スイカ割り
増田朋美
スイカ割り
その日はのんびりした穏やかな日で、そろそろ暑くなりそうだなと考えられる日であった。本格的な夏がやってくる前に、なにか新しいものを取り入れたい季節でもある。そんな日にはちょっと出かけたくなってくる。それはどんな人でもそうだ。障害のある人もない人も。
その日、杉ちゃんと涼さんは、水穂さんを連れて、製鉄所の近くにあるバラ公園へ散歩に出かけた。いつまでも布団の中にいては行けないという、柳沢先生の進言によるものであった。水穂さんは、時々、フラフラとしながらも、なんとかバラ公園まで歩いてくれたのであった。公園を歩いてしばらくすると、水穂さんが咳き込み始めたので、とりあえず、ベンチを探そうということになった。そこで杉ちゃんは、噴水の前に立っていた一人の女性に声をかけた。
「おい!お前さん、このあたりに座って休めそうなところは無いかな?」
杉ちゃんに言われても、彼女は返事をしなかった。
「あの、失礼ですが、このあたりにですけど、ベンチはありませんでしょうか?」
涼さんが杉ちゃんの代わりにそう言うが、彼女は物思いにふけっているようで何も返事をしなかった。
「すまんがお前さんに聞いているけどさ。こいつが座って休みたいというんだよ。どっか近くにベンチはないのかよ!」
杉ちゃんがちょっと語勢を強くしてそう言うと、
「ベンチなら、バラの広場にたくさんありますよ!」
と女性も負けずに答えるのであった。
「そうか。じゃあ申し訳ないんだけどさ。僕たち、このように歩けないし、涼さんも目が見えないから、すまんがベンチまで連れて行ってくれるか?」
杉ちゃんがそう言うと、彼女は白い杖を持っている涼さんを見て、
「申し訳ありません。失礼なことをしました。目がお悪いんですか?」
と、彼に言った。
「いいえ、その、変な意味で言ったわけではありません。大変だろうなと思ったものですから。」
「そうですね。普通の人から見たらたしかに不自由なのかもしれませんが、でも基本的に工夫をすればなんとか暮らせます。それが何だと言うんですか?」
涼さんがそう答えると、
「いえ、いえ、何でもありません。ただちょっと、聞いてみただけで。」
女性はそういったのであった。でも、その声がちょっと変わってきているので、杉ちゃんも涼さんも、心配そうな顔をした。
「なにか、されたんですか?」
涼さんが聞くと、
「いえ、何でもありません。本当に大したことは無いんですけどね。」
と彼女は答えた。
「でも、そんなふうに泣くのであれば、大した事ないで済むことではありませんよね?」
涼さんは彼女に言った。
「どうしてわかっちゃうんですか?目が見えないはずなのに?」
彼女がもう一度いうと、
「見えなくても、口調や声でわかりますよ。なにか悩みがあるんだったら言ってください。なにか援助ができるわけでは無いですけど、聞くことはできますから。」
涼さんはそういった。
「そうですか。なんでもわかってしまうみたいですね。とりあえず、そちらの方を、ベンチまでお連れしなくちゃね。私、何をやってるんだろう。さあ、こちらですよ。こちらにいらしてください。」
と、女性は、涼さんのてをひいて、バラがたくさんさいているバラ広場まで連れて行ってくれた。水穂さんと杉ちゃんもそれに続いた。そして、バラ広場の一番近くにあるベンチまで案内してくれて、
「こちらに座ってください。」
と、三人をそこへ座らせた。
「噴水から、ベンチまで29歩。」
涼さんはそう言って、水穂さんに座ってくださいと言った。水穂さんは、もう疲れ切ってしまったと言う顔で、ベンチにすわるというより倒れ込んでしまった。それを女性は、なんだかつらそうな顔をして眺めていた。
「一体どうしたんだよ。そんなに僕らが、ここにいるのは面白いか?」
杉ちゃんがそう言うと、
「いえ、よく障害のある人二人で、そんな大変な人を見てられるなって、不思議だったんです。」
と、彼女は言った。
「不思議だって何がだ?僕らは当たり前のことをしてるだけで、何も不思議なことはしてないと思うんだけど?僕らはただ、水穂さんを散歩に出した方が良いって医者に言われたんで、それで、ここへこさせて貰っただけだよ。」
杉ちゃんがその通りにいうと、
「そうなんですね。皆さん一生懸命やってらっしゃるから、すごいなと思っただけですよ。本当にそれだけなんです。ほかは何もありません。」
と彼女は答えた。
「それ、ほんまかいな?」
杉ちゃんはでかい声で言った。
