残雪もなく
紫鳥コウ
残雪もなく
あれから一年半――また、秋がきた。
大学院で修士号を授与されたときまでが、僕の人生だった。博士課程へ進学する気でいたのに、指導教員に
せっかくだから小説の題材にしてやろうと思った。
小説の題材――いまや僕は、小説家になりたいのに才能がなくて、芽が出る見込みもない物書きで、しかも、無職である。
梯子を外されなければ、というのは甘えであろうか。たしかに、すぐに気持ちを切り替えて、就職活動をすればよかったのだ。
しかしうつ病と診断されても、それができるひとがいるだろうか。
もちろん、こう反論されるかもしれない。もう快復したのだから、そろそろ就活をはじめれば良いじゃないか……と。
だけど、うつ病の「後遺症」といえるものが残ってしまったのだ。
社会というものが、恐くてしかたがない。人生は山あり谷ありというけれど、この一年間で、起伏のある人生には
(僕は生きるのに向いていない)
こういう達観に至った。
しかしそれは、〈死にたい〉という欲望と表裏一体なわけではない。〈生きていたい〉と強く思っているけれど、〈生きるのに向いてない〉と自分の非力を認めてしまっているのだ。だから、社会にでることが恐い。〈働きたくない〉のではなくて、〈働けない〉のだ。
夜にしか散歩をすることができない。だれかに自分を視認されることは堪えられない。嘲笑される気がする。罵詈雑言が飛んでくるかもしれない。ぼくを通して、ぼくの家族をバカにされることもあり得なくない。
家の裏から人気のない脇道を通って、もうすっかり光のない高校の前を右に曲がり、消灯された野菜の直売所を横目に、国道へ続く二車線道路の横断歩道を渡り、山沿いを歩いていく。すると、もう閉店してしまった蕎麦屋さんが見えてくる。
(この建物も、いつかは
少し不気味に感じながらも、先に進んでいくと、道の駅がある。そこで折り返して、元来た道を戻っていくのが、決まった散歩コースなのだが、その手前の家に大勢のひとが集まっているのが見えた。明かりのついた玄関を、ひとが出入りしている。どうやらみな、喪服を着ているようだ。
(だれが死んだのだろう)
あの家の家族構成を、すんなりと思いだすことができない。少なくとも同級生の家ではない。ひょっとしたら、一緒の小学校に通っていたのだろうが、他の学年のことなんて鮮明に覚えているはずがない。
道の駅まで行くことはなく、だれにも見つからないうちに、引き返してしまった。
* * *
新聞は読むには読んでいる。社会を直視するのがつらくても。
幽霊がこわいのに心霊番組を見てしまうような感覚というと、適切でない気もするけれど、恐ろしいのに興味を持ってしまう、そんな感情なのだ。
すると、「おくやみ欄」のなかに、昨夜の家のことが載っていた。お婆さんが八十九歳で
そうだ、ようやく記憶が
しかし僕の記憶が確かならば、あの家のお爺さんは……真偽を確かめるために、母に
* * *
あれは、僕が中学二年生のとき。
一個下の好恵ちゃんという、友人の彼女が、彼の胸のなかで
朝、神社へお参りに行くといったきり、なかなか戻ってこない。そこで、好恵ちゃんのお母さんが神社へ迎えにいったのだが、見当たらない。ご近所さん総出で探したが、どこにもいない。警察の方もくわわり、他村からも数名がかけつけてくれた。
そして深夜、神社からそう遠くないグラウンドの隅で、冷たくなっているのが見つかった。
なぜそこへいたのかは分からない。そのグラウンドというのは、山の近くにあるものだから、落雪が多く、冬は閉鎖されている。もちろんこの冬も入れなくなっていたのだが、珍しいことに、まったく雪が降らない一年だった。
それから一週間後、好恵ちゃんのお爺さんの部屋から、一通の手紙が見つかった。それはお婆さん宛の手紙だったらしい。しかし、遺書ではないとのことだった。
本当かどうかはまったく分からないけれど、こんな噂も、当時のぼくたちのあいだでは交わされていた。
あのグラウンドには、落雪で亡くなった子供の霊がいて、助けてと手招きをして、向こうへ連れて行くのだと。
もちろんそれは、うわさ以上のなにものでもない。
だけど、幽霊が手招きをしていたら、近づいてみたくなる気持ちは、いまの僕には、分からなくないこともない。
〈了〉
残雪もなく 紫鳥コウ @Smilitary
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