向日葵の花は咲き誇りて

入江 涼子

第1話

   sun flowerと言われている花がある。


  意味は日本語で向日葵だ。私は昔からこれが好きだった。この花には悲しい伝説があったりする。

  それは割愛させていただくが。季節は真夏になろうとしていた--。


  私は今、日本ではなく地球でもない異世界にいた。住んでいる国の名前はヴェール王国という。一言でいうと中世ヨーロッパ風の国だ。しかも剣と魔法のファンタジックな世界だった。


「……紗凪さな様。今日も暑いですね」


  そう言ったのは私こと奥田紗凪を居候させてくれているお家のメイドさんだ。名前はサラさんという。実は私と同じ日本から異世界転生した女性で前世の記憶持ちでもある。サラさんは現在、23歳で私より年上だ。


「うん。暑いですよね。日本の扇風機やクーラーが欲しいよ」


  そう言うとサラさんも苦笑しながら頷く。私はこのヴェール王国に来てから2ヶ月が経っていた。年齢は今で18歳だった。高校を卒業して大学に進学する事が決まっていた。ところがある日、友人と一緒に卒業祝いでカフェに行っていた。そこでお茶していたまでは良かった。その帰り道、友人と別れて自宅に帰ろうとしていたら。後ろから走っていた自動車に突っ込まれていたのだ。その後、意識がブラックアウトしたと思った。気がついたらヴェール王国の北部にある森の中に佇んでいたのだった。私はおおよそ2日間、森の中をさまよい、居候させてくれているお家の騎士さん達によって救出された。

  とまあ、異世界に来てしまったくだりは簡単に言うとこんな感じだが。居候させてくれているお家はヴェール王国の中でも名門の公爵家で確か、オルヴァン公爵家というらしい。私はこの公爵様の好意によりお勉強、マナーやお作法を覚えてゆくゆくは養女になるという条件でお屋敷に住まわせてもらっている。


「紗凪様。とりあえず、これからお勉強の時間です。もう先生が来ていると思いますよ」


「わかった。じゃあ、準備をしますね」


  頷くと私は教科書やノート、筆記用具などを用意した。そうして自室からお勉強やマナー、お作法などを習うためのお部屋に向かう。


  ドアをノックすると中からちょっと低めの女性の声で返事がある。家庭教師の先生であるオリガ先生だ。年齢は私より6歳上の24歳だと聞いた。オリガ先生はすごく頭が良くて真面目な人である。女性にしてはすらりと背が高く、すごく美人さんだ。淡い栗色の髪と青い瞳が印象的な感じだった。


「……オリガ先生。失礼します」


  そう言ってドアを開けて中に入った。オリガ先生は丁寧に一礼をする。


「こんにちは。サナ様」


「はい。今日もよろしくお願いします」


「ええ。では早速授業を始めましょうか」


  私は頷くと教科書とノートを机に置いて広げた。筆箱から鉛筆を出して練り消しゴムも出す。オリガ先生も教科書を開いた。表情が変わってひどく真剣なものになる。


「……では。昨日はこのヴェール王国の初代国王の伝説をお教えしました。今日は初代王妃の事を勉強しましょう」


「わかりました」


  そうして授業は始まった。

  まずは初代王妃の伝説について聞く。オリガ先生は丁寧に説明してくれた。


「……初代王妃は異世界からいらした方だと言われています。初代国王と協力しあい、ヴェール王国を建国したとか。その昔、ヴェール王国は魔獣や妖魔が跋扈し人が住めない土地だったと伝わっています」


  オリガ先生の説明に成る程と頷く。ノートに書き写していった。一生懸命にやったら先生はさらに説明を続けていく。


「その跋扈していた魔獣や妖魔を退治し神から授けられた霊力により鎮めてみせた。初代王妃は聖女であったと言われています。国王は勇者であり、二人は賢者と呼ばれていた魔術師、神官と共に各地を回って邪気を封じ込め、その上で強固な結界を作りました。そうしてヴェール王国が誕生しました」