「本当は、違うんじゃないの?お前さんさ、なんか訳ありなんじゃないのか?本当は、もっと重たい事情を抱えているんじゃないのかい?もしさ、誰かに話したいんだったら、僕も涼さんも話を聞くよ。」
杉ちゃんに言われて、女性は、そうですねと一言だけ言って、
「じゃあお話いたします。あたしの名前は、望月希です。ただ希望の希だけ書いて希。中途半端な名前ですよね。それだけではありません。もっと中途半端なことがあって。」
と話し始めた。それを聞いて、疲れた顔をした水穂さんも、ちゃんとベンチに座り直してくれた。
「あたし、一度だけですけど、子供生んだんですよ。だけど、その子は私の手元にはいないんです。保育園に行ってるとか、そういうことでは無いんですよ。」
「はあ、それはいつの話だ?」
と、杉ちゃんが言った。
「ええ、もう五年前なんですけどね。今でも、生んだときの感覚は忘れてないですよ。それなのに、育てる能力が無いって言われて、息子は別の人の家に行ったんです。だけど、どうしても忘れられなくて。自業自得だって人に言われるんですけど、でも、忘れられなくて、なんとかそばに居たいから、こっちにこさせてもらいました。」
「あの、失礼ですけど、もし、人違いだったらごめんなさい。にた人だったら申し訳ありませんが、あなたは、石川希さんではありませんか?」
不意に水穂さんがそう言ったので、杉ちゃんもびっくりする。
「石川希?だってあんな女性がこんな田舎町に来るわけ無いでしょうが。それに、男の子を一人生んだなんて、そういう話もきかないし?」
杉ちゃんがそう言うと、
「よくわかりましたね。」
と希さんが水穂さんに言った。
「短い間でしたが、石川希という名前で、歌を歌っていたときがありました。今はその名前はすべて捨てちゃいましたけど。」
「いいえ、覚えていますよ。確か、石川さゆりさんになりたくて石川と名乗ったとか、音楽雑誌に投稿されていましたね。もう歌はうたわないのですか?」
水穂さんはそう希さんに聞いた。
「ええ。息子が生まれてからは、もう歌わないで母親になろうって誓いを立てました。だけど、だけど、どうして世の中ってそうなってしまうんだろう。」
希さんはまた泣き始めた。
「そうなってしまうんだろうって何がだ?」
杉ちゃんが聞くと、
「本当に大したことじゃないんです。ちょっと、目を離しただけなんです。富士川に遊びに行って、みんなでスイカ割りしようねって言ってただけなんです。それなのに、息子が川に落ちてしまって、、、。」
と、希さんは言うのだった。杉ちゃんたちは、変な顔をする。
「つまり、みんなでということは、他のお子さんといたということでしょうか?」
涼さんがそうきくと、希さんはハイと言った。
「ええ、そうなんです。あの日は確か、保育園に言っていた他の子供さんたちと一緒に富士川の河川敷へ遊びに行ったんです。その時に、みんなでおやつを食べることになって、スイカ割りをすることになって、あたしは、他の子のお母さんといっしょにスイカをクーラーボックスから出したりしていたんですが、そのときに、、、。」
「わかりました。それ以上先は言わないほうが良いのかな。あんまり言わせると辛いですものね。」
水穂さんが優しく言うと、
「それでも、現実と向き合わせるために、言ったほうが良いのではないかと思いますけどね。」
と涼さんは言った。しかし、希さんは、そこから先を言うのがとてもつらかったのだろう。それ以上は泣くばかりで何も言えなかった。
「そういうことか。つまり、息子さんが川に落ちて怪我でもしたんだろ。それで、監督不行き届きとか、そういうことで、母親失格になり、息子さんは別の人のところに言ったのね。」
杉ちゃんが彼女の話を要約すると、彼女はハイと小さな声で言うのであった。
「そうですか。わかりました。母親不適格だと言われてしまった理由はそれだけではないと思いますが、だけど、最愛の人を無理やり取られてしまったわけですから、それは確かに、お辛いと思いますよ。」
涼さんがそう言うと、望月希さんは、ちょっと表情を変えて、
「あたしが悪いんだと言わないでくださいますか?」
と、涼さんに言った。
「それは言わないな。それよりも誰が悪いかというより、事実がどうなのかをまずはっきりさせないとしょうがないよねえ。まずはそこから始めよう。」
杉ちゃんがそう発言した。
「それでお前さんは、息子さんを取り戻したいわけ?それで、芸能活動もやめて、こっちへ来たってわけか。」
杉ちゃんに言われて、望月希さんは、小さく頷いた。
