第2話 八丁堀河童侠気《はっちょうぼりかっぱのおとこぎ》

「川が臭う」

 と、河童の太郎は尖った口唇を捲りあげて云った。今夜は満月なので、毛に覆われた躰は、肩まで大川に沈めている。頭頂の皿が、白い光にぬらりと照り輝いていた。黄色っぽいまなこで、河岸の石段に座った少年を見上げている。

 少年。名を、弥一やいちという。

 鼻孔を広げ、すんすんと鳴らしながら首を傾げていた。水と水草、土の匂い。そして梅雨明け間近に湿りを含んだ空気は、いつもと大差ないように思われる。

「どんな臭いだい」

 少し疑わしそうな目つきであった。

「生ぐせえ」

 河童の太郎は、そっぽを向くように上流を睨んだ。だんだん近づいて来る、と云う。

(鼻が利きすぎるんだ)

 弥一は笑いをかみ殺し、それでも多少の期待をこめた眼差しで、大川のかみへと首を巡らせた。

 水面には幾重にも連なったさざ波が、淡い銀色の縞模様をつくっている。そこを斜めに乱していくのは、深川の岡場所から仙台堀を経てきた送り船であった。

「送りましょうか、送られましょか。せめてあの家の岸までも――」

 明るい佃節が、辰巳芸者の三味線にのって微かに聞こえてくる。左に視線を移せば、静穏たる永代橋が聳えていた。

(なにも無いじゃあないか)

 拍子抜けした顔で向き直る。同時に、「なんだありゃあ」という河童の太郎の訝しげな声が洩れた。

 大川の中ほどから、皮を剥がれた丸太らしき物が流れてくる。端は二股になっており、もう一方は黒々と水草のごとき揺らめきが密生していた。目を凝らすと、左右にも細く枝が伸びている。

「お……、おい」

 河童の太郎が、ぶくぶくと半ば水に顔を浸して呻いた。白い丸太は、こちらへと漂ってくる。距離が縮まるにつれて、輪郭は鮮明になっていった。柔らかそうな――。

「まさか……、あれは」

 中腰になっていた弥一の膝が、小刻みにわななく。

 ――人だ。

 俯せになって浮かぶ、人間の背が見えていた。着物は、おそらく流れに剥ぎ取られたのであろう。凍りつく二人へ、無言の助けを求めて近づいてくる。

「う、うわあっ」

 腰を抜かした弥一の辺り憚らぬ悲鳴が、夏の静寂しじまを八方へ引き裂く。弾かれたように派手な水音と飛沫があがり、河童の太郎は水底へと消えた。



 仙台堀のすぐ南から永代橋前までの大川東畔に、いくつかに分かれてある町を深川佐賀町という。

 そのいちばん北側、俗にいう上佐賀町に弥一は住んでいた。雇われ大家の子である。両親はすでに亡い。祖父と侘びしい二人暮らしであった。数えで九歳。水無月の六日で、手習師匠のところへ入門して丸三年になる。

 河童の太郎と出会ったのは、もう三月も前のことであった。木戸も閉め、町も寝静まった夜更け。ひとり足音を忍ばせ、くぐりを抜けて大川端へ出た。

 小便をするためだ。惣後架――いわゆる共同便所はあるのだが、広い場所で悠々と用を足すのが好きなのである。深夜にあてもなく歩き回ったり、河岸でぼんやり夜空の星を数えるのも楽しかった。こればかりは、祖父に叱られてもやめられない。

 その日も、河岸の石段で着物の裾を捲りあげていた。

 すると、穏やかな川面から、だしぬけに小石が飛んできたのである。見事に弥一の額へ命中し、ついで「なにしてやがる」と甲高い声だけが夜を割った。

「おれは大川の河童だ。余所様の棲処に小便を垂らす奴は、水に引きずりこんで喰っちまうぞ」

 この姿なき脅しに、まだ九歳の弥一が怯えたのは無理もない。泣きべそをかいて、許しを乞うた。

「よおし。ならば明日の夜、ここに胡瓜を供えに来い。いいな」

 河童は明らかに調子づいていたが、少年はしゃくりあげるようにして頷くのが精一杯である。

 翌晩。律儀に胡瓜一本を握りしめ、河岸に佇む姿を見て、河童の方が驚いてしまった。小便をされて怒ったのは事実だが、どうも脅しがすぎたようである。小さな身をさらに萎縮させて待つ様子は、哀れさこそ誘うものの、笑えたものではない。

 河童は遠くから顔をのぞかせ、ゆっくりと弥一を宥めすかした。時間をかけて警戒心をほぐしてから近づき、詫びをいれる。

「おめえと同じで、夜の川巡りがおれの楽しみだったのさ」

 そして弥一に気がついた。似た者どうしに思えて、話しかけてみたかったのである。

「脅したのは悪かった。けどよ、金輪際、川に小便を垂らすのはやめてくれ」

「ごめんよ。もうしない」

 胡瓜を渡して打ち解けた弥一は、すまなそうに謝った。

「わかってくれりゃあ、いいんだ。……おめえ、名は」

「弥一。河童さんは、なんて名だい」

 河童は黄色い目をぎょろりと回して、腕組みをした。やがて、面倒くさそうに尖った口唇を曲げる。

「太郎でいいや。おめえたち、おれたちのことを河太郎って呼ぶからな」

 弥一も笑顔で首肯する。

 以来、二人の友情は続いていたのである。



 先の水死体騒ぎで、弥一は祖父にこっぴどく叱られていた。町木戸を預かる者の子が勝手に出入りをするとは何事だ。そのあいだに火付、盗賊が入ったらどうするのか。今回は事件に紛れてうやむやになったが、「次は大川に叩ッ込むぞ」と怒りの形相であった。

