第二章 第四節

 ムハマッドが信徒達の中にメッカ側との講和に対して不満を抱いている状態にあっても、この講和を受け入れる方針を断行した。ここには、当然の様にこの講和を受け入れる事に十分なメリットがあったとムハマッドが判断したと言う事を端的に示すという意味があった。そして、そんなムハマッドの判断が正しかった事を間も無くイスラムの人々は確信する様になった。そして、その事は歴史的な経緯を見れば明白であった。

 この時までもそうであったが、イスラム側としては彼等自身がメッカ側に鏖殺されずにいると言う事だけで、「メッカ側の求心力を失わせる」という効果を十分に発揮し得ていた。こうした効果は煙がそれを吸い込んだ者の喉に火傷を負わせ傷付ける様な物であった。或いは人体の内臓に巣食った潰瘍が患者に自覚させない内に傷を広げ、密かに失血させ、徐々に体力を奪って行く様に似ていた。

 だからこそ、ムハマッドに取っては、一個の講和に結び付いた事は、安堵を得る為に十分な役割を果たす物であった。そういう意味ではムハマッドに取って、彼自身の信徒達の間で高まっていた不満と、メッカ側の依然として十分に恐るべき武力との激突を回避出来ただけでも十分な成果であったと言う事も出来た。

 この講和が成立しただけでも、ムハマッドとしては「ある種の成功」と言えたかも知れなかった。ムハマッドが「フダイビーヤの和議」を「予想以上の成果」であったと評価した最大の点は恐らくメッカ側にムハマッド達のの勢力を一つの主権を持った独立勢力として認可させた点にこそあった。こうしてムハマッドを指導者としたイスラム側は、堂々と盟友を増やし、より本格的に勢力を拡大する事が可能になったのだ。

 先述した通り、「フダイビーヤの講和」が最終的に「メッカ側の敗北とイスラム側の勝利」に直結した物であった事は言うまでも無かった。しかし、当然の如くこの和約によってイスラム側が「延命出来ただけ」の効果しか齎さなかったのだとすれば、当然、これが「イスラム側の栄光とメッカ側の破滅」に結び付いたとは言い得なかった。この講和内に盛り込まれた条目が、引き起こした幾つかの出来事が両勢力の間に於いて幾つもの発火点として機能したのだった。これらの「発火点になった出来事達」の一つ一つは些細な事であったかも知れなかった。だが、これらの発火点が導き出した「爆発」は間違いなく「メッカ側の敗北」へと続く扉を開く事に繋がった。

 これらの「発火点」の一つにイスラム教徒の一人であったアブー・バスィールについての件であった。アブー・バスィールはムハマッドによる所謂「小巡礼」が行われた時には、既にメッカ側に囚われていた。彼は「フダイビーヤの和約」が締結された後、メッカを脱して、メディナに向かった。しかし、この人物をムハマッドは和約の中身を厳密に、且つ誠実に履行する意思を示す為、メディナから放逐し、メッカ側へと引き渡した。

 しかし、あろう事か、アブー・バスィールはメッカから彼の身柄を引き取りに来たメッカ側の使者達を殺して了った。ムハマッドは、この報告を聞いて、こう言ったと伝承されていた。「あの若者は何故、血を流す様な真似をしたのだろう。彼が流した血によって平和は破られてしまうだろう」

 ムハマッドが、この一種の呪いとも受け取れる言葉を吐いたと言う事を知ったアブー・バスィールはメディナのイスラム教徒のコミュニティに帰る事も出来なかった。その為、アブー・バスィールはメディナとメッカの間に広がる砂漠の一角に身を潜める事になった。更にアブー・バスィールと同様、メッカから逃れ出たムスリム達もムハマッドの怒りを恐れて、アブー・バスィールの元へとより集まる様になった。

 やがて、彼等、アブー・バスィールと彼の元により集まったメッカを脱したイスラム教徒達は野盗になった。彼等はメッカ近郊の交易路近くを根城にし、メッカへと荷物を運び込み、或いはメッカから外へ荷物を運び出す隊商を襲う様になった。彼等の敵愾心はメッカの人々に対して必要以上に獰猛で執念深い脅威となり、この野獣の様な存在にメッカの人々は手を焼く事になった。

 メッカの人々は、こうしてアブー・バスィール達をどうし様もなくなり、やがて彼等の脅威を取り除く為、ムハマッドの力を借りる事にした。ムハマッドの言葉に応じて、アブー・バスィール達はメッカ周辺での山賊行為を止め、メディナのイスラム教徒達に合流する事になった。

 この一連の出来事は、ムハマッドが誠実に「約定」を履行しようとした結果、若者が暴走した「だけ」の様にも見えた。そうしてムハマッドは暴走した若者に対して、十分に「苛烈な態度」を示し、ライバルから助けを求められた時には、この援助の要請に速やかに応じた。こうしたムハマッドによる一連の態度は彼の宗教指導者としての誠実さ、厳粛さ、果断さ、そして寛容さとを十分に、そして「過剰な程に」明示する結果になった。

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