刀を失くした大道芸者 八

「どうした、惟臣?」

 姐さんと一緒にしゃがむ惟臣に兄貴が声をかけた。

「具合が悪いみたい」

 姐さんは惟臣の背中をさすりながら答えた。

「やっぱりか」

 兄貴がやらかしたと言外に後悔を滲ませる。

「分かっていたなら、先にうちによれば良かったのではないの?」

 隠れもしない姐さんの責めに、三十路の女性も同意する。

「そうは思ったんだが、行き違いにでもなったらコイツを一人で置くことになる。流石にそれはマズイ」

「ご近所さんに頼めば良かったのではないかしら」

 三十路の女性の提案に、

「今は昼時だ。俺たちが戻るまでジッと見張っててはくれないだろ」

兄貴はそう答えた。

 鶏旦域は商人が多い。それに商いをしていないにしろ、皆々、せこせこと働きや用足しに勤しんでいる。その上、神隠しや物失せの増加で、それこそ兄貴のように身内や私物の管理の徹底を優先する者が多い。藤の旦那ではないが、人を頼るにしても金を払って確約させるよりない。

 ご時世の事情を知っている姐さんも女性も、兄貴の言葉を面と向かって否定できずに渋面になる他なかった。

 兄貴は小さく息をつく。

「ここでお前を待っていた方が確実だったんだ。許せ」

 悪びれた色を見せる声音に、姐さんも息を吐き、

「別に怒ってはいないわ。——惟臣さん、立てるかしら?」

惟臣の手を取って立ち上がる。佐助も姐さんと一緒にひょいと立ち上がった。

 力の入らない惟臣の腕は引かれるがまま持ち上がる。

 それを目で追いながら、惟臣は足に力を入れようとして踏ん張ってみたが、力が四肢へと届く前にどこかへと霧散していくようで、てんで体が動かない。華奢な姐さんに寄りかかることもはばかられ、まして小さな佐助の肩を補助とするなどもっての外で。

 こうなれば兄貴に引っ張り上げてもらおうと顔を上げたところで、全身の血が一気に下がった。

「立てないなら、俺の家で休んでいくか?」

 いつの間にか佐助の隣に、音も気配もなく立っている桃苑の旦那が、惟臣を見下ろしていた。

「——ッ」

 彼の顔を認めた瞬間、惟臣は息を呑んだ。

 桃苑の旦那の細面、細い平行眉に二皮目も、惟臣を見る鋭い光を内包する黒い目も、括ることもない背中まである真っ直ぐな黒髪も、緩く口角を上げて笑う唇も、

「……なん、で……」

何百年も前のアイツと瓜二つであった。

 有り得ない。有り得るはずがない。有っていいわけがない。

 アイツは、この顔の男は、何百年と前に、確かにこの手で息に根を止めたはずなのに——。

 突如、下がった血とは逆に、臓腑の奥からじわりと熱が湧き迫り上がって喉を焼く。咄嗟に俯き、口を手で覆った。吐き出す息が酸っぱい。

「相当具合が悪そうだ。無理はするな。立てないんだろ」

 桃苑の旦那が膝を折った気配がある。影も降りた。

「惟臣、先生んとこで休ませてもらえば?」

 佐助が子供ながらに憂い声で惟臣を諭す。そして、妹にするような手つきで惟臣の頭を撫でて宥めにかかる。

「そうしなさいな、お兄さん。真之助さんが他所様を心配するなんてよっぽどよ」

 三十路の女性も、なかなか辛辣な言葉で諭してきた。

 姐さんが惟臣の腕をゆっくりと下ろしてから放した。それから再び背中をさすってくれる。

「旦那、すまないが——」

 見かねた兄貴が桃苑の旦那の申し出に乗ろうとする。けれど、惟臣がその先を許すわけがなかった。

「兄貴ッ」

 たった一言を口にするだけでも疲労が押し寄せる。体の熱よりも冷えた空気を取り込んで喉が驚き、何度か咳が出る。胸も鼓動を早くしている。

 兄貴が嗜めるように惟臣の名を呼ぶが、兄貴の意を汲むなどできはしない。

 惟臣はおもむろに首をもたげる。眼前にいる桃苑の旦那の顔を見返すのが怖くて、わざと視界から無視し、兄貴に注視し弱々しい眼光で睨みつける。

「帰る」

 喘鳴と共に、そう吐き出した。

「だがな」

「帰る」

「帰るって、その様でどうやって行く気だ、惟臣」

 僅かな苛立ちをのぞかせ兄貴が詰める。

 惟臣は再度四肢に力を入れようとした。やはり力が行き届かずに、すっとどこぞへと消えていく。加えて、胸のえずきも止まらない。動けば何かしらが体内から口へ逆流してきそうである。

 惟臣が無意識に胸を鷲掴みにするのを見て、兄貴は眉をしかめた。

「旦那の所で休ませてもらえ。伊音にもついていてもらうから」

 惟臣の背をさすり続けてくれる姐さんが賛同する。佐助ですら「オレもいてやるぞ」と言ってくる。

 違う、違うのだ。一人が嫌なのではない。アイツと同じ顔をしている、アイツに声すらも酷似している旦那の傍にいたくないのだ。

 アイツは惟臣の——トリミの罪の証だ。被害者だ。アイツを考えるだけで、かつての罪をまざまざと突きつけら、心が苛まれる。同時に、精神的、肉体的にアイツを殺しておきながら、それでも許してほしいと希う自身の浅ましさに嫌気が差すのだ。

 惟臣は顔を上げていられず再び俯くと、首を力なく横に振った。

「……ここに、いたくない……」

 桃苑の旦那が昨夜口にした、感情のないアイツの声が、アイツの顔から漏れるのを見たくない。それを自分に向けてほしくない。

 桃苑の旦那から離れたい。

「……桃が、」

 無意識にアイツの名を口にしそうになって、続く言葉を飲み込んだ。

「桃?」

 不自然に途切れた言葉の先を兄貴が促す。近くで誰かが足で地面を擦った。

「……桃の花が、苦手なんだ……」

 誰かが唾を飲んだ。

「兄貴、ごめん……」

 兄貴が何かを言う前に謝罪して、彼の言行を封じる。

 兄貴は世話焼きな性分であるから、着の身着のままま出府してきた惟臣に出会った頃から甘い。害のない小さなわがままであれば、これまでいくつも聞いてくれていた。だから、兄貴はこれで折れてくれるはずだ。

 大丈夫だと、歩けるだけの気力は残っているのだと伝えるべく、極力呼吸音を出ないように心がける。胸がいまだに早く脈を打つが、酷い時よりか幾分か落ち着きを取り戻してきた。そのおかげか四肢にも感覚が戻ってくる。そうなれば四肢に送った力が霧散することもなく、確かに力が入ることがようやく智覚できた。

 これならば、と兄貴を再度振り仰ぎ、

「兄貴……」

と、駄目押しに縋る。

 隣にいる姐さんや、惟臣の前にいる佐助も同じく兄貴を見つめていた。ただ、桃苑の旦那の視線が惟臣から逸れることはなく。ただ、視線ばかりではどのような表情をしているのか分からないのが幸いだった。

 兄貴はさらに顔をしかめたが、天を仰ぎ、深く息を吐き出した。

「強情っ張りが」

 惟臣の粘り勝ちである。そうと知るや、桃苑の旦那が惟臣の前から退く。代わりに兄貴が惟臣の前にやって来て、

「おぶられたくなかったら、しゃんと立て」

惟臣の腕を掴み、その体を力強く引っ張り上げた。

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桃鬼譚 青井志葉 @aoishiba

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