其処の地と空との境目の、微かにユラユラ陽炎が揺れている所。それにじっと視線を注いでいる内に、どうかすると其処がパックリと割れ、その割れ目から、絶えず此方をじっと物も言わずに伺っている、微かに青白く光る者達の姿が現われる。彼等は何者なのか。恐らく、何らかの理由でこの世に生まれる事の無かった者達なのだろうが、そうだとしたら、恨みがましい目をしていても良い筈なのに、そんな気配は露とも見せず、ただ変わらぬ無表情な目をひたすら此方に向け続けているだけなのだ。

 未だ生まれる事の無い何物にも染まっていない真っ白な身体に穿たれた真っ青な目。其処に瞳は認められない。ただ目に当たる部分に、切り抜かれた様に青い空洞がポッカリと空いているだけなのだった。何を訴えると云うのでもなく、単にその二つの青い小穴が向けられて。

 私はそれを見ていると、何をしたと云う訳でも無いのに、一種言い様の無い後ろめたさと悔恨の情が起こって来るのを感じるのだった。

 いっそ彼方に居てしまおうか? そうだ行ってしまえ! そんな声が、この静寂の内に有る夕暮れの空を引き裂く様に響き渡った気がした(それとも、それは無意識の内に叫んだ自分自身の声?)。

 しかし、どうやって? 幾ら考えても分からなかった。悩んでいる間にも、空は其の色を赤紫から青紫へと変えて行き、とうとう、冷たい風と共にやって来た夜の紺に沈んで行き、彼等の姿もそれと共に徐々に溶けて消えて行くのだった……。



 夜の闇は、静かに、しかし確実に辺りに沁み込んで行った。さっきのカラスアゲハは何処に行ったのか、何時の間にか姿を消していた。入れ替わりに、一匹の白く大きな蛾が、その不器用な羽を震わせて、漆黒の闇の中に奇妙な螺鈿の模様を描いていた。ぶるぶると小刻みに震える羽根の動きと、その軌道とが微妙にずれている様は、見る者をして夢の中に居る様な、或いは、何処からか抜け出して来た魂が、束の間の慰安を求めて彷徨っている様に思われた(その慰安の場所とは、恐らく人知れず岩戸岩との間に涌き出た小さな泉であったろう。しかし、滾々と湧きいずるその泉は、私の前に立ち塞がる意識と云う名の鬱蒼とした草叢の所為で、その姿を伺い知る事が出来ないのである。)。

 

 その白く大きな蛾は、ある瞬間ストンと落ち込むと、次の瞬間大きな羽根を一際大きく震わせて、元の高さ以上に伸び上がっている。その際、羽から毀れ落ちた鱗粉が、ぼんやりとと仄かに光る光の塊となって、暫くの間其処に留まっているのだった。

 一方空を見上げると、其処には真黒に磨き上げられた金属板の空が嵌め込まれていた。空を覆い尽すその円盤状の薄い板は、まだ出来たばかりである為か、鏤められた星の数もまだそれ程多くはなかった。何時も見るあの沢山の星々は何処に行ったのだろう、と私は空を眺めながら考え込んでいたが、やがてそれ等は思わぬ所からやって来た。目の前を飛び回る蛾から飛び散った鱗粉の一つ一つの粒子が、見る間にその大きさを増しながら、丁度蛍が舞い上がる様に高く高く舞い昇って行くと、空の金属板にまでそれは達し、やがて各々の位置を見い出した様に嵌り込んで行ったのであった。

 見渡すと、そんな星の子供達は、街中の所々から無数に舞い上がっていた。時間の流れは今や通常よりも何倍もの速さで動き出し、それに連れて空の円盤も、それでも非常にゆっくりとではあるが、目に見えて回転している様が見て取れるのであった。西側から未だ星の無い部分が迫り出して来ると、自らの位置を見い出せないまま流星となって中空を四方八方に忙しなく飛び回っていた光の粒が、押し合い圧し合いしながら、新たに現われた空隙に収まって行く。


 それにしても、こんな俄かに始まった椅子取りゲームの喧騒を余所に、空一臂に響き渡るこの美しい旋律はどうだ。それは単純な小節を繰り返し奏でるだけであるにも拘らず、聴いている内に、こう、聴く者の心をスッと落ち着いたものにし、また、気付かない内に魂が抜けだして、そこいら辺で気儘にワルツでも踊っているのでは? と思わせるに充分な蠱惑的な物を持っていたのである。

 しかし、この旋律は一体何処から齎されていると云うのか、それを知るには目線を更に高く天頂に向ければ良い。見よ! 其処には星々の光より生み出された細長い金属板が、天使の羽の如く端から端へと徐々に長さを減じながら並び、空を横切っている様を見る事が出来るだろう。綺麗に切り揃えられた金属板の端は、回転する空の円盤にそっと添えられて、其処に嵌まった無数の星々の突起が金属板を軽く引っ掻くと、弾き出された音の羅列は世にも美しい旋律となって、空のみならずこの地上にまで降り注ぎ響き渡って行く……。


 この巨大なオルゴールの旋律にしみじみ耳を傾けながら、私は考える。成程、この甘美な旋律に心奪われた私達の魂は、一匹の蛾となって彷徨い出て来る。そして、それが飛び勝った際に飛び散った鱗粉が新たな星となって、このオルゴールを夜の間中ずっと継続させているのだと。私は、何故夜と云う時間が人々の心を静め、昼日中には思いもしなかったファンタジーに満たされるのか、全て納得出来る様な気がした。


 そして、私は意識が徐々に遠く宇宙に向けて開かれて行くのを感じながら眠りに就く。私達が深い眠りに沈む時、各々より彷徨い出た蛾は、増々狂おしく羽ばたき、星となって飛び立った想いは、今夜も空で繰り広げられている大合奏に参加するべく立ち昇って行く事だろう。




                              終


 

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