目を閉じず、おいでよ。
スロ男
前編
少女は男に手を引かれて走っている。
走るのに明らかに向いてないクラシカルメイドスタイル。肩にかかる髪も暴れる。
雑踏の中、時折速さについていけなくなりそうになり、よろめき、
ハアハアと遠くに喧騒を聞きながら、自分の呼吸の音だけが大きい。
自分は何から逃げているのだろう。
自分を連れ出そうとする、この人は誰だろう——
手を引く男のダークスーツの背中に、揺れた視界が何度も焦点を合わせた。
神社の境内。少し離れればあんなにも猥雑とした繁華街なのに、闇が
膝に手を着きながら、荒い呼吸を繰り返す少女の横で、男は煙草を吹かしはじめた。
ジッポのカチリ、という音に一瞬少女はわなないたが、男はそのことには気づかず旨そうに吸い込んだ一口目を、大きく吐き出した。
「さてケンジロウ君」
男は煙草を歯で噛むようにしながら、言った。
「君はなんで襲われたかわかっているのかい?」
まだ大きく波打つように背は動いていたが、だいぶ呼吸の整った様子の少女は、聞こえてないのか聞こえないふりをしているのか、膝に手を着いた姿勢のまま動かず、顔も上げなかった。
男はしばらく少女を眺め、それから一人得心がいったかのように頷いた。
「アンジュちゃん、君はなんで」
「わかるわけないだろ!」
少女はハーフボンネットを掴み、地面に叩きつけた。男を
声は、中性的ではあったが、女性が少年の
「大体、あんたはなんなんだ!」
「俺か?」
勢いだけは良いが、距離を詰めることなく、むしろやや
「あんたのファン——から仕事を頼まれた、単なる何でも屋だよ」
ピン、と指先で煙草を弾いてから、あ、と慌てて吸殻を拾う。
「おっさん、何してんの?」
「いや、吸殻拾わんと。ついカッコつけて」
「しまらねえな」
吸殻を内ポケットから出した携帯灰皿にしまうと、男はへへっと笑った。少しあどけなさも見えるようで、少年は年齢不詳の何でも屋とやらに、ますます警戒を強めた。
「吸殻を投げ捨てるのはかっこいいのか?」
「そーゆー時代もあったんだよ。憧れの探偵にならって、両切り吸ってるのもその名残りだ。無駄話はいい。行くぞ」
「俺、戻らないと。姉さんの誕——」
「やめとけって。さっきの奴ら、おそらく店の前で張ってるぞ、あと今日は家にも戻らない方がいい。もっとも、無理やりまわされるのが趣味だってんなら止めないが?」
アンジュと呼ばれた少年が、ぐ、と
「なに、それ? ベスパってやつ?」
「うんにゃ、カブラだ。二人乗りじゃないから厳しいが、ま、池袋までなら大丈夫だろ」
「え、これに乗れって?」
妙に可愛らしいリアのバイクを呆れたように眺めてから、呑気に鼻歌を唄いながらエンジンを噴かす謎の男へと視線を移す。ひょろっとしたスタイルのせいで長身にも思えるが、大男ではない。黒縁眼鏡にウェービーというかクセっ毛めいたパーマのせいで、確かに大昔の探偵モノで目にしたような風情はある。被ったヘルメットから毛が溢れていた。
半ヘルを手渡されて、
「おい、行くぞ」
「マジかよ……」
——どこに座りゃいいんだ、これ?
