何度転職したかわからない自伝

@hama419

~2017

今転職を考えている人はどれほどいるのだろう。


人間。ひと。動物学上は、脊索動物門哺乳綱霊長目ヒト科ヒト属に分類される。 人間というものを話していくとなると、ここから話していくことが当然になろうか。でもそんな気は全然なく、前述など、インターネットからの完全なコピペw。突如文章にしようと思い立ったきっかけは、中学生の頃よく聴いた音楽を耳にした時、涙が溢れて止まらなかったから、ただそれだけ。


今私は43になった。人生に大きく悩んで、苦しんで、苦しみすぎて、先が見えない。そんな絶望のふちに立ったとき、まあ正直言えば、いつ人間を辞めようかと悩みぶらぶらしていたら、言葉にしたいことがあったから、それを残さず辞めるのはもったいないなあ、と単純に思ったから文章にしてみようと試みた。


人の幸せってなんだろう。本心からそう思ってから10年経った。自分なりに幸せだった時へ戻りたい。その一心で努力してきたが、人生簡単に戻らせてはくれないらしい、さすがだ。しかしそんな想いは誰でも経験していて、誰しも過去に辛い思いをし、そののちトラウマになっていたり、又は今の自分を作る強い動機になっているかもしれない。誰もが特別でもなく、傷つき、立ち直り、また傷つき、今の自分を作っているのだと思う。そう思うだけで、満員電車にもまれる中、うざったい隣の乗客者も一つの人間だ、と思えるのだから不思議。しかしそう思えない人間が多数いるのも事実。それもまた不思議。


一度思い出してみた。自分がひとであるからゆえ苦しんでいる事実を。同時にひとであるからゆえ楽しいと、いや、言葉でいいきれない、目から水が止まらない瞬間がある事柄を。


人間の平均寿命が延びていく中、その折り返し地点で私と同じ様な悩みを抱える人が多く、そして息を止める人が多く。いや、その半分も謳歌せずに終えてしまう人も多くいる。ほんの少ししか知りえない私の情報網からも、今この時に命を途絶える多くの人間がいることは恐らく事実だと思う。だって、今こうしている私がその本人だから、気持ちがわからないわけがない。今こうしている間に、多くの人間が命を自身で絶っていくこと、これまた自然。止められようがない。私とのほんの少しの違いは、そうした心境の中なぜか、目から涙が止まらなくなった何ががあったからであって、それは誰にでも毎日あるにも関わらず、私はなぜか残したいと想った。そして現に残した人がいる。それこそが人間なんだと、少しだけ人間であることの幸せを殉じている少数派の人達の感情が私に流れ込み、それをアウトプットする機会があっただけのことだと思う。


人間は他の生き物と違い、意思の疎通が言語によって出来る数少ない生き物であると思う。

思う、というのは他の生き物は音波であったり、匂いであったりフェロモンであったり、なにかしらで本能の疎通は出来ている事実を鑑み、その上で、確固たる言語として疎通は出来ていないんであろうかという、あくまで私の稚拙な知識の中にある常識内の想像を前提として今後の話は進めたいと思うということだ。よくいうアリの20%は働きアリだとか、イルカの知能はどうだとか、そんなことはわからないし、多分生涯私にはわからないw。


そして、人間が人間である最大の長所、そして欠点は言語だ。これは間違いない。


人間は感情を言葉にする。出来る。そして文字に起こす。それも今となっては写真、デジカメ、動画、音声、もうしっちゃかめっちゃか。本来では残すべきではないんだ、これらの記憶を。それがとてつもなく精密に、それこそ当人達の記憶よりもはっきりと当時の記録を残す。そういった媒体が世に溢れすぎている。残すべきではないんだ。人間も今のところ動物の一種であり、辛い記憶などを自然と忘れる機能が備わっているはず。しかしながら昨今は、逃さない。一切の緩みも持たさない。それこそ、忘れていたものさえ、一瞬でその全て、匂い、音までもを呼び起こすだけの記録力を持ってしまった。これは本来、忘れるべきものなのだ。


人の記憶は薄れていく。40を迎え実感する。そして今私の中にあるものは、今まで生きてきた40年間の記憶の、恐らく100分1。申し訳ない。まったく計算などはしていないw。


さて、どこから話そうか。というよりも、なぜこれを書き始めたかのかを話したほうが早いかと思う。今は令和2年12月。年齢は気づけば43歳になっている私が、以前よりふと疑問に思っていた、いや。今は殆ど確信に至っているが、自分は通常、常識内と思われる生き方をしていないと気づいた半生を思い出してみようと思ったのがきっかけだった。


常識外といっても、世間的なスーパーマンとされる偉人や、大金持ちと呼ばれる成功者のそれとは違い、世間一般的な失敗をそれこそ数多く繰り返し、又繰り返し。勤めては退職、又退職。そんな事を今まで続けてきたのが私である。そして、その経緯を一度整頓しようと考えたのがこの書である。

 

嘘偽りなく、(中には隠したい過去もあるが)思い出しながら書き留めていきたいと思う。世間によくある旨い話でもなんでもない、一度は誰もが考える転職、挫折、退職。これらを誰よりも多く経験してしまった、これは私の経験談である。それこそ、今転職を考えているあなた、また、一歩を踏み出せないその葛藤に、勇気を与えられるかどうか。一度その経験者の談を読んでみては如何だろうかと想い、筆を走らせている。


