江戸妖変奇談袋《えどのあやかしかたりあつめ》

花田一三六

第1話 化猫恋路江戸桜《ばけねここいじのえどざくら》

 きっかけは小間物商、山崎屋の主人のひと言であった。

「どうだろう幸吉さん。ひとつ、この春の花見に合わせたものを拵えてみないかい」

 と、人の好い笑顔を向けたのである。

 浅草駒形町の店内には、他にも数人の客が訪れていた。櫛、かんざしこうがい元結もとゆい、紙入れなどを物色している。黒八丈の羽織を着たのは、どこぞの若旦那であろう。漆塗りに蒔絵の櫛を、熱心に品定めしていた。これから猪牙船ちょきぶねを仕立て、手土産を懐に吉原へ繰り出すつもりかもしれぬ。

 幸吉は、自分の手によるべっこうの櫛と簪に目を落とし、ついで狐に追い詰められた野兎のごとき不安げな眼差しで帳場の主人を見た。

「これじゃあ、売り物になりませんか」

「ああ、いや、そうじゃあない」

 五十過ぎの主人は、目尻に深い皺を刻んで微笑む。

「もちろん、これは立派な品だよ」

 簪を手にした。琥珀色の淡い光が、広げた風呂敷の上で滲み、漂う。しばらく光のさざ波を愉しみ、

「ただね」

 と、口許の弛みを引き締めた。

「これは去年と同じ拵えだ。しかも親方の藤八さんと細工は瓜二つ。わかるね。この意味が」

 冷徹な商売人の声音に、幸吉は俯く。

「気を落とさないで聞いておくれ。私は三十年も商いをやっているが、お前さんのような腕のいい職人は見たことがない。これは本当だよ」

 主人の口調が、次第に熱を帯びてくる。

「お前さんならできる。そう思うからこそ、あえて厳しい注文をつけるのさ。……今年で幾つになりなさった」

「二十五になりやした」

「その若さで、名人と謳われた藤八さんと、寸分違わぬ品をこさえるんだ。並大抵のものじゃあない」

 感心しきりといった様子で首をふる。

初午はつうまが過ぎたばかりでなんだけれども、今年が駄目なら来年もある。そのぐらいの楽な心持ちで、どうだい。ひとつ、やってみないかい」

 身を乗り出してくる主人の勢いに、半ば押し切られるようにして幸吉は頷いていた。

「わかりやした。やってみましょう」



 幸吉は下総で漁師の三男として生まれた。小刀一本で浜の流木を本物と見紛う鰯に彫刻したのが六歳の頃。手先の器用さに感心した両親が、つてを頼りに江戸へ送りだし、十二の歳に名人と謳われる藤八の許に弟子入りした。十年の修行と一年のお礼奉公を終え、独立を果たしたのが去年のことである。自身では、まだまだ修行中だと思っていた。

(いや、しかし。山崎屋さんの云うことももっともだ)

 少しずつでも、自分にしかできぬ意匠を考えなければ、客は飽きてしまう。かといって媚を売っては駄目だ。世の流行りすたりはうつろいやすい。一過性のものではなく、使い込んだ分だけ愛着のわくもの。

「いい道具ってのは、そういうもんだ」

 という、親方の教えを思い出す。

 浅草寺の参詣者で賑わう広小路を経て、川上からの風がそよぐ吾妻橋を渡った。右に折れると、自分の住む長屋がある。

 太陽は中天を下り始めた頃であった。ちょうど横川の鐘が八ツを告げている。かすかに聞こえてくる歓声は、今日の手習いを終えた子供たちであろう。

 思案顔で橋のたもとに佇んでいた幸吉は、意を決したように大川端を北へ歩きだした。長屋とは正反対である。

 目指す場所は、向島の隅田川堤。上野寛永寺、王子飛鳥山と並ぶ花見の名所であった。とりわけ庶民には人気がある。渡し船に一棹させば新吉原というのも、理由のひとつかもしれない。

 並木道になると歩みを緩め、幹の具合、枝振り、蕾の綻び加減などを丹念に観察していく。時期ならば、花見客を当て込んだ露店も立ち並ぶのだが、せいぜい一分咲きといった今は、人もまばらで長閑のどかなものであった。

 どのくらい眺めていただろうか。

 なかなか閃きも訪れず、ため息をついて、視線を遠く花曇りの空へ彷徨わせたときである。

 少し離れた桜の樹上にうずくまる、一匹の黒猫に気がついた。枝の先に開いた気の早い小さな淡紅色の花を、じっと見つめている。 しなやかな躰つきであった。毛並みも瑞々しい。野良ではないのかもしれぬ。そっ、と前肢を伸ばし、足場のしなりを確かめながら花へと進む。下へ来た幸吉を一瞥したが、それ以上は相手にもしない。

 さらに一歩。

 先細りの枝が軋む。

「おいおい。無理だよ。折れるぜ」

 思わず声をかけた。辺りを見回すが、花守はいないようである。

 うるさそうに猫の耳が小刻みに震え、尻尾がうねった。雑念が入ったのであろう、これまでの慎重さを忘れ、不用意に躰を出す。

 ついに枝は重さを支えかね、細い身を屈した。湿った音が鳴り、大地へと垂れる。慌てた黒猫が、鞠のように弾んで向きを変えたものの、間に合わない。四肢は宙をかき、平衡が崩れていく。

