断つ

きみどり

断つ

 調和した歌声がホールに響く。舞台に並んでいるのは色取り取りのTシャツに、思い思いのボトムスを合わせた老若男女だ。子どもは最前列の中央、その他は恐らくパート別にひな壇に広がっている。

 その一番上手かみてに、ずっと俺の視線は注がれている。

 腰まで垂らしたポニーテールの彼。その口が曲に合わせて動くのに、胸がざわつく。

 今この時、俺の鼓膜を揺らしている声の中には、彼もいるのだ。

 俺の中に、桐生きりゅうさんが入ってきている。




「良かったですよ」

柘植つげさん! 聞きに来てくれたんですね!」

 公演後のロビー。客を見送る合唱団員の中から桐生さんを見つけ出し、俺は声をかけた。

「すごいですね。満席じゃないですか」

「メンバーの年齢が幅広いですからね。ほとんど関係者ですよ」

「俺も関係者ですか?」

「いえ、柘植さんは貴重な一般のお客様です!」

 咄嗟に俺は笑顔を作って、笑い合い、ひと呼吸。桐生さんの髪に目をやった。

「だいぶ伸びましたね。そろそろですか?」

「そうですね。そろそろ、と思ってます」

 ひとつに結った髪の毛を胸の前に持ってきて、彼は微笑んだ。

「本当に長かったですね……ご来店、お待ちしてますよ。大事に切らせてもらいます」

「はい、よろしくお願いします。いつも柘植さんに切ってもらってますけど、それとは別で、大切に伸ばした髪の毛だからこそ、柘植さんに切ってもらいたいって思ってます」

 屈託なくそんなことを言われ、俺の胸の底にぬらりと、何かが触れた気がした。

 さすが、合唱団カラフルのメンバーだ。そんな思考で、己の内に蠢く得体の知れない何かを誤魔化す。

 彼の所属しているこの団体は、演奏会で必ず、子どもの幸せや戦争のない平和な世界を願う曲を歌う。そんな理念に賛同している人間なだけあって、彼は透き通っている。

「そんなふうに思っていただけて光栄ですよ」

 俺は笑って、無難にそう返した。




「いらっしゃいませ! お待ちしてましたよ」

 シャランとドアベルが鳴って、俺はすぐさま彼の元に駆けつけた。あの日と違って、長い黒髪をおろしている姿に、ほぅ……となった。


 四年待った。

 それまで毎月髪を切らせてくれていたのに、この四年間は半年に一度くらいのメンテナンスしかさせてもらえなかった。

 それは、俺と桐生さんがほとんど半年に一度しか会えなくなっていたということだ。


「バッサリいった後は、どんな感じにします?」

 荷物を預かって席に案内し、タブレットを持ち出す。画面いっぱいに並ぶ様々な髪型を、二人肩を寄せて覗き込んだ。

 少し時間をかけてヘアカタログからイメージに合うものを選び、いよいよ、その時がやって来た。

「では、まずはドネーションカットからしていきますね」

「はい。お願いします」

 桐生さんの背後に立ち、ごくりと唾を飲み込む。伸ばした指先が震える。

 呼吸を止め、艶やかな黒髪にそっと触れる。その瞬間、俺の中で悦びが弾けた。


 俺だけが桐生さんの髪に触ることを許されている。この数年、ずっと。俺だけが。

 そして、今からのこの時間、俺は桐生さんの体の一部を委ねられる。彼の一部を、俺は蹂躙し、切り落とす。


 背骨を這い上がってくる恍惚を、理性でもって捩じ伏せる。それでも、彼が俺のものになる時間に、どうしようもなく欲が滾った。

 なのに、こんなにも欲情しているのに。俺はぐちゃぐちゃになった胸の中にあるものが何なのか、ずっとわからないでいる。


 気づけば、桐生さんの髪の毛は、いくつもの小さな束に分けられ、ゴムで縛られていた。自分でやったことなのに、どこか夢見心地で、薄い膜を隔てた向こう側の出来事のように思える。