ただ夢を見る。または思い出すことがある。そのまどろみの中、浮かぶのは楽しかった記憶が10。そして辛かった記憶が40。また、楽しかったからこそ逆に今辛いと思うことが50。この、楽しかったからこそ辛いと思える、「希望」が人を狂わせる一番の要因だと思う。ただ単に辛かった記憶は、のち思い出に変わる。楽しかった記憶は、思いのほか詳細には覚えるに至らず、クローズアップされたいいとこどりの、美しい記憶へ変わる。しかしだ、私、また人間を失っていく多くの人達は、楽しかったからこそ逆に今辛いと思うことに対して、溺れ苦しみ、戻りたく、今の自分を見つめられず、無情に流れいく時間を耐えられず、  終わる。 崩れていく。


こうしている間にも、終わってしまいそうな自分がいる。これを止める術はあるのか。

さて、ここまで記憶について語っていながら、自身の記憶に対して思い出さずにいるわけがない。どこから遡ろうか、といっても前述したとおり、人の記憶は曖昧である。もう私自身はっきりとした記憶がないものの、思い出せる限り思い出し、そしてそれがどう今の私を作ったか。これがこの度の執筆の本意である。からには、頑張るしかないw。そして、今の自分を客観視した上で、その自分がナンナノカ。これを自身で欠点とした言語で表し、読んでくれている誰かに何かを伝えることが出来たなら、矛盾ではあるが、いい記録になるのかな。


まず考えたのは、良い記憶、悪い記憶、希望になり得る記憶を、順序に列記し、対策を並べていくことだが、これは良くある経営の為の手法であったり、自身のマインドコントロール法などといった、自分を変えよう、こういう時はこうしよう、といった自己啓発に他ならない為、止める。私が今皆さんに伝えたいのは、人間とはどう思い、それをどう受け止め、どう記憶し、その後どう動機付け、どう進んで行くのかの一例を伝えること。よくある成功者の自伝書では決してない。それこそまったく成功していない私の失敗談を基に、失敗しないでよ。といった、一種の失敗例&その時起こった人間への作用を示すものであるからして、思い出せる限りの過去の記憶から、現在への影響をありのまま伝え、またどう対処し、そしてどういう結果をもたらしたのかを、惜しみなく伝えることが意味を持つと思う。


そして、素晴らしい成功者達の自伝書ではないが、普通ではなかった人生を書けるだけの経験が私にはあるからこの文章がある事を、この後知ってほしい。


人の記憶はどこからあるのだろうか。少なくとも、私は4歳ほどからおぼろげにしかない。人によっては、生まれたその時からだったり、または母親のお腹の中の時のことも記憶にある、なんて事も聞くが、少なくとも私にはそんな能力はなかった。幼児期の記憶として、今も鮮明に思い出すのは、母親の運転する自転車の後部にのっている自分が、前方を見る為体を乗り出し転倒。そして大きなダンプカーが私に迫り轢かれる・・・と思ったがかろうじて助かった。この記憶が一番鮮明だ。しかし不思議な事に、この記憶は物心ついた私がのちに母に聞くも、母はそんなことは一切覚えていないし、そんな事実は無い、と言い張るのであった。今や確証を得る材料はなく、私の記憶違いかとも思えるが、その際負ったと記憶している右肘の傷はいまだに残っているから不思議。まあ、記憶違いだとして、傷は別の時に負ったとしても、自転車から落ち、目前にダンプカーが迫ってくるという記憶を、一切の事実無根の中、時折夢に思い出し、また今でさえおぼろげながら思い出せるというこれは、零から記憶の捏造とは言えないと確信している。母は隠したかったのか、心配させたくなかったのか、後ろめたかったのか、今となってはまったく追う気持ちはない。ただの記憶違いでも良い。しかし、覚えている事実である。


私は3歳から小学2年生までを宮城の仙台市で過ごした。父、母、姉3人の6人家族である。両親は当時住んでいた1階が酒屋のテナントであるマンションから車で10分ほどの場所で焼肉店を経営しており、まあ、肉は沢山食べられた。この頃の記憶は、良い記憶ばかりであり、今でも思い出すたび郷愁に駆られる。当時の楽しみといえば、毎日いくらかのお小遣いを貰い、近くにあるばっぱ屋と呼ばれる駄菓子屋か、1階の酒屋でどんなお菓子を買おうかと悩む、大変悩み深く、可愛い時期である。とはいえ、当時ばっぱ屋を営んでいた70前後であろうか お婆ちゃんは、時折意地の悪い時があり、例えば子供からすれば大変高額である、50円ガチャガチャ(何かしらのおもちゃが出てくる機械)にお小遣いを費やしたものの、機械の不具合で景品が出なかった事がある。もちろん、半べそでばっぱに進言するも、そんなもんしらん、と一括されるのである。50円といえば、当時人気を博した5円チョコが10個買える金額だ。当然そのまま泣き寝入りできるはずもなく、仲間と金属バットを持って襲撃・・・ではなく、母親に訴えるだけw。そして、母親同伴の元、お金の払い戻しを受けた記憶がある。その後も店には足しげく通い、当りつきのきなこ餅や、フーセンガム、こま、クジなど、夢と希望に溢れた空間を提供してくれた店で時を過ごした。今思えば、そんな詐欺まがいなことをする人間に対して寛容な行動を取れるはずもない私なのだが、もし仮に当時の状況に今の私が戻ったとしても、ばっぱを責めるとか、周囲に流布するとか、そんな考えは一切浮かばないだろう。それくらい、素敵な空間だった。その数十年後、ばっぱ屋に訪れる機会を作ったが、ばっぱ屋は無くなっていた。