 しおらしく頭を垂れていた弥一だが、内心はけろりとしている。

(大川に放りこまれたって、きっと太郎が助けてくれるさ)

 というわけであった。

 ただひとつ閉口したのは、どこぞの戯作者とやらがしきりに話を聞きに来て、そのたびに追い返す祖父の機嫌が悪くなったことぐらいか。

 事件から五日が経過した夜。河岸には二つの影がある。

「おれは思うんだが、ありゃあ、心中でも自殺でもねえ。女の仕業だ」

 下半身を水に浸したまま、したり顔で云うのは河童の太郎である。初め「大川の河童」と名乗っていたが、本当は八丁堀の霊厳橋の周辺を棲処としているらしい。そのせいなのか、今回の事件にも興味津々といった様子である。

「うん。中佐賀町の親分さんも、そんなことを云ってたよ」

 弥一は心地よい夜風に吹かれつつ、石段にしゃがみこんでいる。離れたところで、蚊柱が煙のようにたなびいていた。

「すごいね。どうして分かったんだい」

「逃げるときに死体の傍を通ったら、身体中に刺し疵が見えた。けれど、ほとんどが浅いもんだ。いっち深いのは、ここ」

 河童の太郎は左胸を押さえ「心の臓だ」と云う。これが致命傷らしい。

「でも、それでどうして女の仕業って分かるんだよ」

「いいか。女ってのは力が無え。大の男を殺すには、何度もしくじるんだ。だから浅い疵が多くできる。……それにな、実はもうひとつ理由がある」

 水掻きのついた手で、指を立ててみせる。「死体は右手の小指が失せていた。殺されてから切り取られたんだ。小指を持っていくような男はいねえよ」

 推理には素直に感心した弥一であったが、まだ納得しきれてないらしく、首を傾げた。

「死んだ人、なんで逃げなかったのかなあ」

「酒を呑んでいたか……まあ、なんにせよ逃げられなかったんだろうな」

「なんで」

「知りてえか」

 河童の太郎は黄色い目を細めた。頷く弥一を見て、なにごとかを思い巡らせたあと、「ようし」と呟く。

「いっちょう、やってみるか。まずは死んだ男の身元を調べな。そこへ行って、家の様子やら、できれば人の様子まで細大もらさず覚えてくるんだ」

「どうやって」

「そいつは自分で考えな」

 口唇を、さらに尖らせた。陸のことは陸の者がやれ、ということであろう。

「わかった。やってみるよ」

「おう。なにか分かったら教えてくれ」

 と、手を挙げて水面から消える。気配など微塵も残さない。波紋だけが、弥一のいる石段で静かに砕けていった。



 考えた末に弥一のとった行動は、泣くことであった。嘘泣きである。

 中佐賀町にある小料理屋・富まさの軒先でしゃがみ、鼻をすすった。店の前では外聞も悪い。

「どうした。どうした。男がめそめそ泣くもんじゃあねえ。なにがあったか話してみな」

 と、すぐに主人の富九郎が呼び入れた。細面で、歌舞伎の女形でもやりそうな男であるが、実は目明かしの親分である。

「あのね、あのね」

 弥一は昨晩、寝床で必死に考えた口実を訴えた。例の水死体を見た日から、毎晩、あの男が夢枕に現れて脅かすというものである。

「じいちゃんは、そんなもの気にすんなって云うけれど、おいら怖くて怖くて」

 鼻をすする弥一の傍らで、富九郎は大仰に頷いた。腹の内では「たかが夢」と思わなくもないが、そこは目明かしの親分。頼られるのが商売みたいなものであるし、子供を無下に扱うほど、性根の悪い男でもない。

「わかった。そいつはきっと、線香をあげねえことを怒っているに違いねえ。よし。俺と今から手を合わせにいこう。な」

 努めて明るく言い聞かせ、店の奥にいた女房へ出かけることを告げる。

(やったあ)

 弥一は小躍りしそうになる躰と、満面に浮かびかける笑みを堪えつつ、富九郎に誘われて外へ出た。水死体の身元を聞き出すつもりが、家まで行けるのである。親分の親切心につけこんだという、多少の罪悪感を覚えたが、溢れんばかりの好奇心には抗えない。

 永代橋を渡り、河童の太郎が棲処としている霊厳島新堀沿いに西へ歩く。いくつかの橋を経ると、江戸一の繁華街である日本橋へ着いた。問屋、大店が立ち並び、人混みに慣れない弥一などは、酔ってしまいそうである。

「疲れてねえか。もうすぐだぞ。ほれ、あすこだ」

 額に汗した富九郎が通りの奥を指し示す。往来の賑やかさとは対照的に、ひっそりと締め切った店が、人通りの隙間から見えた。



 被害者の男は、本町の薬種問屋・大黒屋の息子である。名は喜兵衛。歳は二十五。ひと月後には祝言をあげる予定であった。相手は幼なじみで、おきぬ。器量は十人並だが、明るいしっかり者であるらしい。