「……初代王妃は異世界からいらした方だったんですね。しかも聖女とは。すごいですね」


「それは私も思います。確か異世界の聖女--初代王妃の名はツグミ様といったと聞いています。といっても今から600年も前の話ですが」


  オリガ先生は少し微笑みながら話す。私はへえと思った。


「ツグミ様といったんですか。会ってみたかったなあ」


「……サナ様。今は授業中ですよ」


  はいと返事をした。オリガ先生は元の真剣な表情に戻ると授業を続けたのだった。



  夕方になり私はサラさんに食事を用意してもらい、一通り食べた。お風呂も済ませて寝室にて休んでいた。


「……紗凪様。ちょっとよろしいでしょうか?」


  もう寝ようかと思っていたらノックがしてサラさんが入ってくる。どうしたのだろうか。


「サラさん。どうかしたの?」


「はい。ちょっと大変な事になって。今からオルヴァン公爵様がこちらに来られます。サナ様は応接間においでください」


  わかったと頷いて応接間に向かう。サラさんが慌ててカーディガンを手渡してくれる。それを羽織りながら寝室を出た。応接間に出ると既にオルヴァン公爵様が待ち構えていた。


「……ああ。サナか。すまんな。こんな夜更けに」


「いえ。気にしてません。それより何かありましたか?」


「うむ。ちょっと面倒な事になってな。とりあえず、そちらに座りなさい」


  公爵様は普段の快活さがなくて珍しく考え込んでいる様子だ。私は常とは違うなと思った。


「サナ。君がこちらへ来てからまだ2カ月だが。陛下が君の事を聞きつけられてな。もし良ければ、第一王子であるリヒャルト殿下と会ってほしいとか。もしかすると婚約もあり得るかもしれん」


「……えっ。リヒャルト殿下って第一王子で王太子殿下じゃないですか。そんな高貴な方と婚約って。あり得ないにも程がありますよ」


「まあ、落ち着きない。その。サナが嫌であればわしから断るよ。どうする?」


「う-む。どうしましょう。でも王命だったら逆らわないほうがいいでしょうね。わかりました。王太子殿下にお会いします」


「そんな即決でいいのか。まあ、君がいいんだったらわしからは何も言うまい。ただ、殿下が無理強いしたりなどした時は遠慮せずに言ったらいいぞ。陛下にも伝えておく」


  ありがとうございますと言うと公爵様はすっくと立ち上がった。そうして私の方まで歩いてくる。少し乱暴だが頭を撫でられた。くしゃくしゃと髪をかき混ぜるようにされる。いつもの公爵様の撫で方だ。まだ2カ月だけどもう慣れてしまった。もし、殿下と婚約すれば。この公爵家を出ないといけない。ちょっと惜しい気がする。もう少しでいいから公爵様の娘でいたいな。ここでの時間はすごく居心地がいいから。そう思いながらしばらく公爵様に頭を撫でられていたのだった。


  翌日、公爵様の娘さんで現在はヴァラン侯爵夫人のリノア様がやってきた。リノア様は公爵様の長女で今は亡き奥様の3人いる娘さんの中で一番上のお姉さんだ。年齢は私より8歳上の26歳らしい。旦那様との間に2人息子がいる。この息子さん達はまだ会った事がない。

  さて、リノア様は早速に私の部屋までやってきた。真っ赤な燃えるような髪と淡い琥珀色の瞳の艶やかな美人さんだけど。性格は可愛い物が大好きな方だった。普段は明るくて朗らかで大らかな性格なんだけどね。何でも娘さんが欲しかったとかで私と時たま会っても良くしてくれていた。


「……久しぶりね。サナさん」


「……おはようございます。リノア様」


  リノア様はにっこりと笑って挨拶してくれるが。私は引きつりながら返答した。だってリノア様の目が何か爛々としているよ。絶対何事かを企んでいる。

  それを予感させる目を彼女はしていた。リノア様はサラさんに振り向くとこう言った。


「サラ。今日はサナさんが王城へ行く予定だと父上から聞いたわ。だったらピッカピカに磨き上げないといけないわね」


「……ですけど。サナ様はまだ起きられたばかりです」


「もう何時だと思っているの。今、午前6時よ。遅いくらいだわ」


「わかりました。サナ様。失礼致します」


「……えっ。サラさん?!」


  サラさんが見かけによらない力でぐいっと私の腕を引っ張る。仕方ないのでベッドから降りた。リノア様もこちらにやって来て私に笑いかける。


「サナさん。今日はあたくしが一緒に同行する事になったの。とりあえず、今から浴室へ行ってね」


「……もしかして。今から身支度ですか?」


「そうよ。さ、起きて。サラだけだと人数が足りないわね。もっとメイドを呼んできてちょうだい!」


  ぱんぱんとリノア様が手を叩く。サラさんが急いで他のメイドさん達を呼びに行った。


「サナさん。あなた、お肌が荒れているじゃない。お手入れはちゃんとしているの?」


「はあ。洗顔はしていますけど」


「洗顔だけじゃダメダメ。お化粧水と美容液、乳液、クリームは必須よ。それか美容パックも。それらをしていないからお肌が荒れてしまうのよ」


  リノア様は信じられないという表情をしながら言った。私はそうですねと言うしかない。リノア様はオルヴァン公爵様と親子だけど顔はあまり似ていないのだ。オルヴァン公爵様もリノア様も性格は似ているのだが。