 そのまま真下の幸吉へ、ぽんと落下した。やんわりと抱き留められた腕の中で、きょとんとしている。

「おめえ、怪我してるじゃねえか」

 無造作に投げ出された、しなやかな前肢をとった。小さく切れて滲んだ血が、漆黒の毛を濡らしている。

 幸吉は素早く手拭を取り出した。歯で裂くと、片手で器用に傷口を巻く。

「これでいい。緩めにしたから、血が止まったころには勝手に外れてるだろうよ」

 余った手拭を懐へなおしながら、地面へおろす。

 ようやく我に返った黒猫は、小さな突風となって幸吉から離れた。十分に距離をとってから、巻かれた手拭に顔を押しつけ、しきりと鼻を蠢かし、舐めている。

「ほらよ。忘れ物だぜ」

 幸吉は折れた枝の、花のついた部分だけを千切り、猫のほうへ差し出した。

「こいつが欲しかったんだろう」

 訊ねるが、警戒しているので近寄りもしない。

「それじゃあ、ここに置くぞ」

 地面へ、そっと枝を横たえた。それから、もう興味はないといった素振りでもって、他の桜へ顔を巡らせる。

 黒猫は、なおしばらく幸吉の様子を窺っていたが、誘惑には抗えなかったらしい。ついと枝に駆け寄ってくわえると、振り返りもせずに茂みへ姿を消した。

(しかし、珍しい猫だったな)

 横目で一部始終を見ていた幸吉が、ぼんやりと木を仰ぐ。

「花簪にでもするのかな」

 何気なく呟き、当初の目的を思い出した。頭を振って、観察に専念する。

 川面を滑る柔和なそよ風が、なぜか躰の奥底をそぞろに浮き立たせていた。



 べっこう。

 漢字では鼈甲と書く。「鼈」はスッポンの意味であるが、実際は玳瑁たいまいというウミガメの甲羅である。

 それが何故にスッポンなのか。

 江戸時代の人間が間違えたわけではない。 お上の玳瑁禁止に対抗し、一計を案じた商人たちが、鼈甲と呼び名を変えたのである。

「これは、玳瑁に似せたスッポンの甲羅でございます」

 というわけであった。むろん取り締まりもあったのだが、民衆の需要の高まりを抑えることは不可能である。結果、豪奢になりすぎない限りは、スッポンの甲ということで黙認するに至ったらしい。

 この琥珀色をしたウミガメの甲羅を原材料として、櫛や簪などの装飾品を作る職人を、べっこう師と云う。

 幸吉も、その一人であった。

 胡座をかき、台木と呼ぶ、切り株型の作業台に広げた紙を睨んでいる。ときおり、執拗に筆をはしらせた。写実的な桜の絵からはじまり、流線型をした抽象的なものまで、次々と描く。たちまち紙は墨で埋め尽くされるのだが、手は止まらない。漆のごとく何度も塗り重ねられてから、

「くそっ」

 という小さな怨嗟を漏らし、脇へと放り出される。他にも同じような経緯を辿った海苔のごとき紙が、部屋に散乱していた。

 間口九尺、奥行き二間。二畳ぶんの土間と四畳半のみ。裏長屋の見本のような住まいである。

 朝飯もそこそこに描きはじめて、すでに真昼。九ツの鐘を聞こうとしていた。

 また一枚、屑になる。

 幸吉は筆をおくと、大きく息をついた。墨に汚れた指先で両目をこすり、

(なるほど。独り立ちするってのは、辛えもんだな)

 と、苦笑いをこぼす。

 親方の許にいたときは、教えられた技術をすべて投入すれば商品としてこと足りた。独立一年目は、ただ必死に注文をこなしていくだけであった。

 だが、もう違うのだ。

 べっこう師・幸吉としての、創意、工夫、斬新さが求められている。親方に頼らず、己を打ち出さねばならぬ。

(挫けちゃいけねえ。俺にはできる)

 奥歯を鳴らし、握りしめた拳を凝視する。まなじりには殺気すら漂っていた。

「幸吉さん。いるかい」

 という、表からのおっとりとした呼びかけで、ようやく肩の強張りを緩める。団子を重ねたような影法師が障子を透かして見えた。大家である。返事をすると、丸っこい顔があらわれた。

「今日はやけに静かだね。具合でも悪いのかい」

「いえ、ちょいと書き物をしておりやして」

 先月の店賃はもう支払ったはずだが、と内心で首をひねりつつ迎え入れた。

「あんたに会いたいって人が来てるよ」

「あっしに……どなたで」

 訊ねるのと同時に、大家の背後へ現れた人物が目に入る。

 女だ。



 おさき。

 と、女は名乗った。すでに二十歳はすぎているようだが、まだ未婚であるらしい。髪も島田髷。漆塗りの櫛に、簪。派手でもなければ高価でもないが、いずれも品のよい物を選んでいる。

「お忙しかったのでしょう」

 散らかった下絵の束と台木を、慌てて隅へ押しやるさまを見て、履物を脱いだおさきは細い身を縮めていた。

「いやいや。やもめ暮らしの、むさ苦しいところで――」

 幸吉は首筋を掻きながら、おさきに掌を向ける。本題に入りかけて止められた彼女の、訝しげな視線を背後に感じつつ、土間でそっと草履をつっかけた。ひと呼吸おいて、腰高障子を勢いよく開け放つ。