「マジで女になるかと思った」
内股のアンジュの恨み言を無視して、時間貸しの駐車場に併設されている
池袋の北口が程近い辺りだった。
潰れたパチンコ屋の横を過ぎ、線路から離れるように建物群の奥へと入り、年季の入った雑居ビルの前へと来ると、男は立ち止まった。振り返る。無言だ。
「……なんだよ」
自分でも虚勢じみた声だな、とアンジュは思った。
男が、
「で。君はのうのうと付いてきたわけだが。俺の事務所に、ほんとにあがるのか?」
「ちょ、なにいって——連れてきたのは、あんただろ」
「俺が本当は敵だとしたらどうする?」
アンジュは面食らった表情のあと、吹き出した。
「敵だとしたら、大間抜けだね、俺は。でも、多分、敵はマナあたりで、あんたは姉さんの知り合いかなんかなんだろ」
今度は男の方が真顔になって、それから破顔した。
「ふむ、まんざらバカでもない、と」
「失礼だな!」
「ま、あがれや。三階だ」
エレベータはあったが「使用中止」の張り紙がしてあり、小便の匂いが強くなった裏側の細い階段を上った。
雑踏がホワイトノイズのように響くが、カツンカツンと階段を上がる音の方が強い。
三階には二軒のマッサージ屋があり、通り過ぎるとドアに素気なく張られたプレートに「
男がドアを開け、すぐに電気が点いた。入れよ、と
パーティションの裏で動く気配があり、どうしたものかと思いながら、立っているのがしんどくなり、ソファに腰掛けた頃にはコーヒーの良い匂いが漂ってきた。
インスタントじゃなさそうだな、とアンジュはぼんやり思った。
*
歌舞伎町の雑居ビルの一角、「ラウンジ クロドレ」の店内は活気に溢れていた。店のナンバー1、ローズの誕生パーティが開催されていたからだ。
真紅のチャイナドレスを着たローズは、優雅に、けれど止まることなく席から席へと渡り歩く。蝶が蜜を吸うように。その度にボーイの酒の注文が店内を賑わした。
盛り上がる同席の客にひと声かけて、マナは立ち上がった。こちらは
「姉さんもトイレですか?」
問うマナの豊かな髪も、躰のラインも女性そのものだったが、その声はハスキーな成人男性だった。対して、
「ちょっとね、お化粧直し」
答えたローズの声は、意識して聴いても女性と聞き紛うような声音だった。トーンは低めだが、作り声にありがちな濁りがない。
鏡台に並ぶ、ふたり。
片や店の大看板で、片や飛ぶ鳥を落とす勢いの若手筆頭。
言葉通りファンデを叩きながら、ローズがぼそりといった。
「ねえ、アンジュちゃん知らない?」
「アンジュですか?」
ビューラーを使いながら、淀みなく、
「さあ、退屈で帰ったんじゃないですか。あの子、まだ未成年だし。あ、そういえばボーイの余興で使うとかでサイリウム買いにいったかも」
「あの子が?」
呆れたような声でマナを見るアンジュ。
「まだボーイ気分が抜けてないんじゃないですか。それとも空気吸いにいったのかも」
マナはまつ毛を整えるのに余念がないようだった。
「ちょ。おま、なにしようと——」
咄嗟に内股になってスカートを押さえたアンジュは、激しい
「うん? スカート捲り」
ウンコ坐りをして悪びれもしない男に、
「バッカじゃないの、死ね、アホ!」
「いやあ、下着どうなってんのかなあ、と思って」
立ち上がると、男は向かいのソファに腰をおろした。
「コーヒー、入ってんぞ」
「俺、どのぐらい寝てた?」
淹れたてのコーヒーの匂い。ほんの数分のことだったらしい、と気づく。気づいたことに男も気づいたようで、特に答えずコーヒーを啜り、煙草を吹かし始めた。
「で、どうする?」
紫煙を吐き出しながら言う。
「ここで夜を明かしてもらってもいいが、こっちの理性が持つかな」
「そっちの理性は知らないけど、俺はノンケだ」
「ノンケがローズに惚れるのか?」
図星だった。だからアンジュは言葉に詰まり、男から視線を逸らした。目を合わせないまま、ようやく言葉を紡ぐ。
「姉さんは綺麗だろ、惚れるよ」
「でもついてるし、ついてないぞ」
「肉体的にどうとかは、惚れる惚れないには関係ないだろ?」
「不自然だな。健全な高校生男子が、そんなこというもんか。……認めちまえよ。女みたいな綺麗な顔した、男のローズさんが好きです、ってさ」
頭に血が昇るのを感じたが、アンジュは深く息を吸って吐き、なんとか
「……こんなクソみたいな会話を夜通しする気か、あんた」
「君が望むなら」
男のスカした態度に、アンジュは耐えきれなくなった。立ち上がる。
「おいおい、部屋へは戻らない方がいいって」
「部屋へ戻るとは言ってない」
「店はもっとやめとけ」
「中へ入っちまえば、奴らも手を出せないだろ。用心してればあんな奴ら」
「そーゆーことじゃないんだな」
男が二本目の煙草に手をつける。
「いまから行けば、巻き込まれるぞ。ノンケだろうとお構いなしだ」
吐き出した紫煙を眺める男の顔は、何かの冗談を言っているようには見えなかった。明日の天気は雨だってさ、ぐらいの調子に聞こえた。
「どういうことだよ、よくわからない」
男は、吸い始めたばかりの煙草を灰皿で揉み消した。口直しにかコーヒーを
「ローズの誕生日には、いつも、だ」
「だから、何が?」
「ローズにぶちこみたくて
目を閉じず、おいでよ。 スロ男 @SSSS_Slotman
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。目を閉じず、おいでよ。の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます