【短編】雪山に魅せられた二人

Edy

なぜ山に登るのか

 なぜ山に登るのか。


 そこに山があるからだ。昔の登山家はそう言ったらしい。


 同じ問いをあいつに投げかけたことがある。あいつは足を止めてゴーグルを上げ、白い息を吐きながら言った。


 自分と戦えるからだ。特に冬の山では。


 わかるように言え、と説明を求めると、答えを見つけるのも戦いだ、とはぐらかされた。


 結局、あいつの真意は教えてもらえていない。これから先、俺が知るよしもなくなった。顔を合わせることもないだろう。


 あいつは雪山から帰ってきていないからだ。雪がなくなった夏山でもあいつは見つかっていない。


 俺はそれをネットニュースで知った。SNSでも少し話題になって、散々叩かれていた。毎年五十人ほど死んでいるせいか、年々叩きっぷりに拍車がかかっている気がする。まあ、自業自得なのは間違いない。


 あれから一年。俺はあいつが消えた山に来ていた。


 俺は顔を上げる。足元ばかり見ていたせいか、首の筋肉が強張っているのを感じた。辺りはどこを見ても白ばかり。山は雪に覆われ、さっきまで晴れていた空もガスで蓋をされているようだ。麓も山頂も何も見えない。


 それでも俺は一歩ずつ前に進む。膝上まで埋まっているせいか歩いているというより泳いでいるみたいだ。いや、スノーシューを履いているから水上を歩く忍者の方が近いか。


 そんなくだらないことを考えてしまうのも、厳寒期の雪山に一人きりだからだ。話し相手がいないどころか、完全な無音の世界。新雪は全ての音を食ってしまう。足を進める音すら聞こえない。


 孤独ゆえに思い出してしまう。あいつへ投げかけた問いに、俺はどんな答えを出すだろう。


 なぜ山に登るのか。その答えを見つけるために俺は山に登っている。



 尾根まであと少しといったところで風が出てきた。きっと尾根の向こう側は強い風が吹いているのだろう。さっきまで深かった雪もくるぶしまでしかない。スノーシューで感じていた浮力がなくなり、氷の塊を踏んでいるようだ。積もった雪を風が飛ばしてしまうから氷の層が顔をだす。俺はバックパックを下ろしてスノーシューからアイゼンに履き替えた。雪より氷の方が歩きやすい。金属製の爪を突きたてながら俺は山頂を目指す。



 俺もあいつもスキーの選手だった。二人もと普段は普通に働いていたし、スキー業界に対する熱い思いなどない。それでも大会で結果を出していたし、もっと上手くなりたかった。リザルトであいつより上に名前があると大喜びしたものだ。負けて死ぬほど悔しい思いをさせられたこともある。きっと俺たちは良いライバルだったのだろう。



 山は無音の世界から豹変した。ガスが晴れたのはありがたいが、尾根は突風が吹きすさんでいる。風で切り刻まれているような音が絶え間なく続いていた。ここまで風があると地吹雪でホワイトアウトしそうなものだが、すでに飛ばされる雪が残っていない。尾根の一枚氷に風が描いた模様に向けてアイゼンの爪を立てながら足を動かした。



 ある時から、あいつは大会にエントリーしなくなった。理由を聞いてもはぐらかす。飽きたとも言っていたが、あいつは俺以上に大会を楽しんでいたからそれはない。それでも滑りに来ていたから毎週末は顔を合わせたたし、飲み明かした夜も数えきれないほどある。競技者をやめたあいつと続けている俺では立ち位置が異なってしまったが気の合う仲間なのは間違いない。競い合っているのに仲間というのもおかしな話だが、少なくとも俺はそう思っている。


 しかし、そんな関係も長くは続かない。あいつはより過酷な雪山へフィールドを移したからだ。人の手が加わっていない自然の地形を滑ることに、あいつはのめり込んでいった。いわゆる、バックカントリーというものだ。



 俺は風に煽られないよう細心の注意を払いながら尾根伝いに進む。そして下界へ目を落とした。木曾駒の千畳敷カールによく似た地形で、広い斜面がどこまでも続いている。詳しい人に話を聞いたら、この山でバックカントリーをやる人はここから滑り降りていくそうだ。


 あいつもそうしたのだろう。斜面に目を走らせ、自分ならどう滑るかイメージする。風が作る雪庇があちこちにあり、ターンの途中で飛んでしまう落ち込みもある。雪に隠れた岩もあるだろう。しかも雪質が一定ではない。キラキラ光っているところは新雪ではなく、日に当たったせいで溶けて凍ってを繰り返しているはずだ。斜度がきついから転べば中々止まらないし、下手をすれば雪崩れるかもしれない。


 こんなに美しい光景だが、予測できない恐ろしさがここにはあった。


 上手く滑り降りられるルートを探しながら、あいつの言葉を思い返す。


 自分と戦えるからだと言っていた意味が少しわかる気がする。ここでは死を近くに感じるからだ。危険だからと諦めるのが賢い生き方だろう。


 それでも、あいつは挑んだのだと確信する。この光景を見て、滑る自分をイメージして、俺の頬は勝手に緩んでいた。間違いなく気持ちいいはずだ。死を間近に感じるからこそ、生きていると実感できるはずだ。それは自分との戦いに他ならない。安全に整備されたレースコースにはない楽しみがここにはある。


 俺はアイゼンを脱ぎ、スキーを装着する。あとは自分自身の体で確かめるとしよう。そうすれば山に登る理由が見つけられるはずだ。そして、こうも思う。俺も山の魅力に捕らわれてしまうのだろうと。


 俺は斜面へ身を投じる。凍てつく風が頬を叩き、パウダースノーを巻き上げ、雪庇を使って宙に飛んだ。


 着地と同時に深く息を吸う。極寒の冷気でも、熱く滾る体にとっては心地良い。


 アドレナリンだかドーパミンだかのせいで視野が広がり時の流れが緩慢になる。誰も滑っていないノートラックパウダーに自分の生きている証を刻みつけながら速度を上げた。


 こんな生き方を教えてくれたあいつに礼を言わないとな、と先を見据える。きっとこの先を滑っているはずだ。俺たちはライバルだから、いつまでも先を滑らせておくわけにはいかない。


 待っていろ。すぐに追い抜いてやるからな。


 あいつのトラック跡を追いながら俺は笑っていた。

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