ありがとうと言わせてください

紫鳥コウ

ありがとうと言わせてください

 一通りの推敲が終わり、背もたれに身体をあずけて目をつむった。連日の新刊の作成作業で、すっかり両眼が疲れてしまっている。少し仮眠をしようと、眼鏡を取って机の上に置く。ゴールデンウィークはあとどれくらい残っているのかが気になって、卓上のカレンダーを眺めやる。


 もちろん、細かい数字を判別できるわけがない。眼鏡をもう一度かけ直す。どうやら、残り二日で終わるらしい。となると、入稿の締切りも明後日ということだ。

「それにしても……」

 カレンダーの数字がぼんやりとしている、くらいの眼の悪さだったら、どれだけよかっただろう。こんなことを言うと、目が悪い方からお叱りの言葉を受けるかもしれない。


 ゆるしてほしい。わたしは、あの物体がカレンダーかどうかさえ分からないのだから。なんなら、眼鏡を取ってしまえば、この部屋にあるものすべてが、はっきりと見えない。ひとところをずっと見ていると、吐き気がするくらいだ。

 ここまで目が悪くなったのは、本とパソコンが原因だと思うが、それにしても、こんなに酷くなるものだろうか。試しに左のてのひらを目の前に持っていく。十センチくらいのところで、ようやく手相がはっきりとしてくる。さらに近づけてしまうと、うまく言えないが、眼が酔ったような感覚になる。


 ともかく、それくらい目が悪いのだが、わたしを不安にしてやまないのは、眼鏡をかけていても、小さい文字を判別するのには限界があるということだ。しかもその限界が、段々と差し迫ってきている。

 少し前までならエアコンに記された「運転」という文字は、はっきりと見えていたはずだが、いまは少しぼんやりと映ってしまう。壁にかけてあるリモコンの「暖房」は、もう文字を判別することができない。


 これだから、本を読んでいても、小さい文字で書かれたものは、たいへん苦労する。目をさらし続けていると、だんだん疲れてくる。

 しかしこれは、特殊な事例ではないだろう。わたしくらい目が悪く、小さい文字を読み続けることが困難な方は、少なくないと思う。


 そう、それがわたしの同人誌の文字が大きい理由のひとつとなっているのだ。同じ悩みに苦しんでいる方を基準にしたいと考えている。

 だけど、そんなことを目の前の方々は知らない。だからもちろん、それを責めるつもりなど、毛頭ない。しかし、わたしだって人間だ。言われて傷つくことなんて、いくらでもある。


「うわっ、文字でっか!」

「ええと、これでいくらなんだろう。えっ、こんなに高いの!」


 試し読みとして置いてある新刊を手に取った方が、わざわざ声にだして、こういう批評をしてくださることも少なくないのだが、わたしは、怒るつもりなんてない。なぜなら、この文字の大きさにこめられた意味を知っているひとは、いないと言ってもいいのだから。


 しかし傷つかざるをえないのは、もちろんだ。文字が大きいからページ数が増えている、というのは事実だ。

 でも、少なからず新刊の作成費用は回収できないと困る。だとしても、あの価格では大赤字なのだ。それでも、たくさんの方に手に取って頂ければと思い、あの値段にしている。


 だけど、今回ばかりは、メンタルが持たない。なぜだかは分からないが、ネガティヴなことを言われる回数が、いつも以上に多いのだ。

(もう、撤収しよう)

 そう決めて、ブースの下から段ボールを取りだし、新刊を片付けはじめた。

(わたしだって、イベントを楽しみたいのになあ)

 これが、素直な気持ちだ。だけど、ここにいても傷つくだけだ。

(帰って眠ろう……)

 と、「店じまい」をしているとき、わたしの上に人影が落ちてきた。


     *     *     *


 どうか、ありがとうと言わせてください。

 あなたが、わたしの本を手に取ってくださったことで、そして、温かいお言葉をもらえたことで、その日、閉幕の拍手に加わることができました。

 あのまま帰っていれば、もう二度と、イベントに参加したいと思わなかったでしょう。あんな目にあうのならば……全然、楽しむことができないのならば、大赤字になってもいいから新刊を作ろうとは志さなかったに違いありません。


 いまわたしは、新刊を作っています。二冊です。もし、お金に余裕ができたならば、三冊作成したいと考えています。

 そうした決意を抱くことができたのは、わたしのことを悪く言わなかった、皆様のおかげです。

 

 もしかしたら、新刊の出来にたいして、不満を持たれたかもしれません。わたしがどれくらい「良い」と感じていても、読者様の判断も同じということはないと思います。

 それでも、いままでで一番「良い」同人誌を作ったという自負は、揺るぎません。


 何度でも、言わせてください。

 皆様、本当にありがとうございます。



 〈了〉

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