そして、住んでいる1階にある酒屋もそうだった。酒屋なのだがお菓子の品揃えが良く、ガチャガチャや当たり付き餅などでない、普通のお菓子は大半1階で買っていた。当然このマンションに住んでいる住人の子供だということは知れていて、名前で店員に呼ばれてた。昨今のチェーン店の酒屋などとは違い、店員はほぼその家族であり、こちらも全員の名前を知っているほど親密な仲だった。そこに、ほぼ毎日来るガキンチョは、暇つぶしに持って来いだったのであろうw。とにかく、こちらは真剣にお菓子を見定めている最中、スリッパ持って叩いてくるわ、大声で驚かせてくるわ、今ならわかる、可愛がりである行動が、当時の私には恐怖でしかなかった。一度だけ、やりすぎてしまった店員に対し、私が本気で恐怖し、泣きながら家に帰ったことがある。その後、1階に行くことが激減したのはもちろんだったのだが、再度店に勇気を出し行った際、その店員が謝ってきた。なぜか涙が止まらなかった。その店員は、男の兄弟がいない私にとって、お兄さんだった。その日沢山持ち帰ったお菓子の記憶とは裏腹に、その日の会計は覚えていない。


そんな環境の中、もちろん幼少期は普通に過ごしていた。当時通わせて貰っていた幼稚園での、グミのような、アメのような不思議なお菓子はいまだになんだかわからない。そして、やんちゃ盛りであった私を、園長が体操教室に誘ってくれた。これは、今となっては良いのか悪いのか分からないが、人間として何かを感じる最初のきっかけであったことは間違いない。でんぐり返りから始まり、側転やバック転を覚えるまでに至った体操教室は、今後の私の人生を大きく動かす。最初こそ遊びでのでんぐり返りだったものが、わりかし器用だった私は色々すばやく吸収していった。そしていつしか、体を動かす競技に敵がいなくなるほど身体能力を伸ばし、スポーツでは誰も私には勝てないと思いこんだのが小学校入学あたりであっただろうか。


自分が他の人間とは違う、と。誤解していったのはこの頃だったと思う。実際に小学校の体育祭など、知らぬ父兄さんなどからも一目おかれ、名前を知られているほどの身体能力、またそれに伴った結果を残していた。ただ残念なのは、現代では当たり前に使われている動画、写真またそれらに付随する記録媒体を、当時の私の親はまったく扱えなかったのである。まったく悲しい。


当時に強く覚えているのは体育祭の騎馬戦だ。私は大将騎に任命されていて、赤対白の勝負の行方は、劇的な同点の後大将騎戦に委ねられた。私どもの陣営は、お世辞にも強いとは言えない、運がらみで行われた赤白の組み分けにて選出された、言ってしまえば、弱い騎馬 だった。

ただだからこそ強く記憶に残っている。相手陣営は学校の中でも最強と言っても過言ではない、高身長、恵まれた体格から作られる騎馬。そして上に乗るのは学校でも2~3番手を争う運動神経を有する者が乗っていた。おお、恐ろしや。


一方、こちらの陣営はというと、なんだろうw。組み分けからしても仕方ないのだが、学校内でも何かの体力競技において上位にある者でもなく、どちらかというと学業が達していると思われる3人が私の騎馬だった。まさかの大将戦になるとは思ってもおらず、当時の緊張感は今でも思い出せるほど貴重な体験だった。


全校生徒。教師。父兄。見物客。


全てが固唾を飲むそのシチュエーションに、私も酔った。もしもだけれど、当時の記録を動画などで残している方がおられたら、是非!金額問わずw。コピーを取らせて頂きたい。


全ての人が静寂を保つ中、私達は接触した。当時の騎馬戦は頭の帽子を取る、などといった軟弱なものではなく、相手の大将を地面に叩き付けた方が勝ちであった。出会い頭!掴みあう大将!

その一瞬のうちに、なんともなく、私は落とされたのである。


・・落とされたはずだったのだ。が、しかし。前述した騎馬に対して今も思う。最高だった。


片足が残ってかかっていた。すかさず私は身を起こした。相手は勝ったと確信していたのだろうか。それも止むを得ない。完全に落ちたと、私ですら思っていた。でも騎馬は私の足を、片足を必死に掴んでいた。あの時の手ごたえは今でも忘れてはいない。手ごたえのある感触、折れてない気持ち、それを一心に受け止め起き上がった。そして相手の大将が起き上がった私を見て、一瞬怯んだ隙に横に入りこむ騎馬。そして、それを見て全力で取っ組み合う我が大将、私。その後の勝負は一瞬だった。本気の足がかりを手にした私に勝てるわけもなく、相手大将は地に降りた。なんだろう。その後の歓声と、自陣騎馬達との涙ながらにあわせた抱き合いは、この40にもなる私の心を今でも震わせる。みんな、今でも元気にしているかな。