「さあ、こっちでお菓子をおあがり」

 喜兵衛の母親、おりくは焼香を済ませた弥一を呼び、皿にのせた鳥飼饅頭をすすめた。初めて体験する味に目を輝かせている様子を見て、窶れた頬が、わずかに緩んでいる。

「親分さん。目星はついたんでしょうか」

 横では主人の直治郎が、膝をにじり寄せていた。富九郎は渋い顔つきである。

「いや、こいつはちょいと厄介な事件かもしれやせん。……俺は疵の具合から見て女の仕業だと思っていたんだが、どこをどう調べても女のおの字も見当たらねえ」

 半ば独り言のように呻き、出された茶をひとすすりする。

「喜兵衛さんは、たいそう身持ちのかてえお人だったそうだね」

「ええ。女も博打にも手をださない。酒もほどほど。親のあたしが云うのもおこがましいが、そりゃあ、しっかりした息子で……」

 直治郎の眸子ひとみに悔し涙が蘇ってきた。

「下手人はきっと挙げる。とにかく気をしっかり持っておくんなせえ」

 富九郎が畳に崩れ落ちそうな主人の腕をとる。袖で目頭をおさえるおりくを見て、饅頭を頬張っていた弥一も鼻孔の奥が疼いた。口に運びかけていた三つ目を、なんとなく皿へ戻してしまう。

「今日のところは、これで。なにか思い出すことがあれば、いつでも遠慮なく呼んでおくんなせえ。……弥一」

 富九郎の目配せを受けて立ち上がる。おりくは手早く懐紙に余りの饅頭を包み、弥一へ握らせた。無言で優しく頭を撫でる。

 眸子に湛えた愁いは、幼い弥一の向こうに息子の喜兵衛を透かして見ているようであった。

(可哀相だ)

 純粋に、弥一は思った。下手人への怒りも沸き上がる。

(捕まえて、懲らしめてやる)

 自分の歳のことなど眼中にない。

 富九郎に従い、くぐり戸を抜けると、まるで別世界に出たかのような賑やかさである。日増しに鋭くなる陽光も、打ち水をする大店の小僧の姿も、行き交う老若男女も、すべて来たときと変わりない。大黒屋だけが、周囲の時間から取り残されているようであった。

 弥一が日差しに目を細めながら、いいしれぬ寂しさに俯く。短い自分の影法師は、さきほどの決意が挫けそうなほど弱々しかった。



 ついでだ。

 と、富九郎は云った。被害者・喜兵衛の許嫁であった、おきぬのところへ行くつもりらしい。大黒屋から目と鼻の先である。袋物を商う店であった。

 さきほどと同様に中へ通されると、まだ若い娘が二人いる。

「あ、親分さん」

 揃って声をあげたが、一方は、お世辞にも器量好しとはいえぬ。ただ、温和そうな輪郭と、育ちの良さの滲む優しげな目元が印象的であった。

「その子は」

 と、富九郎の隣へ腰をおろした弥一に柔らかく微笑む。

「弥一ってんだ。喜兵衛さんを見つけた子だよ」

「兄さんを……」

 目を見開いたのは、もう一人の女である。まだ幼さの残る顔だちであったが、吉原から出てきたような婀娜あだっぽさがある。そのくせ虚飾を背負っているふうには見えない。

「線香をあげたいって云うから、連れてきたのさ」

 富九郎の簡単すぎる事情説明に、

「わざわざ、ありがとう」

 と、小首を傾げ、ちんまりと座っている弥一に笑いかけた。

 被害者の喜兵衛を兄と呼ぶのだから、妹なのであろう。とすれば、優しそうな方が許嫁の、おきぬであるに違いない。

「二人とも、変わりはないかい」

「ええ。おまきちゃんが来てくれるおかげで、私はこのとおり」

 富九郎の心配におきぬは口許を綻ばせたが、哀しみを抑えた声音は痛々しかった。

「私こそ。おきぬさんが居てくれなかったら、どうなっていたか」

 喜兵衛の妹も、深く息をつくように云う。

「それで」

 と、改まった口調でおきぬは膝を正した。

「今日は、どんな御用でしょうか」

 富九郎は刷毛先はけさきを撫でて、苦笑いを浮かべる。

「面目ねえ話だが、どうも下手人の目星がつかなくてな。あれから何か他に気づいたことはねえかと思ったのさ」

 ようするに弥一は、ここへ来るための単なる口実であった。

「大黒屋さんにも行ったが、まだ、思い出してくれる様子じゃあなかったよ」

「また父や母が取り乱したようでございますね」

 おまきが頭を下げた。いやいや仕方ねえさ、と富九郎は分別顔である。

「私たちも他に思い出すことは……」

 おきぬが整えた眉を寄せて考えこむ。

「あの日は喜兵衛さんに逢うどころか、一歩も外へ出ておりません。最後に逢ったのは、その三日前でございますが、格別に変わったところはなかったと思います」

「私も、当日は一人で根津権現へ杜若花かきつばたを見に行っておりましたし、その前の日までの兄は、いつも通りだったと……」

 おまきも中空に視線を漂わせながら答えた。

 これでは八方塞がりである。唸る富九郎の横で、弥一も黙考した。

(あっ。でも……)