  ただ、押しの強さはリノア様の方が上だ。そんな事を思いながらサラさんの帰りを待つのだった。


  その後、5人ものメイドさん達により(サラさん含む)浴室へ放り込まれた。1時間もかけて体を隅々まで磨かれる。上がったら全身に香油やクリームを塗りこまれた。いわゆるマッサージだが。おまけに顔にお化粧水から美容液、乳液、クリームを塗りこまれる。リノア様が脱衣場までやってきてチェックされた。


「……うん。これくらいマッサージすれば良いでしょう。さ、次は髪よ」


「かしこまりました」


  脱衣場から出されると今度は鏡台だ。髪に香油を塗りブラシで気が遠くなるくらいに梳(す)かれる。私の髪は真っ黒で直毛だが。意外と硬いのだ。長さは背中の真ん中辺りまである。とまあ、自分の事はいいとしてだ。

  髪のブラッシングが終わると全身鏡の前で今日に着るドレスを幾つか肩に当てたりして選ぶ。リノア様が淡い藍色のAラインのドレスを選んだ。胸元や袖口には少し濃い藍色のレースがあしらわれている。首や胸元はあんまり露出しないがちらりと見えるようなデザインらしい。


「じゃあ。コルセットなども頼むわよ」


「……はい」


  メイドさん達の内の一人が返答をした。おかげでぎゅうぎゅうにコルセットでウエストなどを締め付けられる。そしてやっとドレスを着てからお化粧と髪結いだ。


  お化粧は目立たないけど上品に仕上げ、アイシャドウはドレスに合わせて淡い青色だった。何故か、こちらの世界にも付けまつ毛なる物があった。これのおかげでかなり化けたはずだ。髪結いもメイドさん達がやってくれた。サイドを編み込んだ上でたくさんのピンでアップにする。と言ってもうなじの辺りで低めの位置のシニヨンにしてあった。仕上げに小粒のトルマリンが散りばめられたヴァレッタで留めた。


「あら。見違えたわね。これで殿下にお会いしても大丈夫よ」


「はあ。けど疲れた……」


「何を言っているの。これから殿下や陛下への謁見が待っているのに。ささ、身支度はできたから。部屋を出てエントランスホールに行くわよ」


  リノア様は私を無理に引きずるように部屋を出た。されるがままになるしかなかったのだった。


  そして私とリノア様、公爵様の3人で馬車に乗った。この世界、地球とそっくり同じ馬がいる。サラブレッドと同じ感じで見た時は驚いたものだ。


「……父上。あの殿下、とうとうサナさんに会わせろと言ってきましたね」


「……リノア。会わせろと言うのは余計だ。まあ、陛下がお望みになったのは事実だが」


「あら。陛下でしたのね。サナさんに会わせろと言ってきたのは」


  リノア様が言うと公爵様はため息をついた。


「あの陛下は言い出したら聞かぬからな。サナに本当は会わせたくなかったんだが」


「確かに。陛下は一度気に入ったら手に入れるまで手段を選びませんから。あたくし、それが心配で今日は付いてきましたのよ」


「お前がいてくれるのは心強いが。ただ、無茶はするなよ」


  わかっていますとリノア様はどこ吹く風だ。けど何気にすごい事を二人とも言ってなかったか?

