2DKの向かい側
佐々木匙
食卓の向かい側
中野の奴の朝は遅い。
俺の眠りがどうにも浅くて早朝に目が覚めてしまうから、その時間を読書に充てている、そのせいで余計に奴が寝坊に見えるのかもしれない。
昨日から読みかけだった本は注釈が多いせいでなかなか捗らず、俺は腰掛けていたベッドからゆっくり立ち上がった。スリッパを履いて、部屋の外に出る。
廊下を挟んで向こうが、ルームシェアをしている中野の部屋だ。意外にもいつも静かで、寝息ひとつ聞こえてこない。喋る声はあれだけ大きいのになと思う。そして、奴はこちらがどれほど声をかけても、ドアをノックしても、眠い時には梃子でも動かない。というよりは、眠りが深すぎて聞こえていないようだった。羨ましいとは思う。
床を鳴らさないようにしながら、キッチンに向かう。共用スペースということになってはいるが、ほぼ俺の管理だ。中野の料理はせいぜいがたまの昼に作る量の多いチャーハンくらいで、朝食は特に俺が用意しなければ何もない。別に不満に思ったことはないが、あいつはこのままで大丈夫なんだろうか、と栄養バランスなどのことを考えたりはした。奴のチャーハンは九割の飯と一割のソーセージとで構成されており、野菜がないんだよな、と小言を言った覚えがある。腹に入れば同じというわけではないのだ。
ルームシェアの経緯は、そう大したことでもない。同じ大学に通っていた奴が周囲の騒音で眠れないと言い出し(こいつは自分の声は騒音に数えないらしい)、実家が引っ越しをすることになっていた自分が、それなら2ⅮKの部屋でも探して同居すれば楽だろうと提案したのだ。そのまま卒業してからも続けて、もう四年になる。
俺はどうも性格が暗くて愚痴をこぼしやすい方だから、よく辛辣な言い方をしがちだが、思う。
きっと、そんなに悪くもなかったのだろう。もうこんな時間か、ごめんごめん後藤、とか言いながら、短い髪に寝癖をつけてあいつが現れるのを待つ生活が。
冷蔵庫を開けた。野菜室には半端な食べかけの野菜がいくらか転がっている。この間カレーを作った残りだな、と思った。中野はよく食べ、よく飲み、太い眉毛を八の字にして最高だな、とか言っていた。安い舌だ。
俺は酒は嫌いだが、中野はそこそこの酒豪だ。俺の料理にはビールが合うのだという。味付けが濃い目ということなのだろうか。よくわからないが、時々烏龍茶のグラスとビールのジョッキとで乾杯をした。
透き通ったガラスのぶつかりあう冷えた音も、中身のドリンクが揺れる感触も、嫌いではなかった。
記憶から目の前の冷蔵庫に意識を戻し、にんじんたまねぎじゃがいも、と呟いて、卵を見つけたのでスパニッシュオムレツを作ることにした。料理担当というが、俺も別に繊細な調理が得意なわけでもない。奴に比べれば多少まめなだけだ。
野菜を細かく切るとんとんという音も、湯を沸かす蒸気の音も、トースターのじりじりとパンを焼く音も、匂いも中野の目を覚ますには至らなかったようだ。仕方がない奴だな、と綺麗な黄色と白と赤に彩られたオムレツを皿に切り分けながらぼやく。冷めるぞ。
ドリップコーヒーを淹れ、焼けたパンにバターをがさがさ塗る。少し多めに塗ってやった。机の上には物が多いが、美しく調えられたなかなかの食卓だ。俺は牛乳を多めに入れた砂糖抜きのカフェオレが好きだが、中野はいつでもブラックが好みのようだった。
「中野」
声をかける。返事はない。
「おい中野、朝飯できたぞ。先に食べるぞ」
何度か声をかけた。気づいたのは何度目だったろうか。
俺は昨日もこんなことをしていたな。
中野は、外へは出てこなかったな。
そもそも、あの日奴は帰ってこなかったんだっけな。