 犯人が男であれば、話は変わる。

「こりゃあ、男まで調べを広げる必要があるな」

 富九郎も嘆息とともに腕組みをしている。自分だけが閃いたわけではないらしい。

「確かに兄には男友達が多くいますが……」

 おまきは小首を傾げた。やはり不審人物は思い浮かばないのだろう。

「いや、他にもあるさ。例えばの話だが、おきぬさんを密かに慕っている男が、喜兵衛さんをやったのかもしれない。大黒屋に出入りをしている連中も調べる必要が出てきた」

 やれやれ。こいつは、でぇぶ厄介な御用になってきたぜ。

 富九郎は呟いて、また刷毛先に手を伸ばした。切れるように通った鼻筋に横皺が連なっている。

(こりゃあ、太郎にだって難しいぞ)

 つられた弥一も小さく呻いていた。



 その夜、大川は風が少なかった。蒸し暑さが、川面をぞろりと対流していく。

 ひとり涼しげなのは、水辺から石段へ寄りかかっていた河童の太郎である。弥一に貰った胡瓜を囓りながら、報告を聞いていた。雲を照らす下弦の月を眺め、黙々と咀嚼している。

「聞いてるかい」

 途中、弥一が確認したほど静かであった。相槌もない。最後まで話しおえると、太郎はようやく口唇の両端を引きつらせるようにして頷いた。

「なかなかのもんだ」

 と、大いに感心している。

 微に入り細を穿った説明で、記憶しているかぎりを弥一は伝えていた。そのせいで話は極端に前後したのだが、河童の太郎にとって混乱を招く要因にはならなかったらしい。

 褒められた弥一は得意気である。顎を突き出し、満面に笑みを浮かべた。饅頭ばかりに気をとられていたわけではない。目を配っていた甲斐があった。

「しかし」

 河童の太郎は黄色い眼を、愉快そうに回した。

「その富九郎って岡っ引きは、どうやら勘違いしているようだぜ」

「どうして」

 という弥一の疑問には、ふふんと鼻を鳴らすのみである。

「ともかく。おめえのお陰で、どうやら事は早く済みそうだ」

 意味ありげな笑みを湛え、最後のひと欠けを口へ放りこむ。

「仕上げにかかる前に、もう少しやらなきゃならねえ。できるか」

「もちろんだよ」

 両手を握りしめ、興奮した様子で弥一は身を乗り出した。

「で、なにをやるんだい」

「まずは三囲みめぐり神社へ行ってくれ。あの辺りの土手で探し物をして欲しい」

「なにを探すんだい」

「刃物……おそらく小刀とは、そんなものが落ちているかもしれない」

 それが喜兵衛殺害の凶器であり、三囲堤が現場であることは、弥一にも分かった。

 河童の太郎は、ここ数日の間、大川の底を見て回ったと云う。金属を大の苦手とする河童は、だからこそ刃物などに鋭く反応する。にもかかわらず、凶器は発見できなかった。つまり、まだ現場に残っている可能性があるというわけである。

「それから、明日の晩ここに来るときは、紙と筆を持ってきてくれ」

ふみでも書くのかい」

「そうさ」

 河童の首肯に、弥一が驚く。

「字ぐらい書くぜ」

 不貞腐れた様子で河童の太郎は口唇を突き出した。片手で水をすくい、乾きかけた頭の皿へ何度もかける。

「文なんか、どうするんだい」

「刃物だけじゃあ弱いからな。罠を張る」

 そのときには富九郎って野郎にも手伝ってもらうぞ、と付け加える。もちろん協力を願い出るのは弥一の役目だろう。どうやら河童の太郎には、すでに下手人が判明しているらしい。

「誰なんだい。下手人は」

 訊ねるが、だめだめ、と手を振るだけである。

「勿体ぶらずに教えておくれよ」

「どうせ、おめえに文を届けてもらうから、そのときに分かる」

「それなら、いま教えてもらっても変わりはないよ」

「あした、あした」

 云いながら、ついっと河童の太郎は石段から離れた。器用に立ち泳ぎをして、

「頼んだぜ」

 と、ひと言。そのまま飛沫も散らさずに水中へ没した。

「ちえっ」

 弥一は波紋でたわんだ水面の月を眺める。黄色く、河童の太郎の眼に似ていた。欠伸をかみ殺し、川上へ視線をうつす。

 少し、風が出てきたようであった。



 かの有名な赤穂浪士が吉良邸において仇を報い、主君の菩提寺である高輪の泉岳寺へ向かうとき、橋を渡った。

 永代橋である。

 長さ百十間。幅三間一尺五寸。四大橋でもっともすぐれた眺望を誇り、江戸全体はおろか富士山、筑波山をはじめ、伊豆、箱根、安房、上総などまで見渡せたという。諸国の廻船が往来するため橋桁を高くしたからであった。

 日が暮れて景色が失われると、西詰には灯がともる。

 船手形をあらためる船番所であった。船がこの前を通るとき、乗っている者はすべて被り物を脱ぐ。深川芸者などを乗せた遊山船も、音曲、鳴物をやめることになっている。お検めが終わると、つづきを奏じはじめた。