  手段を選ばないとかなんとか。私は悪寒がしてドレスのレースに包まれた腕をさすったのだった。



  王城に着いた。門番の兵にオルヴァン公爵家の馬車だと告げるとすぐに通してもらえた。

  門をくぐり王城の中に入る。馬車の留場(とめば)にて停車して公爵様が先に降りた。次にリノア様がエスコートされながら降りる。最後が私だ。


「……とうとう来ましたわね。あの陛下は何をおっしゃる事やら」


  リノア様はぽつりと呟いた。が、言葉からトゲを感じる。陛下とリノア様の間に何があったのだろう。

  それは知らない方が良いような気がした。敢えて聞かないでおいた。公爵様はやれやれと眉間の辺りを揉んでいる。


「サナ。リノア。行くぞ」


「わかりました。行きましょう。サナさん」


「……はい」


  頷くとリノア様が私の手を握った。ぎゅっと力を入れられて驚く。リノア様は真剣な顔でこちらを見た。


「……サナさん。王城は陰謀渦巻く場所。気をつけないと巻き込まれるわ」


「わかりました。忠告、ありがとうございます」


  しっかりと返答するとリノア様はにっこりと笑う。どうやら正解だったようだ。そう思いながら廊下を歩いたのだった。


  王城のいくつもの廊下を歩き、とても豪奢なドアの前にたどり着いた。繊細な彫刻が施されたドアだった。

  オルヴァン公爵様が自分の名を告げるとドアの両脇に立っていた護衛の騎士が頷いた。二人掛かりでドアがゆっくりと開かれる。そうして公爵様を先頭に謁見の間に踏み入れた。

  玉座の近くまで侍従だと名乗った男性に案内される。公爵様が床に膝をついて最上級の敬礼をした。私とリノア様も最上級のカテーシーをする。


「……オルヴァン公爵達。よく来てくれた」


「……陛下に置かれましてはご機嫌麗しく。ようございました」


  重々しく挨拶を交わした。陛下はなかなか渋い声をしているようだ。そう思っていたら陛下の次の言葉がある。


「さて。皆、面を上げよ」


  やっと頭を上げる許可をもらえた。私はそろそろと顔を上げる。そこには厳格そうな中年の男性がこれまた豪奢な椅子に腰掛けていた。ヒゲは生やしていないけど燃えるような赤毛に緑色の瞳のかなりの美形なおじさまだ。横には玉座よりもひと回り小さな椅子に年齢不詳の超がつく美女が座っていた。

  この美女も黄金の髪と淡い青の瞳の清楚な感じの女性だ。くう、この王様。なかなかの美女をお嫁さんにもらってんじゃないのよ。


「公爵達以外は皆、席を外すように。侍従もな」


  陛下の一声で謁見の間の人々が静かに退出していく。私達と陛下、たぶん王妃様である女性、宰相とおぼしき男性だけが残された。そうして陛下が玉座の肘掛けに凭れかかった。にやりと笑う。


「……ふむ。これでやっと堅苦しい雰囲気ではなくなったな。公爵、いや。ルノー。そちらが異世界よりの渡り人か?」


「ええ。この娘が異世界よりの渡り人のサナです。今日はリヒャルト殿下と顔合わせだと聞きましたので。連れて来ました」


「成る程。確かに今日はリヒャルトと会わせる予定だが。でもあいつにやるには惜しいな」


「……ルーカス。もしやあんた。サナを愛人にでもする気か?」


「ルノー。口調が昔に戻っているぞ。でも会って気が変わった。サナ殿。俺の妾妃にでもならぬか?」


  そう陛下が言った途端、公爵様とリノア様の目つきが鋭くなった。二人とも睨みつけている。


「はあ。あんた。頭でもおかしくなったか?」


「ええ。あたくしもそれには同感ですわ」


  公爵様の言う事にリノア様も頷く。陛下はさらに笑みを深めた。


「ははっ。さすがに親子だな。冗談だよ。サナ殿を妾妃にでもしたら王妃に愛想を尽かされる。なあ、ルーミア?」


「……陛下。サナ殿はまだお若いですわ。妾妃にしたらかえって可哀想です」


「……なかなか言うな。まあ、ルーミアの言う通りではある。からかって悪かったな。サナ殿」


  陛下が謝ってくる。普通、お偉いさんがこんな簡単に謝っていいのだろうか。しかも王様となったら。それは思ったけど口に出さないでおいたのだった。


  その後、陛下と王妃様はリヒャルト殿下のお部屋に行くように言ってきた。私と公爵様、リノア様は頷いて退出の旨を伝える。二人から許可の言葉をもらい、殿下のお部屋に向かう。案内は侍従だと名乗る男性がやってくれた。付いて行くと男性はルイスさんといい、殿下付きの侍従だと教えてくれる。


