トイレのHANAKOさん

月井 忠

一話完結

 少しだけ背の高い南校舎が影となり、北校舎の窓から夕陽を望むことはできない。

 その北校舎の五階に、ほとんど使われないトイレがある。


 ずいぶん前に節電のために電球がいくつか外され、女子トイレの中は照明が灯っていても薄暗い。

 頼りない明かりは、奥にある一つだけ閉まったドアにかろうじて届いている。


 五番目のドア。

 そこに向き合うように高校生のYURIがいる。


 彼女は制服のポケットからスマホを取り出し目を落とす。

 午後四時五十九分。


 デジタル時計の数字がカウントアップし、五時を知らせる。

 同時にYURIは脱力すると膝を柔らかくし、小さな上下運動を始めた。


「Ah! Ah! Yeah!」

 小刻みにビートを刻む。


 少しかすれた声がトイレの壁で反響する。


「アタシは下町生まれの下町育ち――」


 YURIはハンドサインを交えながらラップを始めた。


 この高校には、ある逸話があった。

 夕方五時に北校舎五階の女子トイレへ行き、五番目のドアの前で五分間リズムを刻む。


 するとドアの向こうから声が聞こえてくる、というものだ。


「HEY! Welcome to Toilet!」

 けたたましくも甲高い雄叫びがドアの向こうから響く。


 極彩色のライトがトイレを明るく照らし、ゆっくりドアが開いていく。


 そこには本来あるはずの便座はなく、代わりに黒いテーブルが個室を塞いでいた。

 その向こうには、まだあどけない少女がいる。


 キャップを斜に被り、首には金色のネックレスがいくつもかかっていた。

 さらに五本の指にもゴツゴツとした金色の指輪がはまっている。


 一見すると幼い風貌には似合わぬ格好だったが、派手な照明と相まってその存在を納得させる。


 彼女こそがトイレのDJ HANAKOさんだった。


「What's up? てか、またアンタか! 懲りないヤツだね! チェキ、チェキ!」

 ターンテーブルを回しながらHANAKOは、うんざりした様子で眉根を寄せる。


「ええ! 何度でも来るわ!」

 YURIは決意の気持ちを目に宿らせているのか、強い視線でHANAKOを見る。


「ねえ、お願い! アタシと一緒に武道館目指そうよ! HANAKOのフロウはこんなところで腐らせちゃいけない!」

「HEY! ウチがトイレで腐ってるって!? 相変わらず汚い口の利き方だね! ウチのフロウは水のようなフロウよ! 水洗式ってことさ!」


 微妙な食い違いをしたまま二人はバイブスを上げていく。


 毎日繰り返される穏やかな放課後の景色だった。

 誰もいない北校舎に彼女たちの声を聞く者はいない。


 いや、HANAKOの声はYURIにしか聞こえない。


 二人は思いの丈を出し尽くすと、やがて沈黙が訪れた。

 静かなトイレは派手なライトで照らされる。


「それにね……」

 HANAKOは寂しそうにスクラッチしながら視線を斜め下にそらす。


「ウチはここから動けないのさ……武道館だかブドウ缶だか知らないが、ウチには遠くて届かないものなのさ」

「そんなことない!」


 YURIは頭を大きく振って、体全体で否定する。


「今は技術だって進歩したんだよ? 昭和じゃないんだよ? 武道館に行けないなら、武道館をコッチに持ってくれば良いのさ!」

「HA! 武道館とやらに足が生えて、歩いてくるとでも?」


 左手に持っていたスマホを掲げ、YURIは自撮りを始める。

 くるりと反転して、HANAKOと一緒に映るよう画角に入れる。


「こうすれば、アタシたちは世界と繋がれる!」

「駄目なのさ……ウチはトイレに縛られたチンケな地縛霊さ。そんなウチは画面にすら映らない」


「違うっ! 姿なんて関係ない! アンタのフロウと、アタシのラップがあれば、それで良い!」

「What's?」

 疑問を口にするが、HANAKOの手は自然にターンテーブルを回していた。


 YURIの気迫に押されたこともあったのだろうが、初めてカメラを向けられ、そうすることが自然なことだと身体が直感したのかもしれない。


 HANAKOの曲に、YURIが即興のラップを乗せる。

 スマホの画面には、明滅するケバケバしいライトが照らす個室トイレと一人の女子高生。


 スピーカーはこの場で生み出される夕方五時のリズムを記録し続けていた。


 後にレペゼンToiletとして世界に名を馳せる、二人の始まりだった。

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トイレのHANAKOさん 月井 忠 @TKTDS

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