とはいえ、私の親も今ほどではないが当時貴重なビデオカメラを持参していた。当然まわしていた。ただ記録が残っていないことにたいして父親は、「あまりに興奮してしまい、カメラを忘れて応援し、その出来事に涙した。カメラ?おお、すまない」と言っていたw。アホタレがw。この書をみた当時のT小学校のどなたか、記録があったらどうにか提供してくださいw。私も見たい。


このように、学校でも有名であった私が過ごした幼少期は、大変満足のいったものだった、かというとそうではなかった。小学生といえば、ある程度顔が良く、足が速い男子が人気だった。女子生徒からはモテていた。チョコレートなんかも多くもらっていたw。ただし、「何かあったらパッチギ(韓国語でいう頭突き)かましてやればいいんだ」という父親の発言を信じ、引越ししてきたその時から、友好的な接触を持とうとしてきた、笑いながら話しかけてくる男子生徒にたいして、片っ端から「舐めたにやけた顔してきやがって」と、一方的かつ理不尽な心理で殴る、頭つく、どつきまわす私は最高に嫌われていたw。それは小学生時代続き、それがおかしい事だと察しだす高学年時には、もう回りに誰もいなかった。当時のみんな、ごめんなさい。


そんな中、今までの自分の愚かさを察し、新しい中学生を迎えていた。なんてわけもいかずw。もう入学当初から悪目立ちしていた。何をしたわけでもないのだが、同じ小学校から上がった同級生の口伝や、見た目の悪さからそれは始まり、また喧嘩喧嘩に明け暮れる日々が始まっていった。今思えばこの時期が大きな分岐点だった思う。


中学時代は、まあこれまた色々あった。勉学は嫌いではなかった。ただ、「勉学を励む自分が格好悪い」と勝手に誤想し、学びたいながらもそこからあえて遠ざかっていった時期だったと思う。今思えばここで一番大切な何かを得、また学び、自身の行く道を考えていくとても大切な時期だったことは疑う余地もなく。しかしながら偏った人間関係、また自身の思い違いの中時はあっという間に過ぎ去っていく。


勉学を疎かにしつつも楽しみはあった。中学2年の半ばからバレーボール部に入部した。当然体育会系のボール拾いから始まる、部活動にたいしても、また少し違う道をたどってしまったのだ。


最初はあるがごとく先輩、また先より入部している同級生などに照らして、いたって真面目に部活動をしていた。しかしながら、「楽しいぞこれ」と集中し始めてからの私は、いつしかレギュラーのセンターと呼ばれる座を獲得し、当時のレギュラーだったセンターは退部してしまった。あくまで蛇足しておくが、ここに暴力は一切使っていない。そしてセンターからアタック技術をめきめきと伸ばし、バレーボールの中でエースと呼ばれるレフトアタッカーに侵攻していった。そしてそれほどの日数を持たずしてレフトの座を獲得し、また元レフトだった部員は退部してしまった。何も辞めることはないと思うが、実際二人の部員を辞めさせてしまった上で私はレギュラーの地位を確たるものにしてしまった。罪悪感?今でこそ多少考えることはあっても、罪悪感はない。自分が楽しいものを見つけ、それに没頭した結果なのだから、仕方の無いことだと思っている。中学時代の思い出は、もうバレーボールにつきる。他は喧嘩、教師との喧嘩、言い合い、ボイコット。まあどこから見ても優良な中学生ではなかったなあと他人目線で今は思う。


そんな中学時代から、進路を決める大事な時が訪れた。進路。


この書を読んでくださっている皆様にも、十台半ばでこの後生きていく為の進路を決めろ、と言われるまったく自身のことではないような、白けた分からない時期があった方もおられると思う。決まる訳がなかろうが!と当時の記憶を辿った末、思い出してくださる方がいたら幸い。当然ながら何も考えていない中、進みたい高校を選べと渡された用紙に書き込んだ高校は、すべて「測定不能」だった。

そりゃそうだ。なにせ学校名がかっこいいからといって選んだ、それは「女子高」だったのだからw。


そして当時の先生が尽力してくれたおかげで、決して偏差値は高く無い、それこそ今や統合されてしまい、残ってすらいない高校に入学することになった。ある都立の高校で、これは話してもいいのか分からないが、女子サッカーの国民的英雄、澤 帆希 が同級生であった、ある都立高である。

全くの新天地。当時私の中学からはおそらく10人前後だろうか。この学校へ入学するもの少なく、誰に知られるでもなくスタートできると思っていた。まあ、ここまで読んでくださっている皆様なら多少なりとも想像して頂いていると思うが、またそうなる?と思うほどの、好スタートだったw。


クラスで話せる友達ができた。当時の私は髪は金髪。眼つきも悪い。しかし中学時代から知っている少し悪い先輩が在学していて仲が良く、どうにも怪しいながら手が出せない、そんな扱いだった。