慌ただしい電話の声、同居人よりも先に郷里の家族に連絡が行くのだな、そりゃそうか、とか、でも病院に駆け付けたのは俺が先で、眠るような顔を見ながらふと頬に風が触れたような気がして、それが単にエアコンの具合だったのか、俺にしかわからない何かだったのか、それすらも判断がつかず、なあおい中野、中野、中野、といつの間にか声に出して奴を呼んでいた。
返事はなかった。
相手はなんだかの身体の不調で、車のハンドルを切り損ねたのだという。お大事になさってほしい。もう二度とこんなことしないでほしい。
泣いたりはしなかった。
そうだ、もう中野はいないのだ。俺と住んでいたこの家にだけではない。外に出て、この町にも、この国にも、この世界のどこにも存在を止めてしまった。事実だけがガンガンと俺の頭を打ち据えた。
なんてことだ。
奴の眠りは深すぎて、声をかけても目覚めることはないし、部屋はずっと静かなままだ。もう少ししたらご家族が荷物を整理しに来て、この家には俺一人きりになる。更新がもうすぐだったから、その時に引っ越しをすることになるだろう。そうすれば、この家にはもう俺すらいなくなる。
急に、いつだかの記憶が俺を取り囲んでいた。沈み込むように、俺はそれを探る。夜のさほど遅くもない時間だったと思う。
「この家さあ」
その時中野は、ちょうど今俺が座っている席の真向かいで、足を組んでゲームをしていた。ゲームに関しては俺と奴の趣味は似ていて、このダイニングで話が弾んだり、どちらが先に新作を遊ぶかで揉めたりしていた。ゲーム機とテレビが使われている以上、俺はスマホでもいじっていたのだと思う。
「見たの三軒目くらいだっけ。もっと広い家あったじゃん。なんであっちにしなかったんだっけか」
「キッチンが狭かったんだよ。あと、寝室も……隣同士だったんだよな」
「ああ、なんか言ってたっけ。隣同士で寝るのは近すぎる気がする、とか」
「壁挟んで声とか聞こえるのは嫌だ」
それで、向かい合わせの寝室があるこの家に決めたのだ。結局部屋での中野は思ったよりも静かで、そんな神経質な心配は杞憂だったのかもしれないが。
「そうだよなあ」
中野はコントローラーを置いた。ぐりっとした黒い目で俺を見た。
「今のお向かいさんみたいな、そんくらいがちょうどいいよな。うん。後藤はいい目をしてるよ」
なんだそりゃ、と思った。
俺は中野とは違って大らかでも優しくもなく、暗く猜疑心に満ちたせせこましい性格なので、こんな風に誉めてもらえてもなんだそりゃ、で済ますのだ。済ませてしまったし、共感の嬉しさもしまい込んでしまったし、中野に礼も言わなかった気がする。
言えば良かったなあ。
コーヒーの香りが鼻孔を軽くくすぐった。はっと顔を上げると朝七時半の光は窓から真っ直ぐに机を照らしている。名前も知らない鳥の声がした。まだ湯気は収まっていない。
ゆっくりと、二人分の朝食を口にした。オムレツは少し冷めていたが、それでもいいように作ったのだから大丈夫。二枚目のパンをかじる頃にはだいぶ腹が重くなっていたが、それでも入った。ブラックコーヒーにも牛乳をぶち込んで、最後にぐいぐいと飲み干した。
なあ、中野。俺は謝るのが苦手だし、お前が謝られるのが苦手なのも知ってる。四年ともう少しの付き合いで、お前のことはそこそこくらいは知ってる。それでも、ぼろぼろと何度も思い返すのだ。お前がどういう人間で、どういう話をしたのか、何度も、何度いなくなったことを忘れて、また思い出しても。
お前は、眠たさに目を擦りながら起きてきて食べる、俺と向かい合って食べる朝食が、嫌いではなかったろう?
俺もだよ。
香ばしい匂いをふわりと鼻の奥に残して、最後のひとしずくが喉をゆっくりと流れ落ちていった。
2DKの向かい側 佐々木匙 @sasasa3396
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