 皐月の二十六日。星月の光彩が、分厚い雲に覆い隠された今夜も、それは変わらない。

 いったん静かになった佃節が、再び騒がしく鳴りはじめる。

「御番所を越すと弾きだす今のあと……ってな」

 ちょうど橋の真ん中で、男は羨ましそうに目を細めた。深川の岡場所へと滑っていく船の灯を、たった一人で欄干にもたれて見送っている。身なりは悪くないが、漂わせる雰囲気はやや剣呑だ。暗闇の奥を睨む視線も鋭い。

 ときおり漆黒の川面へ目を落とし、飽きると人通りの絶えた橋の左右を見渡す。思い出したように首筋をぴしゃりと叩き、蚊を潰していた。足元に置いた提灯に火も入れず、もう四半刻あまりも繰り返している。

「あんな戯言を信じるなんて、うちの――」

 苛立たしげな愚痴が、ふいに途切れる。ごくりと喉を鳴らしたのは、むろん耳鳴り防止のためではない。

 提灯の明かりが、塗りこめられた周囲の闇に浮遊していた。西側、つまり左手から徐々に近づいてくる。

 男は欄干を離れた。やってくる提灯の進路を塞ぐようにして、真っ直ぐに立つ。

「約束の刻限はとうに過ぎてるぜ」

 どすを効かせた男に、灯が止まる。提灯を差し上げて、顔を確認すると大きく息をついた。闇に紛れて気づかなかったらしい。

 若い女である。

「貴方が手紙の……。家を抜け出すのに手間取ったのよ。許してちょうだい」

 呼吸を整えながら男を睨む。着物は、夜中に一人で徘徊するような女が身につけるような物ではない。

「ほう。なかなか……」

 と、男は下卑た笑みを浮かべた。女の爪先から頭まで、品定めといった目つきである。

「例の物は忘れていないでしょうね」

「あんたが使った小刀かい。……ほら、ちゃんとここに」

 怒りと嫌悪を押し殺した女の様子にも、まるで動じない。懐から手拭を取り出した。開くと、刃に錆びのつきはじめ小刀が包まれていた。乾いた血糊までもついている。

「こいつだろう」

 という問いに、女は細い顎を引いた。白い眉間にかすかな苦悶がある。頬から血の気が失せていた。

「とりあえず、こいつを十両で買ってもらうぜ。あとは、まあ、金に困ったときに声を掛けるとするか」

 男は愉しげに掌で小刀を弄ぶ。

「さあ、早く金を出しな」

「ちょっと待って。……これ、持ってちょうだい」

 片手では出しにくいのか、女は男へ提灯を差し出した。

 いわれるままに受け取った男の視界に、銀のきらめきが飛びこんでくる。研ぎ澄まされた空気を醸しだすそれは、女の懐から発せられていた。

 刃だ。

 男は咄嗟に女を見つめた。

(なんてえ目をしてやがるんだ)

 背筋を粟立たせる。一切の感情が欠落した貌は、しかし夜叉の面よりも雄弁に狂気を物語っていた。右手に手拭と小刀。左手に提灯。諸手を塞がれたままで竦みあがる。

 刃は着実に振り上げられ、心の臓を貫かんと狙いを定めていく。

「伊助っ」

 恫喝的な叫びが、橋上に轟いた。

 同時に鉤縄が宙を疾走はしり、女の手から正確に凶刃だけを弾く。

「うおっ」

 我に返った男――伊助が、一間ほども横っ飛びをしてたたらを踏んだ。

ほうけてんじゃねえっ」

 怒鳴りつつ、闇の中から細面の男が染みだす。伊助に駆け寄ると自分の提灯にも素早く火を移した。灯りが増え、帳が後退していく。

「親分さん……」

 女は逃げも隠れもせず、落ち着き払った口調であった。

「来て欲しくなかったぜ」

 女形のごとき優男が渋面をつくる。中佐賀町の岡っ引き、富九郎であった。提灯を掲げて、女の顔をはっきりと照らしだす。

 念を押すように名を呼んだ。

「おまきさん」



 富九郎は鉤縄を懐へおさめると、深く嘆息した。何度か言葉を吐きだそうとしてかなわず、諦念を鼻梁に刻む。伊助の心臓を貫こうとした刃を拾い上げた。詳しく調べるまでもない。喜兵衛殺害に使われた物と同種である。

「どうしてなんだ」

 ようやく絞り出す。

 おまきは穏やかな表情であった。口許には微笑みすら滲んでいる。

「兄さんを誰にも渡したくなかった。ただ、それだけ」

「それで殺したのか」

「そうするしかないでしょう。どうすればいいの。黙っておきぬちゃんと義理の姉妹になるなんて、私は嫌よ。いやっ」

 語尾に奔騰した怒気が宿る。たおやかな指先が青くなるほどに、強く拳を握りしめた。

「好きだったの。本当に好きだったのよ。それなのに、私があの人の妹なんかに生まれたばっかりに。あの人が私の兄なんかに生まれたばっかりに」

 涙が溢れていた。拭おうともせず、流れるにまかせて富九郎を見つめている。

「どうして、私だと分かったの」

「そいつは……実を云うと俺が気づいたわけじゃねえんだ。おい」

 命じられた伊助が、暗闇の向こう側から子供を伴ってくる。

「その子は確か……」

 おまきが瞠目した。富九郎の横へ並んだのは弥一である。唇を噛みしめ、目を伏せ、いまにも泣きだしそうであった。

「こいつが気づいたのさ。なんとも情けねえ話だがな」

 岡っ引きの親分は、自嘲気味に鼻を鳴らした。

「いったい、どうして」

 おまきの問いに、弥一は黙したままである。

(違う。おいらは、こんな事がしたかったんじゃあない)