「あ……」

 と、間の抜けた声がした。

 十ほどの顔が、中腰になったままで固まっている。好奇心丸出しのかみさん連中に、嫉妬と羨望が複雑に入り交じった独身男。長屋の住人たちが、様子を窺いに集まっていた。他にも逃げ腰になっている者や、珍妙な笑みで誤魔化そうしている者もいる。

「お客さんだ。邪魔すんじゃねえっ」

 幸吉は歯を剥きだして追い散らすと、鼻息も荒々しくおさきへ向き直った。ついでに壁もひとつ叩いておく。棟割り長屋なので、おそらく隣人が、耳を澄ましているはずであった。

「ったく……。すみませんねえ」

 愛想笑いをしながら、手早く茶を煎れる。

「で、あっしに会いたいとは、いったいどういう事で……」

「お礼を申し上げたくて参りました」

 おさきは眸子ひとみを一杯に開いて云った。清冽な透明感を湛えており、心の奥底までも覗かれそうである。

 とはいえ、近寄りがたいといった印象はない。むしろ愛嬌があった。二十歳をすぎても独り身でいる含羞や、開き直りのようなものである。

 幸吉は穏やかな好感を抱きつつ、

「はて……」

 と、腕組みをした。悪事を働いたことはないが、残念ながら善事をした覚えもない。

「黒猫を助けてくださいました」

「くろ……ねこ」

 記憶を手繰る。もしや昨日の猫か。

「向島の」

「ええ」

 嬉しそうに、おさきは微笑む。

 どうやってこの長屋を探し当てたのか、という疑問が幸吉の頭をかすめたものの、詮索しても仕方ない。

「傷の手当てまでしていただいて」

「いやなに。ちょいと手拭の切れっ端を巻いただけ。たいした事じゃあございません」

 大仰に手をひらつかせながら、多少、閉口する。

「本当に助かりました。これは、ほんのお礼でございます」

 たおやかな指を揃え、丁寧に差し出されたのは紙包みであった。一両か二両。

(そらきた)

 型通りの展開に、ため息もでない。

「こいつは、いただけません」

 丁重に辞退する。少し偏狭な江戸っ子であれば、「馬鹿にするな」と怒りだしたかもしれない。

 つづくおさきの反応は、しかし、幸吉の予想を爽やかに裏切った。

「そう仰ると思いました」

 あっさり頷いたのである。拍子抜けしている幸吉を見つめて、

「さきほど大家さんに伺ったところ、べっこう細工をなさっているとか。だから、注文いたします。これで、わたしに合う簪を拵えてくれませんか」

 と、小首を傾げて云う。

「お願いしますね」

 すでに決定である。なかなか押しが強い。

 幸吉は、首筋を掻きながら困惑するしかなかった。山崎屋の仕事もある。

「参ったな……」

 眉を寄せて呟き、あらためて眼前の女を見やる。艶やかな髪へ視線を運び、むせ返らんばかりに息をのんだ。

(こいつは映える)

 しっとりと潤んでいるようであり、処女のような瑞々しさと、熟れた女の妖しさが同居している。とろみのあるべっこうは、よく似合うだろう。素材としては申し分ない。

 舞い上がっていたのだろうか。馬鹿なことに、いままで気づかなかった。

(この髪を、俺の新しい簪で飾ってみてえ)

 血が、疼く。

「わかりやした。……いや是非、作らせてください」

 くそ真面目に顔を引き締め、頭を下げる。

「よかった」

 おさきが袖を胸元で合わせて、安堵の息をついていた。ふわり、と仄かな匂いが鼻孔をくすぐる。

(さすがに、あの黒猫の飼い主だな)

 幸吉の口許が微かに綻ぶ。

 桜の薫りであった。



 その翌日。幸吉は隅田川堤へと足を運んでいた。力んで引き受けたのはいいが、これといった良い意匠が浮かばない。

 それというのも山崎屋の注文が「花見に合わせたもの」だからであった。かなりの期間限定品である。世の中には、花見小袖という品もあるが、それにしても。

(本当に売れるのだろうか)

 と、余計な先の心配までしてしまう。

 枝の隙間から見える空は、あいかわらずの花曇りであった。背筋を伸ばし、真綿のような風を肺腑へ流す。躰の中で、凝縮した粒が爆ぜていった。生命の躍動感が満ちている。

(こいつを素直に、形にできないだろうか)

 唸り、俯き、目をつむる。眉間と鼻梁に刻んだ皺が、傍目には苦悶しているようであった。急病か、首でも括りそうなほど深刻な面持ちである。案の定すぐに、

「どうかなさいましたか」

 と、背後から気遣う声がした。

「いや、ちょいと考えごとを……おや」

 顔を巡らせた幸吉が目を丸くする。

「ああ、よかった。わたしはてっきり具合でも悪くなったのかと」

 おさきが胸をなでおろして微笑んでいた。一人である。小ぎれいな身ごしらえと、髪の艶やかさは、昨日と変わらない。

「見ていたら、急に立ち止まって顔をしかめたでしょう。驚いてしまって」

「余計な心配をさせちまいました」

 首筋に手をまわして、幸吉は頭をさげた。 が、ふと気づく。

「見ていなすったんで」

 思わず訊ねてしまい、内心で激しく舌打ちする。わざわざ云うまでもない。

 見ていたのだ。

 おさきは黙っている。目を伏せ、白い頬には朱がさしていた。いまにも袖で顔を覆って駆けていってしまいそうである。

(とんだ野暮天だな。俺は)

