歓喜の歌

上月祈 かみづきいのり

歓喜の歌

 高校生で一番の思い出は二年生のときのこと。

 九月から倉橋さんという女の子が隣の席になったことで、騒がしい二学期になった。

 僕が倉橋さんに話しかけることはなかったけれども、とにかく彼女はどうでもいいことを話しかけてきた。

「今日さ、学校来る途中で転んだんだ」

 という報告もあれば、

「あなた寝坊したでしょ? 寝癖ついてるよ」

 と、いう指摘をしてくるときもあった。

 寝癖は、もうちょっと工夫して伝えて欲しかった。みんなこっちを向くのだから。なんなら大したことはないから見つけないで欲しかったけど、倉橋さんは本当に目敏めざとかった。

「よくそんなに気が付くね」

 なんて言いかけたこともあったけど結局飲み込んだ。

 ちなみに、彼女はいつも僕に話しかけているわけではなく、他の女子たちとお喋りをしたり、仲のいい他の男子とも会話をしていた。

 対して僕はこの学校に馴染めていなかった。

 きっと、出身の中学校で分類すれば少数派だったことも一因だ。加えて、積極的な友好に励むこともしなかった。ここで強く主張しておくのは、決していじめなんかではなかったことだ。交友関係に重きを置いていなかった為の成り行きなのだ。

 同じ中学校の奴がいても、仲がいいとは限らない。仲良くなれるとも限らないからだ。

 本を読んだり、音楽を聴いたりして過ごすのが常。一人でいることは苦にならない性格だった。

 それでも、倉橋さんと話すのは本を読んだりするのと同じくらい心静かに行えることだった。他の人間だと、こう上手くはいかなかった。ペースを乱されるのだ。

 特筆すべきは、十二月のことだ。

 師走はとうに下旬を迎えていて、もうすぐ終業式を迎えるといった日の放課後。

 自分の教室でバッグの中にこっそり入れた漫画を照明もつけず、夢中になって僕は読んでいた。本来、漫画は校内持ち込み禁止であるが、どうにも学校の方がはかどった。自分の部屋というのは一つのことに集中することが難しい場所だ。

 すると。

 パリパリ、と不意を打つように蛍光管が鳴り、白色が灯る。脊髄反射にられて僕は顔を上げた。

 ちょうど、倉橋さんがスイッチから弧を描いて右手を落とすところだった。

「目、悪くなっちゃうよ」

「ありがとう」

 また漫画に目を落としたが、彼女が歩み寄ってくるのは足音で分かった。それでも漫画を読み続けたのは、夢中になって読み続ける姿を見られてしまったからだ。気恥ずかしさを、とにかく読んでごまかした。