 下手人がおまきだと知ったら、喜兵衛の、そして彼女の両親はどれほど心を傷めるだろうか。

(おいらは、どんな顔をすればいいんだ)

 哀しみと、やるせなさで、虚ろに佇む。

「弥一」

 不意に、優男には不似合いな野太い声で、富九郎が呼びかけた。か細い肩を強く抱く。

「教えてやれ。これはおめえの仕事だ。わかるか。逃げるのは俺が許さねえぞ」

 傍らを仰ぐと、真っ直ぐに見つめ返す岡っ引きが頷いていた。ついで、おまきへ目を移す。

 まだ、涙は涸れていない。

 奥歯を噛みしめた。唾を飲み込み、深呼吸をひとつ。

「肝心なのは、喜兵衛さんが女の人に殺されたという事なんだ」

 昨晩、河童の太郎に教え込まれた推理のあらましを、そのまま語りだした。



「いいか。あの無数の刺し疵と、切り取られた小指は、下手人が女だという証なんだ。ところが生前の生真面目な喜兵衛には、女の影がまるで見当たらない」

 河童の太郎は、ゆっくりと弥一の顔を窺いながら話をした。

「だが、男の下手人というのは考えにくい。なぜなら、喜兵衛のことを知っている男が下手人ならば、小指を切って女の仕業に見せかけることが無意味だと知っているからだ」

 それほど被害者は身持ちが堅いのである。

「見ず知らずの、たとえば辻斬りの仕業ならば、余計な小細工をする必要もない」

 目撃者さえいなければ、それきりである。

「だからやっぱり、下手人は女だということになる。しかし、喜兵衛と関わりのある女はいない。……と、そこが落とし穴さ」

 水掻きのついた指が三本、立ち並ぶ。

「まだ、母親、妹、許嫁がいる」

「そんな馬鹿なっ」

 と、弥一は辺り憚らぬ甲高い声をあげた。「いいや。ひとつひとつ順序立てて導き出した答えだ」

 河童の太郎はどこまでも冷静である。

「さて。ここで考えてみる。この三人で喜兵衛を殺す理由のある人間はいるか」

 訊ねるが、答えを期待していたわけではないらしい。

「否だ」

 と、自ら云う。

「特に許嫁のおきぬはありえない。殺しても、なんの得もないからな。実は他に男がいて、そいつに頼んで殺させたとしても、やはりあの疵や小指の意味がない」

 指を一本、おろしてしまった。候補から外れたという意味だろう。残りは母親と妹だけである。

「話はちょいとそれるが、喜兵衛が殺された日はいつだと思う」

 今度は正式な問いのようであった。

「……見つけた日の十五日じゃないかな」

 出た答えは、いささか頼りない。

「どうして」

「分からないよ。そんな気がするだけ。太郎は違うと思っているのかい」

 逆に問うてみるが、

「俺もおめえと同じだよ」

 と、得意気に鼻の穴を広げている。ちゃんとした理由があるらしい。

「川が臭ったのは、その日だけだからさ」

「あっ。そういえば」

 弥一の脳裏に、十日前の光景が蘇る。

「殺した場所は、おめえが今日――」

 と、石段に置かれた小刀を一瞥した。刃渡りは三寸ていど。すでに錆が浮きはじめていた。鈍く光を受けている刃には、その錆に混じって赤黒く変色したものが付着している。乾いているが、血であることは疑う余地もない。柄は綺麗であった。おそらく新品であろう。

「この小刀を見つけた場所。おそらく三囲堤だ。そこへ喜兵衛を呼び出した。油断させるために、近くで茶か酒の一杯も飲んだろう。そして人けのない物陰まで連れていき、刺し殺した。では、どうして人けのない所まで連れて行けたのか」

 次第に、河童の太郎の口調が熱を帯びていく。

「喜兵衛が自ら行ったからだ」

「自分で」

「気分が悪くなったのさ。なぜか。毒を盛ったからだ」

「毒なんて。いったい、どこで――」

 手に入るんだい、と云いかけて弥一は言葉を飲み下した。

 ――まさか。

「察しがいいな」

 河童の太郎が重々しく頷いた。

「大黒屋は、薬種問屋だ」

 猛毒の鳥兜、朝鮮朝顔なども置いてある。

「例えば通仙散という鎮痛、麻酔薬は、微量の鳥兜を他の漢方と混ぜて作られている」

 説明に、弥一は身じろぎひとつしない。驚愕に、ただ目を見開くばかりであった。

「喜兵衛は、なぜ逃げなかったのか」

 という最初の疑問に、河童の太郎は「逃げられなかったから」と答えている。

 もしかすると、実際、その通りだったのではなかろうか。毒で躰が痺れ、足元もままならず、それでも必死に抵抗して殺された。水際だったのかもしれない。満潮になって川の水位が増したときに、死体が流れだし、二人に発見されたのではないか。