 幸吉は己を呪った。その場を取り繕おうと出てきた言葉も、また、情緒がない。

「餅でも」

 と、近くの掛茶屋を指した。軒先で「名物さくらもち」の幟が柔和な風と戯れている。

 向島の名物であり、殊に、長命寺のそれは広く知られていた。餅を包む塩漬けの葉は、三囲神社から木母寺へいたる並木のものを使用している。

 おさきは、袖で口許を隠していた。慌てっぷりが可笑しかったらしい。悪戯っぽく上目遣いをし。

「御馳走してくださいね」

 と、なおも含み笑いを唇の端に残しながら云う。

 幸吉は救われたように頷いた。



 それからというもの、昼すぎに隅田川堤へ行くことが幸吉の日課となっていた。

 必ず、おさきがいるのである。

 ほんのわずかな距離だが、二人でゆっくりと堤を歩く。いまは蕾ばかりであるが、桜の盛りには木母寺の辺りまでいくと、左右から覆い重なった枝で雲の中を行くような風情となる。

(そこを、二人で歩きてえな)

 そのとき、おさきの髪に新しい簪があれば尚よい。幸吉は、頭上で絡み合う枝を、ぼんやりと眺めた。

 普段は長命寺の境内に入り、人の気配のないところで話をする。内容は流行りの芝居や役者のことから、他愛のない巷の噂まで、とりとめもない。

 こんな職人風情と一緒にいるところを見られたら、彼女が困るのでは、と眉を曇らせることもあったのだが、

「ご心配なく。わたしのことを気にかける者はおりません」

 と、おさきは恬淡とした物言いであった。

「わたしの母には親の決めた許嫁がおりました。けれども別の男と駆け落ちをして……。わたしはそのときに生まれた子。父が死に、許されて家へ戻りましたが、去年には母も亡くなり」

 不意に言葉をきる。

 居場所がないのであろう。親がどうあれ、孫は可愛いものだと聞いたが、そう単純に片づく問題でもないようだ。あの黒猫も内緒で飼っているのかもしれない。

 猫へ、ひそかに日々の辛さを打ち明ける情景まで想像してしまい、幸吉はいたたまれなくなった。

「自棄になっちゃいけねえよ」

 諭すように云う。

「俺はべっこう細工の他にはなんの取り柄もねえが、話を聞くことはできる。口も堅えつもりだ」

 あんたの支えになりてえ、とまでは口にしないが、真摯な態度におさきは喜びを満面に浮かべた。

 不思議なことに、これ以上の身の上ばなしをおさきは避けている。住んでいる町名さえ明かそうとはしなかった。

 幸吉も無理には訊ねない。辛い一日のなかで、少しでも穏やかに刻を過ごせるならば、それでよかった。

 不思議といえば、他にもある。

 いつものように境内で話をしていたときであった。近くを歩いていた野良犬が、突如、激昂したのである。一度のことではない。二度、三度と立てつづけであった。それも同じ犬ではなく、毎回、別の犬である。とにかく唸る。吠える。噛みつこうとする。すさまじい狂態であった。

 おさきのほうも怯えること甚だしい。幸吉の背に隠れ、袖にすがって卒倒せんばかりに震える。追い払ってからも、しばらくは声も掠れ、蒼白な顔つきであった。かなり犬とは相性が悪いらしい。

 もっとも、それで何かが変わるというわけではない。「ハテ、面妖な」といった程度のことである。日を重ねるごとに親密になっていく二人には瑣末な事件にすぎなかったし、それが原因で仲違いするほど幼くもない。

 いそいそと出かけていく幸吉を見て、

「また桜かい」

 と、長屋の連中が呆れるほど熱心である。

ひとでもできたのかねえ」

「近頃じゃ、仕事の音も聞きません」

「女郎買いでもしてるんじゃないかい」

 かみさん連中の井戸端会議でも噂の種を提供している。

 蕾も綻びはじめた、如月にがつも半ばを過ぎようかという頃であった。



 幸吉は、仕事を怠けていたわけではない。 朝は日の出まえから、夜は寝床へ入っても意匠を考えていた。夢のなかで巨大な鼈甲と取っ組み合いしたことさえある。おさきとは合間に逢っていたにすぎない。

 とはいえ、生活も徐々に彼女で埋め尽くされていった。

 例えば筆を動かしていると、いつの間にか似顔絵を描いている。なまじ絵心があるだけに似てしまい、しばらく塗りつぶせずに身悶えしたりした。

 あるときは隣人が、

「幸さん。あんた大丈夫かい」

 と、恐る恐る様子を窺うほど、ぼんやりと天井を眺めていたりもする。ついには大家が医者を呼ぶべきか迷いだす始末であった。

(こりゃあ、いけねえ)

 このままでは、仕事が手につかなくなる日も近い。まことに味気ない話だが、逢瀬に耽ることができるほど、分限者ではないのである。

 幸吉は、ついにある決意を抱え、隅田川堤へと赴いた。いつものようにおさきに逢い、長命寺まで行く。

 歩きながら、そわそわと落ちつきなく視線を泳がせた。会話も上の空で、相槌だけが大仰である。喉が渇き、やたら唾を嚥下していた。

 さすがに、おさきも眉を寄せる。

「今日の幸吉さん、なんだか可笑おかしい」

「そうかい」

 と、とぼける声も半ば裏返っていた。

(なんてえザマだ。意気地がねえ。しっかりしやがれ)