「……公爵様の御息女というからどんな方かと思ってたんですが。意外と可愛らしい方で驚きました」


「ははっ。まだ養女に正式にはなっていないんだがな。そうか。可愛らしいか」


「はい。殿下が羨ましいですね」


  ルイスさんが頷くと公爵様が快活に笑った。リノア様も嬉しそうだ。


「あ。お名前を聞くのを忘れていました。何とおっしゃるんでしたっけ」


「……サナだ。サナ・ウエノ」


「サナ様とおっしゃいますか。へえ、こちらにはない名前ですね」


  まあ、それは当たり前だろう。私は異世界人。しかもこのヴェール王国とは間逆の国から来たのだから。そう思いつつもリヒャルト殿下のお部屋目指して歩いたのだった。



「……ふうん。君が異世界よりの渡り人か。名前は?」


  殿下のお部屋にお邪魔して第一声がこれだった。リヒャルト殿下は王妃様似の優しげな美青年で黄金の髪と緑の瞳が印象的であった。けどノリはちょっとチャラい……。


「……サナと申します」


  名乗ると殿下はへえと興味深げに言った。目は子供さながらキラキラとしている。確か殿下は年齢が19歳で私より一つ上だったか。


「そうか。サナさんというんだ。俺は知っていると思うけどリヒャルト・スルーデ・ヴェール。普段はリヒトと呼ばれている。君もそう呼んでくれたらいいよ」


「はあ。ではリヒト殿下と呼ばせていただきます」


「うん。俺もサナさんと呼ばせてもらうよ」


  とりあえず、自己紹介はできた。横には公爵様が立っている。ちらと見ると公爵様は頷いた。


「殿下。サナは疲れているようですので。退出してもよろしいですかな?」


「ああ。気付かなくて悪かったね。いいよ。挨拶はできたし」


「では失礼します。リノア、サナ。行くぞ」


  それではと言って殿下のお部屋を出た。廊下に出ると手が震えているのがわかる。かなり緊張していたようだ。リノア様が心配そうにしている。


「……大丈夫?」


「大丈夫です。緊張していたみたいで」


「そう。あたくしや父上は慣れているけど。あなたはこれが初めてだものね」


  ですねと言うとリノア様は私の手を握った。ぽんぽんと手のひらを軽く叩いた。


「お疲れ様。これで今日の予定は終わりよ」


「はい」


「行きましょう」


  私は公爵様とリノア様の3人で馬車の留場に向かったのだった。



  公爵邸に帰ってくるとリノア様は自分の邸--ヴァラン侯爵邸に戻って行く。息子さん達が心配らしい。私も公爵様とはエントランスホールにて別れて自室に戻る。

  サラさんが待ち構えていて他のメイドさんと一緒にアップにしていた髪を下ろしたりメイクを落としてくれた。ドレスも着替えて普段着のワンピースを着る。髪は緩くまとめた。


「……お疲れ様でした。今日は大変でしたね」


「うん。本当に疲れた。やっぱりお偉いさん方に会うと緊張しますね」


「それはそうです。今、アイスティーを入れますね」


  サラさんはそう言うと厨房に行った。私はさてと立ち上がり伸びをする。

  ぽきぽきと関節が鳴った。けっこう体がほぐれる。足の屈伸や肩をぐるぐると回すストレッチを軽くやった。これでコリもましになるはずだ。

  しばらくするとサラさんが戻ってくる。手にはコップやタルトが盛り付けてあるお皿の乗ったお盆があった。どうやらおやつも持ってきてくれたらしい。


「サナ様。アイスティーと夏みかんのタルトを持ってきました」


「ありがとう。どれも美味しそうですね」


「ええ。料理長のダンさんの自慢の一品だそうで。サナ様が美味しいと言っていたと伝えたら。また作ってくれました」


  サラさんはそう言いながらコップとお皿をテーブルに置いた。私はソファに座ってコップを手に取り飲んでみる。アイスティーは紅茶ではなくてハーブティーらしい。ちょっと苦いけど蜂蜜が入っているせいか甘くもある。ちょっと飲んでからフォークを手に取りタルトも食べた。外の生地のサクサク感と中のしっとり感が絶妙だ。夏みかんの甘酸っぱさがアクセントになってさっぱりとした味である。これはうまい!


