池に飛びこむ
紫鳥コウ
池に飛びこむ
ある料亭で開かれている酒宴は、池に面した廊下を通る美里を憂鬱にしている。この先の一室には、酔いさえ知らないような、陰の中で辛うじて茂っていた草と形容したくなる男がいて、まだまだ
あまりに息が詰まるものだから、お手洗いに行くという名目で外に出てみたものの、こころ安らかになれる場所なんてどこにもなかった。障子から漏れてくる明かりと、夜空から降る月光のせいで、池は松の影が落ちていることさえ分かる。そこへ飛びこんでみたくなる。
一休みできるような、静かで落ちついたところを探してみたけれど、高級料亭を名乗っているのに、どこにも見つからない。
寡黙な男とポツポツ話しているのも苦痛だし、親どうしが賑やかに会話を続けているのも気にくわない。むかし読んだミハイル・バフチンの著作――たしか『ドストエフスキーの詩学』だったと思う――に、会話というものは、原理上、終わることがないみたいなことが書いてあった。
話題は尽きることなく、ずっと話し続けている。そしてそのまま、なし崩し的に縁談がまとまってしまうのではないか。そう考えると、あまりにも空恐ろしい。
読書が趣味だと言うことを伝えると、彼は見栄をはって哲学の名著をあげてきたけれど、デリダの『グラマトロジーについて』に附された、ガヤトリ・スピヴァクの長い序文のことさえ知らなかった。
そもそも、デリダさえろくに読んでいないし、ドゥルーズにいたってはちんぷんかんぷんだ。あんなひとと付き合うことになったら、価値観の違いでさっさと離別するに決まっているではないか。それなのに、貴重な時間を「旧式なお見合い」のために費消させられている。
と、美里がそんな
味わっている?――そんなことはない。見直しが終わっても時間が余っているのに、試験官の見回りを気にして、問題に取り組んでいるように偽る、あの感じに似ている。
しかしこの「旧式なお見合い」には、決められた時間が設定されていない。だからこそ、心身の苦痛もひとしおなのだ。
すると、美里のマザーがいきなりこんな提案をしてきた。
「折角だから、ふたりで廊下を一周でもしてきなさいな」
彼のファザーもそれに賛同したため、仕方なく美里はゆっくりと立ち上がった。それを見た彼も片足を畳についたのだが、痺れてしまっていたのか、後ろへよろけた。さすがに美里も失笑してしまった。
しかしこのまま、場の雰囲気に巻き込まれたらたまらない。愚かな人々の仲間入りをしてしまう。美里は、頭の隅からイマニュエル・カントの批判理論を引っ張り出してきて、この危険を脱したのだった。
* * *
「美里さんは、どんな研究をしていらっしゃったんですか」
相変わらず池は、人工的な明かりと自然の光に照らされて、松の影が落ちているのまで見えていた。もしかしたら、悠々と泳いでいる鯉さえ、目を
少し前を歩く美里は、彼の言葉を軽くあしらった。
「哲学とかです」
すると彼は、押し黙ってしまった。答えに対する
それについて、美里には、彼に同情する気持ちもないではなかった。この愚かな男のことを、少し愛おしく感じてしまっている自分を見出した。もちろん美里は、アルチュセールなどのことを思いだしてその危機を脱した。
「ぼくは……泳ぐのか得意なんです」
そう出し抜けに言われたことに驚いて、思わず「どういうことですか?」と聞き返してしまった。
美里は、その突然の危機をかわすことはできなかった。だんだんと顔が赤らんでくるのを感じた。もっと明かりがうすくなればいい。彼女が瞬く間にそう思ったのは、もちろんのことである。
「むかし、スイミングスクールに通わせてもらってたんです。いまも、夏になったら、海へ泳ぎにいきます。ですので……」
美里は思わず、その後に続く彼の言葉に、あらゆる書物に見出しがちな期待を抱いてしまっていた。
「もし、美里さんがあの池で
その意外な答えに――というより、失礼な想定と突飛な妄想に、美里は失笑してしまった。すると彼は、酒に酔ったかのように顔を赤らめた。
〈了〉
池に飛びこむ 紫鳥コウ @Smilitary
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