 悟られないように深呼吸をする。春の粒子が、力んだ躰を揉みほぐしてくれた。

「おさきさん」

 改まった調子に、おさきは不思議そうに小首を傾げた。澄みきった光を湛える眸子に、幸吉は一瞬たじろいだものの、一気に云う。

「俺と一緒になってくれ」

 三千世界で己の声だけが木霊こだましているようで、たいそう心許ない。

 おさきは、唐突な求婚で眼を一杯に見開き、息をのんでいた。ついで耳まで赫く染めて俯く。睫毛が細かく震えていた。眸子が潤んでいる。

「ごめんなさい」

 それきりで、あとは嗚咽を滲ませた。

 幸吉は冷静である。予想通りであった。おさきは明らかに裕福な家の娘であり、独立したての職人風情に嫁がせるはずがない。

「家の人には何度でも頭を下げに行くよ」

「駄目。駄目なの」

 おさきはきつく瞑った目尻を濡らし、絞り出すように云う。

「わたしは幸吉さんと一緒になれない。あなたの考えてるような人ではないの」

 華奢な背を向けた。

 言葉の真意を掴みかねた幸吉が、しばらく無言で宙を見据える。深刻な二人をよそに、雀が樹上で心地よさそうに囀っていた。

「俺は今日から五日間、おさきさんの簪の細工に入る。だから六日目にここで、もういっぺん逢おう。そのときに簪を渡して、同じことを聞くから答えてくれ。答えたくなければ、来なくともいい」

 感情のたぎりを胆に秘め、やっとそれだけを言葉にした。

「今日は、これで帰るよ」

 低い呟きを残して、その場を後にする。

 独り佇むおさきの周囲を、春風が遠慮がちにそよいでいた。



 幸吉は簪づくりに取りかかった。

 この仕事がおさきとの絆になる。そう思うと作業にも自然と熱がこもった。

 意匠は、やはり桜しかない。そこへ、躰から芽吹いてしまいそうなほど生命力に満ちあふれた、春風を表現する。

 まず下絵を一気に描く。

 すらりとした細身の端に、桜の蕾と満開の花をあしらった。さらに、小さな銀の輪で繋げた花弁を何枚も垂らす。

 蕾から風に散るまで。春を一本の簪に凝縮した。

「びらびら簪」

 と、呼ばれるものである。銀簪などではよく見られる細工であった。歩くたび、風を孕むたびに鳴り、きらきらと人目をひく。

 これを、総てべっこうで仕上げるつもりであった。

 休む間もなく作業へと移る。

 玳瑁の甲羅は二十四枚の鱗板で成り立っているのだが、べっこう師は、この板を何枚も常備していた。その中から、意匠に相応しいものを選別する。一枚ではない。厚さが均一ではないし、薄いので、あとの工程で五から七枚を重ね合わせる。選びおえると、表面の不純物などを取り除くため、雁木ヤスリで粗削りを行う。湾曲部を温めた鉄板で直したりもした。

 そうして、べっこう細工でもっとも慎重を要する「斑合わせ」となる。

 べっこうには特有の黒い斑紋があり、板を接着すれば、この斑紋も重なった。これを自然な形に見えるよう調節するのである。失敗すれば「生地が死ぬ」ことになり、商品価値を失う。

 ちなみに、鱗板の接着には膠などの接着剤は一切使用しない。

 水と熱だけである。

 鱗板を水に浸し、木の板で挟む。それを熱した鉄板でさらに挟み、鉄の輪をはめて楔を打つ。圧着させるのである。必要な厚みになるまで、これを繰り返す。

 そうやって仕上がった「原板」から、櫛や簪の形をタチノコで切り抜く。

 以上を経て、ようやく小刀と彫刻刀を使った装飾部の工程に入ることができた。

 繊細な細工とは裏腹に、全身から汗を滴らせる重労働なのである。



 五日目。

 昼過ぎから降りつづく小雨が、日没後に風をともない激しさを増した。ちょっとした春の嵐である。

 幸吉の住む裏長屋も、屋根がばらばらと騒ぎ、表の溝では水の走りが鋭くなっていく。遠くの轟きは雷であろう。障子が揺れ、手元に寄せていた行灯の火も心なしか怯えているようであった。

 長屋暮らしであるから、夜は大きな音を立てることができない。自然、地味な作業をすることになる。

 完成した簪を磨いていた。

 初めは木賊とくさで、つぎに鹿角の粉末を研磨剤とし、鹿皮を使う。最後に、掌の肉厚な部分で何度も根気強く擦った。人の脂分でツヤを出すためである。

 幸吉の手には掌紋がない。このほうが滑らかに磨きあがるため、砥石で削り、消したのである。弟子入りしたてのころは子供で、皮膚も薄いため、文字通り血の滲むような作業であった。

 雨音を聞きながら、黙々と手を動かし続ける。ときおり行灯へかざして具合を見た。儚い灯明さえも熟れた光として透かしている。仕上がりは上々といえよう。

 外では風が巻いたのだろうか。ひときわ鋭く障子が軋み、首筋をかすめた隙間風が狭い家をひと巡りした。肌の粟立つような、それでいて生ぬるい空気が満ちる。青白い閃光と耳を聾する轟音が、周囲を圧倒した。