ある日、ある町の中学を〆ていた番長がクラスに来た。昼飯時間だった。そこから、クラス内で少し目立つというか、体格が良い一人の男子生徒に目をつけたその元番長が、彼の前に鎮座した。そして、いわゆる「学校を〆る」活動を行い始めた。www。これは今私が書いていて本当に笑ってしまうw。まあ、とにかくそのとある町の元番長は、とかくガタイの良い、希少な私に話しかけてくれる貴重なこんな私と昼食を共にする彼に、喧嘩をふっかけていったのだ。


後に話すことなのだが、私は極端な正義感の持ち主である。それが故、警察官になりたかった夢が崩れ、それが全ての今の私を作っているという事実がある。


当たり前のように元番長に声をかけた。「彼はガタイはいいけど一般人だ。学年を〆たいのか何をしたいのか分からないけど、話す相手は俺にしようか」


少し前に遡る。中学卒業を迎える少し前。町で買い物をしていた時だった。普通に過ごしている何の気も無く幼い中学生の私に、ある輩が二人で話しかけてきた。いわゆるカツアゲだった。中学生の自分の生きがいは、バレーボールだったと前述した。その最後の試合を迎える少し前だったと思う。


バレーボールは好きだった。そして当然試合も楽しかった。そんな折、見るからに風体の悪い二人組みは金銭目的で、私を人気の無い倉庫に連れて行ったことを覚えている。強そうなのが一人。弱そうなのが一人。しかし喧嘩ばかりしていた私は、最後の試合となるバレーボールのことに執着を抱えていた。そんな中、「払う金などない」と言う私にたいし、座り込んで話す私の太ももに落ちている拳二個ほどの大きさの石を打ちつけてきた。その後、倉庫に転がる錆きった釘を手にし、「次はこれでいっちゃうよ?持ってる金渡せや」確か、そんな内容だったと思う。そこで突如鼻を殴られた。これは経験したことのある方なら分かると思うが、意思とは裏腹に涙が止まらないw。それほど痛いw。

痛みにうずくまりながらも、頭の中は冷静だった。そして、2対1である状況下でさえ、道具を使い、姑息な手段で小銭をかすり取りたいこの者達に。


まあ、キレた。気づけば強そうだった者は顔中血だらけで、それでも殴り続ける私から一瞬の隙をみてダッシュで逃走した。そこに弱そうだった者がまだ残り、コンクリブロックを私の頭に落とそうかとしていたところを避け、それこそ可哀想なくらいに血だらけにしてしまった。その彼の長髪の髪の毛を握り締めながら最寄の警察署へ引きずり倒して連行した。残念なのは、最終的にダッシュでその者も逃げてしまった為、残ったのはまだ止まらない鼻血と、殴りすぎて拳の骨を二箇所骨折した、最後の試合に出れない私だった。


そんな拳を骨折した中で新しい高校生活が始まった。当時の私はというと、なぜに高校へ行かなければいけないのか、また何を得る為に入学したのか、さっぱり分からなかった。今これを読んでくれてりる方にも同じような人は多いのではなかろうかと思う。ただ43になった私だからこそ、今では分かる。高校生活の中でしか得られない人生教訓。ここでしか味わえない瞬間は多くあるよ。


高校生活を始め、またバレーボール部へ入部した。好きだったんだ、バレーボール。拳の怪我があるため、全力での活動はできないものの、自分なりには頑張っていた。また中学では学べない多くの技術や見たこともないほどの能力、才能を目の当たりにもした。そして地道ながらも練習に費やした時間の中で、ある時顧問の教師からあられもない言葉でその機会を閉じた。「そんな風体でしょっちゅう怪我をしてきて、他校とどんな問題を起こすかわからないし、今後お前を試合に出す気は無い」と、当時の女性顧問教師は私に告げた。拳の怪我を完治し、これから楽しい好きなこに費やす時間を作れるんだと思っていた私には、確かに衝撃だった。私から喧嘩をふっかけたことはないし、もちろんその種を作ってしまう要因を私が自身作っていたとしても、それでも信じられない言葉だった。そしてそれは実行され、どんな試合でも私を出す機会よりも優先に、高校からバレーを始めた超初心者を優先して試合に出すような、勝つ負けるを全く度外視し、それを歯軋りしながら見ているだけの、恐ろしいバレーボール部に在籍していた。程なく退部届けを出した。


ここからの高校生活は、これまた話すと長いw。この度の書は私の高校生活を話す場ではないため、なるだけ割愛して進みたいのだが、これからの私の人格を形成する大事な時期にあった出来事が多いため、多少なりとも時間を割く必要があるのかと思う。なるだけ読んでいてめんどくさくならないよう、抜粋して話していこうと思う。


一、入学

二、バレーボール部入部

三、バレーボール部退部

四、退学


だめだなこれじゃw。すっかすかであるw。しかしながら、この後の就職経緯もそうだが、色々ありすぎてどこを要点としたら良いのか、本人にはわからないんだ。それこそ普通の人が一大事にするような、喧嘩、恋愛、学業、SEX、ダブリ、退学。これらがいわゆる日常だった自分には、どこを取り上げたらよいのか分からないし迷う。


まずは、この書の本分である多くの職業に就いてきた自分を語るといった点から言って、お金を稼ぎ出した話から始めるのが当然か。では始めよう。


私の父親は、小さいながらも建設業の会社を経営していた。といっても、本当に小さい会社で、従業員は多いときで15人程度。最後に確認した時は4人程だったか。

 