「だけどねえ。お前さんの方にも問題がなかったわけでは無いのでは無いかなあ?少なくとも息子さんが川に落ちて、怪我をしたというのも、また事実でしょ。それなら、そうなっても仕方ないというか、、、。」
「そうかも知れないけど!」
希さんは強く言った。
「でも、一度や二度そういうことがあったって!」
その豹変ぶりはすごいものであった。
「それ、どういうことかな?」
杉ちゃんがそうきくと、
「だって、普通の子供さんなら、一度や二度は怪我をしても、こういうふうにはならないのに、そうではない子供であればすぐに監督不行き届きということになるんです!それは何なんでしょうね!」
と希さんは答えた。
「そうか、なにか持病でもあったんか?」
杉ちゃんが聞くと、
「喘息の持病があって、、、。」
と希さんはまた泣き崩れてしまった。
「まあ落ち着けよ。それで、息子さんはどこにいる?養護施設にでもいるの?それともどこかの家に入ったの?」
杉ちゃんにきかれて、希さんは、
「ええ。なんでも、製紙会社を経営している方だかなんだかと言う人のところに行って、幸せに暮らしていると聞いています。一度だけ、写真が送られてきたことがありました。これです。」
と手帳に入っていた一枚の写真を取り出した。確かに、そこには、若い女性と、腕に抱っこされた小さな男の子が写っていた。
「写真をいただけたのはこのときだけで、あとはそれきり何の連絡もありません。ごめんなさい、見えない方にこんなもの見せてしまって。」
「いえ良いんですよ。それより製紙会社と言いましたね。それを調べてみたら、名前がわかるんじゃないかな。そこで、誰か一人、養子をとったとか、そういう女性を聞き出せば、、、?」
涼さんが、そういった。水穂さんがスマートフォンで富士市の製紙会社を検索してくれたが、さすが紙の町富士市というだけあって、製紙会社は星の数ほどある。杉ちゃんと水穂さんは、もう一度写真を眺めてみた。確かに、女性が小さな男の子を抱っこしている写真なのであるが、その周りの風景を確認してみると、どうもそれは、製紙会社の玄関先で撮ったものらしいのだ。隣に、丸めた紙を乗せた大型トラックが写っていて、ナンバーが、4648となっている。杉ちゃんがそのあたりを説明すると、
「つまり、4648というトラックを所持している製紙会社を調べてみたら、少し絞れるかも?」
涼さんが言った。
「そういうことなら、トラックを所有している製紙会社に聞いてみるか。」
杉ちゃんは、でかい声で言った。それと同時に、インターネットで、写真を眺めていた水穂さんが、
「多分周りの風景からストリートビューで見てみるとこちらだと思うけど、、、?」
と言って、一枚の写真をみんなに見せた。確かに、紙をたくさん乗せた大型トラックがおいてあって、写真に写っている大型トラックとそっくりであった。
「今の時代は何でもわかっちゃうんだね。」
杉ちゃんがでかい声で言うくらい、家や工場を見つけるのは、非常に簡単にできてしまう時代なんだなと、みんな思ってしまった。
「えーと、このトラックを保有している会社ですから、おそらく坂野製紙じゃないでしょうか。場所は富士見台ですね。バスで行くと、富士見台団地のバス停の近くです。」
水穂さんがそう言うと、
「じゃあ、その坂野製紙に行けば息子に会えるんでしょうか?」
と希さんは言った。
「会わせてくれるかは不詳ですが、それでもそこにいる可能性はあります。」
水穂さんがそう言うと、
「一度、どんな顔しているか、見てみたいものですね。」
と希さんは言った。
「そうですね。でも、それはしないほうが良いのではないかと思います。だって息子さんは、希さんのことをあまり覚えてないかもしれないし、あるいは、逆に、自分を変なふうに持っていったということで、希さんのことを恨んでいるかもしれないんです。そんな息子さんには何も罪はないわけですから、逆にあなたが不利になってしまうと思います。」
水穂さんが希さんに言った。希さんはやっぱり、、、と言う顔をした。
「もし、つらい気持ちを話したいのであれば、僕が聞きますから。大変かもしれないけれど、誰かに話すしかできない時期だって人間はあるんですよ。それはいけないことだと思わないでください。それはきっと必要なことなんだと思います。人間何でも万能にできるように見えるけど、実際に完璧にやりこなすことなんて、できやしないんですよ。環境問題なんかがその良い例じゃないですか。だから、その気持を忘れないで、生き抜いてください。」
