セックスしようぜ!

外清内ダク

セックスしようぜ!



「おい拓也! セックスしようぜ!」

 なんて口走るヒロに俺がとんでもないウンザリ顔をしたのは、ここが大病院の入院棟で、奴が末期の癌患者だからだ。ほんとに末期なのかお前? 性欲って一体どうなってんの? 寝たきりで、もうまともに食事もできなくなって、毎日スープを少しすするだけで全身ガリッガリに痩せちゃってるのに、それでもヤりたくなるもんか? 神様ってのは本当にさあ、どうして人間をこんなに欲どうしく創っちゃったんだ?

「場所わきまえろバカ」

「病院だろ。AVみたいで燃えるじゃん」

「お前が元気になったらな! ほらっ、スープ作ってきたんだぞ」

「今日の具はー?」

「キャベツとトマトと玉ネギと手羽元。コンソメでじっくり煮込んで骨取って裏漉うらごしっ」

「ええ〜? ぼく焼き肉食べた〜い! あと生〜! タクちゃん持ってきてえ〜!」

「うっせえ! 鼻から流し込むぞ! 口開けろオラッ!!」

 介護ベッドの背を起こし、よく冷ましたスープを水筒からカップに注ぎ、ぱかーと開いてるヒロの口にスプーンで慎重に垂らしてやる。ヒロは口をもぐもぐさせて、右の眉を上げ、左の眉を上げ、なぜか目尻に手を当て泣きマネをして、

「これに比べたら山岡さんの鮎はカスや」

「士郎に謝れ。もっと飲むか?」

「んー……もう一口いただこうかなー?」

 俺はスプーンをカップに戻した。

「無理しなくていい。食欲ないんだろ」

「えっへへへえ……」

 ヒロが頬を引きつらせる。

 これで笑ってるつもりなんだ、ということはよく分かってる。分かってるから俺は……直視することさえできない。



   *



 俺とヒロは、大学で出会い、恋に落ちた。

 一緒に暮らし始めて10年と少し。

 この10年で俺達みたいなを取り巻く環境は目まぐるしく変わったが、俺とヒロの生活それ自体に影響はほとんどなかった。露骨な偏見の目を向けられることは、たしかにちょっと減ったとは思う。逆にウザい輩に絡まれる頻度は増えたような気もするけど、全体としては過ごしやすくなってきてるんじゃないだろうか。まあ、俺達の主観ではね。

 このくらいの扱いで、俺は充分満足だった。この世の全員に偏見を捨ててほしい、なんてのは高望みだし、別に結婚したいとも思わない。結婚なんて、あんなもの、『家』という経済単位に人を縛り付け、子作りと財産相続を円滑化するための封建的な社会制度に過ぎない。同性婚にやたらこだわる人がいるのは理解してるけど、俺とヒロは、まあ別に……って感じで距離をおいて見てるだけだった。

 でも、なんだろうな。不思議なもんで、俺達には全然そんなつもりがないのに、周りの方がかえって俺達を『夫婦』に見立てたりする。

「あの佐々木さんとこのさあ……」

「ああ、『旦那さん』?」

 面会時間を少し超過し、俺は足早に病棟の廊下をエレベーターへ向かっていた。その途中でナースステーションの雑談が耳に入り、足を止める。『佐々木さん』がヒロで、『旦那さん』が俺。看護師さんはヒソヒソ声で聞こえないよう喋ってるつもりだろうけど、ちょっと耳が良すぎるんだよな、俺。

「すごいよねえ。毎日来るよ。食介しょくじかいじょも起居も更衣も全部やってくれるの」

「もう日常A生活D動作Lほとんど不能でしょ、あの人? 男手があると助かるわあ」

でも、あそこまでしっかりやる人、そんなにいないよねえ」

「愛だよねえ……でも、男同士じゃ子供は作れないし」

「なんか考えちゃうよね。結婚ってなんなんだろ? 愛とか恋とかとはさあ、また別の……」

「コラッ」

 3人目の看護師の一喝が2人の言葉をさえぎった。

「表で話すことじゃないでしょ! ちょっと来なさい、あんたたち」

 ドアがスライドする音。数人の足音。やがて来る静寂。俺は薄暗い廊下の途中で、淡いピンクの壁に背をつけ、ぼんやりと掲示板のマグネットを見ていた。本物の夫婦。偽物の俺達。愛と恋。結婚、子供。