 小分けする最中も、「演奏会の後はしばらくSNSが賑やかでしたよ~」なんて話していた気がする。桐生さんや、彼経由で知り合った数名のメンバー、合唱団のアカウントなんかをフォローしているため、演奏会の後はそれ関連の投稿がたくさん流れてくるのだ。


 そんな心ここにあらずの状態でも無事ブロッキングを終えられたことに、急にほっとした。

 ドネーションカット、つまり髪の毛の寄付のためのカットでは、いつものカットと違って絶対に髪の毛を濡らしてはいけない。もし濡らしてしまえば、湿り気によって菌が繁殖し、せっかくの髪の毛がウィッグの材料にできなくなる。

 手癖でそんな失敗を犯さなくて、本当に良かった、と。少しだけ正気に戻りつつ、思うのだった。


 六十センチほどのメジャーをあてて、各髪の束が寄付できる長さに達しているかを確認する。

「大丈夫ですね。では、鋏を入れさせていただきます」

 桐生さんは心底嬉しそうに微笑んで、軽く頷いた。それから、カットされた一束目を見て、「おー」と声をあげた。

「一番長いところで、四十センチくらいあります」

「四十センチですか。四年かけてもロングウィッグには届かないんですね。なんだかちょっと悔しいです」

 そう言って、唇を噛む。

「ロングは女の人でもなかなか難しいですよ。桐生さんは男だから尚更でしょう。伸ばしている間、髪が長いと周りから変な目で見られたんじゃないですか?」

 桐生さんの口元がふっと綻んだ。

「ええ、まあ。でも頑張りました。髪の毛のない、可哀想な子どもたちのためですから。このくらいの我慢、その子たちに比べたらどうってことないです。それに、ヘアドネーションだって言ったら、『偉いね』なんて言ってくれる人もいましたよ」

 ざくり、ざくりと髪の束を切り離していく。数年の努力が報われ、桐生さんは涙を滲ませていた。その思いは、今この瞬間だけでなく、髪の毛に悩みを抱えている子どもたちにも及んでいるのだろう。


 正直、面白くない。うんうんとにこやかに話を聴きながら、思う。

 桐生さんは俺に何だかわからない感情を植え付けたくせに、ヘアドネーションを選んだ。その綺麗で繊細な心を、俺じゃなくて子どもたちに向けた。


 ――俺も関係者ですか

 ――いえ、柘植さんは貴重な一般のお客様です


 あの日の会話を思い出して、虫酸が走った。

 ここに来る度に「担当は柘植さんでお願いします」、「柘植さん、会いに来ましたよ!」、「もう柘植さん以外に髪を切ってもらうなんて考えられないです」と、真っ直ぐ俺の心に踏み込んできた桐生さん。

 彼にとって俺は、一般人だ。



 ドネーションカットを終えて、シャンプー台に移動する。会話が途切れ、白い布越しに彼を見下ろしていると、腹の中がますます沸々とした。


 なのに、シャンプーを終えて座席に戻ってからも、桐生さんは鏡越しににっこり微笑んでくる。俺の胸中なんて知りもせず。無防備にうなじをさらして。

「もうこの時点でだいぶサッパリしました。頭が軽いです」

「でしょうね。ここからは希望の髪型にしていきますよ」

「はい。柘植さんに任せておけば安心です!」

 寄せられる全幅の信頼に目眩がする。

 髪の毛を切る、切られるという名指しの関係。その関係において、俺たちはきっと唯一無二だ。

 でもそれは、二人を繋ぐ行為が不要となれば、たちまち引き裂かれる。

 俺は、客と店員という関係を越えたかった。桐生さんの中に入りたかった。


「髪が長いと、乾かすのも時間がかかって大変で――」

 ヘアドネーションに関する苦労話を、饒舌にしゃべり続ける桐生さん。その顔は本当に嬉しそうで、嫌になる。

 しかし不意に、話題が俺に向く。

「今日はいっぱいしゃべれますね」

 手元が狂うかと思った。

「髪を伸ばす間は柘植さんになかなか会えなかったし、せっかく会えてもメンテナンスカットじゃあまりしゃべれなくて、寂しかったです。だから、今日はドネーションカットできたのも嬉しいんですけど、こうやって前みたいにいっぱいしゃべれるのも、すごく嬉しいんですよ」