涼さんが治療者らしく希さんに言った。希さんは涼さんの言葉をそうですねと言って聞いていたが、でも、受け入れられない様子だった。
「一度でいいから、一度でいいからあの子に会いたいです!その、坂野製紙と言うところで幸せに暮らしているんだったら!」
「だから、その坂野製紙で幸せに暮らしているんですから、それで良いことにしなければ。どこかで決着をつけないと、人間だめになってしまうんですよ。」
水穂さんがそう言うと、そうですね、、、と、希さんは言った。
「これからも、石川希として、歌を歌い続けてください。きっと、歌を必要とする人はいるはずですから。」
水穂さんは優しく言った。希さんは一言、
「そうですね。」
と小さい声で言って、御免遊ばせと続けて、二人の前を離れていった。涼さんが小さい声で、ベンチから噴水まで29歩と呟いているのが聞こえてきたのであった。
それから数日後。また何事もなかったかのように日々は過ぎていった。それからしばらくして、杉ちゃんがバラ公園に行った。バラ公園の噴水近くに設置されている自動販売機で、とりあえず水でも買うかと五百円玉を入れようとしたその時。
「あ!こないだお会いしましたよね。」
と、にこやかに笑って、石川希こと、望月希さんがそこにいた。
「なにか飲みたいのだったら私が代理で買って差し上げますよ。だってあなた、車椅子ですから、上の方に手が届かないでしょ。」
「ああそうか。すまんなあ。ほんじゃあ申し訳ないが、そこに売ってる水を買ってくれないかな?」
杉ちゃんがそう言うと、
「わかりました。ミネラルウォーターで良いんですね。」
希さんは、それを買ってくれて、杉ちゃんに渡した。杉ちゃんがそれをがぶ飲みすると、
「良い飲みっぷりね。お酒飲んだら、大酒飲みになりそうね。」
希さんは、にこやかに言った。
「きもの着て、暑くないですか?着物の人、今ではほとんど見かけないから。私も、着物を着て歌うことはほとんどなくなってしまいました。昔は、演歌も歌いましたけど、今は、それ以外ばかりなんですよ。」
「そうなんだねえ。僕、テレビ見ないから、お前さんのことほとんど知らないけど、でも、そうやって体力ありそうな体格だし、声量もありそうだね。」
杉ちゃんは素直に感想を言った。
「きっと、歌もうまいんだろうね。お前さんのうた聞いてさ、それで癒やされるやつもたくさんいるんじゃないの?」
「ありがとう。まあ、聞きに来るのは年寄りばかりだけどね。若い人は、演歌にはほとんど目を向けないわよ。だけど、そう言ってくれてありがとう。」
希さんはそう杉ちゃんに言った。
「そうか。それで今日はどうしてバラ公園に来たんだい?体力をつけるためにウオーキングでも始めたかい?」
杉ちゃんに言われて、希さんは小さくなった。
「ははあ、それではまだ、息子さんのことを整理がつかなくてそれでここに来てるんかな?」
杉ちゃんはすぐ言った。杉ちゃんと言う人は、文字を読めないのにそういう気持ちを何でも口にしてしまう特徴があった。それは失礼に値することでもあるが、希さんはそれを失礼とは思わなかった。
「ごめんなさい。あのとき、あのきれいな人や、目の見えない方に、忘れろと言われたのに、まだできないのよ。私が、産んだ子だからっていう思いがどうしてもあって。もちろん、思いだけでは子供は育てられないから、私は母親不適格だと言うのはわかるんだけど、でも忘れられない。」
「いやあ、できなくたって良いんじゃないの。人間、完璧に何でもできちゃうってことはないよ。どんなに有能なやつだって必ずどっか、できないことがあるんだよ。だから、それで良いんじゃない?そう思って行きていけば。」
杉ちゃんは、そういう希さんに、にこやかに笑ってそう伝えた。
「現に、育児ができないことを、悪いやつとは思わなくて良いんだよ。僕なんかそれよりもっと悪いことになるじゃないか。ほら、歩けないしさ、立つことだってできないんだぜ。ははははは。」
「そうか。悪いやつだと思わなくていいか。あたしも、そういうふうに切り替えができたら、どんなに楽でしょうね。あたしも、歩けないとか、そういうものがあれば、そういうふうに割り切ってやれるかな?」
「うーん、僕よくわかんないけど、完璧を目指そうとしなくてもいいじゃないかって思えたら、幸せになれるんじゃないか?まあ、明らかにできないことがあるってはっきりわかるわけじゃないから、難しいかもしれないけどさ。」
