#16
後日談。
文化祭を騒がせた一連の事件が、阿呆の数珠繋ぎであるという驚きの結末を迎えて、文化祭は大団円を迎えた。本年の文化祭は余りにも阿呆なことが多すぎた。犬も歩けば棒に当たるとは言うけれど、限度があろう。
木之実千秋は公然猥褻という犯罪に耽っていた訳だけれど、しかしこれは主に伊吹の意向で徹底的に秘匿された。ボクの時のように噂が学内に蔓延して「痴女捜索戦線」が結成されることは無かった。当然、警察にも伝わっていない。
仇名無一は千秋に振られた。こうしてまた、木之実千秋の高嶺の花伝説に新たな一幕が加えられた。しかしお付き合いは叶わなかったものの、不思議な因果の巡り合わせの同士であるからか、今では友達として仲良くしていると言う。
伊吹は千秋と仲直りをして、昔よりも親密になったと聞いた。雨降って地固まる。ハッピーエンドである。
ボクはこの後日談を、当の本人である千秋から聞いた。ある日の昼休み、偶然食堂で彼女を見掛け、そのまま相席したという経緯である。
ボクは辛味噌ラーメンをずるずるとすすりながら。彼女はきつねうどんを静かに食しながら。
「伊吹とはいつからの知り合いなんですか?」「幼馴染みですわ。向こうの小学校で仲良くしていたのが、そのまま続いたという感じですかしら」「向こう?」「あぁ、私帰国子女ですから」「へえ」
帰国痴女の間違いだろうと言いたくなったけれど、ラーメンが辛くてそんな冗談を口にする余裕は無かった。いや、ただの真実か。
油揚げをパクッと頬張り、口の周りに付いたスープをポケットから取り出したハンカチでぽんぽんと拭う。こんな上品な所作をする乙女が、公然猥褻犯だなんて俄には信じ難い。もしかするとそんな社会への背徳に興じてしまうのは、抑圧への反動故なのかもしれない。
「そうだ、そういえば結局、あの全身の生傷は何だったんですか?」
実はこの謎は解決していなかった。訊ねる機会が無かったのである。
「ああ。あれは、無一様に遭遇した時に出来た傷ですわ。咄嗟に藪の中へ隠れましたので、その時に茨にやられてしまったのです」
なるほど、そんな簡単なものだったか。しかしどうして彼女はそれをわざわざ描いたのだろう。もしも無一にその絵を見られたら、自分だと露出もとい露呈してしまうではないか。
「大好きな芸術に嘘を吐けないというのもありましたでしょうが、何よりも私自身が、それ以上嘘を重ねたくなかったのだと思います」
納得した。感心もしかけた。けれどはたと気付いた。良い話のように言っているけれど、忘れてはならぬ、これは露出魔の話である。危ない危ない、騙される所であった。
「いばら……。そういえば、貴方の名前も『いばら』ですわね」「偶然でしょう」「そうですかしら?」「ボクを阿呆の数珠に組み込もうとしないでください!」
甚だ不本意である。ボクは断固として抗議する。
「真実は藪の中とは参りませんでしたわね。『いばら』の活躍によって」「だから止めてください。ただの言葉遊びでしょう」「私は運命的で素敵だと思いますわ」「ご都合主義が過ぎます」「それだと都合が悪いんですか?」
ボクは押し黙ってしまった。何も言えなかった。
「私は時々、貴方が人間では無いのではないかと思うことがあります。不思議な魅力がありますから」「だったら何だと思っているんですか?」「うーん、天使かしら?」「ど、どうして」「ほら、前にありましたでしょう。天使の噂。実はあれ、いばらさんなのではありませんか?」「ななななななななな、何を言っているんですか!」「何を動揺しておりますの、ただの冗談ですわ」
ふふっと口元を隠しながら笑う千秋。ボクは揶揄われていたのか? 不敬であるぞ!
