第2話

 仕方なくトイレットペーパーに手を伸ばし、三ロールほど取り出すと、なくなってしまった。予備を出そうとするとその予備が備えられていなかった。まずい。すでにさっきドアをノックしたおそらく腹痛の極みを抱えた男のことなど気にしてはいられなかった。まだ全然拭き足りない。前にも一度こういうことがあった。試しに拭かずにそのままトイレを出たのだがお尻の穴のかゆみが尋常ではなかった。かゆみに耐えられなくてスーツ越しに掻いた結果、うんこがパンツとスーツのズボンに付着するという最悪の結末を迎え、その日の仕事が手につかなかったというほろ苦い思い出がある。手についたのはうんこの臭いだけだった。

 あんな思いは二度としたくない――

 ドアを開けてあの清掃員に声をかけるか。別におばちゃんにブツを見られてもどうってことない。しかし、この駅は会社の最寄り駅だ。知っている社員がいるかもしれない。無理だ。

 目を閉じて小さな声で「よし」とつぶやいた。脚からパンツを引き抜き、お尻の穴をこすった。紺色のボクサーパンツに、濃い色が線状に付着した。仕方ない。僕はポケットティッシュもハンカチも持ち歩かない人間なのだから。

 女子トイレのようにサニタリーボックスのない個室にパンツを捨てるところがない。手洗い場にゴミ箱があった気がするが確実ではない。第一、うんこのついたパンツを握りしめる光景を誰にも見られたくない。パンツを折りたたみ、タンクと壁の間に挟んだ。ノーパンのままズボンを上げる。裾から入ってくる冷風が直接股間を刺激して縮みあがった。

 俯き加減でトイレから出ると、男と肩が当たった。おそらく悲愴感を漂わせていた男だった。表情を見たかったがパンツがバレる前に足早にトイレを後にした。

 駅から出たすぐにコンビニでパンツを買い、トイレで早速履いた。スースー感はなくなり股間は平穏を取り戻した。

 ハプニングはあったものの、始業まで余裕がある状況で職場に到着した。いつもどおりの声色で「おはようございます」と言うと、同僚はいつもの顔で挨拶を返してくれた。みんな僕が数分前までパンツでうんこを拭いてノーパンだったことなど想像だにしないだろう。

 全員揃ったはずなのにドアが開いた。総務課の横田さんが顔を覗かせている。僕は思わず舌打ちをしてしまった。横田さんは風紀委員と呼ばれていて、社員の服装や整理整頓に厳しい。社内恋愛にも必ず介入してくるという噂がある。人間関係の風紀も正すのも役割だと思っているらしい。

 横田さんは顔をキョロキョロさせていたが僕と目が合うとまっすぐに僕のところにやってきた。横田さんは黒いビニール袋を掴んだ手を僕に伸ばしてきた。

「はい、うんちを拭いたパンツはちゃんとごみ箱に捨ててくださいね」

 ビニール袋に入れられていたのは僕がさっきまで履いていた紺色のボクサーパンツだった。しっかりと袋は絞められているはずなのに、うんこの臭いがほんのりと漂う。というかなぜ横田さんが持っているのか。

 社内を見ると、手を口に当てている女性社員、いつも話している同僚が僕を見てケタケタ笑っている。違う。そうじゃなくて……。

「あと、痴漢も、次やったら警察に突き出しますから。次があるだけありがたく思いなさい」

 横田さんは私に近づきスマホの画面を目の前に持ってきた。僕の手の甲が女子高生のお尻に充てられている動画だった。ちゃんと僕の顔が映っている。

「会社の近くの風紀も正すのが私の役割なんで。改善よろしく」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

トイレットペーパーなくなった 佐々井 サイジ @sasaisaiji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