考え込んでしまった希さんに、杉ちゃんはそうアドバイスした。
「そうね。そう思い込むことか。だけど、あたしは、どうしてもそれができないな。せめて、あの子が、幸せに暮らしているのを見届けて、私にはこんな幸せを提供してやれることができないってはっきりわかったら、あたしもできるようになるかな?」
「ほんなら行ってみるか?」
と杉ちゃんは言った。
「行ってみるって?」
希さんが聞き返すと、
「ああ、坂野製紙のあるところを調べてみたんだけど、富士見台団地のバス停から、すごく近いところにあるらしいんだ。僕がバスに乗って富士見台団地まで乗っていければ、坂野製紙まで道案内はできるけどさ。」
と杉ちゃんは言った。
「そうなの!でも、、、。」
希さんは、車椅子に乗っている杉ちゃんを見て一瞬渋ったが、
「わかった。あたしが手伝ってあげるから、一緒に乗りましょう!」
と、杉ちゃんの車椅子に手をかけた。そして、バラ公園前のバス停留所に行った。吉原中央駅行のバスに乗って、まず吉原中央駅に行き、そして富士見台団地行のバスに乗り換える。文章で描くと簡単なのかもしれないが、これは実に大変な作業だった。希さんと運転手と一緒に、共同作業で杉ちゃんをバスに乗せる。降りるときは、運賃箱に手が届かない杉ちゃんにかわって希さんが2人分の運賃を支払った。他に乗客がいない、貸切バスのような感じだったからまだ良かったが、もしほかの乗客がいたら、文句が出てもおかしくなかった。バスを降りた杉ちゃんは、運転手に、坂野製紙はどこかと聞くと、大通りを真っすぐ行けば行けると言われた。
二人は、運転手に言われた通りに、大通りをまっすぐ行った。やがて木を切ったばかりのような匂いがしてきた。製紙会社ならではの匂いである。紙は木でできていることを改めて知らされる匂いである。二人は、坂野製紙の入口の前で止まった。坂野製紙は俗語で言ったら、いわゆるげたはき工場だ。つまり一階は工場で、二階は住居になっているという工場である。もちろん従業員も何人か雇っているが、杉ちゃんの仕入れてきた情報によれば、社長夫婦はその二階に住んでいて、工場の前で子供がよく遊んでいるというのだ。
二人は、工場の正門から中を覗いた。すると、一人の車椅子の少年が、工場の前で中年の女性と一緒にあやとりしているのが見えた。あの少年が多分、五歳になった、望月希さんの息子さんだろう。一緒にあやとりをしている女性は、新しいお母さんに違いない。とても優しそうで愛情深そうな女性だった。明らかに、希さんよりも、幸せを提供してやることができそうな女性だった。
希さんは思わず、少年に声をかけようとしたが、杉ちゃんに止められた。せめて言葉をかけてあげたいと思っているようだが、少年は希さんの顔を見ることもなく、新しいお母さんと楽しそうに遊んでいるのだった。
「どうだ。これで、決着はついたかい?」
杉ちゃんに言われて希さんはハッとした。
「そうね。私にはできないことが、あの人にはできるんでしょうね。でも皮肉なものよね!」
希さんは思わず声を荒げてしまった。
「何で、あのスイカ割り会を主催した坂野さんのところに、うちの子がもらわれなければならなかったのでしょうね!」
杉ちゃんは何も言わなかった。
それと同時に、坂野製紙の社長さんが、希さんの声を聞いて杉ちゃんたちの方へやってきた。杉ちゃんは、何も言わなかった。希さんは、坂野製紙の社長さんに詰め寄った。何で、うちの子をもらったのか、何であのスイカ割りの会を主催した人が、こうして被害者であるうちの子を引き取ったのか、がなり立てるようにまくし立てた。坂野製紙の社長さんは、そういう希さんに、小さな声で、あなたにも見えるのかと言った。
「ええ見えるわ。そこで奥さんと一緒にあやとりをして遊んでいるじゃありませんか!」
と希さんが怒鳴ると、
「あの子は、スイカ割りの会の後、望月さんが逮捕されて、数ヶ月後に病院で逝ったんです。もう普通の生活は無理だって医者には言われてました。でも、不思議なもので、ああして、遊びに来るんですよね。やっぱりお母さんが恋しいのかな。」
坂野製紙の社長さんはそう答えたのであった。
杉ちゃんは何も言わなかった。
希さんもそれ以上何も言わなかった。
でも、二人にはあの少年が、社長の奥さんと楽しそうに遊んでいるのが見えるのであった。
スイカ割り 増田朋美 @masubuchi4996
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