人の重力
蒼逸るな
人の重力
乗合車の車内放送に、透は俯かせていた顔を上げた。
揃えた膝の上に行儀よく乗せた肩掛け鞄、その線留め具の凹凸を眺めているうちに、閑静な住宅街を走っていた乗合車は透を目的地に運んだ。最寄り駅から透の降りる停留所まではそれなりの距離があるはずだったが、空席だらけの乗合車の中にあって停車釦を押す人間は透以外にはいなかった。
鬱陶しいほどに設置された停車釦を押すついでに背伸びをする。固まった筋肉が解れ、関節からは気泡の弾ける音がする。
停車した乗合車から降り、少し歩く。六月になって、空気中の夏は日増しに濃さを増していた。それを吸って紫陽花が咲く。花に見えるだけの贋物が。
――群がって咲くから、紫という。
彼の、外見に似合わない低い声が脳裏に浮かぶ。白い髪は祖父のそれよりも老人のようだったが、艶があり、陽光を浴びると奇妙に偏光した。肩ほどの長さのそれを、彼は俯いたときに顔に掛かるぶんだけを結い上げて、後ろ髪は流すままにしている。男性にしては少し長すぎる髪。少女のような髪型。それが不思議と似合ってしまう、彼にはそういうところがあった。つまり、性別のような動物めいた区分では定義できないような。
停留所からなかば無心に歩いて十分ほどすると見えてくる二階建ての一軒家が祖父の家だ。祖父は、脚を悪くしても両親との同居をやんわり拒んだ。あるいは祖父にはわかっていたのかもしれない――両親が祖父の家を欲しがっていることを。
だから透は週末になると電車と乗合車を乗り継いでこの家に来る。両親が祖父にいい顔をしたいからだ。孫の顔を見たいにちがいないといって、さしたる手土産も持たせずに透を送り出す両親は、たぶん親孝行という言葉を都合よく忘れているに違いなかった。
渡されている合鍵で家に入る。一軒家は祖父が脚を悪くした際に物理的障壁が除去されていて、玄関にも段差がない。だから透はうっかり靴を脱ぎ忘れそうになる。
玄関には、祖父と彼の靴がある。
お邪魔します、と言うたびに、透はその言葉の本当の意味を思い出す。たぶん、透はしんじつ、彼らの邪魔をしているのだ。それでも両親の言いつけに従って律儀に顔を出す理由を祖父はもう見抜いているだろう。老眼鏡を掛けるようになっても、祖父の眼光は穏やかに強い。
祖父は居間にいて、長椅子の柔らかい背凭れに身を預けていた。透を見てよりいっそう深く刻まれた笑い皺が、祖父の人の良さを滲ませる。大きな採光窓から入る昼下がりの陽光が、彼の右の耳朶を貫く耳飾り、その空の宝石を煌めかせた。
「先輩」老人が口を開くと、抗えない老いに口臭が漂う。
「なに?」低い声が台所から聞こえた。吐息でしとどに濡れ、どこか艶めかしく聞こえるその声は間延びしていて、なあに、と気安く聞こえた。少しの水音、それから裸足が床を踏む音。彼がひょいと顔を覗かせて透を見た。色のない、蒼褪めてさえみえる肌。洗いざらしの襯衣を纏う、骨格のかたちも露わな痩躯。陽光の下で、彼はなにもかもが白い。
「お客さん?」
「透ですよ」
「トオル」彼は繰り返した。その虹彩は髪と同じく奇妙に光を反射して、三稜鏡じみたかがやきを纏う。白い瞳孔に映る透は、写真を見たときに覚える違和感に塗れていた。まるで他人のような。
「君の孫だね」
「そうです」
「よく来たね」来訪のたびに繰り返される遣り取り。彼の白い頬に微笑が刷かれた。「珈琲はいるかい」
透が頭を下げると、彼は台所に引き返していった。
――祖父は、彼と同居している。あるいは彼がほとんど毎日のように通っているだけかもしれないが、たいした違いではない。ちらと台所に視線を遣る。彼の後ろ姿は、青年のそれだ。成人しているかも怪しい。
だが、祖父は彼を先輩と呼ぶ。
豆が破砕され、湯が沸く音。その背中ばかりを見つめる透に、ふと祖父は言った。明日の天気を伝えるような口振りで。