そして、私の始めての社会見学は、父親にほぼ無理やり誘われ行った1日8000円の現場工事。内容ははっきり覚えちゃいない。道路に一日中水を巻く、だか、なんかしらそれなりに重い荷物を一日中運ぶ、だったか、確かそんな内容だったと思う。


今思えばそこからが私の人生の始まりだった。最初は中学生そこそこだった自分が、それこそ内容の無い、ただ一日をそこに充てれば入ってくる8000円。そんなアルバイト。それこそ、お金は「欲しければ、簡単に手に入るものなのだ」と、インプリンティングされたのがこれであった。父親がどの様な職業で、どの様な毎日を過ごしているか、これを知らずに日々過ごしている家庭がほぼ大半であるかと思うが、私の経験したそれは何も隠されちゃいない。私の父親は、それこそ勘はいいものの、経営観に優れたものでもなく、技術で他を凌駕するでもなく、依頼主より与えられた施工を、なんとなく勘でこなしていく、そんな仕事を従業員を使い、指示し行っていく社長であった。

 

何も父親を責めるでもない。私の家族は私、母、姉3人を含めた6人家族で、それこそ何不自由無く育ててもらっている。惜しむらくは、生まれつき持っていたであろう器用さに慢心し、他を省みることなく確信していた会社の方針が、時代の動向についていけなかった、経営者としての器量不足である。

 

今だからこそ分かる、と言い切る程の器量がない私が言うのははばかるが、昔ながらの職人と言えば判りやすいだろうか。どんぶり勘定で、市場の動向などお構いなし。我が道を唯進むのみ。それが男の生きる道、と幼いながらに父直伝、学ばされたのが私だ。

 

冒頭から父親の仕事を振り返る、そんなスタートを切ったのは、この後に続く私の半生の決定打がここにあったからである。そう、お金は欲しければ、いつでも手に入るものなのだ、と、教え込まれてしまった事が、大きすぎる要因であったと考えている。

 

生来の性格、甘えもあるだろうが、これに拍車がかかったのは高校生になってからだ。まず学校に行かない。行きたくない訳でもなんでもない。いじめられている訳でもなんでもない。ただひたすらに、「朝起きて時間通り動く事が、面倒この上無い」のだ。最初は仮病を使い、時間に遅れていくことから始まり、いつしかそれが一日を休む事に繋がり、そして休む事が通常となり、気づけば高校2年生を2回やっていた始末だ。

 

いつか詳しく語る機会があれば詳しく話したいと思うが、私は結局高校2年生を2回経験し、3年生になる事なく高校生活を終えた。まずもって、高校入学するまでに、目標とすべく指針などまったく無かった。小さいながらに考えていた将来の夢は、幼少から行っていた器械体操において、全国21位にて夢を閉じた。それからも、学校内では他に並ばせることのなかったと自負する身体能力に於いても、全国レベルでは全く通用せず、好きだったスポーツ界の夢は早々に果てた。

 

そして、漠然とした妄想ではなく、現実的な夢として、基より正義感だけは強かった私は警察官になりたいと想いを馳せ、その気持ちを膨らませ、ある日母親に打ち明けた。

しかしその答えは、「日本人でなければ、公務員にはなれないよ。」との一言だった。

そう。私の一家は、在日の韓国人である。ここで私の将来なりたいものは、一切無くなった。


高校1年生の夏。日々の遊ぶ金欲しさにアルバイトを探していた私に、父親の知人であるとの理由から、最寄の駅の近くに店を構えた、某コンビニエンスストアに勤めさせてもらった。

今でこそ、「勤めさせてもらった」などと殊勝な言葉遣いをしているが、当時の私は見られたもんじゃない。髪の毛は肩までかかる長髪。色はとうもろこしの様な金色。その見た目から喧嘩を売られる事も日常茶飯事で、常にどこかしら怪我をして、ギラギラした眼つきで人を下から覗く、書けば書くほど、最低な若者だったと思う。

 

当時は髪の色を変える若者は少数で、大変目立っていた。というよりも、今の様に髪色を変えるべく手段が確立されておらず、私は姉から得た情報を基に、コーラを髪の毛にギタギタに浸し、一日中置く、だとか、市販されている数少ない脱色剤を購入し、それこそ3日3晩かけ色を抜いていく、等という、原始的な方法を駆使し、やっとこさ気が済む自分の格好良さを手に入れていた、そんな時代だった。


それでも駅前の一等地に店を構える、コンビニエンスストアの店員として、こんな若造を雇った店長の度量は感嘆に値すると思う。今思えば、冒頭にてこきおろした父親の人脈が無ければ、こんな雇用は有り得なかった事だけははっきりとしている。

そんなこんなで私は、元々持っていた勘の良さを発揮し、真面目にコツコツ作業をこなし、お客様からの評判も上々!額に汗してお金を稼ぐことという事はこういう事か、と

日夜励んで・・・いるはずもなかった。

 

