妖狐の社
村崎沙貴
結界は、
◆◇◆◇◆◇
猫の額ほどの境内に、
「きつねがみさま、」
振り分け髪の童が、紅葉のような手を合わせて顔を伏す。閉じた目のきわに盛り上がった小さな白露。懸命に紡いだ言の葉は、一度、途中で震えて掻き消える。紅を差さずともうすく色づいている唇が、ぎゅっと引き結ばれる。
「あ、あの」
蚊の鳴くような声。それでも諦めることなく紡ぎ出すさまは、ひどくいじらしい。
「おかあちゃんを……どうか、どうか、
幾度も詰まりつつ、必死に願いを捧げる。最後の方は、もはやたどたどしかった。
その念に呼応したのであろう。身体の内で、ずるりと、這うような感触。煩わしさに、
――最低限の勤めは果たしたぞ。
誰の
胡蝶の夢。
かぐわしい薫物がくゆる。四季の風情、優美な遊び。彩り鮮やかな、桃源郷のごとき、百花繚乱の園。裏で渦巻く黒々と、そしてねっとりとしたものも、舌なめずりを抑えられない程に甘美だったのう。皆が頭を垂れ、最も貴き者と崇め奉る男を骨抜きにしてやったのだ。
旅の白拍子ただ一人のために、幾つの村の男が全てを喪ったであろうか。
嗚呼。何故だ。
おのれ。
四季が幾度巡ったか。
「狐神さまっ」
髪を一つに括った少年が、境内に走り込んで来た。
膝に手をつき、しばらく肩で息をして。だらだらと垂れる汗を袖でぐいっと雑に拭い、やっとのことで姿勢を正す。
「母上が、亡くなりました。それでも、こんなに生き永らえられたのは、狐神さまのお陰だと思います。本当に、ありがとうございました」
なんと。
――あの子は身体が弱かったので。小さい頃は女の子として育てなさいと、お告げを頂いたのです。
――尋ねておらぬわ。浮世でぐずぐずせず、さっさと黄泉に向かえ。
――ふふふ。では。これからも、息子をよろしく頼みます。
しゅるしゅると、一陣の旋風が何処ぞへ吹き去ってゆく。
少年は、随分長いことこちらを拝んでおる。
常々感じる。腹の底で、気色悪く蠢いておるものを。
呪を施されたのだ。あの時から、この身はもはや、かつての妖ではない。自身の在り方が根本から無理遣り造り変えられる不快感は、今でも生々しく残り続ける。
我が身に巡る悪氣が残らず神氣に変じたとて、騒乱を好む心根は変わらぬというのに。
意思に関係なく、願いに応じて神氣は引き出される。神など名ばかり、ただ受け皿扱いする仕組み。侮辱も甚だしい。
「狐神様」
す、と瞳が細められる。流された視線は
――
はっ…………あ、いや。
願いを、黙して唱えるようになったのか。しかも恋の願いとは。ませておるのう。いくらか呆れた心地で尾を揺らす。
背は伸びたが、自分の考えたことに恥じらいを覚え頰を染める
考えを巡らせつつ、惑いざわめく胸を落ち着かせようと試みるも、なかなかに難しい。
彼はゆっくりと歩み去る。何故か酷く気が急く。
――待て。
心がそう叫ぶのを、止めることができぬ。
念が通じたのであろうか。振り向き、黒玉の瞳がこちらを射抜く。その中に、ちらりと蒼の光が過る。
えらく、見覚えのある色だった。
鼓動が速まる。身体が強張る。冷たい汗が背を伝うと同時に、恍惚が胸に迫り来る。
知っておる。これは。
……貞成。
去ってゆく。出て行ってしまう。聖域たりし境内は外界の邪から結界によって護られておるが、
嗚呼。この涙は、如何なる情を背負ったものであろう。
敗者は勝者に従う定め。だが、弄ばれることにまで耐えねばならぬか。
あれは貞成だ。
旅の若武者達が、酒を呑み、手を叩いてげらげらと笑う。宴の一興、舞を済ませた
「こういう場は苦手ですの?」
甘ったるく囁きかけ、さり気なく、しなだれかかってみる。並の男ならこれだけで落とせるのだが。彼は動揺を見せず、微笑んだのだ。そしてその笑みは、鼻の下を伸ばしているような雰囲気とは全く違っておった。今考えると癪に障ることだが、物珍しさから、不覚にもその優しげな顔にときめいてしまったのだ。
「少し夜風にあたってくる」
酒の匂いにあてられたらしい。彼は立ち上がるが、気分がすぐれないのか少しふらつく。
「お伴しますわ」
咄嗟に支えたついでに身体を擦り寄せながら、二人きりになれる好機にほくそ笑む。久々に興が乗った。この男をどうしてやろうか。企みに夢中であった
薄野が風で波立つ中、彼はずんずんと進んでゆく。酔っ払いには有り得ない速さで、伴を置き去りにして、だ。宴席の賑やかさも全く届かぬ野の奥まで行き、やっと立ち止まった。す、と静かな仕草で振り向く。
「っ!」
その瞳は、蒼かった。
「少し、甘かったようですね」
夜闇を見渡す獣のようにらんらんと光りながらも、冷たく、有無を言わさない眼力で、こちらを射抜いてくる。
「この貞成の名に於いて命ずる。正体を現しなさい。化け物め」
す、と手をかざされた頃には、
それからは、あっという間である。
毒気を抜かれるとは、よく言ったものだ。貞成は、
二人分の足音。
「また、
呟き声に少しつまらなさが滲んでしまう理由を、自覚していた。
親しげに寄り添う同じ年頃の男女が如何なる関係なのか、容易に想像がつく。
――狐神様、
男の方が
「「ありがとうございます」」
二つの声が綺麗に重なって、境内に響く。一方は聴き慣れた声、もう一方はとても素直そうな、可愛らしい声であった。
続いて、
――狐神様には、幼き頃より多大な恩を賜ってきました。
伏した顔は社の側を向いてはおらぬが、その身から放たれる念は間違いなく、真っ直ぐにこちらを射抜いておった。
――これから私は、
真っ直ぐな、どこまでも真っ直ぐな言葉が。くすぐったい。
嗚呼。
――これからも、見守っていてください。
すっかりいっぱしの青年となった男は、傍らに立つ
びゅおお、と、ひときわ強い風が吹く。視界が淡い春の色に覆われる。
その奥で如何なることが行われているか。二人の姿が見えなくとも、わかった。不思議と、不愉快ではない。
身体の内から、陽だまりのように暖かいものが湧き出てくる。それはどこまでも清らかな力だった。
しあわせだ。
ひとが愛し合うとは、このように美しいものであったのか。
ひとが喜ぶとは、このように心地の良いものであったのか。
受け入れる。たったのそれだけで、
◇◆◇◆◇◆
尊き存在が、また一柱、世に生まれた。
妖狐の社 村崎沙貴 @murasakisaki
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