 不意に、ヒロのフザけた笑い顔が頭に浮かぶ。

『おい拓也! セックスしようぜ!』

 そうかもな。俺達を繋ぐものは、俺達の絆は、いつだって――



   *



 数日後、ヒロの容態が急変した。

 仕事中に連絡を受けて、俺はすぐに職場を飛び出した。上司は渋い顔をしてたが知ったことじゃない。その時なぜか、とっさにスープの水筒を引っつかんだ。タクシーの後部座席にいる間、俺はずっと水筒を抱きしめ、震えていた。まるでこのコンソメスープがヒロ本人であるかのようにだ。

 駆けつけた俺は、しかし、病室に入れてはもらえなかった。中からは医師と看護師がテキパキ仕事を進めている声が聞こえる。「チアノーゼ出てます」「酸素増やして」「ヴッ! ゥァッ!」「手足押さえて! 気を付けて、そう」「いッ痛えッ! 拓也ァ! 痛ッ……」「んんー、モルヒネ静注。佐々木さーん、鎮痛剤打ちますよー。すぐ楽になりますからね、がんばってね! はい打った! 落ち着いて、落ち着いて、だんだん痛みが和らぐから、だんだん、だんだん」「拓也……拓也ぁぁ……」

 俺は……俺は……!

 しばらくして……

 膝を抱えて床に座り込んでいた俺の前に、病室から、髪の乱れた医師の先生が姿を現した。先生は俺に驚き、慌てて助け起こし、

「あなた付き添いの、近藤さん? でしたね、大丈夫ですか? 説明聞けそう?」

「お願いします。大丈夫。ヒロは……」

「うん、あのね……」

 医師は俺をベンチに座らせ、隣に自分も腰をおろした。

「落ち着いて聞いてくださいね。呼吸が難しくなって喘息のような症状が出ています。それに腫瘍がね、内臓を圧迫して、ひどく痛むみたい。鎮痛剤が効いていますから痛みはもう大丈夫ですが……」

「治りますか」

「……いや」

「いつまでですか」

「おそらく今夜。もっても朝まで……」

 覚悟していた。

 そのつもりだった。

 いや、実際覚悟はできていたんだ。

 でも、そんなことが何の役に立つって言うんだ!

 俺は取り乱していた。涙が止まらなかった。こんな瞬間がいつかは来ると、とっくの昔に知ってたのに。いざ目の前にしてみれば、情けなく震えて立ち上がれもしない。

 情緒がグチャグチャになってる俺の前で、医師は飽くまで冷静だった。まるでそれは、濁流の中に強固な柱を一本突き立てようとしているかのようだ。

「佐々木さんに、他にはおられないんでしたね?」

「……です」

「では、そばにいてあげてください」

 医師はマスクの向こうで、目だけを細めて微笑んだ。これまで何十回何百回と繰り返してきたであろう笑い方で。

「大事な仕事ですよ。

 あなたにしかできません」



   *



 あかね差す病室で、ヒロは、ものも言わずに横たわっていた。口元の酸素マスクがゆっくりと、曇って乾いてを繰り返している。まだ息が止まってはいない。けれどその呼吸はあまりにか細く、俺の不安を、このうえさらに掻き立てる。

 でもな、ヒロ。

 考えてたんだ。お前がなぜ、あんなワガママを言ったのか。なんでこの土壇場で、あんなことを望んだのか。

 俺はベッドに歩み寄り、ヒロの頬に手を触れた。ヒロが薄く目を開く。

「おい、ヒロ。セックスしようぜ」

 酸素マスクの奥で唇を揺らし、何か言葉を発しようとするヒロ。俺は人差し指を口の前に立て、あいつにウインクを投げかける。しーっ、静かに。エロい悪戯は、誰にも内緒でヤるに限る。