「わたしは、もう死ぬんだ」
透は音がするほどの勢いで祖父を振り返った。老いて脚こそ衰えていたが、祖父はまだ健全であるようにみえた。
「どうして」
「わたしが頼んだ」目許の皺を深くして、祖父は台所の白い青年を見遣る。「先輩に」
願えば、叶えられる。当然のことのように祖父は言った。
「わたしは眠るように息を引き取る。だけど、ひとつ気掛かりがあってね」
透は知らず生唾を呑んだ。
「先輩を遺して逝くのが、申し訳なくて――だから」
祖父は右耳の飾りを外した。「これを受け取りなさい」
透は手のひらにそれを受けた。空と同じ色のそれ。宝石の知識はなかったから、それが人骨から作られた金剛石だと透にはわからない。
「それをつけている人間を、彼は『後輩』だと認識する」老眼鏡越しのつよいひかり。「透は、『わたし』になる気はあるかな」
それは質問のていを取ってはいたが、もはや確認ですらなかった。もしかしたら祖父もかつてそうやってこの耳飾りを受け取って彼の『後輩』になったのかもしれなかった。
透は手を握り締めた。宝石の硬さが手のひらに伝わる。願ってもみない僥倖は、むしろ透を動揺させた。だって、祖父は彼を、いっとう大切にしていた。たとえば神さまがいたとして、その眼差しよりも強く彼を見つめていた。祖父がこの家を両親に引き渡さないのは、脚を悪くしても一人暮らしをしているのは、ひとえに彼のためだ。彼の居場所を守る、そのためだった。
「大切な人なのに」透の声は震えた。逸れた視線が飾られた写真を捉えた。古めかしい詰襟の学生服に身を包んだ少年が笑っている。わずかに祖父の面影があった。右耳に輝く飾り。その隣にいる、姿の変わらない先輩。
「大切な人だからだよ」祖父は静かに返した。
「約束を守れなかったわたしを、それでも先輩は赦してくれた。だから――」
祖父は握った透の手に、皺だらけで熱い手を重ねた。
「きっと成し遂げてくれ。きっと約束してくれ。先輩をひとりにしないと。先輩を――」
強く握られる。痛いほどに。
「必ず殺すと」
透の震えを、祖父は握り潰した。瑞々しい少年の手が乾いた老人のそれになっても、遂げられなかった願い。幼い頃、一度だけ見た。書斎に山と積まれた本と、必死に机に向かう祖父の背。人生を費やしても叶わなかった祈り。
透は軽く顎を引いた。生きるすべてを、それに託せるかわからなかった。だが――たぶん、祖父は見抜いているに違いなかった。透の視線に纏わる重さを。その先にあるものが、彼の背だと。神さまがいたとしても、きっとこれほどまでには彼を見ない。だから託された。
透は、頷いた。重く。祖父の手の力が緩み、そして放される。皮膚に残る他人の温度。手のひらの内側に、血肉の果て。
透は傷ひとつない右の耳朶に耳飾りの針を突き立てた。流れる明るさ。体温と同じ。
血臭を掻き消す珈琲の赤いにおいとともに、彼は台所から出てきた。居間の卓台に三つの杯が並ぶ。彼は透の前に置いたそれに、角砂糖をふたつ落とした。それが祖父の好む味だったに違いなかった。
そしてふと、彼は祖父を見た。目を閉じてもう二度と開かないその姿を、彼は色のない瞳に映す。神さまと同じ重さで。
「トオル君は眠ってしまったのかな」
彼は振り返る。柔らかい仕草。右耳の輝くひかりはその瞳に映って、それ以上は中に入れない。無彩は不可侵を意味するのだと透は知る。
「ねえ、ミコト君」
彼は言った。疑いようもない純粋さ。呼吸も赦されない底なしの透徹の中で、透は喘いだ。そしてあぶくとともに吐き出す。
「そうみたいですね、先輩」
了
人の重力 蒼逸るな @tadaokinnu
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