「こいつは派手になってきやがったな」

 落雷して火災にでもなれば大事である。くわばらくわばら、と唱えながら簪を丁寧に油紙で包む。

 また、光った。

 ぎょっ、と目を剥く。稲光で、戸口の障子に得体の知れない影が浮かんだのである。

「だ、誰だ。そこに居るのは」

 相手は応えない。思い切って土間へおり、戸を開けた。怯えたように躰を竦め、ずぶ濡れで佇む女がひとり。

 おさきであった。



 衝立の向こうで衣擦れの音がしていた。おさきが雨に冷やされた躰を拭っている。

 幸吉は竈の火をおこし直すと、茶を煎れる準備を整えていた。火鉢も出してやりたいところだが、生憎と持っていない。

 会話のない二人の間を埋めるように、雨音はつづき、雷鳴が辺りを脅かす。

「とりあえず、これでひと息いれなよ」

 幸吉は、目を伏せたまま衝立の脇へ茶を置いた。背を向けると、自分の茶を含み、唇を突き出す。違和感が喉の小骨のごとく引っ掛かっていた。

 もう随分と夜更けのはずだ。大川端には辻番があるし、自身番もある。木戸が開けば番太が拍子木を打つ。他町から来たおさきには、それぞれ途中で声を掛けるだろうし、この空模様だから傘の一本も貸すだろう。

 だが、おさきは提灯もなく、濡れしぼくれて現れている。

「幸吉さん……」

 囁きで我に返った。向き合うと、衝立に掛けられた小袖が目に入る。おさきは小紋の下着姿で湯飲みを前に正座していた。湯気のたなびくお茶には、口をつけていない。

「飲みなよ。あったまるぜ」

 勧めにも、小さく首を横にした。そういえば初めて来たときも茶は飲まなかった、と思い出す。

「なにか……あったのかい」

 幼子に話しかける調子で身を乗り出した。

 そのまま、驚愕に目を見張る。

 唇の片端が赤黒く腫れていた。かなり手荒く打擲されたらしい。行灯が暗いので気づかなかった。

「どうしたってんだ。その傷は」

 堪えきれず、声が大きくなる。頬を差しのべたくなる手で、自分の膝を鷲掴みにした。

「追い出されました」

 やつれた微笑を滲ませた言葉に、我が耳を疑う。家を追い出されたというのである。近頃は色々と世知辛い。しかし、手をあげたうえ、この雨のなかへ放り出すのが血の繋がった人間のすることか。

「ちくしょう。情けもなにもありゃしねえ」

 奥歯を軋ませる。これで気兼ねなく夫婦になれる、とまでは頭が回らない。憤りで総身がわなないた。

「勘弁ならねえ」

 敢然と立ち上がる。格別、腕っぷしが強いわけではないのだが、とにかく殴りこんでやらねば気が済まなかった。

「家は」

 何処だ、と吠えようとして言葉を失う。

 おさきが袖にすがっていた。伸ばした細腕が肘まで露になり、青痣が見える。ことによると、全身、痣だらけかもしれない。下から見つめる眸子が、行灯の淡い揺らめきを映している。ゆっくりと二度、瞬きをした。かぼそい吐息が洩れ、少女のように脆そうな喉が震える。

「傍にいてください」

 言葉のすべてが、哀しみに彩られていた。

 胸をくいとおしさに、幸吉が膝を折る。広げた腕のなかへ、おさきのしなやかな躰がすいこまれた。



 どうやら眠ってしまったらしい。雨の音は子守歌に似ていた。薄く目をあけると、まだ暗い。

 こちらに背を向けたおさきが、隅で乱れた髷をなおしていた。しどけなく襟が歪み、垂れた数本の後れ毛が行灯の光に滲んでいる。

 名を呼ぶのは、あまりにも気恥ずかしく、横臥したまま後ろ姿を眺めていた。

 おさきの影が、壁へ、蝋燭の炎のように伸びている。始終、揺らめき、ちらついた。風はないはずだが、と違和感を覚えた途端に、ひときわ大きく撓む。天井にまで禍々しく浸食した。

 幸吉は凍りついた。

 影が、人の形ではない。尖った耳があり、口唇は鋭く裂け、刀身のごとき牙をのぞかせ、背を丸めている。それは、巨大な猫であった。しかしながら、根元はおさきである。

(化け猫だ)