 ヒロの頬を撫でる。ヒロの首をなぞる。俺の指が這い動くごとに、彼の皮膚が小さく痙攣するのが分かる。感じてるんだろ。くすぐったがりめ。覚えてるか? 一昨年の秋。断捨離だ、つって古い雑誌を片っ端から捨てようとしてすぐ飽きて、部屋グチャグチャのままほっぽりだして眠りこけてたお前。ふざけんなよ! 俺が片付けるのかよ! 許せねえからビニ紐で手首をベッドに縛ってやった。ほら、もう動けない。今さら謝ったってもう遅い。抵抗できないお前を脱がせ、さらけ出させた無防備な脇腹を、死ぬほどくすぐってやっただろ。お前ほんとさあ。くすぐられるとつよなあ? イジメられるのが好きなんだ? 変ッ態。泣いても止めてやらねえ。止めてほしくないんだろ。懇願してみろよ。「もっと触って、もっとくすぐって」ってさあ。そう言ったらお前、なんて答えた? 「その程度かよ、全然平気」だと?

 いいだろう! もう容赦しねえ! 覚えてるだろ。お前の実家に二人で顔を出したあの日の夜。お前の大胆なカミングアウトに泣きそうな顔してそれでも受け入れてくれたご両親。その夜お前、実家に泊まって、そこで俺の布団に入ってきやがって。バカなの? ご実家ですよ? そういうつもりならやってやる! 声出すなよ。親にバレるぞ! ぜったい喘ぐな! 喘ぐまで責め続けてやるからな! おら。鼻から気持ちよさそうな声もれてますよ。塞いでやろうか? キスしてほしいか? ほら。すぐ目の前に唇があるぞ。もっと近づいてこいよ。吸い付いてみろ……ダメだね。キスさせてやらねえ。泣いて頼むならしてやる。……は! かわいい顔。

 そうだよ。初めてキスした時も。大学の、講堂の、しかもアレ講義中だよ。ひろーい講堂を埋める100人近い学生が7割超の割合で寝てる退屈な授業の隅っこの後ろの席で、俺もご多分に漏れず机に伏して寝てたけど。横向きに投げ出していた俺の唇に、お前、いきなり、キスくれたよな。ああいうのって、どうかと思う。まだ付き合ってもいない、せいぜい並んで授業を受ける友達って程度の関係でさ。ああいうことする? ほんと、どうかと思う。

 どうかと思うけど。

「でも……俺はお前が好きだ」

 俺の目の前には、ただ胸元をはだけさせただけのヒロが、身動きもせず寝そべっている。俺にできるのは、ここまでだ。服を脱がせ、肌を撫でる。それ以上のことはとてもできない。できるような体じゃない。

 それでも、なあ、ヒロ。

 俺とお前のセックスは、今に始まったことじゃない。

 あのとき唇を奪われてから、俺たちのセックスは、ずっと、ずっと続いていた。暮らしの中に、生きることそのものに、愛することは遍在してた。

 だから――

「好きだった。

 今も好きだ。

 お前が消えて、ひとりになって、その先10年も20年も歩み続ける長い人生の間もずっと……

 お前が……好きだ」

 酸素マスクが曇り。

 また乾き、澄む。

「スープ……」

「……ん?」

「飲ませろよ。好きなんだ、あれ……」

 俺は目尻から涙をこぼしながら、唇を笑みの形に曲げる。

「溺れるまで流し込んでやる」

 そして俺たちは、声もなしに笑った。



   *



 時が経ち、朝が来て、俺は細々した手続きのために入院棟から外へ出た。

 太陽はひどく明るく、目に痛い。

 それから俺はもう二度と、誰のためにもスープを作ることがなかった。



THE END.

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セックスしようぜ! 外清内ダク @darkcrowshin

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