「委員会か何かだったの?」

 倉橋さんの質問。

「いや、委員会にも部活にも入ってないからさ。倉橋さんは委員会だったの?」

 気恥ずかしさから決して顔を上げられなかった。

「そ、今年最後にちょっとだけ。来年の清掃

とかの予定の確認。あとはちょっと先生の書類を運ぶお手伝い。えっと、それから、ちょっと気になってこっちへ寄ったの」

 倉橋さんがこちらへ歩きつつ話しかけてくる。このくらいは、漫画を読みながらでも分かった。

「ね。電気つけといて、あれだけどさ」

 近づいてくるのは分かっていたけれど、ぎりぎりまで顔を上げないように努めた。つまらない意地を張るとはこういうことだ。

 彼女が僕のすぐそばまで来たときに、僕は示し合わせたようにさりげなく顔を上げた。

 実際に誰かが息を殺して見ていたとしたら、そういう表現になるんじゃないかと思う。

「一緒に帰ろうよ、前川くん」

 彼女は、にへらっと笑って僕の右手側へ、わずかに首をかしげた。

 そういえば、言い忘れていたことがある。

 彼女は頃合いよく微笑むことが多い。個人的に問題だったのは微笑むことではなく、どんなふうに微笑むのかを自分でうまく説明できなかったことだ。

 なんとなく、柔らかくコシのない感じで笑うのを、もっと的確に言い表せそうだったので、近頃はどんなひと言で表せるか考えていた。

 そして最近、『にへらっ』という言葉がぴったりなことにようやくたどり着いた。

 倉橋さんは僕に対して、にへらっと笑いかけてくる。

 既にある表現かもしれないが、これがぴったりだった。この微笑みのおかげで彼女とは心穏やかにいられたのだ。

「いいよ、帰ろう」

 彼女と一緒に帰ったことは何度かあった。

 ただし誘い合わせてではない。成り行きや偶然の賜物だ。

 そういう点を踏まえると、誘われて帰るというのは初めてだった。

 ついでに、倉橋さんが電車通学で自転車を使わないことも思い出した。

 一方の僕は自転車通学だった。

「僕は自転車取ってくるからさ、校門の近くで待っててよ」

 しかし彼女はかぶりを振りつつ髪を揺らして、

「ううん、一緒に行くよ」

 と微笑みのままに告げた。

「そういう気分なの」

 こちらには断る理由がない。むしろ理由なく断るほうが不可解だろうと思い、

「わかった。じゃあ一緒に行こう」

 と返事をした。

 倉橋さんは何も言わず、首肯で済ませた。

 僕らは駅までを目指して下校し始めた。僕の家と彼女の利用する駅までは同じ方向なので問題ない。

 歩き始めて間もなく、彼女が歌い始めたのは鼻歌。とても有名なメロディーではあったが曲名は思いだせず、僕は黙ったまま歩いた。

 そういえば、駐輪場で僕が自転車の錠を外すときも、彼女は鼻歌を交えていた。

 彼女はオルゴールになったみたいだった。

 よほどの上機嫌なのか、あるいはお気に入りか、マイブームか。とにかく、旋律は滞ることなく回っていた。

 帰り道を歩くのは、小さめの道ということもあり、僕らは二人きりだった。

 しばらく会話がなく、そろそろ何かを話しかけたほうがいいかと思ったのだが、そもそも女子に何を話しかけたらいいか分からない。

 よくよく記憶を巡らせば、再認識として倉橋さんに話しかけたことはなかった。彼女は常に話題を振ってくるので、話しかける必要がなかったのだ。

「そういえば、前川くんは正月には何をするの?」

 不意に鼻歌は止まり、倉橋さんから質問が飛んできた。

「えっ? 多分、テレビ見たりゲームしたり寝たり、時々本を読んだり」

「ふぅん、何の本を読むの?」

 一秒ほどの思索の後に僕は、

「小説かな」

 と、だけ付け加えた。

「そっか」

 この話題はこれ以上展開しなかった。

 声のトーンをワンオクターブ下げて、

「やっぱり、前川くんってみんなと違うよね」

 と、小さく口にした倉橋さん。

「どこが?」

 と、問うも彼女は首を横に振った。

「ううん、なんでもない。忘れて」

 またハミングを奏ではじめた。

 ちょっときまりが悪いけど、僕たちは会話を終えたのだと思って、黙っていることにした。

 黙っているつもりだったのだが、終われば始まりに戻るメロディーは繰り返すというよりも、そもそも終わりなきように作られたような代物だった。

 魔法にかけられて歌う。それが今の倉橋さん。

 うまく説明できないけれど、そのまま新年を迎えて、年明けの登校日にまで継続して歌っていそうな、少し普通じゃない歌い方だった。


 倉橋さんはまるで、ショートヘア姿のオルゴール人形になってしまったみたいだった。


 おまけに、その旋律は聞き覚えがあるのに曲名にはかすみがかっている。思い出すには覚束おぼつかない。

 彼女の顔を覗いてみれば、伺い返す顔がある。笑みを傾けながらも、機嫌よく、終わらない鼻歌を口ずさんでいる。

 僕はその笑顔のせいで口を出してしまった。

「それってさ、何の曲だっけ?」

 言葉の後で倉橋さんは演奏をやめ、僕は補足する言葉をいだ。

「曲自体は知ってるけど、名前が思い出せなくてさ」

 彼女はこちらを凝視している。けれど次第に、眼差しは柔らかく、顔つきは『にへらっ』と緩んだ。

「第九だよ、第九。ベートーヴェンの交響曲第九番」

 そこまで言われれば、さすがに思い出すことができた。年末に、さまざまな場所でコンサートの題目として取り上げられている曲だ。でも何故こんなにもハミングをしているのだろうか。

「もしかして、コンサートとかに行くの?」

 僕は思い当たる節として尋ねてみたが、

「まさか」

 と返されてしまった。

「授業中でも最近、部屋があったかくて、うとうとしちゃうことが増えたのに。あんな心地良さそうな椅子に座りながらクラシック音楽なんて聴いてたら、一晩泊まれちゃうよ。きっとコンサートホールもぬくぬくとあったかいだろうしさ」

 と彼女は冗談めかした。

 なるほど。でも、合点がいくようでやはりいかない。

 斜陽と呼ぶにはまだ光り輝く夕方、西へ向かって歩く僕らは目を細めずにはいられなかった。倉橋さんは言葉を続けた。

「でもね、『歓喜の歌』っていうくらいだからさ、喜びたいときに歌うんだと思うんだよね。あとは、喜びを呼びたいとき」

 喜びを呼びたいとき?

 明らかに含みを持たせている。でも、一体どんな?

 そんなことを考えているうちに彼女が立ち止まり、後方にたたずむのに遅れて気が付いた。

「『歓喜の歌』のおかげで、今日は前川くんが初めて私に話しかけてくれました」

 倉橋さんはいつものようにまた、にへらっと笑った。

「ねぇ、私ね。こういう、すごく小っちゃなことで、嬉しいんだよ」

 僕は前方から振り返っていた。後ろから差す夕日のせいだった。


 彼女はとても紅い笑顔で僕を釘付けにした。

 生涯、忘れることはない思い出というのはこのことだろう。


 僕が見とれている間に日はせっせと沈み、暗がりの中で倉橋さんは顔をうつむかせて歩きだした。僕より三歩先に進むと、またハミングを始めた。

「話しかけてほしかったの?」

 本当に馬鹿な質問だと思うが、僕は一字一句違わずに彼女にそう問いかけた。

「そうだよ」

 彼女は前を向いたままだった。

「でも、待つのが私のポリシーだから。ずっと待ってたの、けどね」

 大きく息を吸う音、吐く音がはっきりと聞こえた。

「あー、仕掛けてよかったぁ」

 力の抜けるような声。先行く彼女の顔は見えず、声だけでは表情は分からない。でも、ここまでに至る心情を垣間見た。

 自転車を押しつつ歩調を速めた僕は、寒気すら心地いいほどに自身の、えもいわれぬ火照りを自覚した。


 それから、をあと少しだけ。

 僕たちはよく話すようになったし、僕は彼女の話を身近に感じるようなった。少しずつ、少しだけ、仲良くなっていった。

 あれから、ちょうど十三年経つ。彼女は今でもオルゴールのようなときがある。髪は未だに短く、物腰は陽だまりに寝そべる猫のように柔らかい。今も同じソファで僕の肩先に頭を預けて、ハミングをしているのだから手に取るように分かる。

 なにしろ彼女が倉橋という名字だったのは昔のことなのだから。

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歓喜の歌 上月祈 かみづきいのり @Arikimi

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