 直感した。では、本物のおさきはどこへ行ったのだろうか。いや、そもそも最初から、おさきではなかったのかもしれぬ。

 竈は遠く、包丁には届かないが、運のよいことに近くには台木があった。周囲にぶら下げている小刀、彫刻刀、タチノコと得物には事欠かない。

 からくり玩具のごとく飛び起き、たたらを踏んで小刀を手にした。

「やい化け猫っ。観念しやがれっ。おさきさんを何処へやったっ」

 中腰で刃を突き出し、叫ぶ。振り返り、ただ驚くばかりだったおさきの顔から、血の気が失せた。影は、たちまち人の形を成す。

「おさきは、わたしよ」

「とぼけるなっ。こちとら、この眼でしっかり見てるんだ。往生際が悪いぜ」

 幸吉の額に脂汗が浮く。思い切り壁板を叩いた。しかし奇妙なことに、一切の音が響かない。雨の音までもが消えている。

「えい、くそっ」

 顔をしかめる幸吉をよそに、ゆうらり、とおさきは立ち上がった。

「信じて」

 進み出る。手を差しのべ、さらに一歩。狭い四畳半である。じりじりと幸吉は隅へ追い詰められていった。

「寄るなっ」

 戦慄とともに薙ぐ。手応えがあった。遅れて、数滴の鮮血が畳に斑点をつくる。おさきの眉根は苦痛に歪んだが、眸子は真っ直ぐのままであった。

「おさきは、わたしなのよ。お願い。信じて」

「いい加減にしやがれっ」

 傷ついた女から、目を逸らしてわめく。

「本当よっ」

 おさきが出し抜けに右の袖を捲った。青痣にまじって、白い腕には治りかけの切り傷がある。

「これは、隅田川堤の桜で怪我をしたときの傷よ。貴方は手当をしてくれて、それから桜の花を千切ってくれた。そうでしょう」

 その通りだ。

(馬鹿な。そんな馬鹿な)

 あのときは確かに花守もおらず、不思議と人通りも絶えていた。見ている者がいなかったからこそ、桜を猫へ与えたのである。

 幸吉の顎に汗が伝った。脳裏に、いままでの情景が現れては消える。

 犬に吠えられたのは、彼女が化け猫だからなのか。提灯も持たす、木戸が開いた様子もなかったのは、必要なかったせいか。

 おさきは、あの、助けた黒猫だというのか。

「俺は今日まで化け猫を相手にしていたのか」

「そう。ごめんなさい。……だけど、黙っているしかなかったのよ」

「その痣は」

「これは……」

 化け猫はわずかに躊躇したが、寂しげに唇を歪めた。

「話した通り、わたしは一族から追放されたの。人間の男に惚れてしまったから。もう江戸にもいられない。だから……出て行く前に、ひと目貴方に逢いたかった」

 幸吉が、呆然と座りこむ。頭を抱えた。

 惚れた女が化け猫だったとは。鍋島の殿様でも驚くだろう。

 うなだれる男から逃げるように、おさきは自分の影を力のない眼差しで見つめていた。人の形は、まだ崩れていない。口許だけに微かな自嘲が漂う。

 そのまま戸口へ向かった。化け猫らしい忍び足である。

「待ちな」

 と、呼び止められたのは、土間におりたときであった。もう振り返る気はなかったのだが、足は動かない。

「あぶねえ、あぶねえ。また野暮を打っちまうところだった」

 幸吉は含羞の色をあらわにして、首筋を掻いていた。

 職人であるから腕一本でどこでも食べていける。それが駄目なら、下総の実家で漁を手伝えばいい。

「だから、一緒に江戸を出よう。俺の惚れたおさきさんは、あんたなんだ」

 一語一句、噛みしめるようにしている。

「化け猫の女房なんて乙なもんだぜ」

 なあ、と小さく笑う。ひと呼吸おいて、云った。

「俺と一緒になってくれ」

 それは、自棄でも狂気でもない。

 おさきが、衣擦れの音もなく振り返った。

 眸子からはいまにも雫がこぼれそうであったが、沁みるような微笑を浮かべている。

「来てよかった」

 囁きが、妙なる残響をたゆたわせた。自然と戸口が開く。

 幸吉の耳に雨音が戻ってきた。

「行くなっ」

 叫びが、陣風でかき乱される。目を打ち、五体を締めつけた。障子が裂け、衝立が倒れる。舞っていた下絵が、再び畳へ伏したときには、すでにおさきの姿はなかった。

 そぼ降る春雨と、重たい闇だけが、幸吉の前に佇んでいる。ことり、と台木から油紙に包んだ簪が落ちた。



 猫又という化け物がいる。長く生きた老猫のことで、人語を話したり、人を悪夢で苦しめたり、喰ったりした。

 そして、化ける。

「主に老婆だが、たしか猟師の妻に化けた話や、妾に化けた話もある。それに、狐との間に生まれた猫は、生まれながらにして人の言葉を喋るそうだから、ま、若い女に化けても不思議はないと云えなくもない」

 そう幸吉に説明したのは、同じ長屋の貧乏戯作者であった。まったくの無名だが物識りなので、こういうときには重宝する。

「しかし、なんだって、こんな事を訊く」

 と訝ったが、「夢の話さ」などと適当に誤魔化した。彼にかぎらず、長屋の連中で昨晩の騒ぎに気づいた者は、誰もいない。

 そのまま幸吉は、浅草の山崎屋へ赴いた。日差しは、昨日の風雨が嘘のように穏やかである。足元の泥濘ぬかるみには閉口したが、この天気ならば昼過ぎには、おおかた乾いているだろう。