とかく近くにあった高校の、高校生の客が多かったそのコンビニエンスストアでは、可愛い女子高生の来店が多く、作業する(働く)姿を見せる事が気恥ずかしい、その一点のみが頭にあったと思う。実際の業務は滞りなく行っていたとは思うが、本来の主旨である、販売店の作業員としての動きは疎か。必要以上に周りの目を意識し、結果私がどの様な接客を行っていたのかは、読者皆様の想像を裏切る事はないかと思う。


ある日、髭のダンディーな店長に裏口へ呼ばれ、やんわりと伝えられた。

「浜君。君は来月からシフトに入らなくていいよ」

これが生まれて初めての、解雇というものだった。その勤務期間は、一ヶ月程度だったと記憶している。それはそうだろう。ただでさえ目立つその姿、そして女子高生より日々注目を浴びて知名度を高めていく私が、ある日は片目を真っ黒な痣で。そしてある日は拳を骨折して店に来るのだ。

そして。店長より解雇の宣告を受けた私のその時の印象は、まあ、別にいいか、と。それしか浮かばなかった。なんと華々しいスタートであろうか。


それからというもの、小遣い欲しさに色々考えてはみるが、働く事の面倒さを本能的にいち早く察知した私はそこから華麗に回避し、友達から麻雀で金を巻き上げるか、必要であれば冒頭話した父親の会社でアルバイトをする、という素晴らしい稼ぎ方を実践するのである。

幸いながら(今となっては皮肉であるが)、当時父親の経営する会社は人手不足で、血気溢れる若者というだけで現場では重宝し、私が小遣いを必要とする時は、いつでもすぐにでも稼ぎにいける、そんな状況であった。当然、それには学校への登校日も含まれている。


私が幼少より身体能力に長けていると踏んだ父親にとって、将来我が会社を継がせたいという気持ちも後押ししたのか、私が学業も疎かに現場へ出陣していく日々を、父親は一言も責めなかった。いや、推奨していたと言い換えても良いかと思う。不器用な経営ながら、我が子が父親の汗する姿を目の当たりにし、その背中を追いかけてくる日々が、私の父親にとっては心地良かったのだと思う。実際当時の私は、父の技術や指示力、会社社長である事の威厳につき、尊敬の念を持っていた。そんな父親と確執を持つのは、もう少し後のお話。


現場での父親の動きは、速いわけではない。力が他者より強いわけではない。技術が長けているわけでもない。なんと言えば良いのだろうか。父と私には分かる感覚ではあると思うが、「他者、他物、風、機械、こういった物理的な事象に対するリズム感、動きの想定線、これらを踏まえた上での発想」上記分野に於いては、未だに父親を超える人間を見たことは無いと言い切れる。木を切り倒す。その時木はこう動く。その為この点、この点から切り崩し、目標方向に倒していくのだ。ということを、何の打ち合わせも無く、もちろん設計、段取り無く、その物理的勘で、我々が想像する範疇を超えてその通り切り倒すのだ。これを目の当たりにする事で、私が想像する物理的なこの世の物質の動きを、そうならないケースが多々あるんだと、知らしめてくれたのが、当時の父親であった。


どの現場でも、臨機応変に対応せざるを得ない現場に於いて、父親の会社は大きい評価を得ていた。経験と応用力だけで、3日かかる業務を1日で終わらせ、少ない請負金額で業務をこなしていく。そんな傭兵のような多能工を数人抱え、その親方をやり、行く現場現場で風のように業務をこなしていく。そんな父親が格好よく見えた、そんな十代であった。また、厳しいうちの父親についてきている職人は、大変腕の立つ職人が多く、勇気有り果敢で、皆私の師匠として今でも心に刻まれている。

そんな父親のアルバイトをしながら、ある日ある決断に迫られる時が来た。

「高校を退学せざるを得ない状況」が訪れたのだ。


2回目の2年生時、学業よりも出席日数が全く足りず1年留年したのだが、2回目はぎりぎりながらも出席を確保し、なんとか卒業までの道筋を追えていた。残り半年だったその時に、とある理由により2週間の停学処分を受けた。

これにより、あと2日欠席することで留年事由に該当する教科が発生した。もうどうにもならなかったし、停学の理由は完全な自己理由。ここで、高校卒業を諦めた。


突然の退学措置を受け、ちゅうぶらりんになった私。しかし若さと経験の稚拙さ故、事態の重さを分かっているはずもなかった。


数日考えた私が、次の行動に移ったのは、某中型店の「カラオケボックス店員」である。ここでの面接は全く覚えてはいない。髪型も当然金色長髪のままだったし、何が出来るかのアピールも、志望動機も、高校を中退した理由も、何一つ意義のある内容の説明を喋れた事実は無かったと思う。

しかしその面接をクリアし、無事某カラオケ店員となった私は、それからの貴重な時間を約2年半過ごす事となる。

 

ここで大事なことを思い出した。私がこんなどうしようもない自伝を始めて出版社さんに持ち込んだときの講評だ。

まず、年表を作れ。うむ。至極当然であるw

また、私自身全く記憶に残っていないことも含むため、一度私自身の生きてきた履歴を羅列していくことから始めてみたいと思う。もちろん記憶違いも多く含むと思うが、ご容赦願いたい。


