没交渉

紫鳥コウ

没交渉

 大学教員の方々から「頂いた」手ひどい仕打ちは枚挙にいとまがないが、初の「ご指導ご鞭撻べんたつ」は、大学一年生のときに「頂戴した」、わたしの家庭への罵倒だったと記憶している。

 それまでは、大学では尊敬に値する方々が教鞭きょうべんっていると思っていただけに、衝撃を受けたのを覚えている。


 なんでも、わたしが教職課程を取らなかったことが、大変気にくわなかったらしい。

 その教授は「アドバイザー」という役職を持ち、大学一年生の勉学のサポートをしている人物だったが、口酸っぱく、これから生きていく上では、教員免許を取らなければならないと言っていた。


 しかし任意選択であるし、教職課程で必須の授業を履修するのは大変負担であるし、当時は別の道に進みたいと考えていたこともあり、その「有り難い」アドバイスに従うことはなかった。

 すると教授は、わたしを研究室に呼び出し、再三の「ご指導」のあと、「このブルジョワジーが!」と罵ってきたのである。


 いま思えば、ハラスメント相談センターに駆け込めばよかったのだろう。

 ともかく、それ以降、尊敬に値しない大学教員の方々に、何度も「お目にかかる」ことができた。


     *     *     *


 目を覚ますと、椅子の背もたれに身体をまかせていた。もう少しだけ仮眠をしたい気持ちだった。だいぶ疲れがたまっているらしい。

 ボロボロになっているこの椅子は、大学生のときに、両親に買ってもらったものだ。わたしの持病の腰を思ってくれての「大奮発」で、感謝の気持ちでいっぱいである。


 大きなあくびをひとつし、うつらうつらしていると、通知音が鳴った。思っていたより、返信がはやい。

《確認いたしました。私の方のものは、このままで問題ありません。よろしくお願いいたします》

 身体を起こしてメールを打つ。綿密に敬語表現の正誤を確認してから送信する。


 初めて引き受けた仕事だが、なんとかとどこおりなく進んでいる。おそらく、すぐには返事がこないだろう。目覚ましを確認して、背もたれに身をゆだねて、仮眠に入っていく。


     *     *     *


 学部生のおり、イスラーム史を専攻していたわたしは、とある教授にひどく嫌われていた。

 最初はジャーヒリーヤ時代のアラビア半島を研究しようとしていたのに、アフリカ大陸に目を移し、しかも中東部まで地図を下っていったのだから、当然だ……と思っていたのだが、どうやらわたしの「出来の悪さ」を嫌悪していたらしい。


 たしかに、そう思われてもしかたがないところはある。

 当時のわたしは、英語がそれほどできず、授業で輪読する洋書を和訳するさいに、多くの誤訳をした。

 しかし言い訳をさせてもらえるのなら、中学生のときに、パニック症状が悪化して半年以上ひきこもり生活を送ったことで、学力が低下してしまったのが、一因としてあるのは確かなのだ。


 とりわけ顰蹙ひんしゅくを買っていたのは、様々な研究分野の「成果」を取り入れる姿勢だった。

 わたしの研究の立場は、異なる分野の知見を積極的に参照することだ。そうしなければ見えてこない「真相」がある。当時は、開発経済学や批判理論を駆使しようともがいていたのだが、そうした姿勢に鼻白んでいたらしい。


 だからその教授は、わたしの目の前で断言したのである。

「あなたは大学院に入れやしない」――と。


     *     *     *


 ホットコーヒーを飲みながら、ディスプレイに映る文章に目を通す。

 気になる一文が見つかり、ページ番号と段落をメモする。このさりげないセンテンスの意味を考えてみる。なぜこの年にかぎり、このような発言をしているのだろう。前年と比べると、会議でのふるまい方が違う。


 足で椅子をこいで本棚の前へいき、むかし使った資料を探す。

 いい加減にデスク周りを整頓するべきだろう。だれも来ることがないとはいえ、ここまで散らかった部屋だと苦笑するしかない。

 こうした環境にいると、気持ちまですさんでしまうという心理学の研究結果を、テレビで聞いたことがあるけれど、たしかに、すっきりとはしない。


 資料の束をデスクに置いて、英語資料に目を通していく。アンダーラインを引いたところを、次々に読んでいくと、三七六頁に決定的な一文を見つけた。直感的に気付いた違和感の正体は、きっとこういうことだ――と考え抜く。


 そうしているうちに、メールが届いた。文面はいたって簡潔だった。

 無事に『研究科紀要』の作成は終わりそうだ。


 大学院生になってはじめて書いた論文は、サブサハラ・アフリカのある国の内戦のメカニズムを、現代思想の方法論を使いながら分析したものだ。先月の研究発表会では、賛否両論が入り交じっていた。


 午後一時を報せる目覚ましが鳴り響いた。身支度をはじめなければならない。

 大学図書館で、学生からの学業の相談を受けるバイトをはじめて、もう一年が経とうとしている。むかし、卒論に行き詰まっていると悩んでいたあの学生は……もう卒論を提出し終えたことだろう。


 そういえば、仮眠をしているときに、遠いむかしのことを懐かしんでいたみたいだったが――いったい、どんな内容だったか、あまりはっきりと覚えていない。

 前にいた大学のときのことかしら……いや、いまはもう没交渉のひとなのだろうから、気にせず、外にでる準備をしよう。



 〈了〉

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