「もちろん、これはすべて俺の想像にすぎねえ。けれども、そう思ってしまう理由が、もうひとつあるんだよ。しかも、それで下手人は一人に絞られる」

 河童の太郎は、黄色い目玉で弥一を見据えた。蚊が、耳元でうるさく飛び交っているのだが、少年はもはや気にもならない。

「三囲神社も、杜若花の名所なんだ」



「だけど、それだけじゃおまきさんが下手人かどうか分かりません。だから、『お前が男を殺したところを見た。とりあえず小刀を買って欲しい。二十六日の夜五ツに永代橋の真ん中で待つ』って文を書いて、大黒屋さんの手代さんに頼んで渡してもらいました」

 弥一は語りつづけていた。

 途中でつかえたり、次に話すべき事柄を見失ったりしたものの、なんとか最後まで話し通せたようである。ちなみに、手紙を書いたのが河童の太郎であるのは云うまでもない。

「もし間違いであれば、無視するか、富九郎親分にひと声かけてくるでしょう。だけど、おまきさんは来た」

 しかも面の割れていない富九郎の子分、伊助が目撃者を演じているとも知らず、すっかり信じこまされてしまった。

「こんな子供が……」

 おまきは安堵感すら漂わせながら呟いた。伏せた眸子も、すでに乾いている。

「さあ、番所までいこう」

 富九郎が用心深く、囁きかけた。

 おまきは聞こえなかったのか、ふと夜空を仰ぐ。星も月もない。頬を、かすかな水滴が濡らした。とうとう小雨が降りはじめたようである。

「兄さん……」

 つられて空を見上げていた弥一の耳に、おまきの掠れた声が届く。足音が橋板を鳴らした。目を戻せば、おまきが欄干から下を覗きこむようにしている。

「おまきちゃん、いけねえっ」

 富九郎が鋭い叫びを発し、提灯を放り出した。子分の伊助も、食いつかんばかりの形相で手を伸ばしている。

 それらをすり抜けるように、おまきの若い躰が反転していく。

 闇に丸飲みにされたかのごとく、その姿はかき消えた。弥一が欄干まで駆け寄ると、下から派手な水しぶきの音だけが昇ってくる。

 弥一は、絶叫していた。

 恐怖にかられ、首を突き出し、拳を握り、瞼を固く閉じたまま。

「たろおぉっ」

 重苦しい大気を引き裂いて、大川に響き渡る。微かな水音が、応えるように弾けた。



 河岸の石段に弥一は座りこんでいた。隣には、河童の太郎がいる。二人とも長く無言であった。ときおり蚊を追い払って、額に染み出す汗を拭う。

 前日の入水事件から半日ばかり雨が降り、蒸し暑さに拍車がかかっていた。お世辞にも心地よい静寂とはいえない。

「おまきさん」

 と、不意に弥一が沈黙を破る。独り言のようでもあった。

「大丈夫だってさ。ちょっと水を飲んで、躰を打っただけだって」

 河童の太郎は、努めて素っ気なく頷く。

「ありがとう。助けてくれて」

「気にすんな」

 ぴちゃり、と足の水掻きに川のさざ波が触れていた。

 弥一が、傍らの小石を大川へ投げ込む。

「おいら、間違っていたよ」

「なにが」

「二人で力を合わせて悪い奴を捕まえたら、きっと楽しいって思ったのさ。けど、本当は楽しくなかった」

「すまねえな。妙なこと、けしかけちまって」

「べつに太郎を責めているわけじゃないよ」

 と、慌てて断りを入れる。それから心細げに呻いた。

「捕まえないほうがよかったのかな……」

「そいつぁ違うぜ」

 すぐさま断固たる物言いで、河童の太郎は首を横にした。

「おまきのしたことは悪事さ。己の欲だけで余所様を――、この世のすべてを蔑ろにしちゃあならないんだ」

 川面を滑る風で、蚊柱が揺らめいている。

「悪事を働く奴は、そのことを棚にあげていやがる。己が正道だと思いこんで、欲を満たそうとし、叶えられねえと邪魔をした奴を酷く恨むのさ。特におめえたち人間って生き物は、智恵も力もあるくせに他人の事を考える頭はからっきしだぜ」

「だからといって、おまきさんが悪い人だと思いたくないよ」

 いまにも泣き伏しそうな顔つきで、弥一は呟いた。

「悪い奴だと思いこめなんて云ってないさ。おまきだって根っからの悪人じゃあるめえ。ただ、ちょいと箍が外れちまったんだよ」

「でも、どうして……。どうして好きなのに殺しちゃったんだろう」

 そのうえ、許嫁のおきぬを慰めるような真似までしたのである。

 河童の太郎は口唇を蠢かしたが、出てきたのは意味不明の唸りだけであった。しばらく言葉を探すために、黄色い眼をぐるぐると回す。しかし結局は、

「どうしてだろうなぁ」

 と、答えを濁すだけにとどまった。頭の皿に水をうち、そのまま肩まで川へ入る。振り返ると、口唇を捲りあげて笑顔をつくった。

「実はなあ、弥一。俺はもう、おめえと会えねえ。今夜が最後だ」



 あまりの唐突さに、初め、弥一は理解に苦しんだ。

「ああ。明日っから川開きだからね」

 と、笑顔で頷いたのは、しばらく経ってからである。

 夜になると夕涼みの船や、それを目当ての物売り船が、大川で大渋滞を引き起こす。また鍵屋・玉屋の花火が打ち上げられ、見物の客も押し寄せる。

 人目につきやすくなるだろう。

「しかたないよ。葉月はちがつの二十八日まで我慢して――」

「そうじゃねえ」

 河童の太郎は笑みを崩さずに、しかし強い口調で制した。弥一が、ただならぬ雰囲気に真顔になる。

「どういうことだい」

「云った通りさ。もう今夜きりで、おめえとは会えねえ」

 これが今生の別れになると云っているのである。

「おまきを助けたとき、富九郎と伊助に見られちまった。おめえみたいな子供ならいいが、大人に見られちまったのは失敗だ。しばらく江戸を離れなきゃなんねえ。そういう決まりなんでな」