 純真無垢とは、なんて罪深いのだろう。

 両手で顔を覆いたかった。

 心のままに発される感情は、こんなにも真っ直ぐ、俺の心に突き刺さる。


「……でも、何だかんだ言っても、またやるんでしょう? ヘアドネーション……」

 声が震えないよう、グッと喉に力を込める。

「うーん、それはまだ考え中で――」

「ヘアドネーションって、本当になんでしょうか」

「……えっ?」


 せっかく戒めた喉から、気づけば言葉がせり上がっていた。

 一度吐き出してしまえば、それはもう止めることができない。


「桐生さん、ヘアドネーションは可哀想な子どもたちのためって言いましたよね? それって、髪の毛がないのは可哀想なことだって思ってるってことですよね。髪の毛がないことを子どもたちは我慢してる、って。それって偏見じゃないですか? 桐生さんが髪の毛を伸ばしているとき、『男なのに』って変な目で見られたのと同じように、桐生さんは髪の毛のない人たちを『普通じゃない』、『髪の毛は生えてなきゃいけない』って、否定してるってことじゃないですか? そういう目が、髪の毛に悩みのある人たちを、ますますありのままでいられなくしていませんか。ヘアドネーションは、そういう差別を助長して、髪の毛のない人たちから『ウィッグをつけないという選択肢』を奪っていませんか」

「そんな――」

「それに、髪の毛の寄付は、自分のためにするものじゃないですよね。『偉い』って誰かから褒められなくても良いじゃないですか。我慢して、頑張って……大変な思いをしてまでやらなくて良いんですよ、ヘアドネーションなんて」


 一気に早口で捲し立てた。

 もちろん、誰かのためを思って行動するのは尊いことだ。「ウィッグをつけるという選択肢」を望む人にとって、ヘアドネーションの活動は嬉しいものでもあるだろう。

 俺が撒き散らしたのは、問題の本質を正しく伝えるための努力ではなかった。聞き齧ったことを自分に都合の良いように切り貼りした言葉だった。

「そう……ですか」

「そうですよ」

 呆然とこぼした桐生さんに、俺は唸るように返した。

 ヘアドネーションなんてやらなくて良い。やってほしくない。やってしまえば、また数年間ろくに会えなくなる。だから、俺を選んでほしい。その清らかな心を、俺に向けてほしい。

 俺にとっては、言外にそんな気持ちを込めた返事だった。






 それからしばらくが経ち、SNSを見ていた俺は固まった。視線の先にあるのは、合唱団のメンバーの投稿だった。

 桐生さんが死んだ。

 何度読んでも、そこに記された内容は変わらない。

「…………は?」

 蚊の鳴くような声を出すのが精一杯だった。動けない。でも、まるで墨汁が落とされたように、己の中に何かが広がっていくのがわかった。

 死因は書かれていない。わからない。だけど、あの日、素直に「もうヘアドネーションしてほしくない。寂しいから。会えなくなるから」と言えなかった負い目が、目の前の事実と自分とを結びつける。

 透き通った人だった。綺麗で繊細な人だった。真っ直ぐな人だった。

 そんな彼がかけてくれた言葉の数々は、俺に特別な心を寄せてくれていた証左だったのではないか。今さらになって、そんなふうに思う。

「バカヤロウ……そういう意味じゃなかったんだ……」

 絞り出した声が震える。

 俺は桐生さんの心に入れていた。きっと。それを、内側から切り刻んでしまった。ありのままの彼を全否定してしまった。


 自分の中にある彼への気持ちが何なのか、いまだにわからない。俺をぐちゃぐちゃにしたまま、彼は逝ってしまった。

 重く黒い何かが、俺を深く深く染め上げていく。





―――――


※ヘアドネーションを行っているある団体は、「ヘアドネーションを通して見えてくる社会的な問題」についても情報を発信しています。作中では、それの一部を取り上げています。

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断つ きみどり @kimid0r1

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