1997年 この頃からカラオケ店に勤める。バイトだが頑張っていた。

1999年 カラオケ店を辞め、当時NECの孫会社だったIT会社に勤める。

2000年 たしかすぐ辞めるw

2000年 東京都新宿でカラオケ屋の呼び込みバイトをしてみる。雨の日にも傘さえ持たされな

      かった。

2000年 すぐ辞める。

2000年 父親の仕事を手伝いつつ、さぼりつつ日々を過ごす。

2001年 渋谷区で流行のうどん屋で主任をする。麺は全て担当していた。

2002年 うどん屋を意見の相違で辞める。

2002年 父親の仕事を手伝いつつ仕事中右膝の半月版を故障する。

2002年 あまりの痛みに動けず家でぼーっとする。

2002年 母親に「あんた家でジーッとしてるばかりでどうすんの」と言われ、痛い足をひきづり

      ながら「仕事すりゃいいんだろ!」と新宿でホストを始める。

2002年~2003年 順調にホストをしていたものの、行ってもいない旅行費を給料から差し引

      かれ、ブチぎれて辞める。

2003年 夏季は居酒屋(ほぼ毎年違う店)に勤め、冬季はスノーボードのインストラクターを始

      める。

2003年~このサイクルが定着し、居酒屋を転々としつつ、インストラクターも転々とし、この間

      の行き来は詳細にはまったく覚えていない。

      [これまでに勤めた会社、居酒屋はゆうに10を超える] 

2004年 地元の家電量販店で携帯ショップ店員になる。

2005年 正社員雇用前提との求人ながら、そうではなくブチ切れて辞める。

2005年 父親の仕事を手伝いながら、冬季はスノーボードでパトロールのバイトをする。

2006年 福井のスキー場でパトロールをする。そこで劇的な出会いがあり、結婚を決める。

2007年 冬季バイトを辞め、結婚に向けてサラリーマンを目指す。そして不動産業界へ転職する。

2007年 初めて勤めた不動産会社を5日で解雇される。理由は「靴下が灰色だから」

2007年 結婚当初からの挫折に挫け、解雇されたことを言えずに涙しながら途方にくれる。

2007年 不動産賃貸仲介専門会社に勤める。

2007年~2008年 不動産が性にあったのか、幾度とトップセールスを取りながら、不動産業 

      に必須である宅地建物取引主任者(当時)の資格試験のため日曜日に休みを願うも聞き

      入れられず、ブチ切れて辞める。

2008年 東京の市部にあるとある不動産会社へ勤める。

2008年~2011年 大変濃い期間であった。不動産のありとあらゆる知識、経験を学ばせても

      らいながら、「東北大震災」をきっかけに京都へ移り住む。

2011年3月14日 東北大震災により、当時0歳を含む子供の将来を危惧し、元妻の地元で、

      元義母が住んでいた京都に緊急避難する。

2011年4月 福井の原発を逐一気にするも、まったく収束の気配が無く、当時東京にあった家な

      どを処分し、京都で仕事を見つけ、暮らしていくことを決意する。

2011年 やはり不動産会社を探す。地の利が優位となる世界だが、近畿中を回れる会社を見つけ

      地の利をカバーする。

2012年 業務に抵抗はなかったが、当初提示されていた歩合給、5%が、0.5%と突如言われ

      バカ臭すぎて辞める。

2012年 京都で出会った人が紹介してくれた零細不動産会社に勤める。

2013年 当時店長とされていた女性管理職のあまりの意地の悪さにたいしブチ切れ、また待遇に

      も疑問をもち辞める。

2013年 当時住まわせてもらっていた元義母の家の側に新規開店する不動産会社の役職として迎

      えられる。

2014年 提示されていた給与とは及びもつかない給与に困窮し、その辛い時期に些細な喧嘩から

      発端した元義母との確執もあり、最愛の妻と離婚。

2014年~2015年 離婚後は、預金、現金、一切を持たず夜中に着替えだけを持ち家を追い出

      されたため、それから3ヶ月間ほど古い(当時は大好きだったが)ステップワゴンを居

      宅にし、車中生活を送る。

2015年 元々全くの未経験から始めた不動産会社だったがゆえ、私の売り上げる金額では経費

      が立ち行かず、倒産する。

2015年 大手賃貸会社に、以前から思っていた経理を学びたく、勤める。当時事務、経理の社員

      は女性しかおらず、数百人の中一人だけの男性社員だったことは今でも面映い。

2015年 この賃貸会社は別部門を立ち上げる時であり、その渦中にいて採用された私だったが、

      以前からいたお局の女性社員のあまりのサボりにブチ切れ辞める。というかこの間、こ

      の会社の事務一切を担っていた古参女性社員から別会社へ引き抜きの打診を受ける。

2015年 賃貸会社の事務を辞め、引き抜きに沿って条件も聞かず入社。給与は以前より低くw、

      また待遇もめちゃくちゃ。私より知識経験が1/10にも満たないであろう者が意見し

      てくる環境にブチ切れる。退職。引き抜くなら良い条件で引き抜きなさいw。

2015年 京都市では大手、というか権力を多大に持つ不動産会社へ入社。10月入社ながらその

      成績により翌年1月から役職がつく。ここでは良いことも悪いことも多くを行った。ま

      た、波乱万丈な数年を過ごした・・・。結果自己破産、そして強制解雇。

2017年 

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何度転職したかわからない自伝 @hama419

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