「……美味しい。やっぱりダンさん、お菓子作りもうまいよね」


「そうですね。ダンさんにサナ様が美味しいと言っていたとまた伝えておきます」


「うん。そうだな。桃でシャーベットを作ったら美味しいと思うよ」


「シャーベットですか。ちょっとわたしがダンさんと一緒に試作を作ってみます」


「できたら私にも食べさせてね。でも楽しみだなあ」


  そう言うとサラさんは頷いてくれた。私はアイスティーとタルトをその後も堪能したのだった。



  翌日、この日も王城に呼び出された。殿下と会い、昨日のようにお部屋で話をする。リヒト殿下はチャラいと思ったが。明るくて気さくな感じの方だとわかった。初対面で失礼な事を考えてしまったと心中で詫びる。

 

「……昨日は父様と会ったから緊張したよね。あの人、若い女の子見るとからかうのが癖で。後で母様と一緒に注意しておいたから」


「はあ。それはどうも」


「サナさん。俺と婚約するのは本当は嫌でしょ。もし良かったら断ってくれてもいいんだよ?」


  ずばり言われた。私が婚約が嫌だと思っているのはわかっていたらしい。ちょっと驚いた。


  「……リヒト殿下。私はこの世界で公爵様に会っていなかったら生きていなかったと思います。だから恩には報いたいと考えています」


「ふうん。若いのにしっかりしているね。けど婚約を断ったら父様が怒るかな。俺は構わないんだけど」


「じゃあ、どうしろと?」


「……とりあえず、俺と婚約しないんだったら。新しいお相手を紹介してもいいよ。その代わり、君に傷がつくけどね」


  私は殿下の言いたい事がわからなくて混乱する。はあ、こいつ何言ってんの?


「私を脅したって何も出ませんよ」


「……ごめん。ちょっとオルヴァン公爵が羨ましくってね。君にそこまで想われているのがね」


「……はあ。私の父親代わりになってくださっているだけですが」


「それでもだよ。気が変わった。サナさん。俺と婚約してくれないかな?」


「殿下。婚約はしないと仰せではありませんでした?」


「うん。言ってたね。けど公爵の事を聞いていたら君が欲しくなった。婚約してくれたら君のことは大事にするよ」


  どういう事なのか話が見えない。それでも王族の方の言う事は断れない。仕方ないので私は頷いた。


「……わかりました。婚約は了承します。その代わり、浮気したら即婚約破棄ですからね」


「……わかったよ。じゃあ、今から君は婚約者だ」


  殿下はそう言って手を差し出してきた。私も手を差し出す。しっかりと握手する。こうして私は殿下と婚約したのだった。



  あれから一年が経った。私は殿下と婚約してから大変な目にあった。王妃教育という名のしごきのせいで。もう教育が終わる時間にはヘロヘロだった。

  そんな事が一年続き、私は殿下と婚約したのを後悔した程だった。それでも頑張ったのは公爵様とリヒト様、リノア様のためだ。陛下のためでは断じてないが。そう言ったらリヒト様は爆笑していた。


「……陛下のためではないというのは君くらいだよ。サナ」


「そうでしょうか。とりあえず、明日は結婚式でしたね」


「そうだね。まさか、君が王太子妃になれるとは思わなかったよ」


  またからかわれた。私はカチンときたけど黙る。いつもの事だ。仕方ないと思いながら小説を読んだのだった。


  翌日に私は結婚式に出た。主役は美形のリヒト様で私は脇役だ。そう思いながらバージンロードを公爵様もとい父上と進む。父上は相変わらず渋い。リヒト様のいる壇上まで来ると父上は彼に私を託す。


「……綺麗だよ」


  そう彼は呟くと神官長に向き直る。私もそちらを向くと誓約の言葉を神官長が告げた。


「……リヒャルト・スルーデ・ヴェール。汝はこの者とずっと愛し合う事を誓いますか?」


「誓います」


「では。サナ・オルヴァン。汝はこの者とずっと愛し合う事を誓いますか?」


「はい。誓います」


  「それでは。指輪の交換を」


  リヒト様が私の左の薬指にエンゲージリングを嵌める。私も同じようにした。

  後で誓いのキスを頬にしてもらい、結婚式はつつがなく終わったのだった。


  その後、私とリヒト様は正式な夫婦になった。新しい王太子妃の誕生でもあった。バルコニーにて顔見せをすれば、民衆の熱烈な歓迎を受けた。

  この時、リヒト様が私の唇にキスをしてきた。見せつけるためだ。文句を言えば、民衆の皆さんが「ヒュー。お熱い事で」と囃し立てた。恥ずかしいながらも私は仕方なく手を振る。今日もヴェール王国は平和だった--。

 ー完ー



 


 

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