照れ臭いのを悟られまいと、ボクは豪快に辛味噌ラーメンのスープを飲み干した。当然噎せた。それも盛大に。
「お下品ですわよ」「あなたに言われたくありません、助平お嬢」「酷い言い草ですわ。でも否定できません……」
千秋はよよよと袖を濡らした。逐一上品な人である。
「ところで、いばらさん」その後当たり障りなの無い雑談を挟み、お互いそろそろ麺も話題も尽きようかという頃合いで、千秋が切り出した。「
知らなかったので説明を求めた。以下に要約する。
東雲冬夜は情報数理学部情報数理学科に在籍する変人である。特技は素因数分解、趣味は数学問題の作問である。己の作った問題を他人に解くよう強請り、承諾すれば最後、解けるまで問答無用で机に拘束される。特に空間ベクトル問題が多く、誰もがその難解さに頭を悩ませる。遂には「論理上のベクトルについて考察するのは大変結構なことであるけれど、まずお前は人の感情の機微というベクトルを一から学び直せ」と口を揃えて言われる始末である。
ついた仇名は「数学テロリスト」「心がねじれの位置」「妖怪ベクトル馬鹿」である。学科の人間は例外なく彼を忌避する。しかし彼にとって人の情動など、体内電気信号の錯綜に過ぎないので、気にする素振りすら見せない。彼は恐らく人の顔を、目鼻口間の比によって認識している。情報数理的に人の顔という情報を脳内で処理しているに違いない。好きな女性のタイプは「目鼻立ちが黄金比の人」とか言いかねない。
お察しの通り、こんな癖のありすぎる人間性故、単位は恐るべき低空飛行である。夏彦に比べれば幾分か救済の余地があるものの、一年生の必修科目の再履に未だに追われているらしい。学年を跨いでも尚数学テロリズムを敢行するので、教授すら手を焼いていると聞く。
そんな彼がこの度、実に阿呆なる事件を引き起こしたという。日夜数学に明け暮れ、数学の悪魔に魂を売った彼は遂に、非公式ながら「感情係数」を完成させた。これは人の「感情」を正確に数値化するというもので、心理学に真っ向から喧嘩を売るようなものである。
「感情係数」の実用試験が、教授陣と学生課の断固とした反対虚しく、学科内にて開始されたことによって、理性と倫理のベールによって隠されていた人の本音が公のものとなり、学科内は世紀末的騒ぎになっているらしい。人間関係とは猫を被ることによって成立するものであるから、その土台が崩壊すれば、社会的秩序は瞬く間に葬られよう。
あぁ恐ろしや。
即ち冬夜もまた、夏彦、千秋に並ぶ、どうしようもない阿呆であった。出来るならば関わりたくないけれど、しかしこれまでのボクの軌跡を鑑みるに、きっとボクも「感情係数」騒ぎに巻き込まれることになるのであろう。
天使も歩けば阿呆に当たる。
そう、渡る世間には阿呆しかいない。見渡す限り阿呆塗れで、歩けど歩けど阿呆に当たる。八割の人間は阿呆で、残りの二割は超弩級の阿呆である。
けれど、誤解しないで欲しいのは、ボクは阿呆を否定してはいないということだ。寧ろ素晴らしきことであろう。
阿呆ほど愛いものは無い。実際、阿呆みたいな発想が世界を覆すことだってある。阿呆は、あらゆる原動力たり得る。
あぁ、阿呆万歳! 阿呆万歳! 阿呆へ万雷の喝采を浴びせたもう!
阿呆を乗せて、蒼いヘンテコ球体こと地球は、今日も回る。
さあ盛大に阿呆なる世界を謳歌しようではあるまいか。読者諸氏、グラスを持ちたまえ。
多大なる敬意と一抹の侮蔑、それから精一杯の愛情を込めまして、親愛なる阿呆への乾杯の音頭を、ボクが天使を代表して取らせて頂く。ご唱和願いたい、読者諸氏。
阿呆なる人類の今後益々のご繁栄と、ご多幸を祈念しまして、乾杯!
天使も歩けば阿呆に当たる 葵鳥 @AoiAoi_Tori
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