 店に入ると、帳場で筆をとっていた主人は、いつもの人の善い笑顔で迎えた。

「なんだい深刻な顔をして。まあ、そこへお座りよ。……おい。お茶を煎れとくれ」

 店の若い衆に声をかけ、上がり框に腰掛けた幸吉に向き直る。

「例の簪のことで参りやした」

「……できたのかい」

 幸吉は神妙な面持ちで頷き、懐から風呂敷包みを取り出した。開くと、さらに油紙で念入りにくるまれた簪を差し出す。

「ほう」

 と、主人の感嘆が洩れる。店内に忍びこむ淡い陽光が、総べっこうのびらびら簪を透かしてとろけた。手にすると花弁飾りが揺れて、柔和な音を奏でる。

「見事なもんだ。いや、実に見事だ」

 ためつすがめつする主人が、嬉しそうに唸るたび、幸吉の表情は曇っていく。

「実は、これ一本きりしか……もう花見にも間に合わねえし……」

 力なく頭を垂れた。

 主人は、しかし、相好を崩したままである。

「ひと皮むけたね。幸吉さん」

 と、居住まいを正して云う。

「これを見られただけでも、貴方に頼んだ甲斐があったというものだ。もちろん、これも買わせてもらうよ。そうだな三両……いや四両出そう。どうだい」

 身を乗り出した。

 店頭での売価は倍以上になるはずだから、極上品の扱いである。ご祝儀を入れたと考えても、破格の値であった。

 金額に驚いた幸吉は、しばし茫然自失の体であったが、我に返ると慌てて首を横に振った。

「有り難うございます。あっしも旦那に喜んでいただけて、安心しやした」

 けれど、と眉間に皺を寄せ、苦しそうにする。

「これは、ちょいと……」

「売れないってのかい。持ってきておきながら、そいつは妙な話じゃないか」

「旦那のお目に叶うか、確かめたくて持ってきただけなんで」

「ふうむ」

 主人が腕組みをする。簪と幸吉を交互に見比べていたが、やがて「仕方ない」と名残惜しそうに頷いた。

「見たところ訳ありだね。諦めるとしよう」

 そう云って、手早く懐紙に一両を包む。

「これはご祝儀だ。持っていきなさい」

 と、差し出す。

「いや、そいつは勘弁して下さい」

 幸吉は強く断ったのだが、押し問答の末、懐へねじこまれてしまった。実際のところ、ひと月近く仕事をしなかったので、家計は危うかったのである。なにしろ原材料の鼈甲は高価であった。

「また明日から頼みますよ」

 という、あたたかい言葉に感謝しながら、山崎屋を出た。

 幸吉の、べっこう師としての将来はひとまず安泰となったのである。



 帰路、幸吉の足は自然と隅田川堤へ向いてしまった。

 昨日の嵐で、水溜まりに花びらが泳いでいたが、並木の桜が減ったようには見えない。盛りを目前にひかえて、ますます色を濃くしている。

 あてどもなく真綿雲を数え、しばらく行き交う人を眺めた。いつの間にか、おさきの姿を探している自分に気づき、苦笑する。

 ややあって一本の桜で歩みを止めた。花守か、近くのお百姓さんが治したのであろう。枝の一部が、きれいに継いであった。

 黒猫が……おさきが折った枝である。

 幸吉が千切ったところ以外は、まるで何事もなかったように、花をつけていた。素晴らしい生命力である。

(やっぱり、本物にはかなわねえか)

 懐にある簪を取り出し、見比べてしまう。このあとが職人の悲しい習性とでもいうべきか、次第に細工の検討に没頭してしまった。首をひねり、しゃがみ、木切れで地面に図柄を描く。そうかと思えば跳ねるように立ち上がり、しげしげと花を覗きこむ。

 独り言まで漏らし、四半刻ばかり。そんなことを繰り返していると、ふと、背中に視線を感じた。

 何気なく首を巡らせる。

 鼻先を、ひとひらの花びらが舞い落ちていく。ちょうど、川面を渡ってきた春風が、堤を撫でていた。

 その風に吹かれて、女が立っている。

 髷が少し乱れ、着物の裾には泥がはねていた。言葉を探しているような口許。清水を湛えた泉のごとき眸子。

 幸吉は、あやうく掌の簪を落としかけた。瞠目し、おぼつかない足どりで歩み寄る。

「なんで」

 と、ようやく嗄れたひとかけらが喉からこぼれた。

 女は、困惑と不安と含羞を織りまぜた眼差しである。

「猫に、戻れなくなっちゃった」

 いたいけな少女のように呟く。なんでも、木母寺の境内で寝ていると、朝が来たらこの姿であったという。猫へ戻ろうと念を凝らしても、てんで駄目だ。他の能力も消え失せている。困り果て、途方に暮れていたところであった。

 幸吉は、魂が抜かれたように頷くばかりである。まだ、事態を完全に把握していない。唯一、脳裏に蘇ってきたのは、六日前の約束であった。

 無言で女の髷に簪をさし、ようやく破顔する。似合っていた。自分の見立てに間違いはなかったようである。

「もう一度、聞くよ」

「はい」

 はにかみながらも微笑む女の頭で、べっこうの花びらが慎ましく鳴る。

 春の陽気と日差しが、若い二人を慈しんでいた。つがいの雀が樹上で囁く。ほのかな桜の薫りが流れ、言葉に詰まる幸吉を励ましている。

「おさきさん」

 暖かい風が、背中を後押しした。

「俺と――」



 桜は本来、恋の花であった。

 古の雅男は、愛しい女性を桜の花に喩えて詠んでいる。また、往時の都を懐かしむという場合にも使われた。都会の象徴でもあったのだろう。

 死のイメージが濃厚になったのは、古くは歌舞伎の演出。新しくは太平洋戦争が原因であるようだ。

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