「しばらくって、どの位だい。半年かい。それとも一年」

 弥一の声が震えている。

 たしかに、入水したおまきを助けて岸まで運んだとき、駆けつけた富九郎と伊助に目撃されていた。おまき自身は気絶していたのだが、親分子分の二人は川へ戻っていく河童の太郎の後ろ姿に、呆然としていたのである。

(こんなことになるのなら)

 やっぱり目明かしごっこなど、止しておけばよかった。

 下唇を噛みしめる。

「二十年」

 と、河童の太郎は耳を疑うことを云う。

「途中で死んでなけりゃ戻ってくるだろう」

「二十年も……」

 弥一にとっては、永遠に近い年月である。そして二十年後には、自分はもう大人であった。会えば、また江戸を離れることになるのであろう。せっかく後退していた涙が、こみあげてきた。

「ごめんよ。おいらのせいだ」

「おめえは悪くねえよ。あの場合は、死んでも償いにはならねえ」

 だから助けたのさ、と河童の太郎は冷徹を装ったが、成功しなかったようであった。二つの穴のあいた鼻の上に、苦しそうな皺が寄る。

「おめえには胡瓜を沢山貰ったけど、あいにくお礼する物がねえ。勘弁してくれ」

「いらないよ。なにも欲しくないから……だから、行かないでよ」

 弥一の顔が、涙と鼻水で乱れていく。

「わがまま云うなよ。もう決まったことなんだ」

 河童の太郎は両手で大量に水をすくい、頭からかけた。まるで皿が乾いて仕方ないという様子である。二度、三度と繰り返し、顔まで濡らす。

 いつの間にか消えていた笑顔を、ふたたび浮かべた。

「弥一。笑って見送ってくれ」

 太く、心奥にまで響く。

 むせびながらも弥一は歯を食いしばり、唇の両端をつりあげた。

「へっ。妙な顔だぜ」

 河童の太郎が明るく茶化す。

「おめえと会えて、本当に楽しかった」

 器用に背泳ぎをしつつ、ゆっくりと河岸から遠ざかる。

 弥一は袖で涙を拭い、闇の底でぼやける小さな影を見失うまいと、目を凝らした。

「弥一っ」

 水面では目一杯に伸ばした手が、ひらひらと踊っている。

「達者でなっ」

 かすかに潤んだ、それでいて張りのある声が届く。続いて、水の撥ねる音。

「太郎っ」

 という弥一の呼びかけが、虚しく大川を吹き抜けていく。

 水と水草、土の匂いは、いつもと変わりない。海からの湿った風に着物をなびかせながら、少年はいつまでも立ち尽くしていた。



 おまきの刑は遠島に決まった。

 遠島船は芝の金杉橋と、件の永代橋から出る。前者は幕府に慶事などがあった日には、恩赦によって帰ることができる囚人で、後者は死ぬまで帰れぬ囚人であったという。

 おまきがどちらであったのか、弥一は知らない。

 一方。

 大黒屋は店をたたんだ。上方へ引き越したらしい。許嫁であったおきぬは、数年後に別の男の許へ嫁いだという。

 永代橋の付近は河童が出没すると噂になったが、将来有望な目明かしと騒がれた弥一と同様、半年ほどの間だけであった。

 その後、少年は特に大きな病にも罹らず、成長して青年となった。雇われ大家を継いで、人並みに嫁を貰い、二人の子宝にも恵まれている。三十路を目前に控えて、おまきが兄を殺した理由も、漠然と分かるようになっていた。

 そんなある日。家族揃って晩飯を食べているときである。

「ねえ、おとう」

 と、今年九歳になった長男が、顔色を窺うように切りだした。

「あのね、そのう」

「どうした。云ってみな」

 弥一は箸を置いて、息子の近くを飛んでいた蚊を払う。夏まではあと一歩なのだが、もう深川名物は解禁らしい。

「また、おねだりだろう」

 妻の冗談めかした物言いに、「ちがうよ」と長男は口を尖らせた。しばらく迷っていたものの、やがて意を決した体で面をあげる。

「あのね、おとうは河童の太郎って知ってるかい」

「また、この子は。なにを云いだすのかと思えば」

 妻が大袈裟に呆れてみせた。

「ねえ」

 と、笑いながら亭主へ顔を巡らせ、目を見開く。

「……あんた、どうしたんだい」

 そういったきり、口許へ手を当てて絶句した。

 弥一は、泣いていた。

 伏せ気味の眸子は、脳裏に広がる少年の頃の情景を追いかけている。忘れていた。あの日から、もう二十年経ったのだ。

「帰ってきたのか……」

 微笑みながら泣く弥一を、妻と二人の息子は、不思議そうに見つめるだけであった。

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江戸妖変奇談袋《えどのあやかしかたりあつめ》 花田一三六 @Hanada136

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